六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

戦後のスタートを象徴する「リンゴの唄」とは何だったのか?その正体は?

2021-11-18 11:20:20 | 想い出を掘り起こす

 今月のはじめのことだが、親しい方からリンゴ二個を頂いた。
 
 赤いのと黄色いの。それぞれ名前を教えてもらったのだが、忘れてしまった。名前は忘れたが、リンゴはおいしかった。一人で全部食べきれなかったので、八切れに切ったうち二切れほど残し、夕食時、おろし金で摺り、それに塩、粗挽き胡椒、オリーブオイルなどを加えてサラダ用のドレッシングにした。リンゴのほのかな香りがアクセントになり美味しいサラダができた。
 
           

 こうしてリンゴを味わっていて、ふと思ったことがあった。それは、戦中戦後を見直すようなものを同人誌に書いている私が最近学んだある事実についてである。
 
 ある程度の年配の方なら、「リンゴの唄」(1945年=昭和20年=敗戦の年の12月吹き込み 46年1月発売 オリジナル版は霧島昇とのデュエット)をご存知だろう。それが、敗戦後最初に流行った流行歌であり、荒みきった焼け跡に響き渡り復興の後押しをしたこと、敗戦後の不安に怯える人々にひとときの希望をもたらしたこと、あるいは戦時中の重っ苦しい雰囲気を吹き飛ばす、いってみれば戦後民主主義発進の象徴のような歌だったということも。私自身も、ず~っとそう思ってきた。

           
 
 では、私が新しく知った事実というのはなんだろう。
 作詞家のサトウハチローはこう証言している。
 「これは戦時中に作った詞で、悲壮感あふれるものばかりだったので、少し明るいものをと思って・・・・。リンゴを題材にしたのは、父が青森県は弘前の出身だったから」

 続いて作曲家の万城目正の証言を聞こう。
 「もともとは、兵士を鼓舞し、激励慰問のための映画の挿入歌として書いた曲だ」

 ようするに、戦後の発表時、前述したようにおそらく日本の歌謡曲の歴史のなか、全国民に与えた影響は他に類を見ないようなこの歌は、もともとは玉砕や特攻の悲惨のなか、敗走に次ぐ敗走というまさに泥沼の敗戦直前の状況下で、今一度戦意を新たにするためのカンフル注射のような役割を担うはずのものだったのだ。それが、発表がずれ込むことによって、まったく違う機能や効果をもたらしたのだった。

           
       https://www.youtube.com/watch?v=Gf0jDTOyF4U

 それがいけないといっているわけではない。当時、国民学校一年生だった私も、この歌を耳にして、あゝ、戦争は終わったのだ、もう警報の度に防空壕に駆け込まなくても・・・・という感慨をもったはずだ。

 ただし、この事実は、私が最近考えているように、この国は、あの敗戦を契機に、戦前と戦後にそれほど大きな断絶ををもったのではないということのひとつのエピソードではないかと考えている。ようするに、戦後民主主義の出発点を象徴するようなこの歌にも、戦前からの継承性が確固として貼り付いていたということである。

 やや抽象的にいうならば、この国の「戦後」がなかなか終わらないのは、実は「戦前・戦中」が終わってはいないからではないかとも考えている。

           

 せっかく美味しいリンゴを頂いて、それを味わいながらの感想としてはいささか無粋で、呉れた方にはまことに申し訳けないが、しかし、そうした思いが念頭に浮かぶのを抑えきることはできないのだから許してほしい。
 
 しかし、これだけは言っておこう。こんな事を考えたのは一個目だけで、二個目は雑念を振り払い、名前を忘れた赤い方のリンゴの方を存分に味あわせていただいたのだった。

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《お勧めの記事》黄土地上来了日本人(黄色い大地に日本人がやって来た)他

2021-11-15 14:56:48 | 想い出を掘り起こす

 下方に添付したものは私の半世紀近い友人、大野のり子さんの記事です。
 いまはカンボジアで旅行代理業をしていますが、コロナ禍で苦戦しています。それどころか、自身がコロナに罹ってしまいましたが、予防接種のおかげでなんとか大禍なく回復したようです。

          
                  賀家湾村遠景
          
                洞窟式の住宅・ヤオトン

 彼女は数年前まで、中国は山西省、黄土高原の山村で12年間を過ごし、過ぐる日中戦争の体験者などにインタビューをしたものが書になったり、東大に史料として保管されたりしています(ただし、写真は2011年、私が山西省賀家湾村を訪れた際、撮ってきたものです)。

          
                    農夫
          
             賀家湾村の段々畑 11月で収穫は終了

 私も、2011年に彼女の滞在している賀家湾村を訪れたことがあります。ちょうど中国の高度成長が始まった時期で、村は年寄と子供ばかりで、働き手はほとんど都市へという時期でした。
 しかしそれはまだ序の口で、あれから10年、その後の中国の変化からして、おそらくその頃からもまったく違った姿になっていると思います。

              
                険しい断崖の道を進む農婦
          ー
              登るのを待っていたら微笑んでくれた

 その意味では、彼女の調査とその記録は、私たち日本人にとって、その地で何が起こったのかの過去を知るための重要な史料であると同時に、現今の中国の人たちにとってすら、戦中戦後を記録した貴重な史料になっていることと思います。

          
         子どもたち 父母が都会へ出たまま帰ってこない例も
              
                    老人

 以下の彼女の記録の一端をぜひお読みいただきたいとお勧めいたします。

 https://note.com/natsume87/n/n313109b3f5d7
 https://note.com/natsume87/n/n6f8706d170af

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一日に二度泣いた! 八十路の涙腺を緩ませたものは?

