六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

「中くらいの友だち」の一周年記念コンサート

2018-05-21 00:51:31 | 音楽を聴く
 『中くらいの友だち』という面白い名前の同人誌がある。
 ありていに言えば韓国で暮らす日本人と、在日韓国人との架け橋のような雑誌である。
 日韓、あるいは韓日の間には、隣国だけあって深い歴史的経緯があって、ともすれば政治やイデオロギーとして語られる側面が多いのだが、ある意味では、それらを棚上げして、とりあえずは相互の文化交流のようなところに視点を据え、そこから見て考えたことを率直に表現するということがコンセプトのようだ。

 それを前提にこの同人誌を読んでゆくと、新聞やTV、あるいはネットでも知ることができない相互の交流の実状が、それを担う当事者たち(それぞれの国で活躍するそれぞれの人たち)の視線でみえてきてとても面白い。

          

 ところで、ここに書こうとしたのはその雑誌についてもだが、発刊以来、一年が経過し、その第3号が出来上がったことを記念して行われた【『中くらいの友だち』と韓国ロックの夕べ ”李銀子(伽倻琴)/佐藤行衛(ギター)"】(@得三 名古屋今池)というライブについてである。
 
 この李銀子さんとはほぼ30年を遡る知り合いで、そのお連れ合いもよく知っている。
 佐藤行衛氏は韓国へ渡った日本のギタリストで、「コブチャンチョンゴル」というバンドを率いてソウルを中心に活躍している。コブチャンチョンゴルとはごった煮とかモツ鍋を意味していて、彼自身、『中くらいの友だち』には「コブチャンチョンゴルの飲んだり、食べたり、歌ったり」という日韓の民衆音楽の交流や、韓国の、主としてB級グルメの楽しい紹介を行ったりしている。

          

 李銀子さんの伽倻琴というのは、日本の琴に似た楽器だが、琴ほど鋭角的な音色ではなく、ソフトでまろやかで、コントラバスのピチカートにも似た低い音も出るし、曲の聴かせどころでは聴き手の体に響くほどのパンチがある音も出る。
 この楽器を聞くのは三回目だが、その都度、なんだか郷愁にも似た懐かしさを感じる。

             

 佐藤氏は今回はアコースティック・ギターでの登場だが、そのギターが上手い。もちろん歌もうまい。ロック特有のガナリ声も表情豊かに聞こえるし、洗練された高音も伸びやかであった。

          

 さらには金利恵さんの歌もしっとりと聴くことができた。この金利恵さん、本業は韓国舞踊とのことだが、最後のフィナレーの身のこなしでその片鱗を見ることができた。
 なお、ローマ字で書くと私と同姓同名になってしまう私の友人にして俳人と、この金さんは俳句仲間とのことで、回り回った縁でもある。

 出演者ひとりひとりの表現もだが、そのそれぞれのコラボがとても面白かった。伽倻琴とギター、そして歌、それらの絡み合いは、冒頭に述べた同人誌、『中くらいの友だち』のコンセプトが、音響として耳から飛び込んでくるかのような趣があった。

          

 なお、佐藤氏のライブ当日についての記述がMixiの以下ところにあるので、お読みいただければそのライブの内容がお分かりいただけると思う。

 http://mixi.jp/list_diary.pl?id=5675730&year=2018&month=5&day=19 
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伸びしろのあるスケールの大きさ 辻彩奈さんのリサイタル

2018-04-21 12:04:19 | 音楽を聴く
 20日、地元岐阜出身のヴァイオリニスト・辻彩奈(あやな)さんのリサイタルへ行った。
 2016年、モントリオール国際音楽祭で第一位をとったほか、併せて、バッハ賞、パガニーニ賞、カナダ人作品賞、ソナタ賞、セミファイナルベストリサイタル賞をとったというから、なんかとった賞が多すぎるのではないかとすら思ってしまう。

          

 プログラムは、ベートーヴェンの「クロイッェル」のほかは、ポピュラーなものも含めて割合短めな曲で構成されたいた。
 
 演奏に関しては、弓使いが伸びやかでくっきりしていて、滑舌のいい人の朗読を聽くように説得力のある演奏だと思った。

 私のお気に入りはバッハの無伴奏パルティータ第2番ニ短調「シャコンヌ」で、ヴァイオリン一丁を感じさせないほど華やかな音色を醸し出していた。大家のくぐもった演奏に比べ、こんなに開放的な無伴奏もあったのかと、改めて感じ入った次第。

             

 圧巻はやはり、モントリオールで賞をとった折の演奏曲で、サン=サーンスが名ヴァイオリニスト・サラサーテのために作ったという「序奏とロンド・カプリッチョ―ソ」。
 華麗さと繊細さがない混ぜになったこの曲は、それ相当のテクニックと、細やかな表現力を要請するもので、辻さんはそれを完全に手中のものとしていた。
 これなら、モントリオールで、聴衆がスタンディングオーベーションで絶賛したのもわかる気がする。

 まだ弱冠20歳、まだまだ伸びしろがあるヴァイオリニスト。今年5月には、ズビン・メータ率いるイスラエルフィルハーモニーとの共演で、シベリウスの協奏曲を弾く予定とか。
 世界に羽ばたくことができる人だと思う。
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土曜日は図書館とコンサート シューマン&べートーヴェンそして村田英男?

