NHK『つばさ』視聴中、背中で音声だけ視聴でも頻々と感じる当惑感。これに似たものは最近いろんな媒体、いろんなコンテンツで感じます。
一例が、自分もユーザーなのに引き合いに出して悪いけど、OCN光のTVCM、♪ 初めてだって セキュリティだって~と、『アタック№1』のテーマ曲に乗って相武紗季さんが鮎原こずえの格好をして、パソコンで“迷惑メール”や“ウイルス”を跳ね返したりするアレ。
本郷コーチ役は誰が扮するのかと思ったらアニメまんまだった、という拍子抜けはさておき、『アタック№1』TVアニメ版と言えば、こりゃもうピンポイントで月河プラスマイナス3歳ぐらいの年代の、女性向けです。週刊マーガレットに連載されていた浦野千賀子さんの漫画限定なら、プラスのほうにもう2歳ぐらい高いかもしれない。
当時の小学生女子はあの影響でみんなバレーボールが大好きで、一度でいいからネットを張って前衛後衛に分かれたレシーブ、トス、スパイクの本格的なゲームをしてみたくてたまらず、滑り台の前にゴム跳びのゴムを張って、審判役が台の上に座って、ふにゃらふにゃらのビニールボールで、ゲンコツでバン、ボボンしては「そんなことじゃレギュラーに入れないワヨ!」なんて富士見学園ゴッコをしていたものです。早川みどり役の子はわざわざお下げほどいて手で外巻きにしたりなんかしてな。ホラ恥ずかしいだろう。言葉攻めか。
残念ながら月河は年齢的にはじゅうぶん真っ只中だったものの、身体が小っさすぎる上、外遊び、とりわけ女子グループでの集団遊びがまったく駄目な子ちゃんだったので、窓からビニボーで、「魔球木の葉落としー!」なんちゃらやってるのを眺めては“TVでやってることをまんま真似するのはえらくカッコ悪いもんだな”との認識を深めていた昭和40年代でした。
それはともかく、このCMと『つばさ』に共通する当惑感「参っちゃうな」という感じは、ある特定の層に向けて、狙って狙って、なりふり構わず“当てに来ている”という息苦しさのもたらすものだと思う。『つばさ』も昭和40年代中~後半から50年代初頭頃の、あえて絞れば“ドラマの”という冠語が付いていた頃のTBSのドラマを思い出させるように作られているのは明白です。
「あぁこれこれ、このキャラ好きだったんだよね」「この感じ、懐かしいね」と言ってほしい気持ちが製作側にあるのはひしひしと伝わってくるし、乞われてそう言ってあげることのできる層の中に自分もいるという自覚はあるのですが、そういうものを見せられて「懐かしい」という気持ちになれるような心理や気分には、こちらはすでにないのです。
むしろ、その狙って来かたの、なりふり構わなさが恥ずかしいし、しらけると感じる。仮面ライダーやスーパー戦隊など、まがりなりにも(まがりなりかい!)新作コンテンツがリリースされ続けているものならともかく、鮎原こずえなんて、記憶の中に辛うじて残ってたようなキャラや、あの時代でさえすでに古めかしかった家族卓袱台ドラマのフォーマットを引っ張り出して、無理クリ喚起した懐かしさから、認知度好感度アップに結びつけようというのならあまりにさもしい。
しかも、そのさもしさが、まさに自分のほうを向いて、狙って繰り出されているさもしさだとわかったときの当惑感、“参っちゃうな”感は相当なものです。
OCNのCMの場合、相武紗季さんがアイドル出身女優でありながら、巨乳や美尻といったセクシュアル方面をあまり訴求せず、女性客にも反感を持たれにくいキャラであることがこの企画を成立させてしまったのかもしれませんが、広告効果的に「食いついてきたのは紗季ちゃんのショートパンツ太股ジャンプに釣られて来たお父さん、おっさん、お兄さんだった」という結果に終わったほうが気分がいいですね。
『侍戦隊シンケンジャー』は12日放送が第9幕。もうそろそろはっきり言った方がいいと思うので言ってしまおう。『シンケン』、暗いわ。お話が。物語世界もキャラも。とにかく暗い。
