電話を通じてだが、既知のある女性から思わぬ形でなじられることとなった。
近親者の事情が絡むので詳細は書かないが、なぜ私が?という不快感と後味の悪さは今もなおねっとりと身にまとわりついている。
そんなことがらには私は全く関わり合いがないという思いが強いが、そしてまた、じゃぁ私はどうしたらよかったのかがまったく思い浮かばないという理不尽感は残るが、しかし、彼女の私をなじる気持ちはよく理解できる。
としたら私はその事態の圏外者でありながら同時に当事者という微妙な位置にいることとなる。
ようするに当面している出来事には私は関与していないが、私の長年の立ち位置やその都度の言動がそうした事態の発生に関わっているかもしれないという漠然とした責任感はある。
そこまで行くと私のこの世でのあり方への倫理的な審判ということになり、私自身被告席でその論告求刑を待つしかないのだが、人が生きるということは、何がしか他者の領分を掠め取ったりすり抜けたりし、その都度、意識するしないにかかわらず相手を傷つけているとしたら、私はギルティであるに違いない。
しかし、それが私の意識的無意識的生き様そのものであるとしたら、私は予め定められたギルティ(原罪)を生きてゆくほかはない。
私にできる僅かなことは、私の理性が理不尽だと判別したその女性のののしりに近い批判を、黙って赦すことでしかないだろう。
実際のところ、彼女のののしりの対象は直接には私ではないのだけれど、私を標的にしなければならない事情が解っているだけに私がそれを受け止めるほかはないのだろうと思う。
今もなお、受話器が耳に押し付けられているような不快な感触が残るのだが、それを甘受するのが私の償いだと、ともすれば湧き立つような怒りを抑えている。
自分の過去を携えながら生きてゆくことはそれほど容易ではない。
近親者の事情が絡むので詳細は書かないが、なぜ私が?という不快感と後味の悪さは今もなおねっとりと身にまとわりついている。
そんなことがらには私は全く関わり合いがないという思いが強いが、そしてまた、じゃぁ私はどうしたらよかったのかがまったく思い浮かばないという理不尽感は残るが、しかし、彼女の私をなじる気持ちはよく理解できる。
としたら私はその事態の圏外者でありながら同時に当事者という微妙な位置にいることとなる。
ようするに当面している出来事には私は関与していないが、私の長年の立ち位置やその都度の言動がそうした事態の発生に関わっているかもしれないという漠然とした責任感はある。
そこまで行くと私のこの世でのあり方への倫理的な審判ということになり、私自身被告席でその論告求刑を待つしかないのだが、人が生きるということは、何がしか他者の領分を掠め取ったりすり抜けたりし、その都度、意識するしないにかかわらず相手を傷つけているとしたら、私はギルティであるに違いない。
しかし、それが私の意識的無意識的生き様そのものであるとしたら、私は予め定められたギルティ(原罪)を生きてゆくほかはない。
私にできる僅かなことは、私の理性が理不尽だと判別したその女性のののしりに近い批判を、黙って赦すことでしかないだろう。
実際のところ、彼女のののしりの対象は直接には私ではないのだけれど、私を標的にしなければならない事情が解っているだけに私がそれを受け止めるほかはないのだろうと思う。
今もなお、受話器が耳に押し付けられているような不快な感触が残るのだが、それを甘受するのが私の償いだと、ともすれば湧き立つような怒りを抑えている。
自分の過去を携えながら生きてゆくことはそれほど容易ではない。
民事事件→被告
マスコミ用語では、両方、なぜか、被告です。
タイトルが、guilty or not guilty だったので、被告人のほうが適切だと思いました。
公務執行妨害くらいで送検されて、しかも起訴されて、しかも略式でなく公判手続とは、よっぽどですね。
民事事件→被告
マスコミ用語では、両方、なぜか、被告です。
タイトルが、guilty or not guilty だったので、被告人のほうが適切だと思いました。
ご心配をお掛けしているようですがだいじょぶです。
こうして文章化することで事態を目の前に据え、もってバランスを回復するというのが私のやり口ですから。
>元部平憐さん
法律用語と日常用語との関連ですね。
判事さんといえども、記録される公の文書はともかく、口頭では日常用語に引きずられるのでしょう。
法律用語に限らず、医学用語やその他の科学用語などについてでも、日常的には一般化された用語が通用しそれで不自由を感ずることがあまりありません。
言葉はそのTPOに従って機能するものなのでしょう。
不正確な引用ですが、ヴィトゲンシュタインが、「言葉とはその用法である」として「言語ゲーム論」などに至ったのはそういう意味だと思います。
小生、裁判長から公務執行妨害の法廷では、
「被告人は……」でしたが、
民事ではこう言われたんですよ。
「被告は答弁書の通り陳述しますね」
生きていると色々ありますね。憂き世とは、良くぞ言ったものよ、と思うことがたびたびあります。
あまりストレスをためないでくださいね。
ストレスは、病の素になりかねませんから。
我が飼い主は、このごろ、かってはちょっと馬鹿にしていた何とかの小路キミマロという人の語りにもわははと、笑っています。理不尽なことも、やり場のない怒りも、わははに乗せて。
そういえば若い頃、よく「草にすわって」議論など戦わせたことを思い出しました。初デイトも「草にすわって」でした。
草にすわれば
「あき空を はとが とぶ、
それでよい
それで いいのだ」
の境地に戻れそうですね。
>九条護。さん
なるほどそうですね。そこには座ったことがないものですから、つい間違えました。
傍聴「人」席には座ったことがあります。
わたしのまちがひだった
かうして草にすわれば
それがわかる〉
と八木重吉のように呟ければいいのですが、
われら俗人は、
〈われらみな生の側にて悴めり〉