2018-03-19 02:16:53 | 音楽を聴く
 陽気がよかった土曜日、午後、少し読書をしてから三時半頃から図書館へ。
 借りていた森一郎の『世代問題の再燃――ハイデガー、アーレントとともに哲学する』(明石書店)などを返却。森一郎は前著の『死と誕生 ハイデガー・九鬼周造・アーレント』(東京大学出版会)でよく勉強させてもらったが、今回のものは前半はまあまあだったが、後半は同じことの繰り返しのようでいまいち。
 ジュディス・バトラーの『自分自身を説明すること 倫理的暴力の批判』などを借りる。

 時間が少しあったので、図書館の中庭を散策してから、音の反響がいい(辻井伸行君などがそういっている)といわれるサラマンカホールへ。
 毎年三月、大阪フィルの岐阜定期公演があって、私は飲食店を退いて以来十数回、ず~っとそれを聴いてきた。で、今年もそれを聴きにサラマンカホールへ出かけた。指揮は御大、秋山和慶氏。

            
                図書館中庭のマンサク

 小手調べはメンデルスゾーンの序曲「フィンがルの洞窟」。弱冠20歳の彼の才気がほとばしる曲で、やがてこれは交響曲「スコットランド」へ収束されてゆくだろう。
 
 前半のメインはシューマンの「ピアノ協奏曲」。何を隠そう、私はシューマンの隠れ信者だ。三、四年ほど前、あるところでシューマンに関する報告を行った際、シューマンのほぼ全曲を聴いた。しばらくは、あの独特のシューマン節が頭から離れなかった。
 このピアノ協奏曲も、出足からシューマン節全開である。
 シューマン節とは、私が勝手に名付けたのであるが、彼独特の悲哀の表現である。そう思って聴くと彼の音楽のどこを切っても哀しみの色合いがついて回る。たとえばクララと結ばれた後の充実した時期に書かれたという交響曲第一番「春」にも、そこはかとない悲哀のようなものが流れている。

            
        図書館と美術館の間のシデコブシは三分咲きぐらいか

 私はこれを「実存的哀しみ」と名付けた。小難しい言い回しだが、ようするに、具体的ななにか、たとえば失恋した、母に死なれた、財布を落とした、などといったことが悲しいのでなく、このようにあること、あることそのもの、存在することそれ自身が哀しいといったらいいだろうか。シューマンの音楽にはどれにもそれが通奏低音のように流れている。

 ピアノ協奏曲にはとりわけそれが顕著である。聴きようによってはそれが息苦しいほどだがそれがシューマンの音楽なのだ。
 ソリストは幼少時からその才能を発揮してきた小林愛美。そうしたシューマン節をあまり意識せず、若々しいタッチで淡々と弾いていたのがかえってフレッシュだった。それを堪能して前半は終わり。

            

 後半はベートーヴェンの第六「田園」。
 この曲は、ベートーヴェンの中では最も写実的で、聞き易いというか分かり易いのでいくぶん軽んじられている向きがあるが、彼独自の構成美がはっきりしていてとてもいい曲だと思っている。
 とりわけ私は以下の三つの理由で思い入れが深いのである。
 
 最初のそれは、中学生の頃、クラシックの名曲にアニメ映像をつけたディズニーの『ファンタジア』を観たことによる。私にとっては音による印象よりも視覚による印象の方が強い。だから、ずいぶん後まで、「田園」を聴くたびにこの映像がちらついたものだ。
 ギリシャ神話を題材としたそれは、実に楽しい映像だから以下を観ていただきたい(「田園」は4分40秒ぐらいから)。

 https://www.youtube.com/watch?v=rwZUh48wBXU

 もうひとつの思い入れは、何を隠そう、私が高校生の頃、初めて買ったLPがこの「田園」だったのだ。カラヤン指揮、ベルリンフィルのものだった。
 ただし、当時、わが家にはちゃちな電動式(かろうじて手回しではなかったが)の再生装置しかなく、音は乾いた無機的な単色で味もそっけもないものだった。
 そこで私は一計を案じ、親父にもう少しましな再生装置を買ってもらうべく、そのカラヤンの盤とともに、彼が好きだった村田英男を買った。そして親父に、もう少しいい音で聴いたらと提案したのだった。
 村田英男のLPに収録されていたのは以下のような曲だった。

 https://www.youtube.com/watch?v=Em_6pq5FbnQ
 https://www.youtube.com/watch?v=vF2_ScuCrvY
 
 結果は失敗だった。わが父は、音の善し悪しなどは関係なく、村田英男が歌うだけでよかったのだった。そういえば当時のラジオだって大した音ではなかった。

              
         かつてはロビーといったがいまはホワイエというようだ

 最後は、私がウィーンのベートーヴェンが「田園」を作曲するために散策したという場所を訪れた話である。
 ウィーン市内で80回近く引っ越した(これに勝る記録はわが葛飾北斎の江戸市中93回の記録。一日に三回???)ベートーヴェンの住まいのうち、有名な「遺書の家」の近くがそれである。
 田園のイメージや一般にパストラルから来るイメージは田舎の広々とした平野であろう。しかし、ベートーヴェンが歩いたという散歩道は、郊外のお屋敷が建ち並ぶような箇所で、視界が開けたような箇所は全くないのだ。わずかにそれらしいのは、そうしたお屋敷町の傍らを流れる小川で、それは清楚な水を運んでいた。もちろん、時代の変化もあるだろうが、地形からいって、広く開けた田園ではなかったと思う。
 そこはべートーヴェンの想像力の勝利といっておこう。

