イエローフローライトを探して

何度も言うけど、
本当にブログなんかはじめるつもりじゃなかった。

別れのチリコンカーン

2011-06-30 00:25:40 | 海外ドラマ

アーティストや芸人さん俳優さん、映画監督や作家さんなど、多少なりと思い入れ、好意的関心のあった有名人の訃報に接してこのブログでとりあげるたび、「この前亡くなったアノ人、そのまた前に鬼籍に入ったアノ人のときはスルーで、今般のこの人については書くのか、それでいいのか」「この人よりアノ人の存在が自分の中で軽かったわけじゃないのに」「たまたまアノときはほかにもっと熱い話題があったとか、それ以前にPCに向かってる時間がなかったとか、理由をつけて軽んじてなかったか」と、心中ウゴメク一抹の忸怩があるのですが、こないだ我が国の名優で文化人の、児玉清さんと長門裕之さんについては書いたし、その前には田中好子さんと田中実さんのときも書いたし、別にいいよね。

ピーター・フォークさんが亡くなりましたピーター・フォークさんが亡くなりましたピーター・フォークさんが亡くなりました。大事なことだから三度言った。いや書いた。ふぅー。

いちハリウッド映画俳優、映画人としてのフォークさんの熱烈なファンというわけではないのですが、1970年代、と言うより昭和40年代後半から放送が始まった『刑事コロンボ』は、月河にとって特別中の特別なTVドラマでした。

人形劇『チロリン村』『ひょうたん島』やアニメ版『鉄腕アトム』がTV視聴デビューだった世代ですから、もちろんあらかじめ「TVはおもしろいもの、楽しい、飽きないもの」でしたが、『刑事コロンボ』で、ちょっぴりだけ大袈裟に言えば生まれて初めて「TVドラマすごい」と思えたのです。とりわけ「アメリカのドラマはすごい」。

それ以前、『コンバット』『ローハイド』『逃亡者』、ちょっと後の『プロ・スパイ』『鬼警部アイアンサイド』辺りも、実家家族や親戚のおじさんお兄ちゃんの随伴視聴で結構見てはいました。特に『コンバット』は「アメリカの戦争ものは“勝つ”とわかってるからいいんだよな」と、太平洋戦争従軍経験のある伯父がノリノリだったのが印象的。

それにしても『コロンボ』は別格、まさにスペシャルでした。昭和40年代~50年代初期に隆盛だった日本のホームドラマ、ファミリードラマ、学園青春ドラマのたぐいにほとんどノータッチで終わったのも、『コロンボ』で、洋画ならぬ洋ドラのすごさを知ってしまったのが最大の原因かもしれません。それくらい『コロンボ』は自分の中で影響力の大きい作品でした。

何が別格だったって、「犯人も手口も動機も最初からわかっていて、あとはバレて捕まるだけなのに、どうしてこんなにおもしろいんだろう」と、その点が何より衝撃でした。克次……じゃなくて活字ミステリ(←大詰め『霧に棲む悪魔』が脳内浸食してきてしまった)の世界に“倒叙(とうじょ)もの”というジャンルがあることは知っていましたが、映像でドラマとして見せられて、ここまで引き込まれるとは思ってもみなかった。

しかも、犯人はおおかた、同情すべき事情を抱えた気の毒な善人などではなく、頭の切れる、計算高いヤツで、動機も利己的なら手口は計画的。会社経営者、重役、財団代表といった富豪、医師や作家など成功した知的職業、華やかな芸能人やマスコミ人、警察署長や退役軍人、政治家など、庶民視聴者からしたらいい気な“偉いさん”であることも多い。

それなのに、フォークさん演じるコロンボが捜査に乗り出してきてあれこれ目をつけ嗅ぎ回り、一歩また一歩“コイツしかない”と網をせばめていく過程で、一度ならず犯人側の心理になり「あ、そこ気づかれたらヤバー」「次にあそこのアレがばれたら終わりじゃんどうするよ」とあせったりハラハラしたりするのです。

コロンボに本格的に食いつかれる前から、計画通り99パーセント遂行したけど、残り1パーがどうだったろう、見落としていた綻びがあるのではないかと、表面は偉いさん然とした堂々たる振る舞いを続けながらも、内心隠した怯えや不安、墓穴を拡げるわざとらしい虚勢、逮捕量刑されれば失うに違いない社会的地位や贅沢な暮らしへの執着、一抹の後悔と呵責の念。フォークさんのコロンボが、決して敏腕鬼刑事然とハードにクールにてきぱきとではなく、あるときには飄々と、あるときには小姑っぽく、概してユーモラスに行動するから、水面下でひそかに葛藤する犯人の後ろ暗い心理が、演出面でさほど強調されなくても、否応なく浮かび上がる。

観客が最初から最後まで捜査摘発サイドに同化して「早く気づけ、突きとめろ」「がんばれ、あの憎っくき悪党を早く捕まえろ」と思い入れ“応援”“しなくてもいい”絶妙のキャラにコロンボが、風采といい言動挙措といい造形され、フォークさんによって演技されていることが大きいのですが、月河が「ドラマは悪役だ」と強烈に実感し、いまでも信念のようにそう肝に銘じ続ける契機にもなった作品でした。

カッコいいヒーローのカッコいい活躍など要らない、と言うより、ヒーローをカッコよくあらしめるのは、悪役敵役の強さ凄さ、輝き以外にありようがないのです。しょぼくて魅力のない敵役をいくら快刀乱麻バッサバッサ倒してもひとっつもカッコよく見えない。

偉くて金持ちで、リュウとしたいでたちでカリスマ性あふれる犯人が、優れた頭脳を縦横に駆使して知略の限りを尽くし企てた犯罪を、普通なら見逃す些細なアイテムや言辞の端っこから、ある意味ちまちまと、しかし結局は大胆豪快に突き崩し白日のもとにさらしていくからこそカッコいい……のだけれど、理屈としてはカッコよくて当然のはずのそのヒーローが、ヴィジュアル的にはカッコいいの対極にある、煙草臭そうな古コート着た短躯のおっさん、という図式もなんともスマートでクレバー。

昭和40年代後半のこの時期、「子供なんだから夜は風呂入って寝ろ」をやっと卒業させてもらえた年頃で、『コロンボ』に出会っていなかったら、ウン十年後、スーパー戦隊も仮面ライダーも『相棒』も、『鬼平犯科帳』も『剣客商売』も、あるいは『霧に棲む~』に代表される昼帯ドラマも、現在観ているような角度からの味読、享受のしかたは確実にしていなかったでしょう。

『コロンボ』はTVドラマ、映像作品にとどまらず、小説など文学作品に接する際にも、まずは何がさておき“精彩ある悪”を探す、こんにちの月河の原点を築いてくれたのです。ピーター・フォークさん享年83歳。合掌。

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