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オダギリ ジョーの「藤田嗣治」 映画『FOUJITA』を観る

2015-11-20 16:42:47 | 日記
 小栗康平監督、オダギリ ジョー演じる『FOUJITA』を観た。
 観た動機は、今秋、岐阜県立美術館で、「小さな藤田嗣治展」を観たこと、その直後、図書館で「戦争画リターンズ──藤田嗣治とアッツ島の花々」(平山周吉・芸術新聞社)を見かけそれを読んだこと、前々から、彼の戦中の日本での「戦争画」ヘの関与に対する戦後での責任追及がいささか性急すぎて、もっと吟味さるべきではなかったかと思っていたこと、などが重なっていたからだ。

               

 で、映画であるが、何よりもまず、その映像の美しさ、面白さが魅力的であった。それぞれのシーン、カットがただただ美しい。美術や美術品を描いた作品での凡庸な映像にはしばしば落胆させられるが、これはそうではない。
 それぞれのシーンやカットを、映画全体のストーリー展開を「説明」するための単なる機能的な要素として捉えているのではなく、それ自体を絵として大切にしているからだろう。

           

 しかし、そのせいもあって、各シーンには時間的な飛躍が観られる。「そして」とか「だから」「それから」「しかし」といった接続詞的な部分が節約されるからだ。その意味では、藤田嗣治についての概略を把握しておいたほうがよりわかりやすいだろう(それなくしても楽しめるのだが)。
 私の場合は、前述の「戦争画リターンズ・・・・」を読んだばかりだったので、それぞれのシーンがいつのどんな情景を切り取ったものかがほぼ了解でき、とても興味深かった。

           

 映画全体の大きな飛躍もある。前半のシュールな芸術家たちの生態を描いた部分と、後半の戦時中、日本に帰国し、その軍事体制の真っ只中で過ごす藤田の生活との落差である。
 彼はそんななかで、陸軍美術協会の幹部(のちに理事長)として、戦争画を描くことになる。「アッツ島玉砕」や「「サイパン島同胞臣節を全うす」などがその主たる作品であるが、それらをもって戦後、美術界きっての戦争協力者として追及されるところとなり、石もて追われる如く彼を国外脱出させる要因となったものである。

 映画の中でも、彼の「アッツ島玉砕」(200号)が目玉として展示された「国民総力決戦美術展」の模様が描かれている。絵画の横には軍服姿の藤田本人が立ち、観衆にいちいち敬礼し、また、傍らには、描かれた戦死者たちを悼むために、「脱帽」の注意書きがあり、さらにその絵画の前にはお焼香台のようなものが設けられ「賽銭箱」が設けられていて、遺族と目される女性がよよと泣き崩れるさまも描かれている。

               

 いささか漫画チックなシーンでもあるが、これは実話の再現である。藤田はそうした戦争画をいささか自嘲的に「チャンバラ画」ともいっているが、反面、「自分の描いたものがあんなに人の心を揺さぶるなんて」という述懐も残している。

 映画を離れるが、私自身はこれらの絵画を直接観てはいない。しかし、グラビアやネットで見る限り、果たしてこれが「戦意高揚」なのだろうかという疑問をもってしまう。私個人の感想としては、むしろ厭戦感情すら誘うものである。
 もちろん藤田自身が厭戦を意図して描いたというわけではない。にも関わらず、その他のよりリアルな戦争画に比べ、そこには作者本人の主観的な意図を超えたなにか崇高なものを感じてしまうのだ。

           

 これは私の極めて主観的な仮説だが、おそらくその芸術家のもつ、ある種の技巧とでもいうものの介在によって、その主観を超えたものが生み出されるということがありうるのではないだろうか。
 小説や詩、音楽などでも、その思想傾向や性格からして決してお付き合いはしたくない人物が生み出した作品が実に感動的であることはしばしばである。

 映画のなかには描かれていないが、最後に日本を離れる時、藤田が残した言葉は、「絵描きは絵だけ描いて下さい。仲間喧嘩をしないで下さい。日本画壇は早く国際水準に到達して下さい」という、ある意味、芸術至上主義的な言葉だったという。

           

 なお、はじめに記したシーンやカットを全体のための一要素にしてしまわないという方法は、ある種の時間論を示している。それは私達が経験する各瞬間を時間の流れのなかに埋没させてしまわないでその自律性保つ、あるいは私たちの経験する個別の瞬間や時間を、歴史的目的に従属する無機的なパーツに解消してしまわないでその独自性を大切にするということでもある。歴史に飲み込まれない私たち個々の生き様の自律である。
 
 映画の中でも、モンパルナスでのどんちゃん騒ぎのあと、三番目の妻ユキと語り合う「祭りは素晴らしい。それだけで終わるから」というセリフがあるが、これもまた、なにものかに奉仕することのないその時間そのものがもつ独自性への讃歌なのかもしれない。
 そんな藤田にとっては、戦争の日々もまた、うたかたの「祭」のようなものだったのかもしれないと、ふと思う。
 むろん、多くの人命がかかった悲惨な生け贄を伴う祭ではあったのだが・・・・。

               

 映画のラストシーンは、フランスのランスにあり、彼がその晩年に関わった通称「チャペル・フジタ」のフレスコ画を舐めるように巡る。キリストの生誕からその受難までを描く壮大はフレスコ画の脇には、キリスト像を見守る聖人たちが描かれていて、そこに並ぶ二人は明らかにピカソと、そして彼本人である。
 彼の自負がここにみてとれる。

           

 なお、後半の日本編に登場する中谷美紀演じるフジタの5番目の妻・君代は、彼の最期(1968年)まで見届け、その後も、彼の作品が散逸するのを防ぎ、それを保護するのに尽力し、2009年に没した。

 何やらこ難しいことも書いてきたが、そんな講釈を抜きにしても十分楽しめる。
 エコール・ド・パリの連中のモンパルナスでの乱痴気騒ぎ、うって変わったような戦中日本の風俗、それらがいずれも美しい映像で描かれる。それらを見るだけでも価値がある。









コメント (2)
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