             
               サラマンカホール 客席へのドア

 大阪フィルの演奏は朝比奈さん譲りの重厚な音色ですばらしい。秋山和慶氏は中部フィルでも振っていてこれで4回ほど聴いているが、臨機応変というかオケの音色をうまく引き出しているように思った。包容力のある指揮者ではないだろうか。

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【私の初体験】「ザショウ」と「大幅変更」 藤村実穂子コンサート

2018-02-19 15:17:47 | 音楽を聴く
 藤村実穂子は国際的なメゾソプラノの歌手である。
 国際的といっても世界の檜舞台で歌ったことがあるとか、たまたま日本人であるために「蝶々夫人」に抜擢されたといったたぐいではない。
 彼女の活動の本拠地は欧米であり、オーストリアのグラーツ(日本でいったら大阪か)歌劇場の専属歌手であったり、バイロイト音楽祭に主役級で9年連続で出演するなど、ヨーロッパ各地でのオペラ出演などその実績には枚挙のいとまもない。
 だから、彼女はむしろ日本でよりも欧米でのほうが知名度が高い。

              

 その彼女が、わざわざ岐阜くんだりまで、私に逢いに来てくれるというのだから、そのコンサートにゆかないわけにはゆかないだろう。会場は岐阜サラマンカホール。
 メゾソプラノのソロコンサートは初めての経験。ソプラノはあるし、大勢の歌手の中にメゾがいたということはあったが、メゾのみははじめて。心躍らせて会場に入った。

 そこで私は、ちょっとした衝撃を受けることとなる。
 まずは入り口で、モギリのお姉さんが「プログラムが一部変更になります」と言いながら渡されたのはいかにも急ごしらえで作られたというモノクロで、ホチキスで綴じられたものだった。
 その内容を当初予定されたものと比べてみる。「一部」なんてものではない。半分がごっそり替っているのだ。私にとって少しショックだったのは、前半2部のマーラーの「亡き子を偲ぶ歌」5曲がすっかり入れ替っていることだった。歌曲に疎い私でも、この曲は知っていて、今回楽しみにしていたのだった。
 後半のマーラーの曲もすっかり入れ替えられていた。

              

 ついで衝撃だったのは、「出演者の体調により、座唱とさせていただきます」の掲示だった。要するに座って歌うということで、これもこの種のコンサートでは初めての経験であった。

 プログラムの変更といい、座唱といい、これらは歌い手の不調をストレートに示しているのではないかとの疑念が。身体が楽器の歌い手、身体の不調はその音楽の不調にほかならないのではないだろうか。
 とんでもないコンサートに来てしまったなという感じより、よし、それならそれで、最後までその表現に付き合ってやろうじゃないかという気になった。

 演奏が始まった。椅子というのはポピュラー歌手などがギターの弾き語りに使う少し高い椅子かなと思ったがそうではなかった。普通にべったり座る椅子で、このホールで演奏するオケのメンバーが坐るものだった。色からすると各パートのチーフが坐る椅子だ。

            

 はっきりいって前半は、これが彼女の本来の歌なのか、それとも不調であることをカバーしているのもかはわかりかねていた。ようするに、まろやかな良い歌声であったにも関わらず、私の主観的な雑念が邪魔をして、彼女の表現を十全に受け取りそこねたのだった。

 だから後半はそうした雑念は捨てて、彼女の表現をあるがままに受け止めようと心に決めた。そうすると、彼女の歌はとても伸びやかにまあるく聞こえ始めたのだ。事実、前半より良かったのではないかと思う。すくなくとも、表現の幅は広がったように思った。
 特に後半2部の、マーラーの「少年の魔法の角笛」よりの5曲は様々な表現を聴くことができてとても良かった。

 でも、正直言って、「出演者の体調云々」と最初にいわれてしまうと、なんだか心配が先に立ってやはり手放しでは楽しめなかった。
 アンコールを催促するような拍手もやめたほうがいいのかもと思ったくらいであったが、それでも拍手をしていると、なんとアンコールは短いが2曲も歌ってくれた。だから、最後は心おきなく拍手をすることができた。

            

 なお、ピアノ伴奏は歌曲伴奏のベテランにしてスペシャリスト、ヴォルフラム・リーガーで、思い入れたっぷりの演奏は視覚的にもそれとわかるものだった。とりわけ、曲の終わりのピアノタッチは繊細を極め、固唾を飲んで最後の一音が鳴るのを待ち、一瞬の間を置いた後、拍手が起こるという有り様だった。

 暮れなぞむ街の灯を見ながらの帰途、まあ、こんなコンサートもかえって記憶に残るかなぁなどと思った次第。
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スメタナの音楽と聴覚障害、そして梅毒

2018-02-02 00:30:36 | 音楽を聴く
 ベドルジフ・スメタナ(1824年3月2日 - 1884年5月12日)はチェコ国民音楽の父と言われている。
 彼の時代のボヘミア(今のチェコ)は、オーストリー=ハンガリー帝国の領土内であり、独立した国家ではなかった。だから、スメタナはその独立を願いながら、音楽の面でそれを表現したといえる。

 ただし、その音楽家としての評価は、チェコとそれ以外のところではいささか違うようで、彼のとりわけ若い最盛期にはチェコではオペラの作曲者として著名だった。しかし今日、例えば私が知っているのは「売られた花嫁」ぐらいである。それとても、あのテンポの早い序曲と、そのストーリーをざっくりと知っているのみで、それを通しでじっくり聴いたことはない(スメタナさん、ごめんなさい)。