2021-10-12 00:23:02 | 想い出を掘り起こす

 一日に二度泣いた。正確に言うと、一度は泣きそうに、そして二度目は人前もはばからずほんとうに泣いた。

 10月10日のことだ。午前、いつものように、火鉢で飼っている二尾の金魚の水を少しだけ変え、毎日やっている餌をやはり毎日と同じように与えた。ここ半年間、それでもって彼らは元気に過ごしてきた。
 それから洗濯物を干しに行ってしばらくしてから火鉢を覗くと、なんだか一尾の様子が変だ。体をひねるようにしたり、横っ腹を見せたりで、ふざけるというよりなんだか苦悶している様子だ。

 なんか毒物でも口にしたのだろうか。慌てて別の容器に新しい井戸水を汲んで、水温も確かめ、その金魚をそちらへ移した。毒を吐けばなどととっさに思ったのだ。しかし、効果はなかった。次第に動きが緩やかになり、しばらくはピクリとするように体を動かしていたが、やがてまったく動かなくなった。しばらくそのままにしておいたが蘇生する動きはない。ご臨終だ。
https://www.youtube.com/watch?v=Yaw_z1lPG7U
 彼らが来た頃は、私が近づくと、さっとホテイアオイの影などに隠れてしまい、そこを離れるまで姿を見せなかったのに、最近では近づくと水面に出て餌をせがむようになり、餌をやる段になると、私の手から食べるようにさえなっていたのに・・・・。
https://www.youtube.com/watch?v=yzvhdnVZVIk
 も一匹はと見ると、何事もなかったように悠然と泳いでいる。翌日、つまり今朝になっても、残された一尾は全く変わりない。ただし、時々もつれるようにして戯れていた相手がいなくなって寂しそうに見える。
 これがこの日最初の涙を誘う出来事だった。

 本当に涙を流してしまったのは夕刻であった。
 この日、午後からは私の属している会の例会がじつに久々に開催され、その会場が今池であった。会の中身は、音楽評論家の先生と、音楽愛好家の弁護士先生との対談形式の講演で、「 法の視座から見た《フィガロの結婚》」という面白い企画であった。

             

 その散会が夕刻とあって、この今池で30年間居酒屋を営み、いわば第二の故郷ともいうべき地を黙って去る手はないと、自分がかつて店をやっていた地点を中心に しばらく散策を試みた。当時からあった店舗、全く様相が変わってしまったところ、などなど懐かしさやその変貌ぶりに感慨を新たにしながら時を過ごした。

             
 
 やがて秋の陽が傾き始めたので、どこかで一杯と、ローマ字表記にすると私と同姓同名になる今池の情報通がかつて紹介していた「本と酒 安西コーブンドー」という店へ入ることとした。はじめての店であるが、古民家を改装したその店のまさに改装する前の住人も知っていたのだった。
 「本と酒」というのはカウンターの背後に書架がしつらえられ、そこにジャンルを問わず様々な本があり、客はそこから 好みのものを選び、それに目を通しながら酒を嗜むことができるということである。

             
 私にはさして読みたい本はなかったので、店のマスターを捕まえ、最近の今池事情などを聞こうと話しかけた。その話の経緯で、 かつて私がこの辺で店をやっていた人間であることが明らかになってしまった。
 この街を離れて、20年になるのに、私が去った後のニューカマーにも私の名前が知られているのは意外であり、光栄でもあった。

 当初、客は私を含めて3人。そのうちのひとりは着物姿の若い男性。しばらくして帰るということで私のそばを通りかかった際「お似合いですね」と声をかけ、「〈蘭丸〉さんのご関連ですか」と尋ねると、「ええ、昨日蘭丸で買ったばかりの着物です」とのこと。
 〈蘭丸〉はやはり今池で、Kさんという女性の経営する着物と付帯する小物などのお店で、そのKさんとは、彼女がその店を始める前、まだフリーライターのような仕事で、私のやっていた居酒屋に取材に来た頃からの知り合いだから30年以上の付き合いということになる。

             
                  コーブンドーの裏窓から・1

 さて、店のカウンターに戻ろう。着物姿の男性が帰り、離れたところにいた若い女性と二人のみになった。いい歳をしたジジイが声をかけるような無粋な真似はもちろんしないが、なんとなく気になる様子もあった。
 それはともかく、店のマスターそのものが映画が好きそうなので、私自身もその設立にわずかながら関わった今池にある名古屋シネマテークについて語り合った(私の店はその同じビルの地下にあった)。
 テオ・アンゲロプロスやホドロフスキーの映画に開眼させられた想い出、開店前に映画を観て、駆け下りて仕込みをした話など・・・・。

             
                  コーブンドーの裏窓から・2

 そうするうちに、その女性も次第に話に参加するところとなり、「じつは私の父もシネマテークの創立以来関わった来たのです」とのこと。えっ、えっ、えっ、・・・・「で、お父さんのお名前は?」「ハイ、Yです」「え?あのYさん?しばらくお目にかかっていませんがお元気ですか?」「・・・・5年前に亡くなりました」。

