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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

宝塚雪組公演によるベートーヴェン(付:モーツァルト)

2022-01-03 14:33:20 | よしなしごと

 NHKBSで宝塚雪組公演『fff-フォルティッシッシモ-~歓喜に歌え!~』を観る。
 一昨年のベートーヴェンイヤー(生誕二五〇年)を受けて、昨年の1月から行われた公演の放映とのこと。
 とくにこれを観ようと思ったわけでもないが、たまたまTVをつけたらこれをやっていたので、つい観てしまった。

           

 物語はベートヴェンを主軸に、ゲーテ、ナポレオンを絡ませたもの。
 ベートーヴェンはナポレオンに幻想を持ったが、彼が皇帝を名乗るに至り、それに激怒して絶縁するという交響曲第三番絡みの話はよく知られていて、これにもそのくだりは出てくる。
 しかし、ナポレオンとの関係はそれで終わったのではなく、彼が戦に敗れ、コルシカ幽閉後と思われるシーンでもう一度登場する。

           

 その際の彼の告白が面白い。
 彼がヨーロッパ全体に戦線を広め、さらにロシアにまで戦を仕掛けたのは、それらの地域を平定し、そのヨーロッパを中心とした地域では、誰もが自由に交流し交易し、ともに手を携えて生きて行ける一種の共栄圏を目指したからだというのだ。
 
 えっ、えっ、これって現行のEUの先取りじゃんと驚く。
 しかし、私たちは、軍事力に依拠した地域統合に伴うもうひとつの悪夢を知っている。
 戦前のこの国での、軍部を中心とした大東亜共栄圏のあの悪夢、具体的にいえば、三〇〇万人の日本人、二,〇〇〇万人の近隣諸国民の死しか生み出さなかったあの統合への野望・・・・。

           

 なお、主演級のゲーテは、時折、啓蒙的な台詞を放つのだが、なんとなくインパクトに欠けると思った。

 ひとつ気になるのは、モーツァルト、テレマン、ヘンデルが三人揃って狂言回し風に登場するのだが、彼ら三人はベートヴェンにとって、王侯貴族をパトロンに持つ古い音楽家として忌避の対象となっていることである。彼は三人のような音楽家を封建制に囚われたものとし、自分を市民音楽家と規定している。
 しかし、これは時代背景を無視した暴論でもある。彼ら三人の時代には、音楽消費者としてのブルジョワジーはまだ生育しておらず、それはベートーヴェンの時代、一九世紀はじめを待たなければならなかったのだ。

           

 この三人のうち、一番若いモーツァルトはザルツブルグの大司教コロレドと決別して以後、ウィーンを拠点に市民音楽家を目指し、自主プログラムによる演奏会を試みたことはよく知られている。
 またその努力の過程でのシカネーダーとの交流のなかで、晩年の傑作オペラ、『魔笛』が生み出されたのも周知のところである。

 ようするに、一八世紀後半と一九世紀はじめでは、ブルジョアジーの隆盛により音楽市場そのものが変化していたのだが、それをこの公演ではベートーヴェンの個人的努力に還元してしまっている。

           

 宝塚公演に戻ろう。
 ベートーヴェンにつきまとう「謎の女」が終始現れる。どうやら彼女は、ベートヴェン以外のひとには見えないらしい。そしてまた、ベートヴェンが聴覚を失って以降も、彼女の声のみは聞こえる。だから彼女が通訳のような役割を果たすこともある。
 ベートーヴェンに対し主張すべき点はそれとしてちゃんと述べる。

 この女性は何なのか?、彼にも、そしてそれを観ている私たちにもわからない。
 しかし、あるとき、ベートーヴェンは気付く。
 「そうだ、お前は私の運命なのだ!」 ダ・ダ・ダ・ダ~ン! 運命は扉を叩くのではなく、まさに彼の身近にいたのだ!
 二人は抱擁する。
 このくだりは、ニーチェの「運命愛」に相当するのかもしれない。
 あらゆるルサンチマン(=怨恨)を排して自分の運命を「ヤー」と肯定し、それを引き受ける。
 もちろんそれは、単純な受忍ではない。自己をその運命を生きる主体として自覚しつつ、その変遷の過程をも見据えてゆこうとする自己自覚の過程でもある。

           

 こうした過程を、きらびやかな衣装と豪華な装置、華やかな歌声とダンスに託して展開する宝塚は、意識してリアリズムを廃し、夢想の美を対象化した舞台として実現するのだから、私のような鑑賞の仕方はそもそも場違いなのかもしれない。
 いろいろ苦言めいたことを述べたが、なかなかおもしろかったのは事実である。

 
【付言:モーツァルトとベートーヴェン】
 この宝塚公演では、ベートヴェンはモーツァルトを厳しく批判したことになっているが、現実にはそうではなかった。ベートヴェンは一六歳の折、モーツァルトに弟子入りすべく、ボンからウィーンへやってくるのだが、運悪く、その折、母が急逝したため、急遽ボンへと戻らねばならなかった。
 その際に、モーツァルトと会うことができたのかどうかは不詳であるが、ボンへの帰郷後、再び条件が整ってウィーンへ出た折には、もはやモーツァルトはこの世のひとではなかった。

 ベートーヴェンはモーツァルトへのオマージュともいうべき曲も書いている。
 モーツァルトの「魔笛」から「娘っ子でも女房でも」の主題による12の変奏曲 と、同じく「魔笛」からの「恋を知る殿方には」の主題による7つの変奏曲 などがそれである。

           

 ベートベンが、別にモーツァルトを忌避したのではないもう一つの証は、ウィーン中央墓地の楽聖地域にある。この一帯は音楽家の墓が集中しているのだが、ひときわ目立つ場所にモーツァルトを象徴する像が建ち(墓ではない。彼の墓は別のところにある。共同墓地に放り込まれたというからそれも怪しいのだが)、向かってその右側にはシューベルトの墓が、そして左側にはベートーヴェンの墓が鎮座している。自分が亡くなったら、モーツァルトの傍らにという遺言に従ったといわれている。

 一九九一年、私がこの地を訪れた折、それら墓の周りを、リスたちが駆け回っていた。

コメント
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