            

 私たちがスメタナといわれて想起するのは、交響詩6曲を束ねた「わが祖国」の第2曲「モルダウ」が圧倒的に多いと思う。今から60年前、大学に入学した際、入学式のアトラクションにその大学のオケが演奏してくれたのは、ベートーヴェンの「エグモント序曲」と「モルダウ」だった。
 そんなこともあって、私と同級生だった連れ合いは、クラシックへの造詣はほとんどなかったが、この「モルダウ」だけは亡くなるまで好きだった。

         https://www.youtube.com/watch?v=WvR1Co9rV_Y
         これぞ正統派 ラファエル・クーベリック&チェコフィル

 ついでにいうならば、この「わが祖国」は、「モルダウ」以外にもいい曲が揃っていて、そのラインアップは以下のとおりである。
 第一曲『ヴィシェフラド』高い城
 第二曲『ヴルタヴァ』モルダウ下流はエルベ川
 第三曲『シャールカ』伝説の「乙女戦争』があった谷(女性が奸計をもって男性軍を滅ぼしてしまうという男にとっては怖~いお話
 第四曲『ボヘミアの森と草原から』文字通り
 第五曲『ターボル』南ボヘミア州の古い町
 第六曲『ブラニーク』中央ボヘミア州にある山
 それぞれの曲にボヘミアならでのこだわりやアウラがあるのだが、この際は省略する。

             
                    モルダウ川

 スメタナの曲で、ついで有名なのは、私が今般聴いた、弦楽四重奏曲第一番、同、第二番であろう。
 この哀愁と壮絶感が混じったカルテットは聴きものだと思う。とりわけ、《わが生涯より》と題された一番は、ショスタコーヴィチの第八番に似ていて、彼が自分の生涯をどのように見ていたかが垣間見られる。

 ついでながら、ショスタコの八番は、スターリングラード攻防戦をめぐる音楽としては悲壮すぎるとスターリニスト官僚ジダーノフによって批判され、以後約20年にわたって演奏禁止になったいわくつきの曲である。

               
                歌劇「売られた花嫁」楽譜表紙

 いささか話が逸れたが、「わが祖国」、並びにこの二つの弦楽四重奏に共通するものは何かというとそれらは、彼の死の10年ほど前からの後期の作品であるということと、この時期、彼の耳はほとんど聞こえなくなっており、その程度はベートーヴェンの難聴を遥かに超えて、ほぼすべての音を失っていたということである。

 したがってこれらの音楽は、彼の研ぎ澄まされた音の蓄積のなかから記憶によってのみ引き出され組立てられた音の構成だということになる。
 もちろん、それに彼自身の後半生を迎えた感慨がたっぷりと織り込まれている。

 音楽を聴く場合、そうした状況を知って聴くのと、不要な先入観を排除して音楽そのものを聴くのとどちらがどうかという論議もあろう。
 私の場合は、それと知らずに聴き、ここにあるこの激情のようなものはなんだろうかと改めて伝記的なものを追跡し、改めてその音楽を聴き直した次第である。


            
         ラファエル・クーベリックによる「わが祖国」全曲盤
 
 もうひとつ、彼の伝記的な事実を付け加えておこう。
 この「わが祖国」や二つの弦楽四重奏を作って何年も経過することことなく、彼は梅毒によって狂死したとある。先にふれた聴覚障害もまた梅毒によるものだとする説もある。

 梅毒は、クリストファー・コロンブスの率いた探検隊員がアメリカ上陸時に原住民女性と交わって感染し、ヨーロッパに持ち帰った結果、以後西洋世界に蔓延したとする説がある。

 そしてそれによる著名人の死者は、あまりはっきりしない風評様なものをも混じえると以下に及ぶ(順不同)。
 フランツ・シューベルト ロベルト・シューマン ベドルジフ・スメタナ
 アル・カポネ フリードリッヒ・ニーチェ(?) シラノ・ド・べルジュラック ギ・ド・モーパッサン

 梅毒は性交渉を媒介に伝染することはよく知られているが、必ずしもそうばかりではない。これ以外にも母子感染、輸血血液を介した感染もあるり、母子感染の場合、子供は先天性梅毒となる。

 20世紀の中頃、ペニシリンが普及して以後、梅毒は制御しうる病いになったが、それ以前は不治の病いであった。
 しかし、必ずしも過ぎ去った話でもない。この国では2012年から16年にかけて男女間性交渉による感染が急増し、先進国のなかでは異常に高い数値を示したことがある。ただしその年齢は、男性は25~9歳、女性は20~24歳ということだから、幸いにして私は圏外だ。

 スメタナの晩年の話からとんでもない脱線になってしまった。
 しかし、彼の晩年の音楽は素晴らしい。「モルダウ」を含む「わが祖国」全曲、並びに、弦楽四重奏第一番、第二番はとてもいいと思う。
 いや、大丈夫。その音楽を聴いたからといって、梅毒に感染することは決してない。それよりも現実のあなたの生活のほうがはるかに・・・・(以下自粛)。
 
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前橋汀の晩年チャレンジ そのカルテットを聴く

2017-10-03 14:55:00 | 音楽を聴く
  過日、岐阜サラマンカホールでの前橋汀子カルテットのコンサートへいってきました。
 曲目や演奏者については以下の通りです。

