雨が上がってもなんか蒸し蒸しするので、窓を開け放って読書などしていました。それに疲れて、今はボーッとしています。
日付が変わる時間帯には、すぐ前の道路を往来する車の数もうんと減って、時折アクセントを付けるように近づき、去って行きます。
そして代わりに、今までバックグラウンドだった遠くの音がよく聞こえます。
ざわめくような音は、少し離れた22号線を走る車の音です。こちらの方は深夜でも遠距離トラックなどの往来がかなりあるようです。
私の部屋は二階ですから、窓を開けているとけっこう遠くの音が拾えます。
22号線よりかなり遠くで、列車の音がします。東海道線を走る夜汽車ですが、その音を耳で追っていると、上り列車か下り列車かもわかります。
今のは、上りだと思います。
夜汽車の音に関しては、人の悲喜こもごもを乗せて走るという意味でいささかの感傷に駆られたものですが、それも一昔前の話で、いまや私たちは、その夜汽車にはもうほとんど人が乗っていないことを知ってしまったのです。
都市間の長距離移動は新幹線の分野で、在来線を走る夜間の旅客列車はもはやほとんどなくなりました。
私が聞いているこの夜汽車の音は、その大半がたぶん、宅配便のコンテナを都市から都市へと運ぶものなのです。
ですから、この夜汽車に感傷を覚えるとしたら、それはクロネコさんやペリカンさん、あるいはカンガルーさんへの感傷になってしまうわけです。
でもまあ、考えてみれば、人が乗っていようが動物のロゴを付けた荷物が乗っていようが、夜汽車の音は夜汽車の音、そこそこ感傷をくすぐるものがあります。
あ、またやってきました。あの音は、木曽川の鉄橋を渡って岐阜方面への下りのようです。けっこう頻繁に行き来しているものだとわかります。
話は変わりますが、ヨーロッパなどへ行って、思いっきり鉄道に身をゆだねてみたいものです。
シベリア鉄道や北米の大陸横断鉄道、オーストラリアの大陸横断鉄道、あるいは、最近中国で開通したチベット鉄道のように、ひたすら荒野を走るものには興味はあるものの、実際に乗るとなると実感は湧きません。
また、日本の新幹線に類似したただただ早いだけのものにも興味は持てません。
やはり、もう少し変化に富んだ自然や町々が入れ替わり立ち替わり現れるのが好みです。ビュッフェで赤ワインなど傾けながら、雪の頂を赤く染めて暮れなぞむアルプスなど見ることが出来たら、そのまま死んでもいいと思います。
*本当は、ここんところ、あとから読んで自分でも胸くそが悪くなるような愚痴っぽい泣き言を書いて来ましたので、それへの自己批判を書くつもりでしたが、しばらく延期します。
日付が変わる時間帯には、すぐ前の道路を往来する車の数もうんと減って、時折アクセントを付けるように近づき、去って行きます。
そして代わりに、今までバックグラウンドだった遠くの音がよく聞こえます。
ざわめくような音は、少し離れた22号線を走る車の音です。こちらの方は深夜でも遠距離トラックなどの往来がかなりあるようです。
私の部屋は二階ですから、窓を開けているとけっこう遠くの音が拾えます。
22号線よりかなり遠くで、列車の音がします。東海道線を走る夜汽車ですが、その音を耳で追っていると、上り列車か下り列車かもわかります。
今のは、上りだと思います。
夜汽車の音に関しては、人の悲喜こもごもを乗せて走るという意味でいささかの感傷に駆られたものですが、それも一昔前の話で、いまや私たちは、その夜汽車にはもうほとんど人が乗っていないことを知ってしまったのです。
都市間の長距離移動は新幹線の分野で、在来線を走る夜間の旅客列車はもはやほとんどなくなりました。
私が聞いているこの夜汽車の音は、その大半がたぶん、宅配便のコンテナを都市から都市へと運ぶものなのです。
ですから、この夜汽車に感傷を覚えるとしたら、それはクロネコさんやペリカンさん、あるいはカンガルーさんへの感傷になってしまうわけです。
でもまあ、考えてみれば、人が乗っていようが動物のロゴを付けた荷物が乗っていようが、夜汽車の音は夜汽車の音、そこそこ感傷をくすぐるものがあります。
あ、またやってきました。あの音は、木曽川の鉄橋を渡って岐阜方面への下りのようです。けっこう頻繁に行き来しているものだとわかります。
話は変わりますが、ヨーロッパなどへ行って、思いっきり鉄道に身をゆだねてみたいものです。
シベリア鉄道や北米の大陸横断鉄道、オーストラリアの大陸横断鉄道、あるいは、最近中国で開通したチベット鉄道のように、ひたすら荒野を走るものには興味はあるものの、実際に乗るとなると実感は湧きません。
また、日本の新幹線に類似したただただ早いだけのものにも興味は持てません。
やはり、もう少し変化に富んだ自然や町々が入れ替わり立ち替わり現れるのが好みです。ビュッフェで赤ワインなど傾けながら、雪の頂を赤く染めて暮れなぞむアルプスなど見ることが出来たら、そのまま死んでもいいと思います。
*本当は、ここんところ、あとから読んで自分でも胸くそが悪くなるような愚痴っぽい泣き言を書いて来ましたので、それへの自己批判を書くつもりでしたが、しばらく延期します。
中はどうなっているんですかね?喜び組のお姉さんたちも乗ってるんですかね?
