コメント
Unknown
(
リスケ(三匹の羊のうちの一匹)
)
2006-01-10 13:08:04
こんにちは。
前のエントリー「アルジェリアの傷」は、とてもためになりました。民族として引き裂かれた感覚は、理屈の上ではよくわかりました。また、映画でもそこいらへんはうまく描いていたと思います。
「オハナシ」=物語ということなんだろうと思いますが、実は物語というのは強かです。
人間は、どのようなものにでも、無意識にせよ意識するにせよ、物語を見出してしまうものではないでしょうか?
「オハナシの面白さとは別の意味で、面白い」とおっしゃった感覚は、確かに共感できますが、じつはそのような感覚も、物語の結構によってもたらされていると、僕は考えています。
すぐれた映画は、そういう物語の結構が、観客には気づかれないように巧妙に張り巡らされているはずです。
そういう意味では、この作品は、そういう巧妙さはなかったと思います。あるいは、放棄している、と言うべきかもしれません。
物語に囚われるのではなく、物語を操りつつ、新しい映像で我々に感動をもたらす―そういう点で評価すれば、この映画は僕にはピンとこない映画でした。ごめんなさい。
物語
(
raidaisuki
)
2006-01-11 15:28:42
リスケさん
やっぱり釈迦に説法だったみたいです。ごめんなさい。 m(_ _)m
それでは「物語」でいきます。 (^_^)
物語という言葉の定義の仕方にもよりますが、物語の結構が映画体験のベースを支えているという考え方は、まったく妥当なものとわたしも思います。
ただ、ここがリスケさんとの考え方の違いなのだと思いますが、支えているからといって物語に必ず凝らなければならないとか、物語に凝っていない作品は優れた作品でない、ということはないと思うのです。
おっしゃる通り物語とは強力なものです。ということは反面たいへん危険なものでもあるはずです。この映画はそういう危ないものを意識的に捨てているというか、少なくともあんまり頼っていないというのが分かるので、観客からみて安心できる態度のようにわたしには感じられるのです。
人間が物語を紡ぎだすというのはほとんど本能的なことで、生きる原動力そのものなのかもしれません。
だからこそ、ある映画(や小説や漫画や・・・)の提示した物語が人々の心に深く根をおろして、多くの人々が自発的に紡ぎだす物語がみなそれと似たような、同方向を向いたものになっていくとしたら、それはわたしには双手をあげて肯定すべきこととは思えないのです。
さらにそれが観客に気付かれないように巧妙に張り巡らされた物語だとしたらますます、ちょっと、というか非常に危険ではないでしょうか。
観客がだれひとり意識しないところに強力な物語を忍び込ませて、その物語の力で人々を完全に魅了できる映画の作り手がいたら、その人は世界の帝王になれるでしょうから。
わたしのとくに恐れるのは、ひとつの強力な物語が人々の心に根をおろしてしまうと、それ以外の物語に関心がなくなる、ピンと来なくなるんじゃないかということです。ある人にとっては命と同じくらい大事であるような物語が、大勢が共有している物語と違うからといって理解してもらえなくなる、というのは、あんまり起こって欲しくない状況のように思うのですが・・・
ところで、リスケさんは他にどんな映画を見てどんなことを言っておられるのかなと思って貴ブログをみてみたんですが、扱っておられる映画のなかでひとつだけわたしも見たのがありました。
『ヒトラー最後の十日間』
ぎょえー。 (^_^;)
あの時代にヒトラー本人を含めたドイツの人たちの大きな部分が抱いていた「物語」は、これほどはた迷惑なのはないっていう「物語」だったでしょうね・・・ (もちろん日本人も他人事みたいなことは言えないんですけど・・・)
あの映画については既に書いてますけど、なんだかまた書きたくなってきました。
いずれ、リスケさん宛ということでなく、自分の考えを追う形で書きたいと思います。
こんにちは。
(
リスケ
)
2006-01-11 23:59:59
真摯なご返信をいただきました。
ありがとうございます。
いろいろと興味深く読ませていただきました。
ちょっと話が「物語」論の方へと脱線しつつありますが…。(^^)
確かに、物語はファシズムに利用されうる恐ろしいものであることも事実です。
一つの方向にのみ「物語」が作用することの危険性については、常に自覚しておくべきだと思います。
その点は同感です。
映画の作り手は、別にどこかの政府から金貰ってプロパガンダ作っているわけではないわけですから、各監督は自由に作るべきです。それは前提です。
「ある人にとっては命と同じくらい大事であるような物語が、大勢が共有している物語と違うからといって理解してもらえなくなる、というのは、あんまり起こって欲しくない状況のように思うのですが・・・」というのは、おっしゃる通りだと思います。同感です。
ですが、それほど「命と同じくらい大事であるような物語」であるならば、それを我々に理解させる努力はすべきではないでしょうか。
僕は、「愛より~」からは、「命と同じくらい大事であるような物語」は感じ取れませんでした。そのような切実さを感じませんでした。
やはり、観客に向かい合ってない映画は、僕は面白くないと思います。
特に、金を観客から取っているプロなんですし。
作り手は、ですから既存の物語の枠組みを借用したり、ずらしたり、いろいろと苦しみながら新しい物語を紡ぎ出すのだと思います。
その意味でいえば、残念ながら「愛より~」は、僕にはピンときませんでした。
新しさを感じませんでした、残念なことに。
特に、僕が陳腐だと感じたのは、かつての家に向かい、ザノが暖かく迎えられる、というくだりです。
ここで僕が連想したのは、ガッサーン・カナファーニーの中編『ハイファに戻って』です。この本でも、故郷を追い出されたサイードは、かつての家に向かい、今の住人と話し合います。
このように、かつての家に向かい、ザノが迎えられ、自分のルーツを確認する、あるいは自分の居場所がないことを再確認する、という話のパターンは、実はすでに一つの紋切り型としてあるのだと思います。
こういう「引用」、(あるいは「本歌取り」(?))は、映画の一技法であることはわかります。
そもそも、「愛より~」が、『ハイファに戻って』を引用しているかどうかも、議論があると思います。
ですが、『ハイファに戻って』の方が、よりスリリングだし、物語としてのヒネリが利いているんですね。僕は断然『ハイファに戻って』の方が好きです。
ひるがえって、「愛より~」は、物語として新しさはあるでしょうか?
「自分は、本来いるべき場所にいない」というメッセージが、この映画に秘められているとしたら、でも、そんなことは既にうんざりするくらい陳腐な「物語」なのではないでしょうか?