 Yさんが亡くなった・・・・そしてその娘さんがいま眼前に・・・・ここでジーンとこみ上げるものがあった。目頭が熱くなり、やがてこみ上げるものを抑えきれず、ハンカチで目を覆った。

 Yさんとはとりわけ懇意で何ごとも話し合うというほどではなかったが、それでもシネマテークの他のメンバーに比べると個人的接触が多かったといえる。彼は証券会社のアナリストという市井の仕事をこなしながら、シネアスト運動、シネマテークの運営にも力を入れていて、一時期、シネマテークや私の店と同じビルの5階に部屋を借りていいたこともあって、私の店への来店の度合いも多かった時期があった。

               
             若き日の園子温 ただし、私が逢ったころは下駄履きだった

 とくに思い出深いのは、Yさんの部屋には、当時既に「ぴあフィルムフェスティバル」などではグランプリを獲得するなど知名度は高かったもののメジャーデビューする前の園子温が同居していたことである。その時期、Yさんと園子温はお揃いでよく私の店のカウンターに来てくれた。
 そんな意味でも、その後メジャーデビューし、「愛のむきだし」や「冷たい熱帯魚」「恋の罪」などの傑作をものにし、いまやハリウッドに進出している園子温の今日も、Yさんとの交流なくしては語れないのではとさえ思う。

 中折れ帽に当時は下駄履きであった園子温は、Yさんと共に今池を闊歩していた。その想い出、その前後につながる名古屋シネマテークの思い出、そしてそれに関わってきた私自身と私の店、そこに集ってくれた映画好きの人々、演劇好きの人々、同人誌に集う文学仲間、現代思想を熱く語る面々、それらの人たちの話に接しながら耳学問をしていた私・・・・・・・・。
 それらの想い出が、一瞬、ギュッと詰まって私に迫り、さらなる私の涙を産むのだった。

 いま、自分の老いを嘆いている私だが、私はじゅうぶん恵まれ、幸せだったのだとおもう。チューブを絞れば出てくる想い出の数々、捨ててしまいたいもの、苦くて惨めなもの、忘れてしまいたいもの、それらはもちろんある。しかし、それを上回って今となっては、まさにその時期、そこに居合わせたこと自体の幸運のようなものがじんわりと押し寄せてくるのだった。

             
                ハロウィンの装飾と中央線千種駅のホーム
 
 涙にはカタルシスの作用がある。まさにそんな涙であった。
 そんなシチュエーションを与ええくれたコーブンドーのマスター、そして、Yさんと彼をめぐる他ならぬ私自身の一時期をまざまざと思い起こさせてくれたYさんの娘さんに感謝します。
 VIVA! イマイケ!

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18万個焼いた?・・・・焼きおにぎりと私

2021-05-08 01:45:33 | 想い出を掘り起こす
      
 
 ご飯が少し余ったので、久々に焼きおにぎりを作った。
 久々といって馬鹿にしてはいけない。私ほど焼きおにぎりを焼いた人間は少ないからだ。

 約30年間、炉端風の居酒屋で、しかも私は焼き方をしていたから、店で出す焼きおにぎりはすべて私の手にかかるものだった。
 では30年間にいくつほど焼いたのだろうか。
 
 客席数60ほどの店で、忙しい時は二回転した。
 焼きおにぎりは一人前2個で、一日に10人前は出たから、一日あたり20個で月に500個。年には6,000個。30年で18万個という計算になる。

 焼き方についてない日もあったから、もう少し少ないだろうが、実際に10万個以上は焼いただろう。
 
 なお、普通のおにぎりは米粒の間に空気が残るようにやんわりと握ると食感も良くうまいが、焼き用はやや固く握る。握り方からして違うのだ。
 
 で、久々に作った焼きおにぎりだが、表面は醤油の焦げた味わいもありパリッと仕上がり、内側はしっとりとうまく焼けた。
 
 
 
 
 
 
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ラウルの死とキューバ、そしてわが弁士としての経験

2021-04-19 16:05:06 | 想い出を掘り起こす

【お詫び】下の記事でラウルを殺してしまってすみません。彼は九〇歳ですが、引退したのみでまだ顕在なようです。全くの粗忽でで、ラウルさんごめんね。引退の記事での早とちりです。

 

 キューバ革命を成し遂げたフィデル・カストロ(1926-2016)の実弟、ラウル・カストロ(1931ー2021)が亡くなったという。私のなかでは、何か一つの時代の終わりを思わせる出来ごとである。

         

 キューバ革命が成立した1959年には、私はすでに、ソ連や中国の体制に疑問をもっていたが、このわずか12名のシェラ・マエストラ山のゲリラから出発した革命の成功には、なにか新しい展開が期待できるのではないかと思わせるにじゅうぶんであった。

 当時、愛知県学生自治会連合(県学連=全学連の下部組織)の役員だった私は、キューバ革命のキャンペーン活動ともいえる催しを展開したことがある。1960年か61年だったと思う。
 いまは、百メートル道路となっている箇所にあった旧・名古屋タイムスの講堂で行われたその催しは、二部からなっていた。

         

 その一部は、キューバ革命に関する講演で、講師は当時東大の大学院に所属していた香山健一氏(1933-97)であった。
 彼は、1958年、全学連の第11回大会で、それまで日本共産党の一元支配だった全学連がそれから離反する際の委員長で、その大会は、日本においての大衆的な新左翼運動の黎明を告げるものであった。

