名古屋の友人とともに、久々に徳山ダムを訪れた。
ダムができてからは四回目ほどだが、それ以前、つまり徳山村全村がダム湖の湖底に沈む前、その徳山村から四囲の山ひだに触手を伸ばすように蛇行する渓流にアマゴやイワナを求めて何度も来ている。もう半世紀近くも前になるのだろうか。
もちろん揖斐川の最上流地帯である本流にも竿を出したこともある。
村の中心、本郷の他に下開田、上開田、戸入、門入という西谷方面、山手、櫨原、塚という東谷方面の集落名は今も記憶に残るが、もちろんいまとなっては全ては水の下だ。
思い出すといろいろ切ないが、いちばん痛切に瞼に残るのは、ダムが完成し、貯水が行われはじめた頃に訪れたときであった。各集落の殆どは水没してしまっていたが、山手の高いところにある建物、例えば本郷にあった数少ない鉄筋建ての小学校跡は迫りくる水面と対峙するように残っていたし、話によると山側からはそこへ至ることができ、残された教室の黒板には、最後の生徒たちの寄せ書きが書かれているとのことだった。
しかしいまや、それも水に飲まれ、その広大な水面からは、かつてそこに2,000人の人たちが豊かな自然と共生していたという痕跡を見て取ることはできない。
なくなるものはなにによらず切ないものだが、とりわけここについていうならば、それだけの人々を追い出して作られ、その貯水量において全国一といわれるこの巨大なダムが、実は、高度成長期の脳天気な右肩上がりの水需要予測などをもとに作られ、状況が変わったいま、実際にはほとんど実効性のない壮大な無駄に終始しているという事実がいっそうその虚しさ切なさを誘う。
水資源公団は、悪あがきの続きとして、湖底の殆ど動かない死水といわれる冷水塊を、隧道を掘って木曽川に導入しようとする追加計画をねっていると聞く。
そのために、またもや何千億という経費を要し、土建屋を潤すこととなる。しかも、揖斐川上流の冷水塊を、木曽川中流に放出するというこの無謀な計画は、それによる木曽川の生態系破壊をまったく考慮に入れていない。
ことほどさように、徳山ダムを見つめる私の眼差しは、個人的な思い出と、それらをぶち壊して強行された環境破壊の土建屋行政への公憤などが入り混じって複雑なものがある。
ダムサイトで一息入れてから、旧東谷方面の湖畔に沿って北上する。先日までの雨による濁りが心配されたが、ここの膨大な貯水量は少しぐらいの濁りで全体の色合いが変わることはない。それに、近くの谷からの流入はそれほど濁っていない。
整備された片側一車線の道路が終わって、昔ながらの林道になる辺りがダムの突き当りだ。かつてこの辺で、水没しきれなかったかつての流れや道路、橋梁や田畑の跡を見たことがあり、今回もそれを見たかったのだが果たせなかった。
というのは、これまで濁りが少なかったと書いたが、ダムの北方、福井県境から流れてくる河川は濁流といってよく、前に水没跡を湖面を通して見た辺りも、すっかり濁りきった水の下になったしまっていたのだ。それにあの折よりも、全体に貯水量も増えているようだ。
諦めて、西谷入口付近の徳山会館へ戻る。会館で展示などを見ながら話を聞いた人(館長?)とは、いろいろ話題が重なって面白かった。もちろん、旧徳山村の出身者で、話すうちに私の思い出の多くが改めて裏付けられた。
そのひとつは、往年、私が夢中になっていた渓流魚の釣りについてだが、徳山のアマゴは水が良いせいか、みな幅広で立派だという私の記憶はみごとに裏付けられた。彼もまた、確信を持ってそれを断言した。
もうひとつは、私の参画している同人誌の先達、Oさんをよく知っていたことである。Oさんは、徳山で産まれ、戦前、少年通信兵を志願してここを離れ、復員してからもいろいろあったが、この故郷へ帰り、ダムに追い出されるまでここで過ごした人だ。彼もOさんのことはよく知っていた。ただし、近況の方は私のほうが詳しいので、それらに話が弾んだ。
彼が、かつて西谷へ入る道が、上開田までは通じていて、その途中にシッ谷の大ダル(滝)を見ることが出来るというので、地階でランチを摂ったあと行ってみた。
つい最近降った雨のあとというので、路面には小さめだが落石があったり、木の枝が散乱していたりしていささか心細かったが、距離も近いというので出かけてみることとした。
少し行くと小さな滝と思しきものがあったので、それかなと思ったがどうも違うようだ。これは単に雨で増水した小さな沢が飛沫を上げているに過ぎなかった。さらに進むと、今度こそほんものの大ダル(滝)があった。木立に囲まれた山間から押し出されるように落下する滝の姿はなかなか雄大で、途中アクセントもあってじゅうぶん絵になる。
