前回は、安倍首相がその施政方針演説で述べた「責任野党」という言葉について触れましたが、今回は、安倍首相がやはりその施政方針演説で披露したもう一つの言葉「積極的平和主義」について考えてみます。
「積極的に平和を推し進める」っていいですよね。どうぞお進めくださいといいたいところですが、どうも様子が違うようなのです。その上、この「積極的平和主義」は周辺諸国からは強い懸念を持って警戒されているようなのです。
なぜなのでしょうか。
ここでもまた、安倍氏の「おともだち」が事情を明確にしてくれます。
安倍氏が全幅の信頼をおきNHKの経営委員に送り込んだ長谷川三千子氏が、この15日に開かれた日本外国特派員協会での記者会見でまさにこの「積極的平和主義」を取り上げて説明をしています。
長谷川氏によれば、「平和主義」には「消極的平和主義」と「積極的平和主義」があり、前者は「オツムに花を挿して歌を歌っていれば平和に貢献していると考えているフラワー・チルドレン」だとしてこれを退け、こう続けます。
「オツムに花を挿している間は、マシンガンを撃つこともできないし、スナイパーから身を隠すこともできない。花を挿しているときは人を殺すことができない精神状態だ。ひとたび戦闘が起これば役に立た ない。」
これでもって長谷川氏、そして安倍首相のいう「積極的平和主義」の実像が見えてきます。
「積極的平和主義」とは「マシンガンを撃」ち、「人を殺すことができ」るような「精神状態」をもって「戦闘」に役立つものだというわけです。
そして長谷川氏は、正当にも、「PKOは時々戦争状態になるし、あるいは戦争そのものである」ことを認め、さらに記者の質問に答えて、「積極的平和主義は常に戦争に近いところを行く。時々戦争そのものになるだろ う。実際、食料かなにかを運ぶのでも殺されるだろう。戦地と非戦闘地域との境目はない。積極的平和主義とは戦地に行くことだと考えなければいけない」といっています。
ようするに、「積極的平和主義」とは、積極的に平和を推し進めるというより、むしろ、「常に戦争状態に備えよ」ということなのです。
こうしてみると、安倍首相の進める集団的自衛権を現行の憲法下で認めてしまおうとか、武器の輸出入に関する制限を緩和してフリーにしようとかいった動きが、一貫性をもったものとしてよくわかります。
「積極的平和主義」とは、「気分はもう戦争」という首相のイメージを現実化しようということなのです。
「積極的」という言葉のこの用法は要注意ですね。この段でゆくと、「積極的民主主義」が、中央集権化された統制のシステムであったり、「積極的自由」が、ある一定の志向しか許さない自由でありうる可能性があります。
ようするに、こうした「積極的」の用法は限りなく全体主義に近いものを彷彿とさせます。
さて、前回の「責任」という言葉、そして今回の「積極的」という言葉に関していうならば、ともに「責任」はあった方がいいし、「積極的」であったほうがいいと思いがちなのですが、その内実にはとんでもない思惑が潜んでいるといわねばなりません。
結びとして、敗戦の翌年、1946(昭21)年の『思想の科学』創刊号に書かれた鶴見俊輔氏の言葉を掲げておきます。ここでいわれている「お守り言葉」とは、ある言葉たちが、その意味内容が検証されないまま、ある種の権威を帯びて流通する事態を指しています。
おおよそ70年前に書かれたものですが、ある種の普遍性をもっていますね。
「政治家が意見を具体化して説明することなしに、お守り言葉をほどよくちりばめた演説や作文で人にうったえようとし、民衆が内容を冷静に検討することなしに、お守り言葉のつかいかたのたくみさに順応してゆく習慣がつづくかぎり、何年かの後にまた戦時とおなじようにうやむやな政治が復活する可能性がのこっている。」
「積極的に平和を推し進める」っていいですよね。どうぞお進めくださいといいたいところですが、どうも様子が違うようなのです。その上、この「積極的平和主義」は周辺諸国からは強い懸念を持って警戒されているようなのです。
なぜなのでしょうか。
ここでもまた、安倍氏の「おともだち」が事情を明確にしてくれます。
安倍氏が全幅の信頼をおきNHKの経営委員に送り込んだ長谷川三千子氏が、この15日に開かれた日本外国特派員協会での記者会見でまさにこの「積極的平和主義」を取り上げて説明をしています。
長谷川氏によれば、「平和主義」には「消極的平和主義」と「積極的平和主義」があり、前者は「オツムに花を挿して歌を歌っていれば平和に貢献していると考えているフラワー・チルドレン」だとしてこれを退け、こう続けます。