「物語に囚われるのではなく、物語を操りつつ、新しい映像で我々に感動をもたらす」というのは、別に「一つの強力なベクトルを持つ物語を作れ」という事を言いたいわけではなくて、
「物語を操りつつ」、つまり「物語」と上手に距離を置きつつバランスを保ちながら、新しい表現を生み出すべきだ、すくなくともその努力をすべきだ、という僕の願望です。
表現とは、百人の人間がいたとして、百人が理解できるものではないはずです。それは、人間が理解し合えないことと同義です。
百人の人間がいたとして、百人が理解できる(はずだ)というものは、もはや宗教です。ファシズムでしかありません。
ですが、作り手である以上は、百人の人間がいたら、百人の人間に理解されるものを作るよう、努力すべきでしょう。
「脱構築だから」「物語を放棄したんで」と、観客と向き合うことをせず、支離滅裂な話を展開するのは、自分たちで勝手にやってるぶんには良いですが、商業ベースでは勘弁してほしいです。
「物語」を放棄する、なんて脱構築なカッコイイことは、いくらでも言えます。
既に、その台詞自体が陳腐なる「物語」です。
そもそも、これらのことは、すべて理屈ですから。
机上でのことです。
ですが、作り手は、我々に感動を与えるための努力を怠るべきではないでしょう。
おそらく「愛より~」の監督は、かなりの努力はしたんでしょう。
ですが、東洋の島国の、エロいことばかり考えている卑小な僕の心には、その努力は届きませんでした。
うーん、残念だ、というのが実感です。
なんか、raidaisukiさんのご論を読んだ上でないと、この映画は楽しめないだろうなぁ、と思ってしまいました。
せめて、この映画を観る前に、raidaisukiさんのご論を読んでおきたかったです。
文化も考え方も生活習慣も違う東洋の島国の僕には、この映画は高尚すぎたのかもしれません。全く面白さを感じられませんでしたし。
下に人が歩いていたら…なんて考えて、ベランダに植木鉢も置けない、狭いアパート暮らしで、音楽の音量も絞りまくっている僕にとって、
のっけから、階下へ飲んでいるグラスを落として、ボリューム全開で音楽をかけて悦に入るザノの心情は、推し量ることなんて、どだい無理な話だったのかもしれません。
あるいは、予め勉強しておかないと、この映画は見てはいけなかったのかもしれません。
まあでも、予め勉強してから見なきゃいけない映画って…、と疑問に思わないでもないです。(^^;)
僕にとって映画はエンターテイメントでしかないんで。
すいません。m(_ _)m
ところで、この映画ですが、フランスでも大絶賛大ヒットなんでしょうか?
あ、あと、『ヒトラー最後の十日間』は良い映画だと思います。
長々と、勝手で支離滅裂な話を書き連ねてしまいました。
すいませんでした。
うーん、でも、やっぱり僕は「愛より~」は理解不可能な映画なんですね。(苦笑)
最後に…疑問です。
(
リスケ
)
2006-01-12 23:41:14
あ、最後に、疑問があるんで、質問いいですかね?
「この映画は夢の世界、別世界をスクリーンの上に作ろうとしてるんじゃなくて、できるだけ実世界、『この』世界に近いものを作って現実、『この』世界についての体験に近いものを観客に体験して欲しい、知って欲しいという態度で苦心して作られているんだという感覚を持つこと」
との心構え(予め勉強)しておくべし、ということでしたが、
それじゃあ、なんで監督はこの映画を「ノンフィクション映画」として撮らなかったんでしょうね?
「『この』世界についての体験に近いものを観客に体験して欲しい」というのであれば、この映画はノンフィクション映画ですよ、と宣伝すれば良いんじゃないでしょうか?
というより、これってノンフィクション映画なんですか?
ノンフィクション映画でしたら、僕はこの映画は完全な作り物(=虚構)だと勘違いして感想を述べていたことになりますね。
そりゃ、顰蹙を買うんだろうなぁ、と思ってしまいました。
お答えになっているか・・・
(
raidaisuki
)
2006-01-13 18:31:37
リスケさん
また釈迦に説法を重ねてしまいました。 m(_ _)m
この映画、実際にフランスの映画館の様子を見た訳ではありませんが、もちろん表通りのロードショー館で行列ができるような大ヒットをしているわけはないと思います。こういう映画の動員できる観客はフランスでも限られています。普通の人はアメリカ映画や、フランスの一般向け映画を見ているのです。
(音楽も同じことで、結局ふつうはアメリカやフランスのポピュラー音楽を聴いているのです)
ただ少し大量消費的映画、音楽からはずれたようなものに対する支持者の社会内における比率とかポジションとかは、フランスは日本よりは高いと思います。
そのぐらいのところです。でもこれでとりあえずは十分だと思います。
「物語を放棄する」というのは、たしかにひとつの物語です(『愛より強い旅』が物語放棄までいっているとは思いません。アルジェリアからフランスに逃げてきた父を持つ男性がガールフレンドとともに父の地アルジェリアに向かう、という最小限の物語があります。支えとしてこれで十分だと思います。「自分の居場所がない」という確認まで物語といってしまっていいのかは、ちょっとよくわかりません・・・)。
しかし逆に「人々に受け入れてもらうために魅力的物語を作るべきである。それをしないのは怠慢だ」というのも、やっぱりひとつの物語ではないでしょうか・・・
残念ながら、『アルジェの戦い』制作時ならともかく、現在のアルジェリアについて『ハイファに戻って』級の強力な物語を作るのは、わたしには大変困難のように思えます。映画だけでなく文学やその他のジャンルでも・・・
アルジェリアの事情をよく知らない外国人、たとえば日本人向けならそういう物語を作るのも可能かもしれませんが、それをやってしまうと、今度はアルジェリア人自身や、事情をある程度知っている人々には「嘘くさくて」「アルジェリアを侮辱するものだ」などの理由で、受け入れられないものになりそうです(『愛より強い旅』も、先に書きました通り、植民地時代へのノスタルジーだとして既にアルジェリアは公式に否定的見解を出してしまっているのです)。
これからアルジェリアについて強力な物語が絶対できないとはわたしも断言できません。
でも少なくともガトリフ監督にそれができないということについては、責める気にならないです。
それに、そういう物語の映画だと「悲しい映画」になるのが必定のように思います。先にも書きましたけど、悲しみを観客と共有しようというのもひとつのいき方ですが、お客を悲しませるのは悪い、どうせなら楽しい時間を共有したいという態度も、また潔い態度であると思います。こういう発想をするところが、おそらくフランス的態度が日本人にピンと来ないいちばん大きな原因だろうと思います。
ところで、リスケさんの書いておられることを(読むというより)眺めておりますと、なんとなくわたしたちのたっている場所の違いというものの性質が分かるような気もしました。
たぶん、リスケさんは「良い映画」(というか、自分に面白く感じられる映画、でしょうか)ということについて非常にはっきりしたイメージを、強く持っておられるのだと思います。映画はリスケさんにとってたいへん大事なもので、それだけに映画に要求するものも大きいのだと思います。
それに対して、わたしは映画というもの自体にそんなにこだわっていません。
だからこそ映画に、そんなに要求がないのだと思います。
わたしがこだわるのは、音楽です。
音楽だったら、よいと思う音楽のイメージが明白にあります。だからその場その場でいろんなことを言っていても、結局内心自分にはこういう音楽がいいな、というのがある感じがします。
