過日、多少ではあれ朝方には雪が地表を覆い、終日、ときにはちらほら、ときにはしんしんと降りつのる日、物好きにも名古屋の東山動物園へと出かけました。
子供が小さい折に来て以来ですから、もうズーッ(ここんところ洒落ですから気をつけるように!)と来たことがありません。それでもここかしこにかつての面影が残っています。
時間の制約もあったのですが、それでも一通り見て回りました。
ただし、南方系の動物は寒いせいもあって獣舎から出ていないものも多くいました。
獣舎のなかから見ることができるものもいるのですが、やはり動物を部屋の中で見たのでは何となく場違いで興が削がれます。
ペンギンたちは元気でしたが、皇帝ペンギンは一羽はこちらむき、一羽は向こう向きと気の合わない漫才コンビのように立ちつくしていました。やはり皇帝ともなると、ほかのペンギンのようにチョコマカとはしないのでしょうか。
数年前、そのものずばり『皇帝ペンギン』という記録映画(2005 フランス)を見たことを思い出しました。
-40度のなかで群が集団を作り子供を育てる様子はとても感動的でした。
それに比べるとここのペンギンは……う~ん、どちらが幸せとはやはりいえませんね。
コアラというものも見ましたがガラス越しの遠目では、何だかのろまで怠惰な感じしかしません。そのせいか、来た当時にはあれほど騒がれたのに、立ち止まってじっくり見る人も少ないようです。
「おかあさん、コアラってどこにいるの?」
「ホラ、あの木の葉の陰にいるでしょう。ね、可愛いでしょう」
「だって、動かないんだもの、つまんないや」
子供は正直です。コアラ=可愛いというお母さんのような既成観念はインプットされていないのです。
フラミンゴがきれいでした。紅色フラミンゴというのでしょうか、冬色の池のなかで、それがいる周辺はパッと輝いていました。
ペリカンのつがいが、寄り添ってひなたぼっこをし、時折、愛を交わすかのように嘴をこすり合わせていました。あれってやはりキッスなのでしょうか。
キリンは獣舎から運動場へ出る付近に二頭いたのですが、なかなか出てきません。
時折ふっと首を明るいところへ出すので、それを巧くとらえるといい写真になるのでしょうが、どうもタイミングが合いません。
カメラマンたちが数人、大きな望遠レンズを凝視してその瞬間を狙っています。
私は諦めてその場を去りました。
なんにもいないところへ来ました。見物人もいません。カバって書いてあるんですが、やはり寒いから出てこないんだと思って通り過ぎようとしたら、洞穴のようなところからのっそりと現れました。
巨体のくせに、小さな耳をピロピロピロと動かす仕草に愛嬌があります。のっそりと運動場を一回りし、私の近くへもサービスで立ち寄ってくれてから、また獣舎へ戻って行きました。
出入り口の付近に、動物の縫いぐるみを売っている売店があります。
男の子がライオンの縫いぐるみを欲しがっています。3,990円です。
お母さんは買い渋っています。
当然でしょう。
入園料は大人500円、子供は無料。だからこそ値打ちに遊べるところへ連れてきたのに、ここで約4,000円を払ったら元も子もありません。4,000円あったら何日分の食費になるだろうか、お母さんはそう考えるはずです。
このやりとりの結末は見届けませんでした。
子供も可哀想ですが、お母さんも大変です。
ちなみに入園料は、上に書いた通りですが、65歳以上で名古屋在住の人は100円だそうです。
私は名古屋在住ではないのですが、入場料は400円でした。名古屋市交通局の「ドニチエコきっぷ」(600円)なるものを利用したからです。
この切符は一日間、地下鉄、市バス乗り放題で、おまけに市の施設は割引が適用されます。
この日の私の足取りを計算してみましょう。
名古屋ー覚王山 230円 覚王山ー本山 200円 動物園割引 100円
東山公園ー伏見 260円 伏見ー名古屋 200円 合計 990円
ということになります。
名古屋で一日あちこちへ行く人にはお値打ちです。私のような老人でなくとも誰でもOKです。ただし、土曜、日曜だけですよ。
ほんとうはこの日の道程のなかで、とても深刻な問題も見聞したのですが、これはまた雑誌にでも書きます。
とりあえずは、童心に帰った面だけを…。
え? 古稀を過ぎたら童心ではなく単なるボケだろうって?
