初めて鳳来寺山というところへいった。
などと書くと、先日の養老行きといい遊んでばかりいるといわれそうだが、こちらは紅葉探訪の仕事がらみである。とはいえ、半分は私自身の物見遊山であることは否めない。
かつては、1425段の階段を登らなければならなかったようだが、現在は、鳳来寺山パークウエイという自動車道で、すいっと頂上駐車場まで行ける。そこから本堂までの道のりは約15分。
駐車場の背後の紅葉が見事で期待を持たせる。
参道を出発。お目当ての紅葉はなぜか今ひとつぱっとしない。
紅葉していても、赤黒い感じであまりきれいとはいえぬもの、枝先だけ紅葉していてまだ緑が残るもの、そしてその枝先の紅葉がもう枯れ始めているものなどが目立つ。
もみじ以外の紅葉も数少ない。
逆光で厳しいが白く光っているのが三河湾
しばらく行くと眺望が開ける。
三河の山々が折り重なり谷あいに集落を見下ろせる。
そして視線を上げると、そこには白く光る三河湾が。
その向こうに長く横たわるのは渥美半島だろうか。
そして、鳳来寺山の本堂やその後にそびえる鏡岩が見えてきた。
この山はその鏡岩をはじめ、断崖絶壁の多い山である。
折からの好天で、参道や石段の木漏れ日が美しい。
ところどころの紅葉で絵になりやすいところを撮す。
もみじはやはり逆光の方が面白そうだ。
順光で下手に撮ると、ただの赤い固まりになってしまう。
それにしても、やはり紅葉の仕方が今ひとつである。
本堂に着く。
もっとひなびた感じかと思ったが、それを裏切る近代的なたたずまいだ。
後で調べたら、「鳳来寺山は過去に何度も大火が起こり、そのたびに建て替えがなされている。現在の本堂は昭和49年に完成」とあった。
昭和49(1974)年といったら、長嶋茂雄が引退した年だからそんなに簡単にひなびるはずはない。
ただし、本堂正面の休憩所からの眺望はすばらしい。先ほど見た三河の山々や三河湾が横たわる様子が、より広々とした視野のうちに一望できる。
まだまだ奥の院やらなんやら見所があり、さらには山頂に達する登山道もあるのだが、出かけたのが遅かったのでもう秋の陽は傾きはじめたもよう、早速参道を引き返す。
まあ時間があったところで、階段の上り下り、峻厳な山頂へのコースなどは私の足に負えるものではない。
駐車場付近の売店で、五平餅とコーヒーという妙な取り合わせをいただく。
売店の女性に、「今年の紅葉はどうですか」と尋ねると、この天候不順のせいかまったくダメだと顔をしかめる。
やはり、色がどす黒くなったり、紅葉し終わらないうちに枯れ始めたり、それにもみじ以外の木もダメなんだという。
「せっかく遠方からいらっしたのにねえ」と同情される。
第一印象が良かった駐車場の紅葉をよく見ると、もみじではなく楓(ふう)というカエデの一種のようだ。この葉は美しく紅葉していた。
こと紅葉に関する限り、欲求不満が残ったが、木漏れ日を浴びての山道の散策は、その澄み渡った天候、山の霊気を溶け込ませたような空気のおいしさ、そしてすばらしい眺望などがあいまって、けっこう楽しいものであった。
レポートには、十分評価できる点を前面に出し、紅葉は時期的にややずれていたが全体としてはすばらしかったと書いておこう。これは決して嘘ではない。
最後にこれから出かけようとするみなさんに。
まだまだ青いもみじ葉が沢山残っていたので、これからの朝夕の冷え込みに伴って持ち直す可能性は充分あると思う。
などと書くと、先日の養老行きといい遊んでばかりいるといわれそうだが、こちらは紅葉探訪の仕事がらみである。とはいえ、半分は私自身の物見遊山であることは否めない。
かつては、1425段の階段を登らなければならなかったようだが、現在は、鳳来寺山パークウエイという自動車道で、すいっと頂上駐車場まで行ける。そこから本堂までの道のりは約15分。
駐車場の背後の紅葉が見事で期待を持たせる。
参道を出発。お目当ての紅葉はなぜか今ひとつぱっとしない。
紅葉していても、赤黒い感じであまりきれいとはいえぬもの、枝先だけ紅葉していてまだ緑が残るもの、そしてその枝先の紅葉がもう枯れ始めているものなどが目立つ。
もみじ以外の紅葉も数少ない。
逆光で厳しいが白く光っているのが三河湾
しばらく行くと眺望が開ける。
三河の山々が折り重なり谷あいに集落を見下ろせる。
そして視線を上げると、そこには白く光る三河湾が。
その向こうに長く横たわるのは渥美半島だろうか。
そして、鳳来寺山の本堂やその後にそびえる鏡岩が見えてきた。
この山はその鏡岩をはじめ、断崖絶壁の多い山である。
折からの好天で、参道や石段の木漏れ日が美しい。
ところどころの紅葉で絵になりやすいところを撮す。
もみじはやはり逆光の方が面白そうだ。
順光で下手に撮ると、ただの赤い固まりになってしまう。
それにしても、やはり紅葉の仕方が今ひとつである。
