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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

私の履歴書(八)父との絆だった軍事郵便を公開します。

2013-02-27 18:05:40 | 想い出を掘り起こす
 以下は、1944(昭和19)年の夏に始まり、翌年の敗戦直前まで続いた父と私の文通(と言っても一方的に父からのものばかりですが)の痕跡です。
 当時、父は37歳で招集されるや否や満州へと派兵されました。
 母とともに残された私は就学前の満5歳。その私に対してくれた父からの軍事郵便なのです。
 私も一生懸命書いたのですが、それはもちろん残ってはいません。
 最後のものは、母の記したメモによれば八月上旬の到着となっています。敗戦のわずか2週間ほど前です。
 すでに沖縄も米軍の手に落ち、制空権や制海権も失っていたなかでよく届いたものだと思います。いったい何日かかって届いたのかはよくわかりません。

        

 軍事郵便には検閲がありました。写真でご覧のようにどれにも検閲印が押してあります。私宛のものは、たわいがないものでしたから引っかかった箇所はありませんでしたが、母宛のものには時折墨が塗られたものがありました。
 どうやら、日付や地名、それに天候が入った箇所、さらには固有名詞などは全てアウトだったようです。

 涙が出そうな箇所などいろいろありますが、あえて多くは語りません。
 ひとつの資料=史料としてお読み下さい。
 なお、仮名遣いなど「オヤ」と思われる箇所があるかもしれませんが、私のタイピング・ミスではありません。当時の旧仮名使いによるものです。

 最後のものが着いて以降、父は消息不明となりましたが、おかげさまで1948(昭和23)年春に帰還いたしました。
 その後、天職のように愛していた木材の仕事に戻り、85歳にて天命を全ういたしました。

       ============================= 

*1944(昭和19)年 10月末

 寛君 ゲンキデ君子サン*ト中ヨクアソベルソウデヨロコンデ居マス
 十五日ノ日曜日ニハ松タケ山ニミンナトタノシク一日中遊ンダコトト思ヒマス
 ナガラ川デアソンダソウデ石ガタクサンヒロヘタコトト思ヒマス
 アソブトキハヨクアソビマナブトキハヨクマナビ學校ヘ行クヤウニナッタラ一バンニナリナサイ
 サムクナルカラカラダヲキヲツケテ母サンノイヒツケヲマモリナサイ
 マツタケ山ノコトヲキカセテクダサイ 義雄モゲンキデス  サヨナラ


*君子さんは正確には私のおばで、当時、同居していたが年齢が五歳しか違わなかったので遊び相手でもあった。

        


*1944(昭和19)年 11月はじめ(絵葉書)

 寛君 ゲンキデスカ
 マイ日オトモダチト中ヨクアソビマスカ 
 オトナシクシテゲンキデ タメニナルモノヨイモノナラナンデモカッテイタダキナサイ
 サムクナッタラカンプマサツヲシナサイ 



*1944(昭和19)年 11月中頃(絵葉書)

 寛君 オテガミ下サイマシテアリガトウ
 ゲンキデイヒツケヲヨクマモルソウデヨロコンデイマス
 サムクナルカラカラダニキヲツケテゲンキヨクアソビナサイ
 コチラモゲンキデガンバリマス
 マタテガミヲダシマス  サヨナラ


*1944(昭和19)年 12月中頃(絵葉書)

 寛君 オテガミノヘンジガオソクナッテスミマセン
 モミヂノオチバヲ下サイマシテアリガタウ
 犬山デアソンデタイヘンオモシロカッタソウデスネ
 オ正月モチカヅキ八ツニナッタラ*ガッコウへユケルカラシッカリマナビナサイ
 サムクナルカラキヲツケナサイ