「心構え」の話ですが、これは確かに書いた後で読んでみて、自分でも矛盾だなあと思いました。
でもこんなふうに言えないでしょうか。
「アルジェリアについての知識」の方は、映画の外で資料をあたったり、知っている人に聞いてみたりしないとまず分かりようのないものであるのに対し、映画の見方の方は、映画を見ながら自力で分かることもできうるものだ、というふうに。「これはこれまでわたしが見た映画と様子が違うな。どう見たらいいのだろう。作り手はどういうつもりでこんなことをしているのだろう?」と頭を働かせれば−−というよりむしろ作品に没頭してしまえば−−見方、製作意図というのは自力で相当分かる余地があると思います。少なくとも「映画にはいろんな作りのがある」という可能性さえ頭に入っていれば、ハリウッド型以外のものを見せられて全くお手上げということにはならないでしょう。それくらいでいいのだと思います。
(リスケさんの頭が固いというのではありません。さきほど述べましたように、リスケさんには映画というものについてのはっきりした強い要求がある、ということだと思います)。
そろそろ書く根気が尽きてきたので (^_^;) また次にさせていただきたいのですが、「ノンフィクション」問題について少しだけ。フィクション・ベースでいろいろ工夫を凝らす方が、最初から最後までべちゃっとノンフィクションというのより面白い効果、感覚を与えてくるということもあると思います。いずれにせよ『愛より強い旅』がノンフィクション(ドキュメンタリー)でないのは明らかであると思います。
わたしにとってノンフィクション的なところというのは、結局音楽演奏の部分だな・・・
お答えになっていたかはなはだ疑問ですが、今このくらいしか書けません。ご勘弁を。
またまた釈迦に説法になってましたらさらにご勘弁を。 m(_ _)m
フィクション/ノンフィクション
(
raidaisuki
)
2006-01-14 12:50:19
前の続きです。
フィクション中におけるノンフィクションというと、この映画でいえば、たいした箇所でもないですが、たとえばナイマがサッカー場で走り回るシーンはどうでしょうか。
(リスケさんに対してはもうまず間違いなく釈迦に説法だと思いますが、わたしは一応前提の確認と、例によって自分の思考の糸をたぐっている感じなので、ご容赦ください。もう「お答え」というより、勝手に書いてます。 m(_ _)m )
こういうところを目にすると、わたしとしては、ガトリフ監督が「おーいリュブナ、カメラ回すからちょっとそのへんで暴れてみてくれ」とかなんとか言って、リュブナ・アザバルがそれにこたえて動き回る、というような光景を思い浮かべます。
そのように了解したわたしとしては、撮影現場、カメラの横に立っているみたいに感じて、ガトリフ、リュブナと共にこの悪ふざけを楽しむわけです。(ここで「悪ふざけ」が悪ふざけであるためには、いま撮っているのがフィクションの映画である、という大前提を三人とも了解していなければいけないはずです)
たしか彼女はウォークマンはめてたと思いますので、観客も彼女と一緒にあの Uno, dos, tres, nada mas という曲を聴いて楽しむ感じを少しでも得られればよいのだと思います。(ちなみにこのウォークマンという小道具は、登場人物たちが聞いている「その」音を観客も聞いているような感覚を持たせるための手段として、この映画では不可欠な要素だと思います)
ところでリュブナはリュブナとしてふざけて見せているかもしれませんが、見ている観客としては、ひとつながりのフィクションの映画の中ですから、ある程度「あ、これはリュブナとしてふざけてるな」と感じても、結局彼女の姿がナイマとして見えることが完全になくなるということはあり得ないでしょう。リュブナとしての悪ふざけがいくらかは、ナイマの浮き浮きした気持ちからくる動きとして「リアル」に写るはずです。もちろん監督は、それを狙っているのだと思います。こうやってノンフィクションの生々しさをフィクションにとりこんで利用するのです。
フィクションとノンフィクションのとり結ぶ関係というのはいろいろ複雑なところがあると思いますが、このあたりが出発点だと思います・・・
それと音楽に関して付けたします。多くの日本の方が「この映画の音楽には、ピンと来ない」と言われますが、これはいまのところどうしようもないですね。日本ではラジオやテレビ等のメディアは、プロモートする組織力と資金力を持った業界勢力に完全に押さえられてますから、日本と米英以外のワールドミュージックがつけいる隙なんてありません。
聞いたこともない種類の音楽を一回聞いてピンと来るというのは非常に難しいです。日本は音楽的に鎖国状態です(ネット配信の時代に完全になったら、そのへんどうにかならないかと少し期待しているのですが・・・)。
業界の人たちは「ビジネス」をすることに誇りを持っているので、世界の文化の交流、異文化同士の理解が阻害されることは考慮しません。音楽は文化であるとともに、残念ながら(?)商品でもありますから。
(もっともこの映画に出てくる音楽は、どれも商業的なものではありません。ヨーロッパでならよく聞くことができる、という曲ではないです。かなり実験的なことをやっていて、ある種の人にはこういうのも面白い、というのはサウンドトラックCDの解説をご覧になれば分かると思います)
現状は仕方がないので、観客の方々にはむしろこの映画の方から音楽の方に興味を向けてくださればいいなあ、と思います。
わたしにとっては音楽は大事なもので「よい音楽とはこういうのでなければ」というのがはっきりあるので、あんまり音楽が人生の大事ではなくてそのへんを流れている音楽を適当に聞くというので十分、という人たちと同じ音楽では、残念ながら満足できないんです。
両者の考え方の違い
(
リスケ
)
2006-01-14 13:29:03
わざわざ僕のようなバカを相手してくれて、ありがとうございます。
より、両者の考え方の違いがはっきりしましたね。
一応、僕の立場から、raidaisukiさんの発言にツッコませてください。
「でも少なくともガトリフ監督にそれができないということについては、責める気にならないです。」
とのことですが、責められるべきは作品であって、監督を責めるのは酷でしょう。
「映画はリスケさんにとってたいへん大事なもので、それだけに映画に要求するものも大きいのだと思います。」
とのことですが、残念ながら僕は映画は大事なものではないんですねー。
一つの娯楽でしかないんですわ。
2~3年前なんて、仕事の関係で映画をほとんど見れませんでしたし。
映画を見れないことで、僕の人格が崩壊するようなこともありませんでしたしね。
といっても、もともと僕は人格が崩壊してますから。(笑)
最近、映画の試写会に応募するようになって、書評ブログやっているから、ついでに感想をアップするようにしたんです。
映画に求めるものは、強いて言えば入場料金に見合う「おもしろさ」ですかね。(僕は貧乏なのもので)
そういう意味では、raidaisukiさんのおっしゃる、フランス人の一般の人と変わるところはありません。
でも、きっとフランス人の人たちの方が知的水準は遙かに高いと思います。(笑)
「映画の見方の方は、映画を見ながら自力で分かることもできうるものだ、というふうに」
とのことでしたが、僕には映画を見ても全く理解できなかったんで、こういう議論になっているんだと思います。(苦笑)
「見方、製作意図というのは自力で相当分かる余地がある」
とのことですが、製作意図を読みとることが、すなわち映画にせよ文学にせよ、前提として必要なことなのでしょうか?
