学区のサークル活動、今月は地区の公民館での座学の予定であったが、岐阜市の非常事態宣言下、それもままならぬということで予定を変更し、隣の笠松町の木曽川河畔にあるみなと公園に三々五々出かけ、写真など撮影し、後日、座学が可能になった折、発表会など行うこととなった。
ところで、岐阜県と愛知県の県境は、その南西部はほぼ、木曽川を区切りとしている。私の住まいする岐阜市は、県の南部にあり、名古屋からJR東海道線でわずか18分、木曽川の鉄橋を渡れば数分以内に岐阜駅に着く。にも関わらず、岐阜市は県境に接してはいない。岐阜市と木曽川の間にあるのがこの笠松町なのだ。
私の家は岐阜市の南部にあるせいもあって、車で5分も走れば笠松町で、今回のみなと公園へは信号運が良ければ10分強、ないしは15分もあれば到着する。
この笠松町、面白い歴史を持っている。いまは木曽川の北側で完全に美濃に属しているが、かつては尾張国葉栗郡に属していたのだ。尾張国がその権勢に物言わせて木曽川を超えて支配していたわけではない。ではどうしてかというと、この笠松、かつては木曽川の南側に位置していたのだ。それがいまは北側、町が移動したわけではない。
1586年(天正14年)の木曽川の氾濫により木曽川の位置そのものが南へと移動してしまったのだ。
ということは、それ以前の木曽川は、私の住まいのすぐ南を流れていたことになる。
木曽川ばかりではない。濃尾三川の他の長良川も揖斐川も、結構な暴れ川で、岐阜県南部の輪中堤の遺構は、その折の人々の抵抗の歴史を偲ばせる。
笠松に話を戻そう。ここにはもうひとつ、面白い歴史がある。
笠松は、今回集合したみなと公園の名称が示すとおり、川湊と廻船問屋によって栄えた街だった。美濃の産物はここへ集約され、川湊から尾張へ、さらには伊勢湾へと運ばれた。
そんな隆盛もあって、明治の初期、岐阜県の県庁はこの笠松町に設置された。その県庁は明治6年まで存続したが、その後、岐阜市へと移された。
その理由については、輸送が船から陸上の鉄道などに移りつつある時代、笠松の廻船問屋が、笠松の鉄道駅設置に反対したからだと聞いたことはあるが、それが事実かどうかはわからない。
ただ、以後に開通した東海道線は、笠松に駅を設置せず、岐阜にしたことは事実である。
今回訪れたみなと公園はそんな背景を持った川湊の周辺の広い公園だったが、ゆるゆる鉄ちゃんの私は、木曽川や、笠松競馬場近辺を走る名鉄(名古屋鉄道)の電車を写真に収めてきた。
鉄橋を渡る電車というのは風情があって好きだ。
一枚だけ、電車ではない写真は、岐阜の長良川で獲れた鮎のなれ寿司(たぶん?)を幕府への献上品として江戸まで運ぶ「鮎鮨街道」を示すもので、笠松町は当時の装束に身を固めた役人や人足が、みなと公園の川湊までそれを運ぶイベント、「鮎鮨街道inかさまつ」を開催したりしている。
写真の左の歌碑は、この地出身の童話作家・赤座憲久の短歌
鮎鮓の桶かつぎ受けわたし人びとは江戸への道をひたに走りき
というちょっと字余りの歌が彫られている。