う~ん、ライオンの間近で口をアングリ開けてみていたのは確かだけど…。
*動物の写真ははじめてです。ちょっとまともすぎて遊びがないですね。
子供が小さい折に来て以来ですから、もうズーッ(ここんところ洒落ですから気をつけるように!)と来たことがありません。それでもここかしこにかつての面影が残っています。
時間の制約もあったのですが、それでも一通り見て回りました。
ただし、南方系の動物は寒いせいもあって獣舎から出ていないものも多くいました。
獣舎のなかから見ることができるものもいるのですが、やはり動物を部屋の中で見たのでは何となく場違いで興が削がれます。
ペンギンたちは元気でしたが、皇帝ペンギンは一羽はこちらむき、一羽は向こう向きと気の合わない漫才コンビのように立ちつくしていました。やはり皇帝ともなると、ほかのペンギンのようにチョコマカとはしないのでしょうか。
数年前、そのものずばり『皇帝ペンギン』という記録映画(2005 フランス)を見たことを思い出しました。
-40度のなかで群が集団を作り子供を育てる様子はとても感動的でした。
それに比べるとここのペンギンは……う~ん、どちらが幸せとはやはりいえませんね。
コアラというものも見ましたがガラス越しの遠目では、何だかのろまで怠惰な感じしかしません。そのせいか、来た当時にはあれほど騒がれたのに、立ち止まってじっくり見る人も少ないようです。
「おかあさん、コアラってどこにいるの?」
「ホラ、あの木の葉の陰にいるでしょう。ね、可愛いでしょう」
「だって、動かないんだもの、つまんないや」
子供は正直です。コアラ=可愛いというお母さんのような既成観念はインプットされていないのです。
フラミンゴがきれいでした。紅色フラミンゴというのでしょうか、冬色の池のなかで、それがいる周辺はパッと輝いていました。
ペリカンのつがいが、寄り添ってひなたぼっこをし、時折、愛を交わすかのように嘴をこすり合わせていました。あれってやはりキッスなのでしょうか。
キリンは獣舎から運動場へ出る付近に二頭いたのですが、なかなか出てきません。
時折ふっと首を明るいところへ出すので、それを巧くとらえるといい写真になるのでしょうが、どうもタイミングが合いません。
カメラマンたちが数人、大きな望遠レンズを凝視してその瞬間を狙っています。
私は諦めてその場を去りました。
なんにもいないところへ来ました。見物人もいません。カバって書いてあるんですが、やはり寒いから出てこないんだと思って通り過ぎようとしたら、洞穴のようなところからのっそりと現れました。
巨体のくせに、小さな耳をピロピロピロと動かす仕草に愛嬌があります。のっそりと運動場を一回りし、私の近くへもサービスで立ち寄ってくれてから、また獣舎へ戻って行きました。
出入り口の付近に、動物の縫いぐるみを売っている売店があります。
男の子がライオンの縫いぐるみを欲しがっています。3,990円です。
お母さんは買い渋っています。
当然でしょう。
入園料は大人500円、子供は無料。だからこそ値打ちに遊べるところへ連れてきたのに、ここで約4,000円を払ったら元も子もありません。4,000円あったら何日分の食費になるだろうか、お母さんはそう考えるはずです。
このやりとりの結末は見届けませんでした。
子供も可哀想ですが、お母さんも大変です。
ちなみに入園料は、上に書いた通りですが、65歳以上で名古屋在住の人は100円だそうです。
私は名古屋在住ではないのですが、入場料は400円でした。名古屋市交通局の「ドニチエコきっぷ」(600円)なるものを利用したからです。
この切符は一日間、地下鉄、市バス乗り放題で、おまけに市の施設は割引が適用されます。
この日の私の足取りを計算してみましょう。
名古屋ー覚王山 230円 覚王山ー本山 200円 動物園割引 100円
東山公園ー伏見 260円 伏見ー名古屋 200円 合計 990円
ということになります。
名古屋で一日あちこちへ行く人にはお値打ちです。私のような老人でなくとも誰でもOKです。ただし、土曜、日曜だけですよ。
ほんとうはこの日の道程のなかで、とても深刻な問題も見聞したのですが、これはまた雑誌にでも書きます。
とりあえずは、童心に帰った面だけを…。
え? 古稀を過ぎたら童心ではなく単なるボケだろうって?