 その後香山氏は、学習院大学の教授となり、やはり戦後左翼の論客だった清水幾太郎(私もその急進的なアジテーションを聞いたことがある)と歩みをともにするが、日本における未来学(一時期の影響に終わってしまった)の担い手といわれたことなどもあってその政治的立場を変更し、清水氏ともども自民党政権のアドバイサー的な存在になった。

 話を戻そう。
 香山氏の当日の話は、キューバ革命が起こらざるを得なかった情勢の分析と、それに果敢に関わっていったカストロたちの偉業についての追体験的まとめであった。

 そしてその第二部は、キューバ革命の記録映画であった。タイトルがなんであったか記憶がないので、いろいろ検索してみたが、今となってはこれと特定することはできない。
 モノクロのサイレント映画であった。しかし、これには台本がついていて、誰かがこれを読み上げるといういわゆる弁士付きの無声映画だったのである。それがわかったのは、当日、会場においてであった。

 もってきたのは講師の香山氏であったが、俺は講演で手一杯だから誰か弁士をしてくれとのこと。さぁ・・・・ということになったが、その前年ぐらいまで演劇部に籍があったお前がやれということで私に丸投げされることとなった。たしかに、演劇部に所属はしていたが、演出志望でセリフは口にしていない。ただし、高校時代は主演級で舞台に立っていたのでそれを思い起こし、蛮勇を振るうこととなった。

 とはいえ、ぶっつけ本番のリハーサルなし、映像そのものもその時はじめて見るもの。舞台裾で映像を見ながらなんとか読み進むのだが、誰もキューを出してはくれないから出だしもよくわからず、画像を見ながらこの辺かなというところで語りだす。
 画面とせセリフがずれたり、つっかえたりしたかもしれないが、なんとか最後まで読み終えた。

         

 終わった途端にほとんど満席状態の客席から盛大な拍手が・・・・。ただし、これは私の熱演に対してではなく、映像に描かれたキューバ革命の素晴らしさに対してだった。
 この私はといえば、支障なく台本を読み上げることに夢中だったせいで、その映画の内容すらほとんどわからないという始末だった。
 
 その段階では、ゲバラはまださほど強調されていなかったと思う。彼が注目されたのは、「革命の輸出」のため、革命後のキューバで約束された支配的な地位をなげうって、新しい試みに身を投じてからであったと思う。

 これが、私とキューバ革命の出会いであったが、ラウルの死に直面して、それを懐かしく思い出している。
 ところで、56年のハンガリー事件以来、さらにはソ連邦の第20回共産党大会でのフルシチョフの秘密報告以来、ソ連や中国を中心とした社会主義勢力に疑問をもち続けてきた私だが、キューバ革命に対してはかなり暖かい目を注いできたと思う。

         
 
 アメリカの経済封鎖によって、危機に陥っていた革命キューバ支援のため、1960年代の後半から始まった山本満喜子さん提唱の、“サトウキビ刈り青年隊”も面白い試みと思ってみていた。
 ケネディ時代のキューバ危機などで示されたように、そのキューバもまた、大きな枠組みではソ連圏に属していたが、スターリンが示したような、また中国の文革が引き起こしたような、人びとを過度に抑圧するような大きな悲惨はなかったのではないだろうか。

 経済的には貧しく、1950年代の車がいまなお闊歩するなか、陽気なキューバン・ミュージックが街に溢れているのは、やはり、教育や病気の治療が無料というベーシックなセーフティ・ネットによって共同体が支えられているからかもしれない。

 ただし、私の杞憂かもしれないが、そのキューバにも危機が迫っているように思う。それは他ならぬアメリカとの国交回復、経済封鎖の解除の影響である。これまでは、資本主義的発展から取り残された地点でそれなりに頑張ってきた。しかし、今やグローバルな資本の運動にさらされることとなり、その影響は避けられないのではと思うのだ。

         

 中国などのかつての後進国が、その開放政策によりグローバルな資本戦争のただなかに放り込まれた結果がそうであったように、まずは商品の氾濫と消費社会の一般化、それに当て込んだ生産や流通の起業家の頻出、資本の要請による各種規制緩和とこれまで商品化されなかった福祉関連や医療関連の分野の資本主義的貨幣経済への繰り込み、これらの結果としての貨幣=資本の絶対化などなどが急速に進むのではなかろうか。
 
 これらの帰結のひとつが貧富の差の拡大である。
 それにより、「貧しいながらも最低限は保証されている」ことによる楽天的生活観は、貨幣への限りない欲望にとって代わられるのではないか。それはまた、意識するとせざるとに関わらず、他者との競争を余儀なくされる神経戦の普遍的展開でもある。
 これにより、従来の楽天的態度の継続や、競争社会からの離脱は、ドロップ・アウトした敗者として扱われることとなる。
 経済的強者たちの苛烈な競争戦と弱者たちの救済なき悲惨・・・・。

 これはあくまでも予測に過ぎず(とはいえ歴史的前例をもつものではある)、こればかりは私の悲観的なそれが外れることを願うほかはない。

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野を食す 野蒜(のびる)と食糧難の思い出

2021-04-11 03:00:32 | 想い出を掘り起こす

 田舎育ちのせいで野蒜は子供の頃から知っていた。折から戦後の食糧難、私のような疎開民は食べられるものは何でも口にした。
 そんななか野蒜は、フキノトウやツクシ、セリなどと並んでこの時期の食用野菜として貴重だった。