「オツムに花を挿している間は、マシンガンを撃つこともできないし、スナイパーから身を隠すこともできない。花を挿しているときは人を殺すことができない精神状態だ。ひとたび戦闘が起これば役に立た ない。」
これでもって長谷川氏、そして安倍首相のいう「積極的平和主義」の実像が見えてきます。
「積極的平和主義」とは「マシンガンを撃」ち、「人を殺すことができ」るような「精神状態」をもって「戦闘」に役立つものだというわけです。
そして長谷川氏は、正当にも、「PKOは時々戦争状態になるし、あるいは戦争そのものである」ことを認め、さらに記者の質問に答えて、「積極的平和主義は常に戦争に近いところを行く。時々戦争そのものになるだろ う。実際、食料かなにかを運ぶのでも殺されるだろう。戦地と非戦闘地域との境目はない。積極的平和主義とは戦地に行くことだと考えなければいけない」といっています。
ようするに、「積極的平和主義」とは、積極的に平和を推し進めるというより、むしろ、「常に戦争状態に備えよ」ということなのです。
こうしてみると、安倍首相の進める集団的自衛権を現行の憲法下で認めてしまおうとか、武器の輸出入に関する制限を緩和してフリーにしようとかいった動きが、一貫性をもったものとしてよくわかります。
「積極的平和主義」とは、「気分はもう戦争」という首相のイメージを現実化しようということなのです。
「積極的」という言葉のこの用法は要注意ですね。この段でゆくと、「積極的民主主義」が、中央集権化された統制のシステムであったり、「積極的自由」が、ある一定の志向しか許さない自由でありうる可能性があります。
ようするに、こうした「積極的」の用法は限りなく全体主義に近いものを彷彿とさせます。
さて、前回の「責任」という言葉、そして今回の「積極的」という言葉に関していうならば、ともに「責任」はあった方がいいし、「積極的」であったほうがいいと思いがちなのですが、その内実にはとんでもない思惑が潜んでいるといわねばなりません。
結びとして、敗戦の翌年、1946(昭21)年の『思想の科学』創刊号に書かれた鶴見俊輔氏の言葉を掲げておきます。ここでいわれている「お守り言葉」とは、ある言葉たちが、その意味内容が検証されないまま、ある種の権威を帯びて流通する事態を指しています。
おおよそ70年前に書かれたものですが、ある種の普遍性をもっていますね。
「政治家が意見を具体化して説明することなしに、お守り言葉をほどよくちりばめた演説や作文で人にうったえようとし、民衆が内容を冷静に検討することなしに、お守り言葉のつかいかたのたくみさに順応してゆく習慣がつづくかぎり、何年かの後にまた戦時とおなじようにうやむやな政治が復活する可能性がのこっている。」
しかし今日の『朝日』に、「NHKを監視・激励する視聴者コミュニティは、会長が4月中に辞任しない場合は、受信料を半年間支払わない運動を始めると発表した」という記事がありました。
この市民団体の代表である醍醐聰(東大名誉教授)さんは、この地方に知己多いかと思います。名市大の教壇に在ったことがあるからですが、まこと謹厳実直の方でした。
退却は転進、全滅は玉砕、戦士は散華、傀儡国家によるアジア統合は五族協和。
責任野党も積極的平和主義も、隠したい中身を美しい言葉で言い換える「詐術」、いえ「日本語の積極的活用」。「復古」、いえ「美しい国への再生」ですね。
安倍氏の展開する「おともだち」による拡散政策は要注意ですね。
三権分位に関わる法制局長官の人事や、報道に関するこのNHKへの露骨な措置、そして教育界などへの目配りと、次々に外堀を埋めつつあります。
気がついた時にはがんじがらめになっていないよう、ここらで奮起しないと・・・。
労働組合は完全にエスタブリッシュメント内に絡め取られました。連合は来るメーデーに安倍首相を招待し、「一緒に」勝ち取った賃上げを言祝ごうとしています。
そうした言葉の流通が、当初のいくぶんかの抵抗をすり抜けると、実体抜きの美辞麗句として流通し始めるのが怖いですね。
おっしゃるように、戦時中はそうした言葉のオンパレードでした。
戦争末期になって、どうやらそうした美辞麗句と実体とが乖離しているのではないかと、戦死者の急増や本土空襲などで身に沁み始めた時には、もはや万事休すで、行き着くところまで行ってしまったわけです。
今や、それをもはや知らない世代がまたもやそうした麗句の虜になってゆくのは、なんとしても防ぐべきでしょうね。