う~ん、ライオンの間近で口をアングリ開けてみていたのは確かだけど…。
*動物の写真ははじめてです。ちょっとまともすぎて遊びがないですね。
12日、土曜日のことです。
大人のクラブ活動で北陸の海と三方五湖を訪れました。
終始どんよりとした雲に覆われ、時折北陸特有の雨がぱらぱらと降りかかるコンディションで、とてもきれいな写真は撮れませんでしたが、一応絵日記のつもりでアルバムを以下に載せてみました。
お暇でしたらご笑覧ください。
大人のクラブ活動で北陸の海と三方五湖を訪れました。
終始どんよりとした雲に覆われ、時折北陸特有の雨がぱらぱらと降りかかるコンディションで、とてもきれいな写真は撮れませんでしたが、一応絵日記のつもりでアルバムを以下に載せてみました。
お暇でしたらご笑覧ください。
過日、秋晴れの一日、親しい人たちと三河湾の吉良吉田に遊びました。
ここは善政の誉れ高い吉良上野介の領地であり、荒神山で散った吉良の仁吉の出身地であり、作家、尾崎士郎の出身地であると共にその主著、「人生劇場」の舞台でもあります。
でも今回の遠足は、それらを頭の隅にちらっと置きながらも、時間の関係もあり、ひたすら食べ、近くの海に遊んだのでした。
それぞれがガキ大将とお転婆さんに返って、食べ、しゃべり、潮の香を満喫する遠足でした。
あまり書くことはありません。むしろ写真が当日の有様を表しています。
ということで、アルバム形式で・・・。
到着したリゾート施設でいきなりベッドイン・・・ではなくここが控え室
フロントから臨む静かな吉良吉田の海
*以下はランチタイム風景
さあ、海へ!
最初に海へ着いた二人
「あ、アメリカが見える!」「違うわよ、あれはオーストラリア!」
勢揃い・1
勢揃い・2 「あ、クジラが飛んでる!」「ほんとだ、写真撮らなくっちゃあ」
ここで一句 「秋の海やはりひねもすのたりだぎゃぁ」
海との別れに名残を惜しむ
小島 その向こうは渥美半島
送迎バスで帰途に 地元のKさんとはここでお別れ いつまでも手を振ってくれた
ここは善政の誉れ高い吉良上野介の領地であり、荒神山で散った吉良の仁吉の出身地であり、作家、尾崎士郎の出身地であると共にその主著、「人生劇場」の舞台でもあります。
でも今回の遠足は、それらを頭の隅にちらっと置きながらも、時間の関係もあり、ひたすら食べ、近くの海に遊んだのでした。
それぞれがガキ大将とお転婆さんに返って、食べ、しゃべり、潮の香を満喫する遠足でした。
あまり書くことはありません。むしろ写真が当日の有様を表しています。
ということで、アルバム形式で・・・。
到着したリゾート施設でいきなりベッドイン・・・ではなくここが控え室
フロントから臨む静かな吉良吉田の海
*以下はランチタイム風景
さあ、海へ!
最初に海へ着いた二人
「あ、アメリカが見える!」「違うわよ、あれはオーストラリア!」
勢揃い・1
勢揃い・2 「あ、クジラが飛んでる!」「ほんとだ、写真撮らなくっちゃあ」
ここで一句 「秋の海やはりひねもすのたりだぎゃぁ」
海との別れに名残を惜しむ
小島 その向こうは渥美半島
送迎バスで帰途に 地元のKさんとはここでお別れ いつまでも手を振ってくれた
一夕、長良川に遊びました。
といっても鵜飼い見物ではありません。
久々に合う旧知の仲間との会合だったのです。
緑滴る金華山 水清冽の長良川
ゴムボートで遊ぶ人
河合塾の牧野剛氏、先般、光文社から『「女」が邪魔をする』を出版したばかりの大野左紀子さん、かつて今池のロックの牙城「ハックフィン」のオーナーだった昌子さん、その他、内藤医師父子、設計士、女性の大工さんなどなど多士済々で話は尽きるところはありませんでした。
出番を待つ鵜船
この弓状のところにかがり火が吊される
■以下は、準備や打ち合わせをするスタッフたち
おかげで川沿いの鵜飼いが見える座敷に陣取っていたにもかかわらず、ほとんど鵜飼いを見ることはありませんでした。
話の後は柳ヶ瀬近くへ繰り出しての二次会。そこでも話が弾んで、年甲斐もなく午前様、しかも中途半端ではない時間。とても正確な時間は書けません。
鵜の真似をするカラス
屋形船に料理を運ぶ人
「篝火丸」は準備完了
鵜飼いは見なかったといいましたが、会場のお店に行く道すがらその準備の過程は(といっても、屋形船のそれですが)しっかり目撃し写真に収めました。
湿度は低かったせいもあって、川面を渡る風が心地よく、幼なじみの金華山と長良川が爽やかに出迎えてくれました。