              
                採ったばかりの野蒜

 なにしろ、あの固くてジャリジャリするスギナまで、ヒジキの代わりとして食べた時代だ(これとは別にオカヒジキという山菜があるが、これはさっぱりとしていてうまい)。なにしろ、有毒という彼岸花の球根すら毒を取り除いて食用にするほどだったのだ。

 話はとぶが、私が居酒屋をやっていた時代、8月15日には特別メニューとしてスイトンを出していた。戦時の代用食の代表格を提供し、往時を偲んでもらうためだった。
 しかし、これは逆効果だった。若い人から、「戦中、戦後にこんなうまいものを食っていたなんて・・・・」という反応があったからだ。

             
                 シンクに入れて洗う

 そりゃあそうだろう。板場が、カツオ出汁を効かせた汁に、小松菜などをあしらい、メリケン粉のなめらかな落し団子とカマボコの一切れぐらいを添えているのだから。
 戦中、戦後のそれは、味付けはほとんど塩だけ、あるいは醤油か味噌だけ、具はクズ野菜、そして落とし団子はふすま粉混じりのザラザラ、パサパサした食感。
 ふすま粉を手に入れれば再現可能だが、飲食店としてあからさまに不味いものを提供するわけにはゆかないではないか。

 野蒜に話を戻そう。うちの近くの田ののり面に群生しているところがあり、容易に採れる。ただしもう、時期が遅かったかもしれない。
 球根も茎も葉も、湯がいてヌタにできるが、茎も葉ももう硬そうだ。よく湯がかねばなるまい。それでも茎の太いのは、葉先以外は硬そうだから天ぷらにしようと思う。球根のみを生味噌という手もある。ピリッと辛くて酒が進む。

         
                  掃除が終わった

 この国は老人が暮らすには厳しい。年金は年々数字的にも実質的にも目減りし、私の場合は僅かな厚生年金と国民年金とで、合わせて月8万ほどだ。
 その意味で、野にあるものを食すのは生活防衛でもある。足腰が立つ間は、せっせと野の恵みをかき集めようと思う。
 そのうちに、彼岸花の球根の解毒法を学ばねばなるまい。
 

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80年前のおうち 蘇るわが幼年期

2021-04-05 23:52:03 | 想い出を掘り起こす

 生母の死やその他いろいろあって養父や養母のところへもらわれてきたのが80年前、私が2歳の頃のことであった。その折、やってきた「家」で私はいわゆるものごころがつき、それ以来の記憶は曖昧で色褪せつつあるものの、それを保って現在に至っている。

 その「家」で養父は材木業を営んでいた。しかし、戦争による徴用や招集による入隊のため、15の歳からの丁稚奉公の結果としてやっともつことができたその店を畳まざるを得なくなった。1944年夏のこと、出征先は満州であった。
 同時に、本土空襲が始まり、残された母と私は母方の在所へ疎開しその「家」を離れた。私が5歳の折りだった。

           
          戦前、2歳から5歳まで、私が住んでいた「家」

 その疎開先でやはり空襲に遭い、半焼という目にあったのだが、疎開前の家はというと、周辺まで火の手は迫ったものの、無事に残っていた。疎開から戻ったのは戦後5年もしてからだが、その「家」にはもう戻らなかった。借家借地だったのだ。

 10年ほど前に確認した折、まだその「家」は残っていたが、その後の確認はしていなかった。そして先般、用があってその近辺へでかけた折、少し遠回りをして見に行ったら、なんとまだ現役のまま存在していた。扉や窓はサッシに変えられていたが、全体の面影は往時のままだった。
 「家」の横には、往時、父の売り物だった木材の丸太や製材にかけたものを置く用地があったが、それもそのまま空き地で、駐車場の看板が立っていた。

           
     「家」の横の空き地 ここにはかつて材木商の売り物が置かれていた

 車を止めて小雨のなかしばし写真を撮ったりしていた。
 おそらく、築85年以上になるであろう。外から見た限りでは、建物に損傷や揺るぎはないようだから、おそらく築100年まではもつだろう。
 そして、私のほうが先に逝くことになるだろう。

           
           現住人のこんなかわいい郵便受けが・・・・

 先に、少しばかり同人誌にも書いたが、ここで過ごした幼年期の想い出もいろいろある。
 幼年期の自分の姿を自分で想像することは困難だが、そこに立つと、年上の子たちに引き回されていたついて回りの幼い自分の姿がじんわり浮かんでくるようで、少しうるっときそうになった。

場所が特定されると、現在お住まいの方に迷惑が及ぶことを恐れ、地名などには触れないことにしました。


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今池の想い出がまた一つ・・・・「壺」=「芦」との別れの夜

2021-03-14 16:29:01 | 想い出を掘り起こす

 広い意味での今池エリアの中にかつて「壺」という居酒屋があった。
 私が初めて訪れたのは、サラリーマン時代の後期、1960年代の後半だった。きっかけは、今はなき同級生の須藤氏から、「少し後輩でまだ現役の学生、堀田君が面白い店でバイトをしているから行ってみよう」と誘われたからだった。

 まずは、店主のママさんが個性的で面白い人だった。竹を割ったようなというかとにかく芯がすっと通ったような性格で、歯に衣を着せず、時折、客を叱り飛ばすような豪快な人だった。その「極妻」顔負けの啖呵は爽快で、その辺の三下などが萎縮するほどであった。
 そんな彼女であったが、実は繊細で折れやすい一面をもっていることを知ったのは後年のことだが、これの詳細は書くまい。