本堂に着く。
もっとひなびた感じかと思ったが、それを裏切る近代的なたたずまいだ。
後で調べたら、「鳳来寺山は過去に何度も大火が起こり、そのたびに建て替えがなされている。現在の本堂は昭和49年に完成」とあった。
昭和49(1974)年といったら、長嶋茂雄が引退した年だからそんなに簡単にひなびるはずはない。
ただし、本堂正面の休憩所からの眺望はすばらしい。先ほど見た三河の山々や三河湾が横たわる様子が、より広々とした視野のうちに一望できる。
まだまだ奥の院やらなんやら見所があり、さらには山頂に達する登山道もあるのだが、出かけたのが遅かったのでもう秋の陽は傾きはじめたもよう、早速参道を引き返す。
まあ時間があったところで、階段の上り下り、峻厳な山頂へのコースなどは私の足に負えるものではない。
駐車場付近の売店で、五平餅とコーヒーという妙な取り合わせをいただく。
売店の女性に、「今年の紅葉はどうですか」と尋ねると、この天候不順のせいかまったくダメだと顔をしかめる。
やはり、色がどす黒くなったり、紅葉し終わらないうちに枯れ始めたり、それにもみじ以外の木もダメなんだという。
「せっかく遠方からいらっしたのにねえ」と同情される。
第一印象が良かった駐車場の紅葉をよく見ると、もみじではなく楓(ふう)というカエデの一種のようだ。この葉は美しく紅葉していた。
こと紅葉に関する限り、欲求不満が残ったが、木漏れ日を浴びての山道の散策は、その澄み渡った天候、山の霊気を溶け込ませたような空気のおいしさ、そしてすばらしい眺望などがあいまって、けっこう楽しいものであった。
レポートには、十分評価できる点を前面に出し、紅葉は時期的にややずれていたが全体としてはすばらしかったと書いておこう。これは決して嘘ではない。
最後にこれから出かけようとするみなさんに。
まだまだ青いもみじ葉が沢山残っていたので、これからの朝夕の冷え込みに伴って持ち直す可能性は充分あると思う。
露天風呂の気持ちの良い宿でしたが、滝沢さんという女医さんは、威張っていて、なんだか気分が良くありませんでした。
馬琴については、晩年ほとんど盲目になった際、その息子の嫁・路が献身的に口述筆記をして作品を完成させたという話、またそれに対し馬琴の女房の百が激しく嫉妬したという話を山田風太郎の「八犬伝」で読んだことがあります。
その路さんは一男二女を設けているそうですから、そのまた孫ぐらいに当たる女医さんでしょうか。
風太郎の小説では路さんはとてもいい印象で書かれていましたのに・・・。
あの世で路さんが、謙虚であれと叱っているようです。
なお、風太郎の「八犬伝」は、馬琴が北斎に自分の創作の過程を語るという構成で、八犬伝そのものの物語と、それを生み出して行く作家の側との話がとが交錯するという面白いものになっています。
http://www.meijijingugaien.jp/event/ginkgo-festa.html
こちらは立冬もとっくに過ぎ、明日は小雪、季節は暦通りにめぐってきます。緑のものといえば、畑にぽちぽち残っている大根やカブの葉っぱくらいでしょうか。その他はすべて枯れはて、黄色い大地が茫々と果てしなく広がっています。
で、こちらの人は、大根の葉っぱを全部捨ててしまうのです。畑に山積みです。それを拾って、ごはんに炊き込んだり、キンピラ炒めにしたり、汁ものに入れたりで、最近は大根葉ばかりで、さすがに飽きてきました。
鳳来寺山は登山にもいいところですよ。
登山口に湯谷温泉という奥三河きっての温泉があり、そこをベースにみなさんが登るようです。
B級グルメは、特に高価な食材を使わず、名だたるシェフや板場の手を経ないけれども美味しいもの、ということだと思っていましたが、最後の「美味しい」が抜けてしまってはもはやグルメでもないですね。
> maotouyig さん
そういえば、 maotouyig さんが載せていらっしゃる風景とは随分違いますね。日本の季節の変化がいちばんだというのはある種の風土ナショナリズムかとも思っていましたが、実際に違うのでしょうね。
大根ですが、スーパーのものは葉っぱがありませんが、農協のものは青々とした葉っぱが付いていますので、やはりおっしゃるようにして使います。
大根が若くて葉っぱが細いものは、漬け物にしたりもします。
馬なんかも喜んで食べるようですが、家畜の餌にもしないのでしょうか。
山羊を飼っている人はたくさんいて、落ち葉も野菜クズも食べるんですが、大根葉はどうなんでしょう?見たことないですね。とにかく畑に放置してあって、私が食べるのを知っている人は、どうやって食べるんだと、わざわざ見に来たりしますよ。不思議ですね。みんなビタミンが不足してるのだから食べればいいのにいつも思うのですが、絶対に食べないです。切干大根は日本と同じように作りますが。