集まりがあったお店です
この日、私の出身校が甲子園で一勝を挙げました。
といっても鵜飼い見物ではありません。
久々に合う旧知の仲間との会合だったのです。
緑滴る金華山 水清冽の長良川
ゴムボートで遊ぶ人
河合塾の牧野剛氏、先般、光文社から『「女」が邪魔をする』を出版したばかりの大野左紀子さん、かつて今池のロックの牙城「ハックフィン」のオーナーだった昌子さん、その他、内藤医師父子、設計士、女性の大工さんなどなど多士済々で話は尽きるところはありませんでした。
出番を待つ鵜船
この弓状のところにかがり火が吊される
■以下は、準備や打ち合わせをするスタッフたち
おかげで川沿いの鵜飼いが見える座敷に陣取っていたにもかかわらず、ほとんど鵜飼いを見ることはありませんでした。
話の後は柳ヶ瀬近くへ繰り出しての二次会。そこでも話が弾んで、年甲斐もなく午前様、しかも中途半端ではない時間。とても正確な時間は書けません。
鵜の真似をするカラス
屋形船に料理を運ぶ人
「篝火丸」は準備完了
鵜飼いは見なかったといいましたが、会場のお店に行く道すがらその準備の過程は(といっても、屋形船のそれですが)しっかり目撃し写真に収めました。
湿度は低かったせいもあって、川面を渡る風が心地よく、幼なじみの金華山と長良川が爽やかに出迎えてくれました。
集まりがあったお店です
この日、私の出身校が甲子園で一勝を挙げました。
黄昏(たそがれ)時は人恋しいというが本当でしょうか。
黄昏時に限らず、四六時中人恋しいと思っている私ですが、それはそれで何となく分かる気がします。
おそらくはその時刻に関連するのでしょう。
一日が終わろうとするとき、それは様々な絆から解き放たれてひとりに返るときで、現世との仮の離別でもあります。これからの夜に向かってひとりであること、それは幾分センチメンタルな寂寞感を誘う絶好の機会でもあります。夕陽や長くなった影の演出、それらは寂寞感に過剰な彩りを添えます。
黄昏行く名古屋テレビ塔
黄昏の語源は、薄暗くなって人の見分けがつき難くなるところから、「誰そ彼(たそかれ)」→黄昏(たそがれ)になったといいます。これは知っていたのですが、確認しているうちに新しい発見をしました。とはいえ、知っている人はとっくに知っているようなことでしょうが。
それは、黄昏の反対語、明け方の表現で、「かはたれ」というのだそうです。そしてその語源は「彼は誰(かはたれ)」から来ているというのです。これもまた、人の見分けが難しいことから来ていますね。
黄昏の伊吹山 手前に光るのは長良川
ところで私の好きな黄昏時は、こうした人の見分けがつかなくなる少し手前、さあ、黄昏が始まるぞという時なのです。ようするに、まだ色彩も残っていてある程度の見分けもつくが、やがてそれが決定的に闇に溶け込むための前奏曲、その時間帯が好きなのです。これは好悪の問題ですから論理的には説明できません。
敢えていうなら、変化への期待と不安、それは不可避なのだけど一度身構えてからしか受容できないそうした自己への固執のようなもの、何か抽象的でよく分かりませんね。だから論理的には説明できないといったでしょう。
家路を急ぐ人々
これらはものごとの移行時、変化時に伴う感傷なのでしょう。一般的な無常観もこれに近いかも知れません。しかし同時にそれは、移ろい行くものへと寄り添う心情をも表していないでしょうか。
こうしたものごとの変転移行の時期、もっとマクロにいえば歴史の変換時に、人々の感覚や感傷も研ぎ澄まされるようです。そうした時期には多くの芸術家たちがそれを糧として然るべき作品をものにしています。
あ、黄昏についての考察からは随分の飛躍ですね。
黄昏の飛行機雲
私のいいたかったことは、黄昏に心うずくのはある意味では感傷に過ぎないけれど、変化や移ろいゆくものへの共振といった面を持ち合わせてはいないだろうかということです。
そうだとすれば、黄昏は「誰そ彼(たそかれ)」や「彼は誰(かはたれ)」を経由して新しい光のもとへと自己を指し示す通過点にしてその予兆であるのかも知れないと思うのです。
移ろうことを恐れず、真昼の陽光に向かって「ヤー」と叫ぶかの哲学者に思いを馳せています。
黄昏のレストラン
人生の終焉近くをやはり黄昏時ともいうようですが、私の場合はまだそうではありません。まだいろいろなものがはっきり見えています。いわば、私のいう黄昏プレリュードの時期でしょうか。
ところであなたは誰ですか?