あとで調べたら、この滝の落差は3m+10m+2m(の三段滝)でさして大きくはないが、その滝壺が道路脇に迫り、道路下の橋をくぐってゆくとあって、すぐ眼前に滝壺が迫り、数字以上に大きく感じられ、かつ迫力がある。車から降り立つと、霧のような飛沫に全身が包まれて夏とは思えぬ涼しさである。
しばらく涼を堪能してから、その道の終点へと向かう。かなりの急勾配だ。終点には、上開田の集落の記念モニュメントなどがあった。
ここからのダム湖の景観もいい。ダム湖の突き当り付近に、福井県境にある冠山が見えると聞いてきたのだが、到着と相前後して雲が出はじめ、最初、うっすら見えた冠山をすっぽりと飲み込んでしまった。
しばらく待ったが、雲が薄れる様子もないので、写真に収めるのは諦めた。
ダムで仕切られた人造湖など、そんなに何回も来るものでもあるまいが、私にはなんとなく郷愁に似た思いがあって、冒頭に書いたように何度も足を運んでいる。
おそらくは、この湖底に沈んだアナザーワールドを知っていて、なおかつ、それらが水責めの刑のように水に侵されてゆく経由も目撃しているからだろう。
戦争の記憶同様、やはりこの湖水の下に埋められたものたちの記憶は伝えられてゆくべきものだろうと思う。
ダムができてからは四回目ほどだが、それ以前、つまり徳山村全村がダム湖の湖底に沈む前、その徳山村から四囲の山ひだに触手を伸ばすように蛇行する渓流にアマゴやイワナを求めて何度も来ている。もう半世紀近くも前になるのだろうか。
もちろん揖斐川の最上流地帯である本流にも竿を出したこともある。
村の中心、本郷の他に下開田、上開田、戸入、門入という西谷方面、山手、櫨原、塚という東谷方面の集落名は今も記憶に残るが、もちろんいまとなっては全ては水の下だ。
思い出すといろいろ切ないが、いちばん痛切に瞼に残るのは、ダムが完成し、貯水が行われはじめた頃に訪れたときであった。各集落の殆どは水没してしまっていたが、山手の高いところにある建物、例えば本郷にあった数少ない鉄筋建ての小学校跡は迫りくる水面と対峙するように残っていたし、話によると山側からはそこへ至ることができ、残された教室の黒板には、最後の生徒たちの寄せ書きが書かれているとのことだった。
しかしいまや、それも水に飲まれ、その広大な水面からは、かつてそこに2,000人の人たちが豊かな自然と共生していたという痕跡を見て取ることはできない。
なくなるものはなにによらず切ないものだが、とりわけここについていうならば、それだけの人々を追い出して作られ、その貯水量において全国一といわれるこの巨大なダムが、実は、高度成長期の脳天気な右肩上がりの水需要予測などをもとに作られ、状況が変わったいま、実際にはほとんど実効性のない壮大な無駄に終始しているという事実がいっそうその虚しさ切なさを誘う。
水資源公団は、悪あがきの続きとして、湖底の殆ど動かない死水といわれる冷水塊を、隧道を掘って木曽川に導入しようとする追加計画をねっていると聞く。
そのために、またもや何千億という経費を要し、土建屋を潤すこととなる。しかも、揖斐川上流の冷水塊を、木曽川中流に放出するというこの無謀な計画は、それによる木曽川の生態系破壊をまったく考慮に入れていない。
ことほどさように、徳山ダムを見つめる私の眼差しは、個人的な思い出と、それらをぶち壊して強行された環境破壊の土建屋行政への公憤などが入り混じって複雑なものがある。
ダムサイトで一息入れてから、旧東谷方面の湖畔に沿って北上する。先日までの雨による濁りが心配されたが、ここの膨大な貯水量は少しぐらいの濁りで全体の色合いが変わることはない。それに、近くの谷からの流入はそれほど濁っていない。
整備された片側一車線の道路が終わって、昔ながらの林道になる辺りがダムの突き当りだ。かつてこの辺で、水没しきれなかったかつての流れや道路、橋梁や田畑の跡を見たことがあり、今回もそれを見たかったのだが果たせなかった。
というのは、これまで濁りが少なかったと書いたが、ダムの北方、福井県境から流れてくる河川は濁流といってよく、前に水没跡を湖面を通して見た辺りも、すっかり濁りきった水の下になったしまっていたのだ。それにあの折よりも、全体に貯水量も増えているようだ。
諦めて、西谷入口付近の徳山会館へ戻る。会館で展示などを見ながら話を聞いた人(館長?)とは、いろいろ話題が重なって面白かった。もちろん、旧徳山村の出身者で、話すうちに私の思い出の多くが改めて裏付けられた。