要は「テクストの向こう側にある製作意図を読みとる知性がない奴には、見る資格がない」ということでしょうかね?
大切なのは、作品(=フランス風にいえば、テクスト、でしょうか)ではなく、その向こう側にある製作意図なんですね?
とすれば、アルジェリアに無知で、ガトリフ監督の過去の作品も見たことなく、監督とも知己でもないような、僕のような知性の足りない奴は見るべきではなかったし、それの感想を発表するべきでもなかった、と。
そうですか。それでしたら謝罪します。すいませんでした。ごめんなさい。
「フィクション・ベースでいろいろ工夫を凝らす方が、最初から最後までべちゃっとノンフィクションというのより面白い効果、感覚を与えてくるということもあると思います。」
とのことですが、この世の中には「フィクション」でないもの、「物語」でないものは存在し得ないと僕は考えています。
「ノンフィクション」は、実は作為に満ちています。というより、芸術作品(映画にせよ、文学にせよ)では、「真実」というものはありえません。
その点は、森達也「ドキュメンタリーは嘘をつく」に詳しいです。(書評を書いていますので、よろしかったらご参考までに。
http://blog.livedoor.jp/sheep_tmc/archives/50288211.html
)
「それに対して、わたしは映画というもの自体にそんなにこだわっていません。
だからこそ映画に、そんなに要求がないのだと思います。
わたしがこだわるのは、音楽です。」
この言は「愛より強い旅」という映画作品に対して失礼なんじゃないでしょうか…。
いくらなんでも、それはないでしょう。
要は「映画」は別にどうでもいい、「音楽」さえ良ければいい、というわけですから、それじゃあ映画のサントラで十分じゃないですか。
これは確認しておきたいのですが、raidaisukiさんは、この映画(音楽ではない)を、本当に面白いと思ったのですか?
おそらく、raidaisukiさんと僕の立場の違いは、おそらく「作者」に拘るか、「作品」に拘るか、の違いだと思います。
僕は、さまざまな「作品」を消費する消費者として、「作品」に拘るしかないわけです。
また、僕のような大バカ野郎で、知己もいない、そういう人間は、そのように「作品」に拘ることでしか生きていけません。
そういう人間は、やはり映画なり文学なりの芸術について、発言は許されていないのでしょうか?
作り手の心情を想像して。
(
リスケ
)
2006-01-14 13:53:35
ナイマがサッカー場で走り回るシーンですが、僕が監督の心情までおりたって想像しすると、
普通の映画では失意で落ち込む場面になるが、
そうなると「物語」の紋切り型になってしまう。
とりあえず失意で落ち込むんじゃなくて、「物語」とは反対の、テンションをあげる場面をもってこよう。
こうやって支離滅裂さをアピールしておけば、「脱構築だ」とか「物語を放棄した」と絶賛されるだろう。
一般の観客にはとりあえずエロ場面で萌えさせておけ。
意味ありげで意味がない適当な場面をつなぎ合わせておけば、批評家どもは勝手に「脱構築ですばらしい」って解釈するんだ。
こいつらは、俺の掌の上で踊っていやがるぜ。
なんて考えて、カメラ回したんじゃないでしょうか?
さあどうでしょうか・・・
(
raidaisuki
)
2006-01-14 15:29:27
リスケさん
いろいろ刺激的なご意見ありがとうございます(皮肉ではなく)。
しかしリスケさんがバカだったら、わたしは大バカの極地でしょうね。 (^_^;)
まあ、大バカでもなんとか生きてます。 f(^_^;)v
フランス人が一枚岩的に日本人全体より知的水準が高いなんてそんな話はあるわけないです。ただ知識人とそうでない人の意識の隔たりが大きい気はします。
日本人は知的には相当高いレベルで均一化していると思いますが、これまでは教養主義を志向するかそれに反発するかという差が大きかったのだと思います。これからどうなっていくかわたしにも分かりません。
さてサッカー場のシーンですが、ナイマはこういう場面でハイになる(なってみせる)方が自然な子だと思いますよ。その意味では全く紋切り型の物語です。
それから、リスケさんとわたしの差が作品/作者にあるとのお話ですが、さあどうでしょうか。わたしも作品が最重要なのは明白と思いますから・・・
すみませんが、続きはまたしばらく経ってからにさせてください。土日もずっと仕事している人間ですので。 m(_ _)m
僕も仕事中です。
(
リスケ
)
2006-01-14 16:34:23
こちらこそ、失礼な物言いで申し訳ありません。
ご不快になられたと思います。すいません。
raidaisukiさんには、物語=悪、脱構築=善、という図式があるのと同様に、商業=悪という図式があるような気がしますが、気のせいでしょうか。
僕はそれこそ物語や商売のお先棒を担いでいる一人なんです。そんな僕も今仕事中です。
お先棒を担いでいる真っ最中です。(笑)
土日も仕事という点では同じですね。
リストラにいつあうのか、毎日怯えています。(^^;)
とりあえず、お互いに体に気をつけて頑張りましょう。
物語、脱構築、商業
(
raidaisuki
)
2006-01-14 19:08:19
物語は、悪とは思いませんが、たしかに警戒はしています。たいていのものはクサいと感じます。
脱構築は、人から見るとわたしのやってることはそれだと言われることもありますが、それにこだわっている気は毛頭ありません。
商業も、悪じゃありませんが、日本はほっとくと商業オンリーに突っ走ってしまう恐れがあると思います。そうなると日本で売れない外国文化は根絶やしになってしまって、世界から孤立するばかり。そうなると結局商業自体が全体的にだめになるような気が。そういう警告のスタンスが反商業的にみられるのかもしれません。
『愛より強い旅』のタイトルはたしかにへたれですが、映画会社としては少しでも若い女性という一番来そうな客層に受けるタイトルと思ってつけたんでしょう。万一興行的に惨敗となり、もうこれ以後同種の映画は扱わないてなことになったら、タイトルもへっちゃくれもなくなります・・・ (^_^;)
あ、別にだからこの映画を弁護しているわけではありません。念のため。 f(^_^;)
作品/作者?