え?ものが見えているのに「誰そあなた」だったら「誰そ彼」よりも危ない?
やっぱり。
もう黄昏れちゃったのかなぁ。
黄昏時に限らず、四六時中人恋しいと思っている私ですが、それはそれで何となく分かる気がします。
おそらくはその時刻に関連するのでしょう。
一日が終わろうとするとき、それは様々な絆から解き放たれてひとりに返るときで、現世との仮の離別でもあります。これからの夜に向かってひとりであること、それは幾分センチメンタルな寂寞感を誘う絶好の機会でもあります。夕陽や長くなった影の演出、それらは寂寞感に過剰な彩りを添えます。
黄昏行く名古屋テレビ塔
黄昏の語源は、薄暗くなって人の見分けがつき難くなるところから、「誰そ彼(たそかれ)」→黄昏(たそがれ)になったといいます。これは知っていたのですが、確認しているうちに新しい発見をしました。とはいえ、知っている人はとっくに知っているようなことでしょうが。
それは、黄昏の反対語、明け方の表現で、「かはたれ」というのだそうです。そしてその語源は「彼は誰(かはたれ)」から来ているというのです。これもまた、人の見分けが難しいことから来ていますね。
黄昏の伊吹山 手前に光るのは長良川
ところで私の好きな黄昏時は、こうした人の見分けがつかなくなる少し手前、さあ、黄昏が始まるぞという時なのです。ようするに、まだ色彩も残っていてある程度の見分けもつくが、やがてそれが決定的に闇に溶け込むための前奏曲、その時間帯が好きなのです。これは好悪の問題ですから論理的には説明できません。
敢えていうなら、変化への期待と不安、それは不可避なのだけど一度身構えてからしか受容できないそうした自己への固執のようなもの、何か抽象的でよく分かりませんね。だから論理的には説明できないといったでしょう。
家路を急ぐ人々
これらはものごとの移行時、変化時に伴う感傷なのでしょう。一般的な無常観もこれに近いかも知れません。しかし同時にそれは、移ろい行くものへと寄り添う心情をも表していないでしょうか。
こうしたものごとの変転移行の時期、もっとマクロにいえば歴史の変換時に、人々の感覚や感傷も研ぎ澄まされるようです。そうした時期には多くの芸術家たちがそれを糧として然るべき作品をものにしています。
あ、黄昏についての考察からは随分の飛躍ですね。
黄昏の飛行機雲
私のいいたかったことは、黄昏に心うずくのはある意味では感傷に過ぎないけれど、変化や移ろいゆくものへの共振といった面を持ち合わせてはいないだろうかということです。
そうだとすれば、黄昏は「誰そ彼(たそかれ)」や「彼は誰(かはたれ)」を経由して新しい光のもとへと自己を指し示す通過点にしてその予兆であるのかも知れないと思うのです。
移ろうことを恐れず、真昼の陽光に向かって「ヤー」と叫ぶかの哲学者に思いを馳せています。
黄昏のレストラン
人生の終焉近くをやはり黄昏時ともいうようですが、私の場合はまだそうではありません。まだいろいろなものがはっきり見えています。いわば、私のいう黄昏プレリュードの時期でしょうか。
ところであなたは誰ですか?
え?ものが見えているのに「誰そあなた」だったら「誰そ彼」よりも危ない?
