六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

【ちょっとお哲学】カント先生と「東大出ても・・・・」

2015-11-14 14:24:39 | 書評
 「東大出ても馬鹿は馬鹿」というのはうちの死んだばあちゃんの遺言であるが、それに先立つ250年も前、すでにしてかのイマヌエル・カント先生が同様のことを述べている。したがってうちの死んだばあちゃんはその後塵を拝したわけであるが、かといってカント先生のものを読んだり学んだりした訳ではない。というのは、ばあちゃんがお経以外の活字を目にしているのを見たことがないからである。したがってばあちゃんは、仏の法力に導かれて、カント先生と同じ結論に到達したといえる。

 あ、ここで断っておくが、私は東大に対する何らかのコンプレックスやトラウマをもっているわけではない。したがってここでいう「東大」は、日本での最高の学府と自認し、かつ、周囲もそのように評価していることに鑑み、学識ある者たちの象徴として取り上げたにすぎない。東大出の方、ゴメンね。

             
     
 では、元祖のカント先生がどのように述べているかを以下に記してみよう。
 「愚かな、あるいは弱い頭は学習によって極めて十分に、さらには博識にさえ至るまでに強化されうる。しかしその場合においても、判断力が欠けている場合が多いから、その学問の使用において重大な欠陥を垣間見せる極めて学識がある人々に出会うのもなんら不思議なことではない」(『純粋理性批判』より)

 上記の引用で明らかなように、ここにいう馬鹿/利口は学識の有無ではない。むしろ、具体的な出来事に出会った場合のその判断の内容に関するものである。これをカント先生は「判断力」として、後年、『判断力批判』という一冊の書を著わしている。
 なおハンナ・アーレントによれば、この判断力を人間の能力として見いだしたのはカント先生が始めてであるという。

                

 判断力は一般の認識能力とは異なる人間の能力だから、演繹によっても帰納によっても到達することができない。あくまでも特殊的、個別的なものと遭遇した場合にそれを了解しうる能力である。
 カントはそれを、美的判断、趣味判断の問題として述べている。
 美しさにおける美/醜、趣味における良/否の判断はあくまでも特殊的、個別的なものといえる。したがって、「美しいものとはかくかくしかじかのものである→だからこれは美しい」とか「あれは美しい、それも美しい→だからこれは美しい」などということはできない。あくまでも、そのものの「そのもの性」についての判断なのである。

 それでは、そうした判断の基準というのはないのだろうか。そして人々は勝手気ままに、これは美しい、あれは美しくないといっているのだろうか。確かに美的判断というのは、人によって、あるいは時代や場所によって、様々なばらつきをもっている。しかし私たちは、ある特定の時代の特定の場所によっては、その判断がある程度似通った傾向を示すことを経験的に知っている。ということは、ここに何らかの基準があるということである。

   
 
 カントはそれを「構想力」または「想像力」によるとしている。
 構想力とは自分の思惑を超えて人々の間に自分を置いてみること、とりわけ自分が実際には占めていない位置から事物がいかに見えるかを想像したりする能力で、間主観的、あるいは社会的、公共的な能力といえる。これはまた別の言葉では「共通感覚」といわれたりもする。また、カントは別のところで「拡大された精神」ともいっている。

 要するに、美的判断や趣味判断がばらつきを持ちながらもある焦点のようなものをもつのはこのせいなのである。ようするに、私たちが他者の視点をも考慮に入れたとき見えてくる共通感覚のようなもの、それに依拠して判断するがゆえにそうした傾向をもちうるということだ。そしてもし、私の判断が他の人たちと大きく相違するとしても、その相違自体がそうした判断を経過した結果なのである。

               

 アーレントはカントのこの判断力が構想力という間主観的、あるいは社会的、公共的な能力によることに注目し、カントが展開しなかった全く別の方面にこれを適用しようと考えた。
 それはいわゆる政治的判断の分野であって、この判断もまた美的判断や趣味判断同様、他者と共にあるという間主観的、あるいは社会的、公共的な判断の場であるとしたのである。

                

 さてこの小論の書き出しである「東大出ても馬鹿は馬鹿」に戻ろう。
 要するに、特殊的にして具体的個別的な判断の場においては、おそらく彼や彼女が蓄積しているであろう膨大な学識や理論でもってするだけでは、それに対応できないということである。そうした特殊的個別的判断においては、上に述べたような構想力、つまり、間主観的、あるいは社会的、公共的な立場に自分を置くという能力が必要なのであって、それを欠いた場合においては、カント先生のいうごとく、「その学問の使用において重大な欠陥を垣間見せる極めて学識がある人々に出会うのもなんら不思議なことではない」のである。

 そして、そうした現象をこんにち、私たちはいわゆる官僚主義のなかに顕著に見い出すのである。あるいは、他者の存在、人間の複数性・多様性を考慮に入れない新自由主義的手法の強権政治の中にもである。
 先ごろ亡くなった鶴見俊輔さんは学者と官僚が嫌いであった。そして一方、社会的、公共的なものへの関心を終始失わなかった。いわば、判断力、構想力、拡大された精神の持ち主だったといっていい。


ちなみに私と東大との縁は、1950年代の終わりから60年代の始め、その駒場寮に2、3度泊めてもらったぐらいである(その節はお世話になりました)。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする