先月の中旬「救急搬送で入院したらしい」「重篤らしい」との報が流れて、それで初めて「ジャニーズ事務所のジャニー社長ってこんな顔の人だったんだ」と知った向きも多いのではないでしょうか。月河も同様。
晩年まで積極的にライヴ等の現場に出張っておられたらしいし、知っている人は知っていたんでしょうけど、媒体に流れないよう画像の管理が周到だったということなのでしょうね。状況押し詰まってやおらボチボチ出てきた画像も、頭髪具合とか顔肌のつやシワ加減とか、ざっと10年単位で撮影時点がマチマチ。でもま、ざっくり感想を言うと「意外と普通なご老人だった」。
・・・ジャニー(“ジョニー”じゃなくて)〇〇という通称や、「ユー、~~しちゃいなよ」というクチ癖(伝聞)からいって、なんかこうバタくさい、金髪に染めてるような、プラスおネエっぽいヴィジュアルの人を想像してませんでした?月河は正直、してました。たいへん失礼申し上げました。
公式に訃報がNHKでもアナウンスされた10日の夜7:00のラジオ第一のニュースでは、四年前に収録されたという蜷川幸雄さんとの対談番組(蜷川さんは2016年5月に亡くなられているので、その前の年ということになります)での肉声が流れましたが、「(所属タレントを)“ユー”って呼ぶのは、名前が覚えられないから」等と脱力な話をするジャニーさん、結構、入れ歯ユーザー特有のフガフガした発音で、普通の80代のおジイちゃんでした。
いまさらですが芸能ネタ世間話のメイン大道具とでもいったポジションで“ジャニーズ事務所”という固有名詞が認知され定着したのはいつごろからになるのでしょうかね。ジャニー喜多川さんが手がけた男性アイドルグループの嚆矢となった元祖“ジャニーズ”をリアタイで記憶しているのも月河の年代でギリでしょうか。昭和40年代初期、ひとまわりほど年上の高校生のおねえさんたちが愛読していた『週刊マーガレット』や『りぼん』の表紙や巻頭グラビアによく載っていた四人組。動く姿はあまり見る機会がなかったのですが、いつ頃だったか石原裕次郎さん主演の劇場映画に客演していたのは見ました。クレージー・キャッツの映画でも見たと思う。当時のジャニーズ事務所は、まだクレージーを擁するかの渡辺プロダクションと競合敵対はせず、仲良しの提携関係だったのです。
当時としてはたいそうモダンだったのであろう、四肢を大きく伸ばして息を合わせた、ブロードウェイミュージカル風のダンスが売りで、おねえさんから「どの人が好き?」と訊かれて、月河は何となくいちばん小柄でひときわ目のクリッとしたメンバーが可愛く見え「アノ人がいい」と答えましたが、ダンスより歌が得意らしく歌のシーンでソロを取る事の多かったその人が、“あおい輝彦”さんと知ったのはずっと後のことです。昭和42年=1967年にジャニーズが解散してからは演技の道を歩み、木下恵介監督には特に気に入られて数々のドラマで活躍、歌手としても『あなただけを』はロングヒット、月河の上司のオジサンたちにもカラオケ得意ナンバーにしている人が多かった。TVでの当たり役はやはり10年以上つとめた『水戸黄門』の助さんでしょうが、市川崑監督の映画『犬神家の一族』でのホンモノ佐清役も印象深い。
一方、メンバーの中で、子供の月河が見てもわかるほど抜きん出てダンスがキレッキレな人がいて、こちらは飯野おさみさん。解散後は木の実ナナさんとデュエットで歌い踊っているのを一、二度見た記憶があります。
あとの二人は顔も名前も一致しません。ご容赦を。1967年解散ですから、当然、現在アラフィフより下の人は未知でしょう。
ジャニー喜多川さんの訃報をつたえ追悼する各局の番組で、よくキャスターが若い女子アナやコメンテーターに「ジャニーズ事務所のタレントと言えば?」と質問し、答えの多様さから、同事務所がカバーする年代の幅広さを強調していましたが、月河にとっての“ジャニーズ事務所”のイメージは、たのきんでもシブがきでも光GENJIでも、もちろん嵐でも、もちろん元祖ジャニーズでもなく“フォーリーブスと郷ひろみ”さん一択です。セットで一択。
元祖由来のミュージカル風シンクロダンスと、GS風エレキサウンドを取り入れた青春ポップス歌謡のフォーリーブスは、ジャニーズと入れ替わるように昭和43年=1968年にデビュー、折よく退潮したグループサウンズブームのあと、70年代初頭の一時期は“若いオンナノコたちのアイドル”の座をほとんど独占していました。月河はいまだ小学生坊主でしたが、同級生たちの中にもおませで背伸びしたいタイプの子は結構いて、いまで言う“押しメン”を競ったり、おねえさんたちの真似っこに余念がなかった。あの頃はまだ一家にきょうだいが2人から3人は普通で、姉ちゃん兄ちゃんたちの話題や流行りを見てマネして、同い年のクラスメートに自慢したりきいたふうな情報を披瀝するという文化が小学生坊主の中にもあったものです。
フォーリーブスの中では、あまい声質とマスクで歌唱力いちばんの“ター坊”こと青山孝史さんと、驚異のバック転にほとんどアクロバティックなダンス、エキセントリックでトッポい雰囲気もただよわせる“コーちゃん”=北公次さんが双璧だったように思います。ちなみに2019年現在、お二人とも故人。
郷ひろみさんは、たしか昭和47年=1972年の春クールから現・千葉県知事森田健作さん主演の青春学園ドラマなどに客演して、「女の子みたいに可愛い男の子が出てる」と、フォーリーブスとは別建てで話題になっていましたが、同じジャニーズ事務所から、フォー=“4”リーブスの弟分として、4の次だから5=ゴーがいいだろうと“郷”ひろみの芸名をもらったと、当時はいろんな媒体にも流布されていました。
月河が「ジャニーズ事務所のタレントと言えば?」と訊かれて速攻「セットで一択」答えるポイントはここです。先行するタレント、もしくはグループの“弟分”“先輩後輩”という関係性でアピールするという売り出し方。ジャニーズ事務所が軌道に乗りジャニー喜多川社長の商法、よく言われる“選球眼”がクリーンヒット・タイムリーヒットを打ち続けられた要因もまさにここにあるような気がしてならないからです。
グループ・ユニットの中でも“〇〇担当”“▽△キャラ”のような棲み分けで個々の個性を際立たせいろんな嗜好のファンを巻き込んで雪だるま式に人気をふくらませていくやり方、遅ればせながらハロプロや、秋元康さんプロデュースの諸グループが、女の子アイドルでこの手法をとっていますが、古くは宝塚歌劇団などもまさにこういうプレゼン、消費のされ方をしていました。可愛い子、歌ダンス等芸能のひいでた子を単体で提示するよりも、上下関係、ヨコのコラボや競合選抜関係でストーリーを作り、読んだり深読みしたり妄想をたくましくしてもらった方が、より強靭で太い商品になる。
郷ひろみさんのフェイスや日本人離れした腰高で四肢の長い体型や、独特の声質・歌いまわしは当時から単体でじゅうぶん商売になるものでしたが、すでに成功しているアイドルであるフォーリーブスの“お兄さん”たちが四人こぞって弟を可愛がり、「イジったりサポートしたり、イイことも悪いことも教えてあげている」という図式は、10代女子たちにはなんともくすぐったくそそられるフィクションでした。
確か毎週日曜日の夕方6時台だったと思います。『プラチナ・ゴールデンショー』という30分枠の音楽バラエティ番組があり、フォーリーブスがデビュー間もない頃からレギュラーで出演していた枠でしたが、ソロのアイドルとしてレコードセールスではすでに先輩をしのぐポジションになった郷ひろみさんが1973年秋から満を持してレギュラーに加わり、末弟キャラ全開で歌メインの寸劇やコントっぽいものまでこなしてくれるとファンは大うけでした。郷さんが売れたせいでリーブスが押しのけられたなんて不満は聞いたことがありません。郷さんは先輩たちを立てる振る舞いを、少なくとも媒体の中では一貫して見せてくれていました。郷さんが前年のデビュー曲『男の子女の子』でNHK紅白歌合戦に初出場したこの73年は、すでに歌い終わっていたフォーリーブスの四人が騎馬戦の様に郷さんを担ぎ上げて入場させてくれました。
ユニットもしくはグループを複数作って“先輩後輩・擬似兄弟・擬似ファミリーの関係性で印象付け、認知を定着させていく”という手法に、ジャニー社長が無限の可能性を見た最初が、フォーリーブス+郷ひろみさんの成功だったのではないかと思います。
