先日、高齢家族が「昼間“テレビの視聴について調べているビデオリサーチ”と名乗る電話があった」と言い出しました。
ビデオリサーチ社と言えば、ニールセン無きあとTV視聴率データを独占している調査会社だということぐらいは、ギョーカイ関係者でなくてもたいていの人が聞き覚えがあるでしょう。
そのビデオリサーチがウチなんぞに何用?と思えば「ただいま13歳から59歳の男性と、20代女性の方々を対象にテレビに関する調査をしております」とのたまったとのこと。若い女性の声だったそうです。
高齢家族としてはせっかく電話取って応対してやってるのに「アンタには用はないかんね」と言われたような気がしてよっぽどムカついたらしく「この家にはテレビは1台もないし誰も見てませんよ」と答えて電話を切ったそうです。わははは。
「残念、20代の女性ならここにひとり居ましたぜ」と月河が自分を指さしたら耳が遠くなった振りをされましたが、もし「どんぴしゃその年代の男性も女性も家族にいる」と答えて会話を続行していたらどうなったかな。TVにモニター機つけさせてほしい、とでも言って来たのかな。
TV視聴率のデータにいちばん需要があるのはもちろん広告代理店で、広告は広告主の商品をより多く売るため、買ってもらうため。よって視聴率なるものは人口密集地で巨大マーケット、巨大な財布のカタマリである関東地区と関西地区だけで需要あり、データとして参照され重宝される数字だというのも聞いたことのある話。
関東と関西以外の地域で何番組がどれだけ視聴されていようといまいと、データ的にはまったくカウントされていないし、されたとしてもその数字は大手代理店や広告主はほとんど欲しがらない。調べて広告打って効果あったとしても開く財布、落とされるおカネの額のタカが知れているからです。当然CM放送量や料金、スポンサーのつく/つかない、ひいては番組の内容や質がどうこうなる影響力もビタ一文無い、という話も聞きました。
要するに関東と関西以外在住の人間は、TV番組見てつまらないのつまるの、好きの嫌いの、おもしろくないから見るのやめただの、ましになったからまた見るの言ったところで、それによってつまらない番組がつまるようになったり、おもしろくなかったのがましになったりするか?っつったら、「しない」が正解なわけ。
…まぁだからこそ、つまらないつまる、おもしろくないそうでもない、誰はばかることなく気のすむまで好き勝手言えるってこともありますが、それにしても関東関西どころか“ド地方”の“ド片隅”の世帯までビデオリサーチの電話作戦。
「テレビ見てない人はいない」「CMをなんらか認知し効果受けない人はいない」との調査会社の思い込み思い上がりを、家族構成や年齢職業いっさい言質を取られずに斥けた高齢家族は結果オーライ、ナイス判断でした。
『花衣夢衣』は11日(金)に10話。つまらないのつまるの、というタームの話なら、とりあえず“見逃せない”というテンションは維持できていますが、1話見終わって「次回が楽しみ」と視聴者を前のめりにする力は、残念ながら未だしの2週めとなりました。
なぜか。いちばんの原因は、特に双子ダブルヒロインの真帆(尾崎亜衣さん)澪(尾崎由衣さん)の芝居が、どこまでいっても点・点・点で、上昇しては下降する“線”につながっていかないため、彼女らの心情に観る側の気持ちが添って行かないことにあると思う。
年中オロオロビクビク顔の澪、時にツンケン急にドス声激昂の真帆、演技新人の尾崎さん姉妹はたぶん監督から「平時とテンション↑↑時、切り替えてめりはりある芝居を」と指導されているのでしょうが、ふたりそれぞれのパーソナリティや志向の違いも明確でないこともあって、場面場面の、たとえば顔面グシャ号泣や平手打ち・ド突きなどのプチ立ち回りや金切り声の応酬がひとつひとつその場限りで奥行きがないのです。
昼帯ドラマの場合、膨大な場面数の撮影が必ずしも放送時系列に沿っていないので、人物の物語の流れ通りの心情を、役者さんがその場面ごとに演技表現するのは至難だというのもよく聞く話ですが、そういう現場に対応するだけのワザがまだない、経験の浅い子たちを主役で使うなら、ピンポイントで引き出した芝居がそれなりにつながるように演技指導や脚本がもっと頑張らないといけない。
10話で圭二郎(長谷川初範さん)の葬儀後、和美(萩尾みどりさん)に真帆「葬儀屋さんにあれこれ指図したり、弔問客に挨拶して涙を見せたり、でも本当の涙は流してない、お母さんは冷たい人よ」澪「お父さんは日本画壇に名を残すはずだった人、お母さんは貧しくてもふさわしいお葬式をと心を砕いて取り仕切ったのよ」と、セリフでカットの間に何が起き行われたかをそっくり説明させるような脚本はいただけません。
こんなとき、たとえば澪は和美の後ろで最後に辞した弔問客に遠慮がちに頭を下げ、真帆はひとり仏間に佇んで数珠を握りしめる…といった演出にすれば、父の死と、不倫の母に対して抱く思いの違いが表現できるのに。極端な話、真帆と澪の喪服をお揃いでなく、和と洋に変えるのも、芽生え始めた内面の差異を映し出して見せる手だった。
圭二郎に万平(斉木しげるさん)との関係を激怒されて叩き出され、娘・真帆が身を汚され傷を負ったのも自分たちの不倫のせいと知りながら辻堂で万平となしくずし同棲、ちょこちょこ戻ってきて世話を焼いたりもしている和美の心理もさっぱり理解できませんでしたが、夫の危急を知って枕辺に駆けつけながら死に水は娘たちに託し→最後まで夫の手にも触れず→葬儀では端然(説明セリフのみ)→娘たちが寝入ってから深夜ひとり骨箱を抱いてしのび泣き→「私には私の生き方があるから、ひとりで生きる覚悟ならそれもいい」と真帆を突き放すも→俊彦が叩き割った圭二郎筆の絵を目の前にして最終爆発、という、ブツ切れない心情曲線を見せ切った萩尾さんはやはり役者としてお見事と言わざるを得ません。
落款の入った作品としては遺作となった水仙、和美にしてみれば、「こんな絵を続々描けるようになる日のためにこそ、ふしだらとも裏切りともそしられようと辛抱してきた」思いがあったのでしょう。彼女にとって圭二郎は、経済力より性的能力より何より“描くべき、描いてこそ”の人だった。だからこそ本人の死では爆発を堪えられた感情が、作品が破損したとき初めて爆発したのです。
さっぱりわからないと言えば、せいぜい息子の似顔絵描いてあげてた程度しか“尽くし親しまれていた”描写のなかった真帆が、オブライエンさんから「真帆ハ、ワタシタチノ家族デス、イッショニ亜米利加ヘ行キマセンカ」まで提案されるってのも唐突と言えば唐突。“日本代表”沢木家×辻家の恩讐濃さに比べてアメリカの高級将校さん一家はザックばらんというか、占領国現地調達の通いバイト、しかもいろいろあって結構休みがちだったはずのメイドでも簡単に“家族の一員”視しちゃうのね。
旅費、滞在費、向こうでの生活費、若い未婚娘ひとり背負えばたいへんな責任だろうに、さすが戦勝国はフトッパラだな。占領国の貧乏娘なんか、捨て犬一匹拾って連れてくぐらいにしか考えておらんな。さりげなく温水洋一さん似のオブライエン将校。
米兵にレイプされた真帆が、恨みのタネをまいた万平おじさんとお母さんを憎むほどには、アメリカ嫌い・米軍服怖いにならなかったのも、不思議と言うべきか、よかったと言うべきか。
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