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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

雑然がなぜ悪い? 序章

2008-06-18 08:05:33 | 社会評論
 雑然が良いか、整然が良いか」などといきなり訊かれたら、つい、整然が良いと答えてしまうかも知れない。
 私がこの問いそのものに疑問を覚えたのは、今から20年ぐらい前のことであった。

 当時私は、名古屋は今池という街で居酒屋を経営していたのだが(経営なんて偉そうにいうが、自分自身がはいずり回って働いていた)、その折、この街は、名古屋の副都心とまでいわれた地位から滑り落ちつつあった。

 

 それには様々な要因があるので詳論はしないが、当時、行政が委託したコンサルタントの診断に依れば、「この街は雑然としているから駄目だ」ということであった。
 私は、この言葉に反応した。
 コンサルタントの所見は間違ってはいない。
 しかし、雑然はどうして駄目なのだろう。

 そこから私の考現学的街の観察が始まった。
 確かにこの街は雑然としている。
 「この街は○○である」と一元的に規定できないのだ。
 しかし、この雑然の中にはたくさんの魅力あるものがあるではないか。
 これらのほとんどを捨象して、何かを基準として整然とさせればこの街は良くなるのだろうか?

     

 私の答えは「否」であったが、それに自信は持てなかった。
 折から、この地区を統合した商店街の祭りの企画があり、私はその第一回の実行委員長に選ばれた。
 そこで私が企画したコンセプトは、雑然の中味をパンドラの函をぶちまけるように、すべて出し尽くそうということであった。

 

 まずひとつは、この街が戦後闇市から出発したことを踏まえたフリマの再現である。
 何ら規制を加えず、あらゆる店の出店を認めた。
 その結果、ホコテンに200を越える出店があり、ユニークなものも多かったのだが、反面、事後に所轄官庁からのクレームが続出した。

1)警察から
 パトカーの色を塗った車を、一回何百円かで、金属バットで力一杯殴りつけるという出店があったのだが、それに対して所轄署から、こんなものがある以上、警備や交通整理は出来ないというクレーム。

2)消防署から
 在日中国人の人たちによる中国獅子舞を行い、街中を練り歩いたのだが、その際鳴らした爆竹は消防法違反であること。

3)保健所から
 飲食関係の出店に対する注意は無数。
 東南アジア関係の店で、ご飯の上にスパイスの効いたものを乗せる料理について。
 保健所「あれは駄目です」
 私「でもあれって、カレーと同じでしょう」
 保健所「そうです」
 私「ではなぜ駄目なのですか」
 保健所「カレーの屋台というのはないのです」

 そういわれればそうである。カレーの屋台はない。
 後から知ったのだが、屋台で売ることが出来る食品は厳密に限定されていて、うどん、蕎麦、ラーメンは良いが、スパゲティは駄目なのである。
 これが全国一律かどうかは知らないが名古屋ではそうである。
 かくして、祭りの後の何日かは、私は各所轄の官庁に謝ったり言い訳をしたりの日々であった。

     
 
 今ひとつは、この街は、在日の人たちも多くエスニックな街であるということである。
 だから、祭りの期間には、インターナショナルというかトランスナショナルな空間も実現する。

 話は逸れたが、雑然をぶちまけようというコンセプトは成功したと思われる。
 なぜなら、今日もなお、今池の祭りは地域の表現者たちがパフォーマンスを繰り広げ、闇市さながらのフリマが立ち並ぶ雑然とした、それでいて楽しい祭りだからである。
 とりわけ言えることは、結構規模が大きな祭りなのに、イベント会社などの企画や指示を一切受け付けない手作りの祭りだということである。

 このコンセプトが生きている以上、私はこの祭りの応援団である。
 岐阜に引っ込んでからも、この祭りに姿を見せなかったことはない。
 私の息子や娘のような若い人たちが、往時の私と同じ思いで活躍する姿は美しいと思う。

 


 付記すると、「今池ハードコア」というコミュニティがあり、今池祭りには、全国の今池ファンが集まるということである。
 東京や横浜からわざわざ来る奴なんて馬鹿に決まってる。
 その馬鹿がいとおしい、そんな祭りである。
 総じていえば、「雑然がなぜ悪い」、「雑然万歳」なのである。












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5 コメント

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Unknown (taka)
2008-06-18 12:18:48
雑然が良いに一票。
大曽根オズモールは、整然としすぎて、失敗ではないでしょうか。
返信する
Unknown (sannko)
2008-06-19 09:21:33
雑然が断然好きです。シンガポールのごみ捨て、罰金主義より、香港の人間くさい裏町が、怖いけれど、魅力的。本土返還になる前の、香港が、いろいろ問題ありにしろ、何故か人間が生きているという
活気があって、好きでした。
返信する
Unknown (只今)
2008-06-19 16:16:32
 雑については、「通信雑記」という名の道楽通信を発している身としては、「全ては雑に始まり、雑で終る」と理屈付けはそれなりにあるのですが、しかし何と言いますか、そのこと時にとても軽薄に感じることもしばしばでして…。
 たとえば今、ユーチューブで、ちあきなおみの絶唱「朝日の当たる家」を聴きながら、「雑」の行き着く先にあるのは、こんな歌ではないかと、思ったりしています。
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Unknown (只今)
2008-06-19 20:22:55
正しく言えば、雑に本物があるとすれば、ちあきなおみと、その歌「朝日の当たる家」に行き着くのではないかということでして、それは「軽薄」の極にあるという意味です。小生の「雑」はそれとは縁遠く、「整った雑」に終始しているのではないか、という嫌悪です。
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Unknown (六文錢)
2008-06-21 00:17:39
 皆さん、コメントありがとうございました。
 人間は何にでも意味づけや秩序を見いだしたがりますから、雑然を生きると言うことはほんとうは難しいのかも知れませんね。

 しかし、時間的前後や空間的な配置が整いすぎた整然からよりも、あちこちにちぐはぐ(差異や他者性)を抱えた雑然からの方が、新しいものが生成するのではないかなどとも考えるのです。

 takaさんのおっしゃるオズモール、興味があったので出来てすぐに見学に行きました。
 その後も一二度、見に行きました。

 綺麗にはなったが何か気配が足りない感じがぬぐえませんでした。
 果たせるかな・・。

 しかし、あれはあれで、商店街が生き残るための必死の努力でした。
 ただし、行政主導の整然思考が濃厚であったのではなかったかと思います。




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