イエローフローライトを探して

何度も言うけど、
本当にブログなんかはじめるつもりじゃなかった。

東京しゃらくさ優駿

2007-04-02 16:26:43 | CM

気がつけば、好きでよく使っている言葉のひとつに“しゃらくさい”があります。国語辞典で引くと“なまいきだ”と出ていますが、月河がこれを使うときは、単に生意気だけではなく、「カッコつけてる」「利いたふうだ」「偉そう」で、「フン」「ケッ」と思わせるという意味も含めつつ、最終的には「やってくれるじゃんよ」という賞賛のニュアンスで包み込んで、むしろ好感もって使うことも多い。

最近ここで書いたばかりなので例に挙げさせてもらえば、『スポーツマン№1決定戦』での諸星克己さんの、種目と種目の間のストレッチ中の表情、きわどくクリアのあとのインタビュアーへのコメント「いまもうパラダイス(銀河)どころか、しゃかりきコロンブスだから」などは“好感持てるシャラくさ”の見本です。

このブログの左←に載せている、BUMP OF CHICKEN『涙のふるさと』もそう。♪会いに来たよ 会いに来たよ という高音さわやかフレーズに耳吸い寄せられて歌詞を当たってみると“ボク”という一人称は“涙”のものであって、歌っている主人公は“キミ”という二人称で表現されている。泣きたい気分の主人公に、涙が「キミの心の内側から、ボクを知ってほしくて来たんだよ」と語りかけているという、大昔の『涙くんさよなら』を裏焼きにしたような(喩えが古すぎるか)、一曲の中で天動説から地動説へのコペルニクス的転換を遂げる大ワザに気がついたときはまさに、あっぱれシャラくせーぞ!のひと言でした。

こういったシャラくささなら、まぁ世の中ぜんぶこんなんなっちゃったらそんな世の中はごめんですが、大歓迎。シャラくさ万歳、ブラボーです。

さて、2007年4月現在、日本でいちばんしゃらくさいものと言えば、JRA日本中央競馬会のTVCMです。レミオロメン『茜空』がBGM。競馬場のターフ、発馬ゲート、トレーニングコースでの調教、ゴール直後の騎手ガッツポーズなどのカラー動画に、親と手をつなぐ幼子や残業中サラリーマンや歩道橋に佇む少女や飛行機を見送る人たちの後ろ姿、大きく口を開けて叫ぶ若い女性などのモノクロ静止画が挿入され、以下の字幕が次々に現われます。

なかなか勝てない馬がいる。

その馬のいいところは、/とにかくひたむきに走ること。

いつも、いつも、/あと一歩のところまで/追い込んでくる。

最後まであきらめないから/また好きになる。

「結果がすべてだ。」/そう人は言うけれど、

あきらめないことは、/勝つより難しいことを/私は知っている。

今日も、その馬が走る。

がんばれ、と声が出る。

まるで、自分に言っているみたいだ。

今日も/私の好きな馬が/走っています。

…あーーーーーシャラくせえ。いまここに書き写すために、ビデオ静止画にして字幕変わるごとにコマ送りしながら再生してるんだけど、もうシャラくささが糸引きそう。好感がミジンも持てない、ただただシャラくさいだけの、シャラくささのシャラくささによるシャラくささのためのシャラくささ。以前、島田紳助さんが「撃っても罪にならない拳銃があって弾6発入ってたら、明石家さんまに5発使う」と言ってたことがありましたが、月河この字幕考えたコピーライターに速攻5発使いたい。残り1発は「これでいってよし」とハンコ捺したJRA役員だ。

これが、たとえば競馬をモチーフにした、リストラ世代の男やグレかかった少年を主人公にしたヒューマンドラマタッチの『走れ○○(←馬の名)、愛を乗せて』みたいなタイトルの映画CMだというのであれば、別に何も言いません。ちょっと本編観てみたいなとさえ思うかもしれない。しかしこれは競馬の主催者たるJRAのCMです。

競馬という娯楽において、競走馬が走る姿に自分の身過ぎ世過ぎの営々たる日々を重ねて、「アイツも結果が出なくても頑張っているんだから、オレも、私も明日の仕事頑張ろう」と自らを励ますという享受のしかたは、あって悪いことはないが、それは競馬という賭場を所有運営する胴元が「こういう楽しみ方どうぞ」と一押し推奨すべきものではないでしょう。

月河は競馬が、観るのも賭けるのも、専門誌やスポーツ紙からネタ拾うのも大好きだからあえて言うのですが、競馬とは大のオトナが一攫千金の微々たる可能性を夢見て、四つ足の家畜をムチでぶっ叩いて走らせての勝ち負けに身銭切って投じるギャンブルであり、それ以上でも、それ以下でもない。中央競馬は土日開催なので、月金フルタイムの勤労者の週末レジャー、気分転換にフォーマットとして適してはいるかもしれませんが、間違っても競馬それ自体に“生業に打ち込むこと”や“つらくても辛抱して乗り越えること”や“努力して上を目指すこと”を奨励する要素はありません。

このCMのどうにも救いようのないシャラくささは、本来あさはかで、はかなく、刹那的で愚かな享楽であるはずの賭け事を、どうにかして“倫理的に正当”“健全で建設的”なものに見せようという偽善が然らしむるものだと思います。

ここ10年近く、中央競馬の売り上げは長期低落傾向が続いています。少子高齢化で、“馬券オッケー年齢”となり新規参入してくる若年人口が減ったこと、90年代後半以降ゲームソフトが普及高度化して、身銭を切らなくても競馬のゲーム要素が自宅机上で楽しめるようになったことなどが原因に挙げられていますが、断言しよう。このTVCMが、と言うより馬券買いという、あさましくも夢々しい行為を“営々たる日常”に接地しようという思想が主催者サイドに続く限り、競馬売り上げは絶対に上昇に転じません。馬の走る姿を見て自分の日々の殺伐たる勤めや、そこから得られる俸給を我が家で待ち侘びる家族の顔が思い出されるような宣伝手法を、胴元が打ってはその賭場は栄えないということです。

競馬観戦、馬券買いの面白味をいまだ知らない人たちの興味を引きつけようと目論むなら、これだけ働けばこれくらいもらえるという約束ごとや経験則、予定調和を吹っ飛ばす“非日常性”、これこそ競馬の最大の醍醐味として前面に出すべき。故障続きでまる1年レースに出てないかつてのクラシック2冠馬がいきなりのGⅠ出走で快勝したり、前年と前々年の年度代表馬が300メートル余りの直線びっしり2頭だけのマッチレースを繰り広げるが、出走していたことも忘れるくらい離された3着は中央では名を聞いたこともない地方競馬所属馬だったりなど、「予想もつかない」「ベタ過ぎてあり得ない」と誰もが思う、漫画か劇画のようなできごとが、野球よりもサッカーよりも高頻度で当たり前のことのように眼前に展開されるのが競馬です。

「信じていた親友に裏切られた」「身も心も捧げた恋人に二股されてた」「目をかけてくれた上司からリストラ宣告された」「気を許していた家族に庖丁でメッタ突きされた」(←これはなんぼなんでもそうはないか)なんていう状況に直面しても、日ごろ競馬に親しんでいる人ならいくらのショックもなく立ち直って対応できるはずです。万事、予想外で当たり前なんだから。

「がんばれ、と声が出る。」なんてクソみたいなコピー考えて悦に入ってる暇があったら、そういう方向に頭使ってみなよ。このCMのシャラくささは、偽善だけではなく、“ズレてる”“見当違い”からも来ていたようです。

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