(
raidaisuki
)
2006-01-17 18:09:22
リスケさん
この映画が本当に面白かったのか、とのご質問ですが、本質的な問題なのでゆっくり考えてみました。
・・・しかし、そうですねえ、「音楽が大きく入ったこの映画」が面白かったのだ、としか言いようがないように思います・・・
サウンドトラックというのは、映画に依存しているからサウンドトラックなのではないでしょうか。それにサウンドトラックCDだけ聞くときだって映画の記憶を重ねながら聞くわけで、CDだけで自立しているということになるわけがないです。そういう話ではないように思います。
それから「映画にこだわらない、音楽にこだわる」というのは、たとえば無人島に連れて行かれるとき、もっていくものは音楽CDか映画DVDか・・・その他のジャンルからひとつを選べと言われたら、わたしは音楽CDを選びます、そしてわたしが非常に好む音楽とそうなりうると現時点で考えるものをとりあえず持っていきます、というくらいの意味です。
それがこの映画に失礼、ということになるのでしたら、どうもすみません、と平謝りするしかないです・・・ m(_ _)m m(_ _)m m(_ _)m
それだったらわたしにはこの映画についてお話しする資格がはじめからなかったわけで、どうも申し訳ありませんでした。m(_ _)m m(_ _)m m(_ _)m
だけど・・・なんかそれも話がおかしいように思われませんか? (^_^;)v
リスケさんの、予備知識がなかったから自分は見る資格がなかったんですか、という立論も、おかしな話のように思います。
さて、引用する形の論争はすぐ売り言葉に買い言葉になりそうであんまり好きではないのですが、あえて引用させていただくと監督は責めるべきではない、作品を責めるべきというのは、どうお答えしていいのやら、わたしには分からないということを白状しておきます。作品というのは人ではないのですから、できが悪いとはいえますが、責めは負わせようがないと思います。
このあとはかなり一般的な話になると思いますので、新たなエントリーにします。
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前のエントリー「アルジェリアの傷」は、とてもためになりました。民族として引き裂かれた感覚は、理屈の上ではよくわかりました。また、映画でもそこいらへんはうまく描いていたと思います。
「オハナシ」=物語ということなんだろうと思いますが、実は物語というのは強かです。
人間は、どのようなものにでも、無意識にせよ意識するにせよ、物語を見出してしまうものではないでしょうか?
「オハナシの面白さとは別の意味で、面白い」とおっしゃった感覚は、確かに共感できますが、じつはそのような感覚も、物語の結構によってもたらされていると、僕は考えています。
すぐれた映画は、そういう物語の結構が、観客には気づかれないように巧妙に張り巡らされているはずです。
そういう意味では、この作品は、そういう巧妙さはなかったと思います。あるいは、放棄している、と言うべきかもしれません。
物語に囚われるのではなく、物語を操りつつ、新しい映像で我々に感動をもたらす―そういう点で評価すれば、この映画は僕にはピンとこない映画でした。ごめんなさい。
やっぱり釈迦に説法だったみたいです。ごめんなさい。 m(_ _)m
それでは「物語」でいきます。 (^_^)
物語という言葉の定義の仕方にもよりますが、物語の結構が映画体験のベースを支えているという考え方は、まったく妥当なものとわたしも思います。
ただ、ここがリスケさんとの考え方の違いなのだと思いますが、支えているからといって物語に必ず凝らなければならないとか、物語に凝っていない作品は優れた作品でない、ということはないと思うのです。
おっしゃる通り物語とは強力なものです。ということは反面たいへん危険なものでもあるはずです。この映画はそういう危ないものを意識的に捨てているというか、少なくともあんまり頼っていないというのが分かるので、観客からみて安心できる態度のようにわたしには感じられるのです。
人間が物語を紡ぎだすというのはほとんど本能的なことで、生きる原動力そのものなのかもしれません。
だからこそ、ある映画(や小説や漫画や・・・)の提示した物語が人々の心に深く根をおろして、多くの人々が自発的に紡ぎだす物語がみなそれと似たような、同方向を向いたものになっていくとしたら、それはわたしには双手をあげて肯定すべきこととは思えないのです。
さらにそれが観客に気付かれないように巧妙に張り巡らされた物語だとしたらますます、ちょっと、というか非常に危険ではないでしょうか。
観客がだれひとり意識しないところに強力な物語を忍び込ませて、その物語の力で人々を完全に魅了できる映画の作り手がいたら、その人は世界の帝王になれるでしょうから。
わたしのとくに恐れるのは、ひとつの強力な物語が人々の心に根をおろしてしまうと、それ以外の物語に関心がなくなる、ピンと来なくなるんじゃないかということです。ある人にとっては命と同じくらい大事であるような物語が、大勢が共有している物語と違うからといって理解してもらえなくなる、というのは、あんまり起こって欲しくない状況のように思うのですが・・・
ところで、リスケさんは他にどんな映画を見てどんなことを言っておられるのかなと思って貴ブログをみてみたんですが、扱っておられる映画のなかでひとつだけわたしも見たのがありました。
『ヒトラー最後の十日間』
ぎょえー。 (^_^;)
あの時代にヒトラー本人を含めたドイツの人たちの大きな部分が抱いていた「物語」は、これほどはた迷惑なのはないっていう「物語」だったでしょうね・・・ (もちろん日本人も他人事みたいなことは言えないんですけど・・・)
あの映画については既に書いてますけど、なんだかまた書きたくなってきました。
いずれ、リスケさん宛ということでなく、自分の考えを追う形で書きたいと思います。
ありがとうございます。
いろいろと興味深く読ませていただきました。
ちょっと話が「物語」論の方へと脱線しつつありますが…。(^^)