 ベートーヴェン 弦楽四重奏曲  
   第4番ハ短調 作品18-4
   第11番 ヘ短調「セリオーソ」作品95 
   第16番 へ長調 作品135

  *アンコール 
    チャイコフスキー「アンダンテカンタービレ」 
    ベートーヴェン 作品18-2 フィナーレ 

  前橋汀子(第1ヴァイオリン) 
  久保田巧(第2ヴァイオリン) 
  川本嘉子(ヴィオラ) 
  原田禎夫(チェロ) 

          

 前橋汀子さんといえば、まだ戦後の雰囲気が残るなかでヴァイオリニストを志し、とりわけ、オイストラフの日本公演に触発されて、当時のソ連への留学を目指して中学生の頃からロシア語を学び、1960年、17歳でレニングラード(現・ペトログラード)音楽院への留学を果たし、さらに3年後には、アメリカのジュリアード音楽院に留学したひとです。

 ようするに、60年代初頭の雪解け現象があったにしろ、東西冷戦下のその双方の音楽を身をもって学んだことになります。
 さらに60年代後半には、渡欧し、スイスのモントルーに住居を構えていた晩年のヨーゼフ・シゲティの門を叩き、その教えを乞います。

            
             サラマンカホールのシャンデリア

 デビューは、1970年4月、ストコフスキー指揮によるアメリカンシンフォニーで、ニューヨークカーネギーホールでのことでした。
 以来、半世紀、デビュー以前の演奏活動も含めると、今年で演奏活動は55年になるそうです。

 以後、国内外の一流オケとともにソリストとして協演する傍ら、リサイタルなどでも活躍してきました。
 こうしてもっぱらソリストとして活躍してきた彼女が、カルテットを組み始めたのは3年前からでした。それは、若き日にジュリアードに留学した折知ったカルテットによる表現への魅力を、晩年に至って自ら再現したいということのようです。
 今回のプログラムもそうでしたが、ベートーヴェンの弦楽四重奏の全曲の演奏を目標にしているようです。

          

 で、具体的な演奏ですが、プログラムなどによると彼女がリーダーのカルテットということになっていますが、アンサンブルの場の仕切りといいましょうか、音による誘導といいましょうか、それらはむしろチェロの原田禎夫によっているように思いました。長年ソリストとしてやってきた彼女に比べ、アンサンブルとしての経験は原田禎夫のほうが遥かに豊かなのですから、それはやむを得ないのでしょう。

 同様のプログラムですでに行われた地方の演奏をお聴きになった音楽経験豊かで耳の肥えた方の、彼女の醸し出す音色などへの意見も拝見しているのですが、耳の悪い私には確たることはもちろんいえません。
 しかし、1943年生まれ(私より5歳下だ)、古希を過ぎた彼女が、これまで未体験のカルテットで、ベートーヴェンの全曲に挑むそのチャレンジャー精神を買ってやりたいと思います。

 聴衆の拍手に対して、子どものような表情で(もともと童顔なのですが)破顔一笑して応えていた彼女を今後も応援してやりたくなりました。
 かつてのビッグネームも、その陰りが見え始める年齢、それをも押して頑張れとういのは単に自分と重ね合わせた、いってみればエゴイスティックな投影なのかもしれません。

 考えてみれば、音楽を聴くということも好きなのですが、それ以前に人間が好きなのでしょうね。だから、シニアグラスをかけて、楽章ごとに楽譜を確認してでなければ弾きはじめることができないそんな彼女に、勝手に感情移入してしまうのです。

            

 まあ、私の音楽の聴き方も、恣意的で皆さんの参考にはならないようでしょうね。
 このカルテット、今後共にこれらのプログラムで全国ツアーを行うようです。
 あなたのお近くにいった際には、ぜひ前橋汀子さんに会いに行ってやってください。

なお、以下に世界を舞台に活躍していた彼女が、1980年に日本に戻ってくるまでの軌跡を、自ら綴った文章があります。
 すでに鬼籍に入った一世代も二世代も前のビッグネームとの交流が綴られていて、彼女自身の長い活躍の跡が偲ばれます。


  http://www.officemusica.com/maehashi_history.html
 



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私にオケを生で最初に聴かせてくれた人 近衛秀麿

2017-07-31 15:43:34 | 音楽を聴く
 振り返ってみても私が受けた音楽教育の歴史は極めて乏しい。
 生まれた時期も悪かった。完全に戦時体制に突入していた1938年、生母に先立たれた私は養子に出されたのだが(実父はその後、悪名高いインパール作戦で戦死)、養父が戦争に取られ、都市部が空爆にさらされるに至って、大垣郊外の片田舎に疎開することとなった。
 そんなこともあって、私は幼稚園などというところへも行ったことがない。絵本でみたことはあったが、特殊なお金持ちが行くところだとばかり思っていた。

 45年に国民学校へ入学するのだが、そこでの音楽教育についてはほとんど記憶がない。
 教室の前にオルガンがあって、みんなで斉唱をするのみだった。
 戦争が終わっても、猛烈な物資不足は続いた。
 小学校も高学年になると、音楽表現も授業の一環となったが、なにせ楽器がない。
 ハーモニカだってクラスに一本か二本で、それを順に回し吹きをするのだ。自分の前の子が、青鼻を垂らしていたりすることもあった。
 ほかには木琴。これもクラスに一台で、前の教壇にあるものを一人ずつ出ていって交代で叩くのだ。
 これで興味をもったとしても、自分専用の楽器が買えるような状況ではなかった。