かつて北朝鮮をこの世の楽園と喧伝した朝日新聞の記者どももご招待してね。
《粽食ふ夜汽車や膳所の小商人》
という漱石の俳句で、それは「ちまき」と読めずに、恥をかいたからです。
その高校生の頃、只今が詠んだ句は、
《かの人が乗る夜汽車いま発つ時間》
という句でしたが、「かの人」とは誰かとの詮索だけが飛び交い、見捨てられました。
そのころ寺山修司は、高校俳句の連盟をつくろうとの手紙を寄越していましたが、有名人になってからの彼のこんな句に出会いました。
《花嫁は夜汽車に乗ってとついでく》
それをみた私は、これは只今の句に触発されたに違いないとの傲岸な呟きを夜郎自大に洩し、皆々に笑殺されました。
私も乗ってみたいです。
日本のロイヤル列車は「お召し列車」というのだそうですが、それにも乗ってみたいです。
小学校の2年生ぐらいの頃、田舎の学校からかなり離れた鉄道の沿線へ、日の丸の小旗をもってかりだされ、線路沿いに整列させられました。天皇が人間宣言をし、全国行脚に回り始めた頃です。
やがてお召し列車がさしかかり、教師の合図で私たちがちぎれんばかりに旗を振る中、あっという間に通り過ぎてゆきました。
帰り道はみんな寡黙でした。半日かけてのイベントで何かが見えるだろうと期待していたのに、結局菊のご紋章を付けた車両以外何も見ることが出来ず、あまりにもあっけなかったからです。
お召し列車に乗ってみたいのはその折のリベンジのようなものです。
まあ、しかし、どこの国のロイヤル列車も機能的にはさほど変わらないのではないでしょうか。
もし、北朝鮮の列車に「喜び組」の人たちが乗っていて、そこへ北朝鮮は天国だと思ってる人を乗せたりしたら、「ああ、やっぱりそうだ」と確信を深めることになると思います。
寺山の句は、花嫁と夜汽車の取り合わせでポイントを稼いでいますが、句としては只今さんの方がいいように思います。
この寺山の句、どっかで聴いたと思ったら、これに触発されたのでしょうか、こんな歌がはやった時期がありましたね。
花嫁
北山 修 作詞
端田宣彦・坂庭省悟 作曲
花嫁は 夜汽車に乗って
とついでゆくの
あの人の 写真を胸に
海辺の街へ
命かけて燃えた 恋が結ばれる
帰れない 何があっても
心に誓うの
小さなカバンにつめた
花嫁衣装は
ふるさとの丘に咲いてた
野菊の花束
命かけて燃えた 恋が結ばれる
何もかも 捨てた花嫁
夜汽車に乗って
夜汽車に乗って
作詞の北山修は元フォーククルセダーズで、歌はやはり、元フォーククルセダーズのメンバーだった「はしだのりひことクライマックス」だったようです。
只今さんの句が寺山を触発し、その寺山の句に元フォーククルセダーズが感応したとしたら、あの大ヒット曲の発端は只今さんと言うことになりますね。
印税の何割かをもらえないでしょうか。