確かに、物語はファシズムに利用されうる恐ろしいものであることも事実です。
一つの方向にのみ「物語」が作用することの危険性については、常に自覚しておくべきだと思います。
その点は同感です。
映画の作り手は、別にどこかの政府から金貰ってプロパガンダ作っているわけではないわけですから、各監督は自由に作るべきです。それは前提です。
「ある人にとっては命と同じくらい大事であるような物語が、大勢が共有している物語と違うからといって理解してもらえなくなる、というのは、あんまり起こって欲しくない状況のように思うのですが・・・」というのは、おっしゃる通りだと思います。同感です。
ですが、それほど「命と同じくらい大事であるような物語」であるならば、それを我々に理解させる努力はすべきではないでしょうか。
僕は、「愛より~」からは、「命と同じくらい大事であるような物語」は感じ取れませんでした。そのような切実さを感じませんでした。
やはり、観客に向かい合ってない映画は、僕は面白くないと思います。
特に、金を観客から取っているプロなんですし。
作り手は、ですから既存の物語の枠組みを借用したり、ずらしたり、いろいろと苦しみながら新しい物語を紡ぎ出すのだと思います。
その意味でいえば、残念ながら「愛より~」は、僕にはピンときませんでした。
新しさを感じませんでした、残念なことに。
特に、僕が陳腐だと感じたのは、かつての家に向かい、ザノが暖かく迎えられる、というくだりです。
ここで僕が連想したのは、ガッサーン・カナファーニーの中編『ハイファに戻って』です。この本でも、故郷を追い出されたサイードは、かつての家に向かい、今の住人と話し合います。
このように、かつての家に向かい、ザノが迎えられ、自分のルーツを確認する、あるいは自分の居場所がないことを再確認する、という話のパターンは、実はすでに一つの紋切り型としてあるのだと思います。
こういう「引用」、(あるいは「本歌取り」(?))は、映画の一技法であることはわかります。
そもそも、「愛より~」が、『ハイファに戻って』を引用しているかどうかも、議論があると思います。
ですが、『ハイファに戻って』の方が、よりスリリングだし、物語としてのヒネリが利いているんですね。僕は断然『ハイファに戻って』の方が好きです。
ひるがえって、「愛より~」は、物語として新しさはあるでしょうか?
「自分は、本来いるべき場所にいない」というメッセージが、この映画に秘められているとしたら、でも、そんなことは既にうんざりするくらい陳腐な「物語」なのではないでしょうか?
「物語に囚われるのではなく、物語を操りつつ、新しい映像で我々に感動をもたらす」というのは、別に「一つの強力なベクトルを持つ物語を作れ」という事を言いたいわけではなくて、
「物語を操りつつ」、つまり「物語」と上手に距離を置きつつバランスを保ちながら、新しい表現を生み出すべきだ、すくなくともその努力をすべきだ、という僕の願望です。
表現とは、百人の人間がいたとして、百人が理解できるものではないはずです。それは、人間が理解し合えないことと同義です。
百人の人間がいたとして、百人が理解できる(はずだ)というものは、もはや宗教です。ファシズムでしかありません。
ですが、作り手である以上は、百人の人間がいたら、百人の人間に理解されるものを作るよう、努力すべきでしょう。
「脱構築だから」「物語を放棄したんで」と、観客と向き合うことをせず、支離滅裂な話を展開するのは、自分たちで勝手にやってるぶんには良いですが、商業ベースでは勘弁してほしいです。
「物語」を放棄する、なんて脱構築なカッコイイことは、いくらでも言えます。
既に、その台詞自体が陳腐なる「物語」です。
そもそも、これらのことは、すべて理屈ですから。
机上でのことです。
ですが、作り手は、我々に感動を与えるための努力を怠るべきではないでしょう。
おそらく「愛より~」の監督は、かなりの努力はしたんでしょう。
ですが、東洋の島国の、エロいことばかり考えている卑小な僕の心には、その努力は届きませんでした。
うーん、残念だ、というのが実感です。
なんか、raidaisukiさんのご論を読んだ上でないと、この映画は楽しめないだろうなぁ、と思ってしまいました。
せめて、この映画を観る前に、raidaisukiさんのご論を読んでおきたかったです。
文化も考え方も生活習慣も違う東洋の島国の僕には、この映画は高尚すぎたのかもしれません。全く面白さを感じられませんでしたし。
下に人が歩いていたら…なんて考えて、ベランダに植木鉢も置けない、狭いアパート暮らしで、音楽の音量も絞りまくっている僕にとって、
のっけから、階下へ飲んでいるグラスを落として、ボリューム全開で音楽をかけて悦に入るザノの心情は、推し量ることなんて、どだい無理な話だったのかもしれません。
あるいは、予め勉強しておかないと、この映画は見てはいけなかったのかもしれません。
まあでも、予め勉強してから見なきゃいけない映画って…、と疑問に思わないでもないです。(^^;)
僕にとって映画はエンターテイメントでしかないんで。
すいません。m(_ _)m
ところで、この映画ですが、フランスでも大絶賛大ヒットなんでしょうか?
あ、あと、『ヒトラー最後の十日間』は良い映画だと思います。
長々と、勝手で支離滅裂な話を書き連ねてしまいました。
すいませんでした。
うーん、でも、やっぱり僕は「愛より~」は理解不可能な映画なんですね。(苦笑)
「この映画は夢の世界、別世界をスクリーンの上に作ろうとしてるんじゃなくて、できるだけ実世界、『この』世界に近いものを作って現実、『この』世界についての体験に近いものを観客に体験して欲しい、知って欲しいという態度で苦心して作られているんだという感覚を持つこと」
との心構え(予め勉強)しておくべし、ということでしたが、
それじゃあ、なんで監督はこの映画を「ノンフィクション映画」として撮らなかったんでしょうね?
「『この』世界についての体験に近いものを観客に体験して欲しい」というのであれば、この映画はノンフィクション映画ですよ、と宣伝すれば良いんじゃないでしょうか?