          

 音楽を受容する教育については小学校の折には経験がない。
 中学校になってやっとあったような気がするが、音楽室で音楽専用の教師が名曲のさわりをピアノで弾くぐらいで、オーケストラの作品になると、手回しの蓄音機で、いわゆるSPレコードによる細切れのものを聴くのみであった。その音質も、針の音が聞こえるようなひどいものであった。

 そんな私に、ナマのオケを聴く機会が巡ってきたのは、確か1952年、私が中2のときであった。その頃、疎開地から岐阜へ戻っいた私は、学校からの動員で当時の岐阜市の公会堂(現在は取り壊されて市民会館ができているが、これもまた改築されるという)へと駆り出されたのであった。
 その頃は、時折、学外の映画館などでの鑑賞の授業があったりしたので、その一貫ぐらいだろうということでさして感興をもっていたわけではなかった。

 しかしである。一旦、演奏が始まってみると、その最初の音で打ちのめされたような衝撃を味わった。それらの音は、チューニングの悪いラジオから聴いたり、針音がするレコードで聴くものとは全く異質のものであった。ましてや、まだ再生装置にステレオなんてものがなかった時代、ナマで聞くオケの音は、弦はそのあるべき位置で音を紡ぎ、管はその後方で音を響かせ、打楽器は、とりわけ、初めて見るティンパニーの飛び跳ねるような音色はその所在を明確に告げていた。
 ようするに、音楽の音に然るべき空間を占める立体感があることをはじめて体感したのだった。

 曲目は、カルメンの前奏曲や、スッペの騎兵隊序曲などなど、最もポピュラーな小品ばかりだったが、それぞれが面白く、すっかり堪能することができた。
 その時のオケが、近衛管弦楽団で、指揮はもちろん近衛秀麿であった。戦前戦後にかけて、山田耕筰と並んで日本のオーケストラを引っ張ってきた人である。

 その折の感動は、今から振り返っても大きなものがあったが、多情・多感な少年の興味の対象は拡散しがちである。
 クラシックについても、それがきっかけでしばしば聴くようになったが、近衛秀麿についてはさほどこだわりをもたなかった。時代は帝王カラヤンに傾斜していて、なにかそれだけでありがたがっていた。

          

 まだまだ再生装置にも恵まれていなかった。実家にあったのは流石にもう手回し式ではなかったが、動力をモーターに変えただけのプレーヤーであった。
 高校生の頃、やはりちゃんとした再生装置が欲しくなり、カラヤン指揮・ベルリン・フィルのベートーヴェンの6番のLPを買ったついでにもう一枚、三橋美智也かなんか、当時流行っていた演歌のレコードも買った。

 後者は父母が対象で、私の作戦としては、「ホラ、こういうレコードも、もっといい再生装置で聴いたらいい音がすると思うよ」ということで、ステレオ装置かなんかを買ってもらうことであった。
 父母はレコードは喜んでくれたが、「私らはこの音でじゅうぶん」ということで、私の深慮遠謀はあえなく挫折した。

 近衛秀麿のことだが、私にはじめてクラシックのナマの音を聴かせてくれた人ということでずっと記憶にとどめてはいたが、どこかでやはり縁遠い人だと思っていた。
 と言うのは家柄が良すぎた。お公家さんの五摂家筆頭の家柄で、地位もお金もあり、だからこそ戦前からヨーロッパでクラシック三昧を決め込むことができたのだというぐらいにしか思っていなかった。

          

 印象が変わったのは先般、たまたまNHKBSで、「玉木宏 音楽サスペンス紀行 マエストロ・ヒデマロ 亡命オーケストラの謎」(29日後8:00)を観たからである。
 この番組で、戦前のヨーロッパでの近衛の足取りが具体的に示されていて、それは私が思っていたように家柄の良いボンボンが優雅に・・・といったイメージといささか異なるものであった。たしかに当時の日本はドイツと同盟関係にあったとはいえ、そのナチス・ドイツはヨーロッパ各地で、とりわけユダヤ人に対して残虐の極みを尽くしていた。

 そのナチスが、クラシックの世界にも干渉し、あのモーツァルトの音楽や音楽祭までナチス色に染め上げたことは、私自身が勉強し、今春発刊の同人誌に書いたとおりである。
 そうした渦中に近衛もいたわけである。昨日までともに演奏していたユダヤ人演奏家の仲間が、今日、収容所でガスシャワーを浴びるというそんな環境の中に・・・。
 そこで彼は何人かのユダヤ人を助け、その亡命に手を貸し、演奏機会を奪われた彼らに自分の指揮下で演奏する機会を与えたりしたという。

          

 とりわけ占領下のポーランド・ワルシャワでの、当時の状況下では舞台に上ることもできなかったユダヤ人音楽家たちをも組織して行われた謎のコンサートは、おそらく感動的なものであったろうと思われる。その曲目、シューベルトの『未完成』は、番組冒頭から通奏低音のように流れ続けていた。

 私は今、私にはじめてオケのナマの音を聞かせてくれたのが、近衛秀麿であったことを改めて誇らしく思う。そして、彼のことをいいとこのボンボンの芸事のように扱ってきたことを恥ずかしく思う。