         

 客層も私などより一世代若い、いわば全共闘時代の人たちが多く、私のような六〇年の敗残組に新たな刺激を与えてくれるような活気があった。
 その中には数年前に他界した予備校K塾の名物講師、牧野氏(ああ、彼はその折、頭髪も黒々とし、学生服に身を包んだ現役の学生だった)などもいた。彼を始め、私より一世代若い友人たちとの交流は、この店の存在に負うことが多い。

 やがて、私自身がサラリーマンからも脱落し、今池の街で居酒屋をもつことになって、いわば同業になったのだが、交流は続いた。客のうちのどれほどかは、両方の店を行き来してくれるようになった。私の店が午前二時まで営業していた事もあって、ママをはじめ、飲み足りない客の面々がきてくれた。

 かと思うと、ママから電話がかかってきて、「立派な鯛の頭をもらったがどう調理していいかわからん。お前、ちょっときて手伝え」などといってきたりした。板場にあらましのレクチャーをもらい、出刃包丁を持って駆けつけ、もっていった大根共々、なんとかそれらしいあら炊きを作って、主客混合で飲んだりもした。

         

 その豪快なママが、癌に倒れたのは八〇年代の終わりだったろうか。野外の寺の境内で行われたその葬儀にも出て、上記に書いたK塾の牧野氏が弔事を読むのを聴きながら、何処からともなく金木犀の香りが漂ってくるのを感じ、しばし忘我の境地になったことは覚えているから10月のことだと思う。それなのに、その年が何年だったか想起できないのは私の記憶能力の劣化のせいだろう。

 ママが倒れてからも店は続いた。というのは常連たちが、このまま自分たちの居場所を失うのは辛い、なんとかみなで協力しあって店を維持したいということになったからだ。牧野氏はもちろんその中心だったが、これには前記の須藤氏や私も一枚噛んでいた。
 その息女や常連だった若い女性とママ候補はいて、実際にそのもとで営業を始めたりしたのだが、どうもスッキリしない。

 しばらくガタついていたが、やがて、開店以来の常連で、私よりやや年上のお姉さん、小芦さんが引き受けることとなって落ち着いた。私もこの小芦さんが適任だと思った。
 小芦さんとは、半世紀以上前の壺で、カウンターで肩を並べて飲んでいた仲である。
 これはあくまでも男性目線だが、前のママが「おっかぁ」という感じだったのに対し、小芦さんは「かあさん」というイメージだと思う。もちろん、二人とも、芯は一本通っていた。

         

 そうしてバトンタッチされた店だったが、既にその折ある程度の年令に達していた彼女のことも考え、土曜日一日のみの開店という変則的な運営になった。しかし、この方式は成功したようで、土曜日にそこへゆけば誰か彼か懐かしい顔ぶれに逢えるというある種の定点の役割を果たしたのだった。
 小芦さんはそうした人々をつなぐ貴重な役割を果たしてくれた。

 その後、火事騒ぎがあったりし(火元はこの店ではない)、大家の改築等の方針に、この建屋そのものを撤収することになってすぐ近くに引っ越すのだが、それを機会に「壺」を改め「芦」を名乗るようになった。小芦さんの一文字からである。
 これは無理からぬことで、かつてのママ時代からすでにして小芦さんの時代のほうがはるかに長くなっていた。

 そのうちに、私は自分の店を畳み、岐阜へと引っ込むことになった。しかし、学生時代や店で培った人脈は名古屋のほうが遥かに多く、月の内数回は名古屋に出るような生活の中、土曜日に当たる日は、この芦に立ち寄り、古くからの友人(といってもほとんど私より若い人たちだが)との旧交を温める機会としていた。

 その芦が、この三月末でいよいよ閉めることとなり、13日、久々に名古屋シネマテークで映画を観たあと、立ち寄ることにした。シネマテークを出る折に声をかけられたのだが、それがこの館の責任者、倉本氏で、じゃあ、一緒に行こうということなった。

         
 
 入り口で、C大学を定年した松林氏と出会い、中へ入るとやはり常連で一昨年、レコードやCDの音楽媒体の店「ピーカンファッジ」を閉店した元店主の張氏がいて、つい先般亡くなった共通の友人満福寿司の田中氏を惜しむ挨拶を交わした。
 やがて、名大工学部教授の黒田氏やかつてのロックの聖地、ライブハウス「ハックフィン」の元経営者、晶子さん夫妻が登場し、さらには、仕事を終えて駆けつけたウニタ書房の林氏とも逢うことができた。

 こうした人たちと同席していると、私もまた現役今池人に戻った気がするから不思議だ。
 後ろ髪を引かれる思いだったが、自分の年齢と、これから岐阜まで帰らねばならないということを思い合わせ、芦をあとにした。
 帰り際に、小芦さんとがっちり握手をして、今度はまた半世紀前のように、カウンターのこちら側で肩を並べて飲みましょうと別れた。
 そして若い人たちに、この店がなくなっても、ここへ行けばこのメンバーたちに逢えるようないい店を見つけてくれと懇願したのだった。