そのひとつは、往年、私が夢中になっていた渓流魚の釣りについてだが、徳山のアマゴは水が良いせいか、みな幅広で立派だという私の記憶はみごとに裏付けられた。彼もまた、確信を持ってそれを断言した。
もうひとつは、私の参画している同人誌の先達、Oさんをよく知っていたことである。Oさんは、徳山で産まれ、戦前、少年通信兵を志願してここを離れ、復員してからもいろいろあったが、この故郷へ帰り、ダムに追い出されるまでここで過ごした人だ。彼もOさんのことはよく知っていた。ただし、近況の方は私のほうが詳しいので、それらに話が弾んだ。
彼が、かつて西谷へ入る道が、上開田までは通じていて、その途中にシッ谷の大ダル(滝)を見ることが出来るというので、地階でランチを摂ったあと行ってみた。
つい最近降った雨のあとというので、路面には小さめだが落石があったり、木の枝が散乱していたりしていささか心細かったが、距離も近いというので出かけてみることとした。
少し行くと小さな滝と思しきものがあったので、それかなと思ったがどうも違うようだ。これは単に雨で増水した小さな沢が飛沫を上げているに過ぎなかった。さらに進むと、今度こそほんものの大ダル(滝)があった。木立に囲まれた山間から押し出されるように落下する滝の姿はなかなか雄大で、途中アクセントもあってじゅうぶん絵になる。
あとで調べたら、この滝の落差は3m+10m+2m(の三段滝)でさして大きくはないが、その滝壺が道路脇に迫り、道路下の橋をくぐってゆくとあって、すぐ眼前に滝壺が迫り、数字以上に大きく感じられ、かつ迫力がある。車から降り立つと、霧のような飛沫に全身が包まれて夏とは思えぬ涼しさである。
しばらく涼を堪能してから、その道の終点へと向かう。かなりの急勾配だ。終点には、上開田の集落の記念モニュメントなどがあった。
ここからのダム湖の景観もいい。ダム湖の突き当り付近に、福井県境にある冠山が見えると聞いてきたのだが、到着と相前後して雲が出はじめ、最初、うっすら見えた冠山をすっぽりと飲み込んでしまった。
しばらく待ったが、雲が薄れる様子もないので、写真に収めるのは諦めた。
ダムで仕切られた人造湖など、そんなに何回も来るものでもあるまいが、私にはなんとなく郷愁に似た思いがあって、冒頭に書いたように何度も足を運んでいる。
おそらくは、この湖底に沈んだアナザーワールドを知っていて、なおかつ、それらが水責めの刑のように水に侵されてゆく経由も目撃しているからだろう。
戦争の記憶同様、やはりこの湖水の下に埋められたものたちの記憶は伝えられてゆくべきものだろうと思う。
ダムという構造物が計画から建設、運用、資金回収そして(本来は)取り壊しまでに至る中で、人々や環境に及ぼす影響はとても大きいことが分かります。しらべれば調べるほど興味深くてここには書ききれないほどです。
ダム建設については作りたい農水省と、費用便益の割に合わない建設費の付けを払わされる愛知県とが対立したり、要りもしない水道料の支払いを歴代の三重県知事が渋っていたものの、砂利採取業者と仲良しの若い現知事になってからはその話題には触れなくなったことなど(あ、つい書いてしまいました)。
それは些事としておいておくとして、一番残念なのが、未発掘の貴重な縄文時代の複数の遺跡がダムの底に沈んでしまったことです。そこに生きた、記憶にある人々の生活も、はるか昔で記憶にない人々の生活も、モスクワで映画を見たロシア人が評価したように貴重なものだと思うのです。
たしかに沈んだのは、今の徳山村のみではなく、その場所に刻み込まれた歴史そのものが沈められたといっていいでしょうね。
徳山は今は岐阜県側からのほうが入りやすいのですが、かつては福井県側、つまり日本海側が入り口のようで、私が述べた集落の名前もそちらの方から、門入、戸入、本郷となっています。
そしてそれを、北陸沿いに敗走した平家の落人伝説と関連させて、彼らが北から入り込んで来たということになっているようですが、実際にはそれよりもはるか以前に人の営みがあったことは確実なようです。
私が徳山へいってた頃はもっぱら釣りが目当てで、縄文の遺跡に接することがなかったのは残念です。
民俗学的にも貴重なフィールドだったようで、周辺の村などに比べて独立性が高く、したがってこの地特有の風俗習慣なども多かったようです。
それに、余り離れていないのに村の中の集落ごとに微妙に言葉が違っていたりするのも研究対象になっていたようですが、それらもすべては水の中ですね。