それだけに昭和50年=1975年の郷ひろみさんの事務所退社は大きな痛手だったのではないかと察します。当時はまだセキュリティとかおおらかな時代で、『明星』などの10代向け芸能誌のグラビアページや付録の唄本の柱や裾に、掲載アイドルの“ファンレターの宛先”が普通に載っていたのですが、『誘われてフラメンコ』の頃だったか、結構突然郷さんの“宛先”がジャニーズ事務所ではなく“バーニングプロ”になっていて、郷さんの熱いウォッチャーとはいえなかった月河もかなり驚愕しました。
当時粘っこいファンだった女子ならある程度事情を知っているかもしれない。そこらは月河の任ではないので掘り下げません。
この件はかなりジャニー社長にもダメージを残したようで、76年から79年ぐらいにかけて(バンドや楽器を伴っての自作曲を歌ういわゆる“ニューミュージック”がヒットチャートを席巻した時期です)、ユニット形式でもソロでも、“ジャニーズアイドル”らしい大物アイドルが出ない時期があったのですが、ほどなくたのきんトリオ、シブがき隊、少年隊といったグループ形式、“キャラ立ち棲み分けスタイル”でのプレゼンがふたたび三たび実を結びました。ツンデレ王子様風、ちょいワルやんちゃ系、二枚目半の天然キャラ・・と、グループでありながら統一感に拘泥せず個性をぶつからせ協奏させていく手法。
当時は“やおい”“BL”なんていう概念もジャンルも存在しませんでしたが、アイドルの客になるマインドを持つ年頃女子たちが“カッコいい男の子同士、アノ子とアノ子は仲がいい、あの子とアノ子はライバルで一目置いてる”“アノ子はチョット実技が見劣っていたけど、先輩の誰さんが目をかけて最近うまくなった”“いちばんうまかった誰クンもうかうかしてられない”・・等という妄想混じりの関係性深読みをいたく好むのを、ジャニー社長は直感的に理解していたのでしょう。すでに売れっ子人気者に、“予備軍”としてバックダンサーのチームをはべらせ実戦で踊らせて上達具合や客席の反応を見るという転がしにも、この“グループ商法”は相性がいい。
これは異論やお叱りを受けるかもしれませんが、ジャニーさん自身の嗜好が“若く綺麗な男の子好き”というもっぱらの風評も、むしろ男子アイドルを大勢抱えてプレゼンプロデュースし世に送り出すについてプラスに働いたような気がします。ファンは一方で気遣いつつも“女=雌(メス)のフェロモンが容喙しない世界”として純粋に観賞したり萌えたりしていられた。大きな“男子校の寮”の芸能版みたいなイメージを抱きやすかったのでしょう。
2010年代に入ってメジャーどころのグループから志願脱退者が出たり、薬物事犯その他微罪で済まされない不祥事が起きたり、グループごと解散や活動停止など、さすがに時代の変化、ジャニー社長の加齢だけではなく、タレントたちも“アイドル”維持が困難な人生後半戦にさしかかっていることを歴然と映し出す事象が相次ぐ中での他界となりました。
当然ながら、半世紀以上にわたる芸能界・芸能プロデュース歴において、プラスの功績ばかりではないとは思います。「この人がこんなに長々と重きをなしていなければ日本の芸能界・放送界・音楽ソフト界、もっと刷新したのに」と思われる要素もある。たとえば、「ジャニーズ事務所と袂を分かって、引退や転業せず芸能界に残った人で、軋轢をのこさず嫌がらせされなかったのは郷ひろみだけ」「他はみんな、共演拒否とか、干されたり、メディアを使ってバッシングされたりで伸び悩んだり消えたりしてる」という定説もそれ。
当初は誰も踏み込まない無人の野を行く一匹狼のパイオニア、冒険者だったものがいつの間にか“既成のパワー”“権威”になってしまうと陥りがちな弊かもしれません。それでも、擬似“家族”葬に、構成員・・じゃなく所属タレントが“息子”たちとして150人余り参列、なんて報を聞き集合写真を見ると、男ばっかりこれだけのアタマカズを抱え、管理監督し、食わせていたかと、改めて感嘆します。偉業と呼ばずして何と呼ぼうか。功罪相半ばするのは確かでも、「そうじゃなくてホラ、こうすべきだったんだよ」を誰か後進の同業者が目にもの見せてくれるまで、“功”は残り続けるでしょう。
ジャニーズ時代に小学生坊主だった若輩から言われたくないかもしれませんが心よりお疲れさまでした。古い事を思い出すのもなかなかえらいことで、月河も疲れました。ふぅ。