 *昔は数え年でいったので八つで国民学校へ入学。今の満六歳。

                                私のお気に入りの絵葉書 「鐵帽 柳圃筆」とある

*1945(昭和20)年 1月はじめ

 寛君 おてがみありがたう。お正月がきたので寛君も八つになりいよいよがっかうへ行けるときがちかづきました。一しょうけんめいべんきゃうして一ばんになるとかいてありましたから大へんうれしくおもいました。今日はおまへりしてからいもんぶんをかいてくれましたか。まって居ます。
 さむくても風をひかないようにし下さい。
 お正月にはおもちをいくつたべましたか。こちらでもたくさんいただゐてゐますからおくらないで、みんなでたのしくたべて下さい。
 そして寛君も早く大きくなって下さい。
 君子さんと中よくしなさい。
 おもしろいことやたのしいことがあったらしらせて下さい。 さよなら

(注)これともう一通はひらがな。当時は、一年生のはじめはカタカナでついでひらがなを習った。私は幼稚園というものには行ったことがないが、母が教えてくれたのと、父に手紙を出したい一心で、就学前にカタカナとひらがな、それに簡単な漢字は読み書きできるようになっていた。


*1945(昭和20)年 3月末

 寛君オテガミアリガタウ
 大ソウ上手ニカイテアリマスカラウレシク思モッテ居マス
 寛君はヨイ本ヲカッテイタダイタトノコトデスガソノ本ニカイテアルノト少シモカワリナイノデス
 義雄モ毎日元気デスカラアンシンシテ下サイ
 寛君ノ學校ヘ行クノモイヨイヨチカヅキマシタ
 先生ノオシエヲヨク守リリッパナ人ニナッテ下サイ
 カラダモキヲツケテヨクマナビヨクアソビナサイ
 學校ヘ行ク道ハキヲツケテケガヲセヌヤウニナサイ
 君子サン*ガイナクナッタラオ友ダチト中ヨクシナサイ
 又オテガミダシマスカラ寛君モ又オテガミ下サイ
 犬山ヘ行ッタラ元氣デアソビナサイ      サヨナラ


*最初の手紙に出てきた叔母だが、彼女たちは父方の福井の山奥に疎開することになった。

           

*1945(昭和20)年 4月末

 寛君 オ手ガミアリガタウ
 荒尾*ニ居ルコトヲ聞テヨロコンデ居マス
 寛君モ學校ヘ行クヤウニナッテカラ二週間トスコシニナリマシタ
 オ友ダチモ大ゼイアルソウデ毎日ヨクアソベルコトトオモヒマス
 先生ニオハナシハヨクマモリナサイ
 ドンナニナンギヲシテモコノセンソウニカチヌクマデハガマンシテ寛君ハ一生ケンメイベンキョウシテリッパナ人ニナラナケレバイケマセン
 寛君ノコトハ一生ケンメイ神サマニオイノリシテ居マス
 今ゴロハ荒尾ノタマ池*ノアタリモニギヤカニナッタコロトオモヒマス
 コチラモゲンキデ居マスカラアンシンシテ下サイ
 寛君ハオ母サンノイヒツケヲヨクマモリナサイ
 ソシテカラダヲ大セツニシナサイ  サヨナラ

*荒尾 大垣郊外の疎開地
*玉池 疎開家の近くにあった大きな農業用水池
    この池に焼夷弾が落ちて水面がメラメラと燃えていた


*1945(昭和20)年 5月中頃

 寛君 オテガミアリガタウ
 毎日元氣ヨク學校ヘカヨッテ居ルコトヲキイテヨロコンデ居マス
 ベンキャウシテ五ジュウマルヲイタダキキュウチャウニナレタソウデスネ
 センセイニオシエテイタダクコトガ寛君ガシッテ居ルコトデモヨクキイテオシエヲマモリナサイ*
 義雄モ元氣デスカラアンシンシテ下サイ
 寛君モカラダヲ大セツニシテ一生ケンメイベンキョウシナサイ
 大ソウヨイオ家*ガデキタコトモキイテウレシクオモイマス
 又オテガミヲダシマス
 皆サンノオハナシヲヨクキキナサイ サヨナラ


*母の事前の家庭教育のせいで先生のいうことがわかっていてしまっていて、先取りをして答えをいってしまうので困った子どもだったようだ。教師からも愚痴がはいり、母が報告したらしく、それを父が諫めている。最後の「皆サンノオハナシヲ」もその流れ。教師から見たら、イヤなガキだったんだろうなぁ。