 店を訪れたのは春宵といってよかったが、外へ出ると、一層闇が深く、ブルブルッと身震いをして、急ぎ足で駅へと向かった。
 そして、自分が店を閉めた夜のことを思った。

以下は、「壺」時代、牧野剛氏との思い出を記したブログです。
 https://blog.goo.ne.jp/rokumonsendesu/d/20180620

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金馬ならぬ金歯と名古屋シネマテークのはなし

2021-02-22 17:39:30 | 想い出を掘り起こす

 ラジオで落語を聴き始めたのは小学校の高学年の頃からだろうか。今から70年も前のことだ。
 5代目古今亭志ん生、8代目林家正蔵、6代目春風亭柳橋、6代目三遊亭圓生などを記憶している。みんな明治時代の生まれだ。

          

 そんななかに3代目三遊亭金馬がいた。やはり明治の生まれだ。とても歯切れのいい噺家で、それもそのはず講釈師の流れを汲んでいた。志ん生の朦朧体のような柔軟さはなく、そのせいで落語にしては堅いといわれたりもしたが、その端正な噺は好きだった。
 「孝行糖、孝行糖の本来は、チャンチキチ、スチャラカチャン・・・・」と彼の語った『孝行糖』の一節はいまもふとした折に脳裏に浮かぶことがある。
 
 と、前置きは長くなったが、ここで述べようとするのはその金馬のことではなく金歯の方についてである。
 今はあまり見かけないので廃れた風習かと思ったが、そうでもないらしい。
 「金歯は、金属アレルギーが起きにくく、歯との密着性が高いために、虫歯の再発を防いでくれるというメリットがあります。 また、柔らかいので加工もしやすく、噛み合わせの良さはとても優れていると言えるでしょう。」と、歯科医のHPにあった。
 と同時に、富の象徴であったかもしれない。さすがに最近はあまり見かけないが、かつては前歯をピカピカに光らせた人がいたものだ。

 そうした富裕層とは関わりのない私だが、一度だけ、金の被せものをしたことがある。もう40年以上も前、名古屋は今池で居酒屋をやっていた頃のことである。
 奥歯がズキズキ痛み始め、虫歯であることは素人判断でも明らか。ちょうど、私の入居していた雑居ビルの2階にかなり大きな歯科医があり、そこで治療をした。
 通うのに便利なのと、そこには歯科技工士を含め10近いスタッフがいて、そのうちの誰か彼かが、時には全員が来店してくれて、いわば常連の大得意さんだったのだ。

          

 治療は懇切丁寧であった。傷んだところを削り、いよいよ詰め物をする段階になった。私はそれまで通り、保険の適用が効くアマルガム*で済まそうと思っていた。そんな折、常連中の常連でほとんど毎日カウンターに来てくれる女性の看護師さんが、私の耳許で囁いた。
 「金歯がいいですよ。長持ちしますし、それだけの価値はあります」

 金歯は保険適用外だ。ウッと一瞬の戸惑いもあったが、次の瞬間、「ア、そうですか。じゃ、それでお願いします」と答えていた。彼女の魅力もさることながら、その歯科医全体の常連度合いから考え、ここは先行投資だと計算したのだった。

 かくして、生まれてはじめての金の詰め物が私の口腔に収まることとなった。
 計算通り、歯科医はその後も私の店の常連であり続けた。当時の価格で3万5千円ほどの出費だったが、それはじゅうぶん回収できたと思う。

 ここでその金馬、いや金歯のその後の運命について語らねばなるまい。
 タコを食べていたあるとき、口腔中に違和感を覚えた。ン?なんだかおかしい。舌先であちこちを探索する。ナイッ、ないのだ、あの金歯が!そうあの金歯はタコと一緒に胃袋へと収まってしまったのだった。

 こうなれば出口から回収する以外にない。それも真剣に考えた。しかし、回収するにしてもそんなに容易ではない。また、運良く回収しえても、それを洗浄して再び戻すのもなんだかいじましい気がした。
 一切れ、3万5千円のタコを食ったと思って諦めた。

 それからだいぶ経った頃、その歯科医は院長の実家である岐阜の東濃地方へ移転した。どうやら先代が引退して地元の医院を継ぐことになったようだ。
 歯科医が去った二階の空間は、同じ頃潰れたかなんかして空き家になった隣の不動産屋共々、ガランとした空間をなしていた。

              

 大家はいろいろ手を回したようだがなかなか埋まらなかった。あるとき、その大家が私相手に、どこかいいとこないですかねと呟いた。
 私には、実現にはいろいろ困難がありそうだがひとつのアイディアがあった。ダメ元でそれをぶつけてみた。

 私の念頭にあったのは、当時、やはり私の店へよく来てくれた名画の巡回上映をしている名古屋シネアストというグループのことであった。いわゆる商業映画に妥協することなく、映画愛好家のためにセレクトされた映画を志向する彼らの活動は、経済的にはまったく恵まれず、代表者の倉本氏の別の場所での稼ぎによってかろうじて支えられている状況だった。

 あるとき、その倉本氏に、そこまでして活動を続けるエネルギーは何かを尋ねた。彼は即座に、「常設の館をもちたいのだ」と答えた。彼らの夢に感動したが、私が手を貸せることはあるまいと自分の非力を思った。

 そんな折、上記のように大家からの話があったのだ。
 シネアストの話をし、彼らは金はないよ、ある時払いの催促なしでいいなら入れてほしい、彼らの誠実さは保証すると切り出した。
 私の切り札は、私の入っていたそのビル、今池スタービルが、かつての今池スター劇場という映画館であり、大家はその他にも映画館を経営していて、いわば映画で財を成した人だったということだ。