剣の腕なら殿・丈瑠(松坂桃李さん)と互角、教科書的な太刀筋の端整さならむしろ上かも…と仲間内でも一目おかれる流ノ介(相葉弘樹さん)がアヤカシに操られて敵性人格となり味方に刃を向けてしまい、ならば致し方ない俺が倒す!と立ち会う丈瑠、「流さん、目を覚まして!」とことは(森田涼花さん)、「アンタ殿様と戦ってるのわかんないの!?」と茉子(高梨臨さん)、「(丈瑠が)いつも殿様の顔崩さねぇから、こういうとき(流ノ介を本気で斬ってしまわないか)100パー(セント)信じられねぇじゃねーか!」と千明(鈴木勝吾さん)(←丈瑠が本気で立ち会う理由としてヒトミダマが“手加減したらすぐさまブルーに腹を切らせる”と釘を刺している)、丈瑠の腕を値踏みするように見守る腑破十臓(唐橋充さん)…という高テンションなお話だったのですが、ここまで流ノ介が“アナクロ忠臣”としてコメディリリーフも担当してきたことが筋にほとんど活きていなかった。
技術において上回るものの一本狙いにこだわる流ノ介が攻めてきた瞬間を狙って、一か八かモヂカラでの一撃でアヤカシの操り力を追い出し、正気に戻すことに成功した丈瑠が「あれだけのモヂカラを打ち込んだら、おまえは死んでいたかもしれなかった」「俺は勝手におまえの命を賭けた…ごめん」と、操られていたとは言え殿に刃を向けたことを悔いる流ノ介に不器用に謝るラストで感動の締めにしたかったようですが、持って行き方も落とし方もあまりに暗く、爽快感がない。
殿が人間らしい本音を垣間見せてくれたというより、“(人命を守る)大義のためには味方とも斬り合うし、味方の命を危険にさらしもする”というやりきれなさのほうが色濃く残ってしまった。
期待していただけに、脚本小林靖子さんどうしちゃったの?という気持ちです。作家さんにはたまさかあることですが、ちょっとした“鬱期”に入ってしまった時期の執筆なのでしょうか。クリエイティヴな仕事をしていてこれに嵌まると、明るい題材を扱い明るく書いているつもりでも、知らず知らずのうちに通奏音がマイナーコードになってしまい、差し引き暗くなってしまうものです。
月河は小林脚本作視聴デビューは遅めで、02年『仮面ライダー龍騎』からなのですが、“手続きとしてドロドロどんよりしても、最終的には掬(救)ってくれる”という安心感があって、それが小林脚本の魅力だと思っていました。
今作、“ショドウフォン”という武器設定は玩具のバンダイ主導の提案でしょうが、モヂカラ=“言葉の力”で敵を倒すという結構も、いままでのところ物語の活性化にあまりつながっていないように思います。今回の第9幕も、レッドの“反”でヒトミダマの操り力をはね返す、あるいは先週の第8幕“影”でシンケンジャーの分身を繰り出す、いっそ“石”で石つぶてが飛ぶといった程度で、月河が期待した正義の“言霊(ことだま)”vs.三途の川=死の世界由来の.邪まな妖気パワー、という図式の具現化はなかなか見せてくれません。言霊が『ゴーオンジャー』の炎神みたいにひとつひとつキャラになって喋り出されたら尺的にもえらいことになるでしょうから、そこは各折神が言霊の霊媒的役割を果たすのかなと思ったら、“お子様人気安全パイの動物モチーフ”以上でも以下でもない。
こうなると、メインライターである小林さん以外の、サブ脚本家さんの担当回でどれだけ局面打開があるかに期待したい。世界観やキャラごとのスタンスは動かさず、如何にして解釈の幅を広げられるか。それによって小林さんが新たなインスパイアを受け、明るいほうに改めて舵を切ってくれる可能性もありますから。
明るさというのは、別に漫才チックなどたばたコントチックなやりとりで“笑いを取る”ということではないのです。今日の話でも、本気で対戦しなければかえって流ノ介の命が危ない、一瞬をついてモヂカラを撃ち込めば、流ノ介の力量なら耐えてくれるはず、耐えてくれよ頼む…という丈瑠の葛藤と並行して、「操られても眠らなかった部分の、流ノ介のヤミクモ忠義魂が土壇場でアヤカシの力を上回った!」「殿の信頼をこめた一撃を“殿のモヂカラに持ちこたえられず散るなら本望”と進んで受け、操り力を振り切った!」という転帰にすれば、殿ひとりハラにためてためて、チームメイト=臣下を危険に曝す痛みに耐えるという重さ鬱さが払拭され、見違えるように明るい後味になったはずです。
とにかく、“ヒーローらしさ”の部分が、殿の一本かぶりという構造を変えないことには明るくなりようがないと思う。
やっぱりスーパー戦隊も、脚本家としての小林靖子さんも好きなので、暗いからといって視聴を打ち切る気にはなれない。当面「がんばれシンケンジャー」です。
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