*大ソウヨイオ家  何もかも含めて八畳一間っきりのトタン葺きの掘っ立て小屋。当初は母と二人だったが、そのうちにもう一家族が同居することとなる。当時の事情からして、雨露がしのげるだけで贅沢は言えなかった。

 
          検閲印が押されている 部隊は満州第2603部隊 


*1945(昭和20)年 5月中頃 (絵葉書)

 寛君 毎日元氣で學校へゆきますか
 和子さんや節子さん幸子さん*と仲よくして下さい
 お母さんの御話や先生の御話はよく守りなさい
 義雄も元氣ですから安心して下さい 
 又御手紙出します    さよなら


*それぞれ、母屋の年上の従姉妹
 わたしのことを「もらわれ子」だと学校で話したようだが、それも特に悪意ではなく、普段は仲よくしてもらった。
 なお、この葉書はひらがな。

*1945(昭和20)年 8月初旬

 寛君 タビタビオテガミアリガタウ
 寛君ハ元氣デ毎日學校へ行キコノゴロハキンロウサギョウデ大ソウイソガシイソウデスネ
 又寛君ハ小サナウサギヲカワイガッテソダテテイルソウデスネ
 今二大キクナルト又子ドモヲウミタクサンニナリマスカライソガシクナリマス
 暑イトキニハ病ニカカリヤスクナリマスカラ寛君モカラダニキヲツケナサイ
 ドンナ事ガアッテモヨワイキモチデハイケマセン
 ツヨクナッテ大東亜ノセンソウニカチヌクマデハゲンキデガンバリナサイ
 義雄モ毎日元氣デ今日マデ一度モ病氣ニナッタコトハアリマセン
 オテガミノヘンジガオソクナッタスミマセン
 又オテガミ出シマス

    ===============================
 
 

 これらの文面を読み返しながら、高等小学校卒業の父が少ない語彙で、したがって、同じような言葉のリフレインが多いなかで、懸命に私を案じて書いてくれているのがひしひしと伝わってきます。
 改めて父に感謝です。そして合掌です。




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4 コメント

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Unknown (さんこ)
2013-02-28 11:20:55
良いお父さんですね。貴方に、丁寧な言葉づかいで書いているところもありますね。
自分のことを、おとうさんと書かずに、名前で書いているのが、印象的です。
心から、故国の幼い息子を案じている気持ちがとてもよく伝わってきて、もらい泣きしました。

生還なさってよかったけれど、言葉に言い尽くせぬ苦しい目にも合われたことでしょう。
本当に、本当に戦争は、決して起こしてはいけませんね。
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Unknown (六文錢)
2013-02-28 14:26:23
>さんこさん
 いい父でした。ですから、「貰われ子」だとか「親なし子」といわれても「なにいってるんだ」と問題にすることなくスルーできたのだと思います。
 
 考えてみれば、この父への手紙が、私が文章でもって自分を対象化するという営みの最初でした。
 その意味でも、父は私の中にある種の養分のようなものとして生きているような気がします。

 愛する者から承認して貰いたいという欲望が、やがて愛する対象が変わったり、愛する範囲が拡大されたりしても連続するとしたら、父への手紙は私にとって間違いなくその承認欲望の端緒をなしたものでしたし、それが今日の私のこうした文章の書き散らしにまで継続されていると思います。
返信する
Unknown ()
2013-03-03 12:10:29
 とても大切な、そして貴重なものを読ませていただきました。
ありがとうございます。
まったくの部外者である僕の胸までが熱くなってしまうのは何故なのでしょうか。
理由は解りませんが、大切にしたい感情です。
返信する
Unknown (六文錢)
2013-03-03 18:05:12
>春さん
 お読みいただいた上、お心を通わせていただいたようで、亡父も喜んでいることと思います。
 高等小学校の卒業ですぐ丁稚奉公にでたため、自分の手になる文章などまったく残しませんでしたので、これのみが父の「作品」と思い、大切にしています。
返信する

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