 NHKには私が観た番組に先立つ、「戦火のマエストロ・近衛秀麿~ユダヤ人の命を救った音楽家~」というドキュメンタリーがあるという。それも併せて観たいと思っている。


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ギターのトレモロに私も揺れて・・・・二つのコンサート

2017-05-16 16:23:00 | 音楽を聴く
 久々のコンサート、しかも2日続けて。両方とも、カルテット。
 15日は名古屋を拠点にする若手の弦楽四重奏団、クァルテット・ダモーレによるもの。
 14日は、岐阜で4人のギタリストたちによるもの。

 前者については、このSNSでも、私より数段耳の良い方がいらっしゃって何かお書きになるかもしれないので、わたしはもっぱら後者について述べよう。
 ただ、この弦楽四重奏団のアンコールが、モーツァルトの「アヴェ・ヴェルム・コルプス」だったことを書き添えておこう。

          
          当日の女性陣のコスチュームはもっとあでやかだった


 ご存じの方も多いと思うが、モーツァルトはミサ曲やオペラなどで多くの合唱曲を書いているが、ケッヘル番号が独立している単独の合唱曲は、この「アヴェ・ヴェルム・コルプス」だけだ。
 それを弦楽四重奏で演奏するのは初めて聴いた。
 もともと、静かにフェイド・アウトするような曲だから、器楽曲にはいくぶん物足りないかもしれないが、合うとすれば弦楽四重奏しかないのだろうなという点で納得できた。

 さて、4人のギタリストの方だが、こちらの方は5月14日、岐阜サラマンカホールでのもの。
 日本のギタリストの重鎮、荘村清志を中心に、鈴木大介、大萩康司、それに紅一点、朴葵姫(パク・キュヒ)の4人が一堂に会したもので、先の弦楽四重奏団と違って、ひとつのチームのようなものではないのだが、それでもはじめての顔合わせではないようで息はピッタリ合っていた。

             

 演奏は四重奏、三重奏、二重奏、独奏といろいろで、曲も古いもの、比較的新しいもの、ギター本来の曲、アレンジしたもの、などなど多彩であった。
 私にとっては四人のアンサンブルははじめてで、第一部の最後を飾ったローラン・ディアンス(昨年死去)の「チェニス・チュニジア」などは、ギターならではの音色の重なりで、けっこう広がりのある演奏を聞かせてくれた。
 この曲はもろに北アフリカ大陸をイメージしているが、ギターという楽器が、ヨーロッパのアフリカといわれたスペインで成長し、数々の名曲を生み出したことが偲ばれるような曲でもあった。
 
 もちろん曲にもよるが、ギターの調べはツツツ~ッと上昇したり、そこから滑らかに下降したりで、それらをよぎるようにリズムが刻まれ、独特の繊細な音楽が醸し出される。
 その繊細さ故に、ギター同士、あるいは他の単独の楽器とのコラボ、あるいはロドリーゴの「アランフェス協奏曲」のようにオケとの協奏はあっても、まかり間違っても、オケや合奏団の中に埋没してはその特色が殺されてしまうのだろうと思う。

          

 独奏では、朴葵姫のアルベニスの「スペイン組曲」からの「セビリア」が若々しく澄んだ音色を響かせていた。
 また、荘村清志の「アルハンブラの思い出」(タレガ)は、何度も聞きなれたはずなのに、そのトレモロと同時にこちらの肉体と精神も小刻みに揺れるような快感で、ホール全体がキュンと締まるようであった。
 ちなみに、荘村は姿勢がとても良く、禁欲的なほどに背筋の線が垂直なままに演奏する。ほかの演奏者たちが、曲想につれ、体を揺らしたり、前のめりになったりするのとは対象的である。

 正直いって、ギターの演奏はCDや媒体を通じては聴いているものの、コンサートとなるとこれで二回めほどで、しかも4人のアンサンブルというのは初めてだ。だから偉そうなことはいえない。

 もともと、私のギター体験の始まりはといえば、古賀政男の「湯の町エレジー」のあのセツセツとしたイントロ、ついで、映画「禁じられた遊び」のサウンドトラックといったところだから、まあお里が知れているというべきだろう。

 でも、とてもいいコンサートだった。前から3列目で聴くそれは、弦の震えが私自身と共鳴するかのように感じられた。
 なお、余談であるが荘村清志氏は岐阜の出身で、しかも校区は私のそれの隣。彼のほうが9歳ほど若いが、子どもの頃どこかですれ違っているかもしれない。
 もっとも16歳の折に来日中のナルシソ・イエペスに見出されて、スペインへ渡り、イエペスに師事したというから、はなたれ小僧だった私とは毛並みが違うことは事実だ。







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【祝祭と鎮魂のアンビバレンツ】大阪フィル・岐阜定期演奏会

2017-03-12 12:59:57 | 音楽を聴く
 大阪フィルの第40回岐阜定期演奏会に行ってきた。
 10年ほど前から、この岐阜定期演奏会を聴きに行っているから、40回のうち1/4は行っていることになる。
 40回といえばアニュアルな回数だが、もうひとつ記念すべきは、大阪フィルが当初、関西交響楽団として発足したのが1947年だから、今年は創立70年に当たるわけだ。

 そんなわけで、アニヴァーサリーなムードが漂う演奏会だったが、一方、鎮魂の意味をも併せもったちょっと変わったムードでもあった。
 というのは、演奏会が3月11日に開かれたとあっては、お祭り気分に浸ってのみでは済まされぬというわけだ。

