「震災対策がなってない、グダグダだから不適格」という理由で不信任案出すのだったら、少なくとも「いまやってるアナタよりも確実に冴えた対策を打てる、アイディア持ってる、実行力もある」後任候補をちゃんとかついで、皆に見えるところにたかだかと披露してから出すべきだし、不信任案出されたほうも出されたほうで「そうですか、ちゃんとやってると自分では思ってるけど、そんなにグダグダだとおっしゃるならしかたがない、不信任なんてお手間とらせる前にきっぱり降りますから、仕掛かりの仕事を誰に引き継げばいいのか、ワタシより冴えてる、力のある素晴らしい後任者を、ここに連れてきてください」「よもやぜんぶ途中でぶん投げて、後任の影もかたちも未だ無い、案件山積みの空席にしたまんま降りれとは言わないでしょうな?」ぐらいの啖呵切るべきです。
「震災対策がヘタ、ダメ」を指摘されてるのに「対策に一定のメドが立ってから降りる(=メドつくまでヘタ打ち続ける)」とは、「私は言われてることの意味がわからないバカです」って言ってるのと一緒だし、「対策できてないから降ろす」と息巻いておきながら、じゃあできる人どこにいるの?と訊いたら「それはいまのアイツを降ろしてから考える」というのも「私たちは全員バカの集まりです」宣言に等しい。
こうなると、不信任案の可否なんかより、誰のため、何のための議会制民主主義か?という気にもなってきます。誰の得になる、誰を幸せにする議会、議員、その中からさらに選ばれる総理大臣&閣僚諸君か。
歴史の先人が希望を抱き、長い流血の苦闘の果てに実現した普通選挙制=老若男女貧富の差も学歴の差もなく、すべての成人国民に一票の投票権を平等に与える、歪みなく自由と尊厳の輝きにあふれた制度は、ローマ時代の帝政や三頭政治や、ハプスブルク家ブルボン家の専制君主制、共産主義の集団指導体制などより、確実なとこ、どれくらい世の中をよくしたのか。
とりわけこの日本は、普通選挙制に基づく議院内閣制が実施される前と後とで、後のほうが賢い、優れた国になっていると自信を持って言えるか。
4年に一度だか3年に一度だか、毎度毎度莫大な選挙費用、人件費、電波や紙をついやして、先人の汗と血がしみ込んだ清き一票を積み重ねて、めでたく選ばれたのは“バカの集まり”です。
いま韓国歴史ドラマ『善徳女王』にずっぽし嵌まり中なわけですが、紀元後7世紀、日本では大和朝廷時代の、朝鮮半島東南部の新羅(シルラ)王国、聖骨(ソンゴル。両親ともに王族出身)だの真骨(チンゴル。両親の一方のみ王族出身)だの、ソンゴルの男子でないと王位を継げないとか、一方では一般庶民は一部の貴族豪族の大土地所有制のもととしてこき使われ子孫の果てまで収奪されっぱなしとか、骨品(こっぴん)制という名の古色蒼然封建主義炸裂ワールドではあるものの、「国の主(あるじ)ならば自分の子をいつくしむように、真実をもって話し合い、自由と希望を与えて民を育てるはず、主でない者が統治して、他人の子を預かるように押さえつけ叱りつけ寝かせつけていては国は発展しない」「しかしながら民は真実を重荷に感じ、話し合いは面倒くさがり、希望は持て余し、自由を与えると躊躇するばかり」「処罰は烈しく嵐のように、褒美は少しずつゆっくりと」「王たるもの全身全霊をこめ、国に恋をせねばならぬ」など、“この時代のほうが、少なくとも統治者レベルでは人間の出来が上等だったんじゃないか?”と思う台詞がどかどか出てきます。
片や自分の腹をいためた愛児のように国を治め育て、みずからの個人格や利害、感情や恩讐をすべて喜捨して国のみを愛し、民のすべてが「あの人は王様たるにふさわしい出自の人」と名分を認め畏敬尊崇するひとりの世襲君主。
こなた政治に無関心な、見識のカケラもない刹那的な民が、目先の給付や負担増減に右往左往して適当に選んでは「どうせ誰がやっても同じ」と自嘲する“バカの集まり”。
どちらがましだったかと考えたところで、もう時間軸を前に戻すことはできない。国に恋して治める名君よりも、烈しく嵐のような処刑だけを趣味にしてるみたいな暴君のほうが山のように出たから、専制君主制や世襲身分制度は廃れました。
議会制民主主義も、こんだけバカの集まりを山と輩出したら、そろそろ廃れどきではないかと思うのですが、廃れた後を“何制”にするか。こちらもまだ“後任”の影もカタチも見えないようです。
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