パソコンの画面が乱雑すぎるのです。
書きかけた文章や、メモがわりにとってあるフォルダなどが未整理なままで散らばっています。それらが仕事などで必要なものと渾然となっています。
近く、あるプレゼンテーションにこれを持参することになっているのですがこのままでは恥ずかしくて開くこともできません。
そこでなんとか整理をと思ってひとつひとつのアイコンを開いていったのですが「なんでこんなものを」というものが多く、それらは即ゴミ箱ゆきです。
で、ある文章を開きました。それは昨年書きかけた小説もどきのもので、原稿用紙にして10枚近くまで書いたのですが、読み返してみてどうも陳腐の域を出ないと思って放棄してあるものでした。
ゴミ箱に捨てる前に冒頭だけをここに転載します。
仮に付けたタイトルは、「路面電車が走る街で」です。
どなたか続きを書いてみませんか?
駅頭から久々にみる豊橋の街は、雨上がりのそれのように眩しかった。
往時、まだ丸物という百貨店があり、それが西武に変わり、そしてそれすらなくなってしまったのだから、何年というより何十年ぶりというべきだろう。それでもこの都市の名を聞くたびにどこか胸がうずく思いがしたものだが、今日のこの訪問によってそれがまたどう転ぶのか、なにか新しいページが開かれる予感はあったものの、それが何であるかは皆目、分からないままであった。
そのメールが届いたのはもう二週間ほど前になるだろうか。
「浜中楠夫様
同人誌ご発刊との由、おめでとうございます。昔の友人からうかがい、早速入手致しました。その奥付にあなたのメール・アドレスを見つけ、ぶしつけながら突然メールをさせていただきましたが、無事届きますでしょうか。そしてまた、私のことをまだ覚えていらっしゃいますでしょうか。
もしご迷惑でなければ、このメールが届きましたかどうかのみでけっこうですから、ご返信をいただけませんでしょうか。それ以後のお話はあなたのご返信次第にさせていただきます。 倉橋芳子」
彼女のことをずーっと覚えていたというと嘘になるだろう。むしろ記憶の底に沈むにまかせてきたといった方がいい。しかし、何かの折にそれが表層へ浮かび上がったりすると、し残してきた宿題を指摘されたような自責の念に囚われ、いやいやをするように首を振って再びそれを記憶の底辺へと追いやるのが常であった。
<以下没>
ここのブログを読む人は、みな貴方の文章力に惹かれて、尋ねることが多いと思いますよ。
私に文才など無く、消去法で、書くということが残っただけなのです。
多才な六文銭さんが、辛抱強くこのテーマで書いてくだされば、かなりのものになったはず。
やっぱり惜しい!と言います。
私におばママほどの文才があったら続けるのですが・・・。
60年代の時代を背景にしたラブロマンスとその破綻、往時の「運動」の内部事情など書きだすと枝葉が多くて短編には収まりそうがなく、まあ中編ぐらいでしょうか。
それだけのものを緊張感をもって書き続けるには私の能力をもってしては手に余ると判断した次第です。
私も、豊橋を舞台に書こうとして、やめたことが最近ありましたーーーと、我が飼い主が、いささかの未練を残した口ぶりで言っております。
忘形の友なのに口数が少なく・・・というのは意味深ですね。
ところで、「忘形の友」という言い方もあるようですよ。
明治期などの日本の文人がよく引用した『醉古堂劍掃』という漢籍があるようですが、それには「忘形の友來り、或は膝を促して劇論し、或は掌[たなごころ]を鼓して歡咲[くわんせう]し」などとあるようです(ネットの受け売りです)。
また、川柳には
忘形の友と語らう旨い酒
などという作品もあります。
「忘形の友」なんて聞いたことがない、
と誰かさんに言われないために訂正させてください。
いうなれば、「金蘭の友」です。
ということで、ここで想い出話をさせてください。
豊橋と言えば、新幹線開通間もなくの日、静岡の忘形の友と落ち合ったのが豊橋。市電道を歩くと丸栄に出会ったのでここの田楽店で昼食としました。土曜日とあってざわつき甚だしく、窓の向こうに新築ビル(名鉄Gホテル)が目に入ったのでここに移り、二階カフエでコーヒーを前にしましたが、二人とも口数少なく……。以下、記憶の底辺に押しやります。