         

 そうしたアンビバレンツな様子は、プログラムにも表れていた。
 前半はテナーとソプラノを伴ったオペラ絡みのもので、ヴェルディの「運命の力」序曲に始まり、マスネ「ウェルテル」から“オシアンの歌”(テノール)、グノー「ファスト」から“宝石の歌”(ソプラノ)、そしてプッチーニの「ラ・ボエーム」から“冷たい手を”(テノール)、“私の名はミミ”(ソプラノ)、“愛らしい乙女よ”(二重唱)の三曲。
 そして前半の締めは、祝祭ムード一杯のヴェルディ「椿姫」から“乾杯の歌”といった具合。

 ここまでは、惚れた腫れたの浮き立つようなもので、このコンサートの祝祭の部分を表現していた。
 テノールは岐阜県出身で加納高校(私んちから徒歩10分)・音楽科卒で18歳にしてオペラ歌手デビュー、その後東京芸大へ進み、本格修行という逸材・城 宏憲。
 ソプラノは、小林沙羅。「フィガロ」のスザンナ役、「カルメン」のミカエラ役などといったらそのイメージが掴めるだろうか。
 いずれにしても二人ともまだまだ伸びしろのある歌い手として、今後の活躍が期待できる。
 
   http://www.jvf.gr.jp/01jo-hironori.html

   http://sarakobayashi.com/biography

 とりわけ、城 宏憲はご当地のテナーとして熱い声援を受けていた。途中の休憩時間に、ロビーで支援者たちに取り巻かれてる姿を見かけたが、舞台上で見かけた感じほど長身ではなかった。それだけ大きく見せたのは芸の力か。そういえばむかし、藤圭子を至近距離(1メートル以内?)で目撃したが、TVの画面で観るのとは大違いで小さい人だと驚いたことがある。でも、眼力は強くて圧倒された。

 後半はガラッと雰囲気が変わってチャイコフスキーの第6番「悲愴」。地の底から聞こえてくるようなファゴットの音色から次第に他の楽器を巻き込んで重層な音色へと成長してゆく。
 
 いつもながら感じるのはチャイコフスキーの音楽の饒舌さである。時として装飾過多を思わせるこのてんこ盛り感は、ある意味でドストエフスキーの小説の饒舌に通じるものがあり、19世紀末の来るべき大転換の予兆、あるいはそれに対する不安を解消するための、これでもか、これでもかという力説のようなものかもしれない。

 なお、この第6番はライブで効くのは3度目だが、いつも第三楽章の終わりで少なからざる拍手が起こる。指揮者が全身を震わせて終わる激しいこの楽章の終わりに、それが起こるのは無理もない。
 実際の終楽章は、ファゴットの低音から始まったそれへと収斂するようにフェイドアウトとして静寂のうちに終わる。
 これを3月11日の鎮魂歌として選んだのはわかるような気がする。

 アンコールは同じくチャイコフスキーの「弦楽セレナーデ」の第三楽章“エレジー”だった。これもまた3月11日への気配りだろう。

         

 大阪フィルは、持ち前の重厚な音色を聞かせてくれた。
 指揮者の尾高忠明は今春から大阪フィルのミュージック・アドヴァイザーに就任し、18年からは音楽監督に就任予定とか。
 この人、1947年生まれの70歳。大阪フィルと同い年ということになる。

 この人の指揮ははじめて見たが、膝や腰の関節を柔軟に使い、リズミカルな指揮をしていた。楽曲を高揚に導くときも、また、フェイドアウトのように静寂に導くときも、いずれもその感触を全身で表現していて、とても明確な指揮だと思った。

 演奏が終わって外へ出たらブルブルッとするほどの寒さ、いつも岐阜の春を告げるこの定期演奏会、今年はまだまだ寒いままだ。
 かつては、このコンサート(ずっと3月に行われている)に自宅から自転車で来たのになどと思うのだが、よく考えてみれば、その頃は私自身がまだ若かったということだ。

 いいコンサートだったと思う。10回ほど来ているせいか、大阪フィルとは相性がいいようだ。生きていたら来年も行きたいものだ。
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五嶋みどりさんのことなど

2016-06-19 15:53:25 | 音楽を聴く
                 

 春以来、6,7回のコンサートに出掛けたが、17日の五嶋みどりさんのものでしばし休憩。
 3月以来手がけてきたまとまった仕事が最終段階へ入ってきたのと、新しく文章を書き始めねばならない。後者のためにはあと2冊ほど、参考書も読まねばならない。夏過ぎまではしばらくおあずけか。でも機会があればたぶん出かけるだろう。
 
 五嶋さんの演奏はどれも素晴らしかったが、とりわけ最後のシューベルトの「ピアノとヴァイオリンのための幻想曲 ハ長調 D934」が素敵だった。その情感がストレートに伝わる演奏だった。
 プログラムの曲目解説も彼女自身の手によるもので、なかなか適切であるし、文章家でもあることを知った。多彩な人である。
 
 演奏家としてはむろんだが、社会貢献においてもその好感度は高い。学校や施設を訪れ、子どもたちにその演奏を聴かせるのみか、楽器に触れさせて音が出るその瞬間を体感させるなどの活動を展開している。そのため、年間の演奏機会はゆうに100日を超えるという。
 14歳の折のあのバーンスタインとの伝説以来、彼女は輝き続けている。
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