 私の殺し文句。
 「あなたも映画で財を成したのなら、このビルの一角に映画の匂いがする空間があるのも象徴的でいいのでは・・・・」

           

 大家はそれを受けてくれた。
 こうして、1982年、名古屋での名画座系ミニシアターの草分けともいえる名古屋シネマテークが誕生した。
 たまたま二つの要求の接点にいたための実現したことだが、私にとっても幸運であった。
 この映画館のおかげで、映画を観る機会が増えた。夜の仕事だったから昼間に観て、終わったら駆け下りて仕事をするような日もかなりあった。

 居酒屋をやめてから随分になるが、その後もシネマテークにはお世話になっている。昨年からのコロナ禍で思うに任せないが、落ち着いたらまた行きたいと思っている。

 さて、これで金馬とは繋がらないものの、金歯の方とは話が繋がったのではないだろうか。
 
 なお、アマルガムによる治療は、逆に2016年4月の歯科診療報酬改定で保険治療から外されたという。アマルガムに含まれる水銀が人体に悪影響を及ぼす可能性があることが認められたためらしい。

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わが青春の街の思い出 名古屋、栄・矢場町界隈

2020-10-20 16:34:00 | 想い出を掘り起こす

 名古屋栄の交差点付近は、かつて名古屋の押しも押されぬ中心であった。最近でこそ、名古屋駅界隈に押され気味だが、それでもなお、その賑わいは相当なものである。
 駅前界隈が、戦前から敗戦後の諸建造物がほぼ一新され、新しい街に生まれ変わり、かえって再開発の余地が少なくなったのに対し、栄はこれからその更新が始まるということで、さまざまなプロジェクトが進められようとしている。

 しかし、それらへの関心はあまりない。この界隈での関心の拠り所としては、一挙に半世紀以上前の、私がまだ紅顔の美青年(厚顔の媚青年?)だった学生時代へと回帰するのが常だ。

                   松坂屋美術館、南廊下のステンドグラス

 栄交差点の南西へ少し入った通称「証券ガード」付近の音楽喫茶「琥珀」で、ショスタコの「五番」やチャイコン(チャイコフスキーの「P協奏曲」)、それにメンコン(メンデルスゾーンの「V協奏曲」)などをしかめっ面をして聴いたりしたかと思うと、そのすぐ前にあった、まだチェーン展開しない前の「寿がきや」で、ラーメンをすすり、世の中にこんなうまいものがあるのだろうかと思いっきり世俗的な食の世界に浸ったりしたものだ。

 ちなみに、当時の名古屋には珍しかったこの店の豚骨系のスープをめぐり、「寿がきやは蛇のダシを使っている」という噂があったりもした。むろん蛇だろうがマムシだろうがうまけりゃいいというのが基本で、だいたい、琥珀へいって寿がきやへ行けるなんてバイトの金が入ったあとぐらいで、ふだんは、腹さえ膨れればと、学食でラーメンライスを食っていたのだから。

 その前の50年代の中頃なんか、一家4人で店屋物のラーメンを一杯とって、それを分け合っておかずにしていたくらいだった。

       

 食いものの話はどんどん逸れてゆく。当時の街の様子に戻ろう。
 琥珀や寿がきやとさして遠くない、いまのスカイルビルがある辺りに、松本書店という古書店があった。そこを皮切りに、南大津通の西側に沿って転々と古書店があった。そこを辿ってゆくと、上前津の交差に至るのだが、その交差点近辺には四隅に数点の古書店があり、さらにそこで折れて、今の大須通(かつては岩井通といってたような)を東へ進むと鶴舞公園に至る間に数店の古書店があり、都合3キロ余のうちに十数軒の古書店があった。

 これを物色して歩くのはほぼ一日仕事だったが、しばしばそれを行った。具体的に特定の書などを捜すこともあったが、その場合ですら、それにとらわれずいろいろな棚を見て歩き、未知の領野の膨大さに圧倒されたものである。
 栄からのスタート地点では、文系の書が圧倒的だったが、鶴舞に近づくにつれ、理系の書が多くなっていたように思う。鶴舞の近くには名古屋大学の医学部と、名古屋工業大学があったせいだろう。

       
  矢場町角には古くからのハンコ屋さんが ハンコ屋いじめて行政改革でもあるまい
       

 今回は、それを懐かしみながら、栄から上前津までの間を歩いた。南大津通筋の古書店は全て消えていたが、上前津にはまだ4店舗が残っていた。

 写真はその途中の矢場町付近のものである。
 
 実はこの栄のエリア、もう一つ消すことができない思い出がある。ちょうど60年前、いわゆる60年安保の頃、学生だった私はほぼ連日のデモに参加していた。
 デモは、今度リニューアルオープンしたTV塔下広場から北上して、自民党愛知県連へ行くことが多かったが、当時まだ工事中だった百米通りの矢場町付近を解散点にすることもあった。
 6月15日の夜、国会南門付近での樺美智子さんの死を知ったのもこの矢場町に近いところでだった。それへの抗議と追悼のデモを行ったのも南大津通だった。

 私にとって、今でも名古屋の中心は栄であるし、生活圏として懐かしいのは千種区の今池である。

 

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