というより、これってノンフィクション映画なんですか?
ノンフィクション映画でしたら、僕はこの映画は完全な作り物(=虚構)だと勘違いして感想を述べていたことになりますね。
そりゃ、顰蹙を買うんだろうなぁ、と思ってしまいました。
また釈迦に説法を重ねてしまいました。 m(_ _)m
この映画、実際にフランスの映画館の様子を見た訳ではありませんが、もちろん表通りのロードショー館で行列ができるような大ヒットをしているわけはないと思います。こういう映画の動員できる観客はフランスでも限られています。普通の人はアメリカ映画や、フランスの一般向け映画を見ているのです。
(音楽も同じことで、結局ふつうはアメリカやフランスのポピュラー音楽を聴いているのです)
ただ少し大量消費的映画、音楽からはずれたようなものに対する支持者の社会内における比率とかポジションとかは、フランスは日本よりは高いと思います。
そのぐらいのところです。でもこれでとりあえずは十分だと思います。
「物語を放棄する」というのは、たしかにひとつの物語です(『愛より強い旅』が物語放棄までいっているとは思いません。アルジェリアからフランスに逃げてきた父を持つ男性がガールフレンドとともに父の地アルジェリアに向かう、という最小限の物語があります。支えとしてこれで十分だと思います。「自分の居場所がない」という確認まで物語といってしまっていいのかは、ちょっとよくわかりません・・・)。
しかし逆に「人々に受け入れてもらうために魅力的物語を作るべきである。それをしないのは怠慢だ」というのも、やっぱりひとつの物語ではないでしょうか・・・
残念ながら、『アルジェの戦い』制作時ならともかく、現在のアルジェリアについて『ハイファに戻って』級の強力な物語を作るのは、わたしには大変困難のように思えます。映画だけでなく文学やその他のジャンルでも・・・
アルジェリアの事情をよく知らない外国人、たとえば日本人向けならそういう物語を作るのも可能かもしれませんが、それをやってしまうと、今度はアルジェリア人自身や、事情をある程度知っている人々には「嘘くさくて」「アルジェリアを侮辱するものだ」などの理由で、受け入れられないものになりそうです(『愛より強い旅』も、先に書きました通り、植民地時代へのノスタルジーだとして既にアルジェリアは公式に否定的見解を出してしまっているのです)。
これからアルジェリアについて強力な物語が絶対できないとはわたしも断言できません。
でも少なくともガトリフ監督にそれができないということについては、責める気にならないです。
それに、そういう物語の映画だと「悲しい映画」になるのが必定のように思います。先にも書きましたけど、悲しみを観客と共有しようというのもひとつのいき方ですが、お客を悲しませるのは悪い、どうせなら楽しい時間を共有したいという態度も、また潔い態度であると思います。こういう発想をするところが、おそらくフランス的態度が日本人にピンと来ないいちばん大きな原因だろうと思います。
ところで、リスケさんの書いておられることを(読むというより)眺めておりますと、なんとなくわたしたちのたっている場所の違いというものの性質が分かるような気もしました。
たぶん、リスケさんは「良い映画」(というか、自分に面白く感じられる映画、でしょうか)ということについて非常にはっきりしたイメージを、強く持っておられるのだと思います。映画はリスケさんにとってたいへん大事なもので、それだけに映画に要求するものも大きいのだと思います。
それに対して、わたしは映画というもの自体にそんなにこだわっていません。
だからこそ映画に、そんなに要求がないのだと思います。
わたしがこだわるのは、音楽です。
音楽だったら、よいと思う音楽のイメージが明白にあります。だからその場その場でいろんなことを言っていても、結局内心自分にはこういう音楽がいいな、というのがある感じがします。
「心構え」の話ですが、これは確かに書いた後で読んでみて、自分でも矛盾だなあと思いました。
でもこんなふうに言えないでしょうか。
「アルジェリアについての知識」の方は、映画の外で資料をあたったり、知っている人に聞いてみたりしないとまず分かりようのないものであるのに対し、映画の見方の方は、映画を見ながら自力で分かることもできうるものだ、というふうに。「これはこれまでわたしが見た映画と様子が違うな。どう見たらいいのだろう。作り手はどういうつもりでこんなことをしているのだろう?」と頭を働かせれば−−というよりむしろ作品に没頭してしまえば−−見方、製作意図というのは自力で相当分かる余地があると思います。少なくとも「映画にはいろんな作りのがある」という可能性さえ頭に入っていれば、ハリウッド型以外のものを見せられて全くお手上げということにはならないでしょう。それくらいでいいのだと思います。
(リスケさんの頭が固いというのではありません。さきほど述べましたように、リスケさんには映画というものについてのはっきりした強い要求がある、ということだと思います)。
そろそろ書く根気が尽きてきたので (^_^;) また次にさせていただきたいのですが、「ノンフィクション」問題について少しだけ。フィクション・ベースでいろいろ工夫を凝らす方が、最初から最後までべちゃっとノンフィクションというのより面白い効果、感覚を与えてくるということもあると思います。いずれにせよ『愛より強い旅』がノンフィクション(ドキュメンタリー)でないのは明らかであると思います。
わたしにとってノンフィクション的なところというのは、結局音楽演奏の部分だな・・・
お答えになっていたかはなはだ疑問ですが、今このくらいしか書けません。ご勘弁を。
またまた釈迦に説法になってましたらさらにご勘弁を。 m(_ _)m
フィクション中におけるノンフィクションというと、この映画でいえば、たいした箇所でもないですが、たとえばナイマがサッカー場で走り回るシーンはどうでしょうか。
(リスケさんに対してはもうまず間違いなく釈迦に説法だと思いますが、わたしは一応前提の確認と、例によって自分の思考の糸をたぐっている感じなので、ご容赦ください。もう「お答え」というより、勝手に書いてます。 m(_ _)m )
こういうところを目にすると、わたしとしては、ガトリフ監督が「おーいリュブナ、カメラ回すからちょっとそのへんで暴れてみてくれ」とかなんとか言って、リュブナ・アザバルがそれにこたえて動き回る、というような光景を思い浮かべます。
そのように了解したわたしとしては、撮影現場、カメラの横に立っているみたいに感じて、ガトリフ、リュブナと共にこの悪ふざけを楽しむわけです。(ここで「悪ふざけ」が悪ふざけであるためには、いま撮っているのがフィクションの映画である、という大前提を三人とも了解していなければいけないはずです)