やっぱり。
もう黄昏れちゃったのかなぁ。
世の中色彩にあふれています。
今回は三原色のおさらい。
<赤>
おいなりさんの狐のよだれかけ。
軽自動車の可愛い消防車。
<青>
蒼い床の子供たち。
昭和30年代のオート三輪。
<黄>
卵だし巻き。
黄色い暖簾、あるいは日除け。
<おまけ>
売らんかなの色。
今回は三原色のおさらい。
<赤>
おいなりさんの狐のよだれかけ。
軽自動車の可愛い消防車。
<青>
蒼い床の子供たち。
昭和30年代のオート三輪。
<黄>
卵だし巻き。
黄色い暖簾、あるいは日除け。
<おまけ>
売らんかなの色。
松岡農水相の自殺騒ぎの関連で、昨日の日記で彼に触れた川柳を三句ほど掲載したものを削除しました。
この時点で、安否の程は不明ですが、結果として死者に鞭打つことはしたくないからです。
それにしても、この件についての安倍首相の責任は重大だと思います。それにつてのコメントを、昨日の日記に補足しておきましたが、重複を恐れず、再度掲載します。
*松岡農水相に関する川柳が三句ほどあったのですが、彼が自殺を図ったとの報に接し、急遽、削除いたしました。
この時間帯では、まだ安否の程は分からないのですが、結果として、死者に鞭打つようなことはしたくないからです。
ただし、この件に関しては安倍首相の責任は重大だと思います。
まず、自分が総理になる際の論功行賞として彼を大臣に任命したという任命責任、次いで、明らかな不祥事が発覚したにもかかわらず、罷免なり辞任させるなりの措置を取らず、それを庇い続け、かえって窮地にまで追いやったこと、さらには、政治と金についての透明感、清潔感を実現することを実行しようとすることなく、だらだらと事態を引き延ばしたことなどです。
そのため、辛抱しきれなくなった与党である金子予算委員長から批判や辞任要求が出るまで事態が悪化し、その結果としての自殺騒動であると思います。
安倍首相の指導力、求心力のなさが露呈したものといえます。
この時点で、安否の程は不明ですが、結果として死者に鞭打つことはしたくないからです。
それにしても、この件についての安倍首相の責任は重大だと思います。それにつてのコメントを、昨日の日記に補足しておきましたが、重複を恐れず、再度掲載します。
*松岡農水相に関する川柳が三句ほどあったのですが、彼が自殺を図ったとの報に接し、急遽、削除いたしました。
この時間帯では、まだ安否の程は分からないのですが、結果として、死者に鞭打つようなことはしたくないからです。
ただし、この件に関しては安倍首相の責任は重大だと思います。
まず、自分が総理になる際の論功行賞として彼を大臣に任命したという任命責任、次いで、明らかな不祥事が発覚したにもかかわらず、罷免なり辞任させるなりの措置を取らず、それを庇い続け、かえって窮地にまで追いやったこと、さらには、政治と金についての透明感、清潔感を実現することを実行しようとすることなく、だらだらと事態を引き延ばしたことなどです。
そのため、辛抱しきれなくなった与党である金子予算委員長から批判や辞任要求が出るまで事態が悪化し、その結果としての自殺騒動であると思います。
安倍首相の指導力、求心力のなさが露呈したものといえます。
雑誌の取材で、岐阜の城下町の色合いが今なお残り、多くの町屋を残しているいわゆる金華地区、伊奈波地区を観てきました。
以下は、取材のメモ代わりに撮ってきた写真です。
町屋を歩き、そこに住みながら様々な問題を抱えている人たちと会いました。
その感想としては、町屋の保存といっても、器としてのそれを保存すればいいのではなく、今日的に活用し、現実的に利用しながら保存しなければならないということです。
側面から見た町屋。正面は左手。右手は奥の蔵造りの部分。
上記の家を正面から。格子が美しい。
二階の格子部分を。
これはまた別の格子。
二軒並んだ町屋。
これら町屋には岐阜市認定の標識が。
この通りの町屋は、白い磨りガラスの門灯で統一されている。
NPOによる民営公民館「わいわいハウス金華」として利用されている町屋。
中からは、中高年とおぼしき人たちの明るい笑い声が聞こえてきた。
以下は、取材のメモ代わりに撮ってきた写真です。
町屋を歩き、そこに住みながら様々な問題を抱えている人たちと会いました。
その感想としては、町屋の保存といっても、器としてのそれを保存すればいいのではなく、今日的に活用し、現実的に利用しながら保存しなければならないということです。
側面から見た町屋。正面は左手。右手は奥の蔵造りの部分。
上記の家を正面から。格子が美しい。
二階の格子部分を。
これはまた別の格子。
二軒並んだ町屋。
これら町屋には岐阜市認定の標識が。
この通りの町屋は、白い磨りガラスの門灯で統一されている。
NPOによる民営公民館「わいわいハウス金華」として利用されている町屋。
中からは、中高年とおぼしき人たちの明るい笑い声が聞こえてきた。