たしか彼女はウォークマンはめてたと思いますので、観客も彼女と一緒にあの Uno, dos, tres, nada mas という曲を聴いて楽しむ感じを少しでも得られればよいのだと思います。(ちなみにこのウォークマンという小道具は、登場人物たちが聞いている「その」音を観客も聞いているような感覚を持たせるための手段として、この映画では不可欠な要素だと思います)
ところでリュブナはリュブナとしてふざけて見せているかもしれませんが、見ている観客としては、ひとつながりのフィクションの映画の中ですから、ある程度「あ、これはリュブナとしてふざけてるな」と感じても、結局彼女の姿がナイマとして見えることが完全になくなるということはあり得ないでしょう。リュブナとしての悪ふざけがいくらかは、ナイマの浮き浮きした気持ちからくる動きとして「リアル」に写るはずです。もちろん監督は、それを狙っているのだと思います。こうやってノンフィクションの生々しさをフィクションにとりこんで利用するのです。
フィクションとノンフィクションのとり結ぶ関係というのはいろいろ複雑なところがあると思いますが、このあたりが出発点だと思います・・・
それと音楽に関して付けたします。多くの日本の方が「この映画の音楽には、ピンと来ない」と言われますが、これはいまのところどうしようもないですね。日本ではラジオやテレビ等のメディアは、プロモートする組織力と資金力を持った業界勢力に完全に押さえられてますから、日本と米英以外のワールドミュージックがつけいる隙なんてありません。
聞いたこともない種類の音楽を一回聞いてピンと来るというのは非常に難しいです。日本は音楽的に鎖国状態です(ネット配信の時代に完全になったら、そのへんどうにかならないかと少し期待しているのですが・・・)。
業界の人たちは「ビジネス」をすることに誇りを持っているので、世界の文化の交流、異文化同士の理解が阻害されることは考慮しません。音楽は文化であるとともに、残念ながら(?)商品でもありますから。
(もっともこの映画に出てくる音楽は、どれも商業的なものではありません。ヨーロッパでならよく聞くことができる、という曲ではないです。かなり実験的なことをやっていて、ある種の人にはこういうのも面白い、というのはサウンドトラックCDの解説をご覧になれば分かると思います)
現状は仕方がないので、観客の方々にはむしろこの映画の方から音楽の方に興味を向けてくださればいいなあ、と思います。
わたしにとっては音楽は大事なもので「よい音楽とはこういうのでなければ」というのがはっきりあるので、あんまり音楽が人生の大事ではなくてそのへんを流れている音楽を適当に聞くというので十分、という人たちと同じ音楽では、残念ながら満足できないんです。
より、両者の考え方の違いがはっきりしましたね。
一応、僕の立場から、raidaisukiさんの発言にツッコませてください。
「でも少なくともガトリフ監督にそれができないということについては、責める気にならないです。」
とのことですが、責められるべきは作品であって、監督を責めるのは酷でしょう。
「映画はリスケさんにとってたいへん大事なもので、それだけに映画に要求するものも大きいのだと思います。」
とのことですが、残念ながら僕は映画は大事なものではないんですねー。
一つの娯楽でしかないんですわ。
2~3年前なんて、仕事の関係で映画をほとんど見れませんでしたし。
映画を見れないことで、僕の人格が崩壊するようなこともありませんでしたしね。
といっても、もともと僕は人格が崩壊してますから。(笑)
最近、映画の試写会に応募するようになって、書評ブログやっているから、ついでに感想をアップするようにしたんです。
映画に求めるものは、強いて言えば入場料金に見合う「おもしろさ」ですかね。(僕は貧乏なのもので)
そういう意味では、raidaisukiさんのおっしゃる、フランス人の一般の人と変わるところはありません。
でも、きっとフランス人の人たちの方が知的水準は遙かに高いと思います。(笑)
「映画の見方の方は、映画を見ながら自力で分かることもできうるものだ、というふうに」
とのことでしたが、僕には映画を見ても全く理解できなかったんで、こういう議論になっているんだと思います。(苦笑)
「見方、製作意図というのは自力で相当分かる余地がある」
とのことですが、製作意図を読みとることが、すなわち映画にせよ文学にせよ、前提として必要なことなのでしょうか?
要は「テクストの向こう側にある製作意図を読みとる知性がない奴には、見る資格がない」ということでしょうかね?
大切なのは、作品(=フランス風にいえば、テクスト、でしょうか)ではなく、その向こう側にある製作意図なんですね?
とすれば、アルジェリアに無知で、ガトリフ監督の過去の作品も見たことなく、監督とも知己でもないような、僕のような知性の足りない奴は見るべきではなかったし、それの感想を発表するべきでもなかった、と。
そうですか。それでしたら謝罪します。すいませんでした。ごめんなさい。
「フィクション・ベースでいろいろ工夫を凝らす方が、最初から最後までべちゃっとノンフィクションというのより面白い効果、感覚を与えてくるということもあると思います。」
とのことですが、この世の中には「フィクション」でないもの、「物語」でないものは存在し得ないと僕は考えています。
「ノンフィクション」は、実は作為に満ちています。というより、芸術作品(映画にせよ、文学にせよ)では、「真実」というものはありえません。
その点は、森達也「ドキュメンタリーは嘘をつく」に詳しいです。(書評を書いていますので、よろしかったらご参考までに。http://blog.livedoor.jp/sheep_tmc/archives/50288211.html)
「それに対して、わたしは映画というもの自体にそんなにこだわっていません。
だからこそ映画に、そんなに要求がないのだと思います。
わたしがこだわるのは、音楽です。」
この言は「愛より強い旅」という映画作品に対して失礼なんじゃないでしょうか…。
いくらなんでも、それはないでしょう。
要は「映画」は別にどうでもいい、「音楽」さえ良ければいい、というわけですから、それじゃあ映画のサントラで十分じゃないですか。
これは確認しておきたいのですが、raidaisukiさんは、この映画(音楽ではない)を、本当に面白いと思ったのですか?
おそらく、raidaisukiさんと僕の立場の違いは、おそらく「作者」に拘るか、「作品」に拘るか、の違いだと思います。
僕は、さまざまな「作品」を消費する消費者として、「作品」に拘るしかないわけです。
また、僕のような大バカ野郎で、知己もいない、そういう人間は、そのように「作品」に拘ることでしか生きていけません。
そういう人間は、やはり映画なり文学なりの芸術について、発言は許されていないのでしょうか?
普通の映画では失意で落ち込む場面になるが、
そうなると「物語」の紋切り型になってしまう。
とりあえず失意で落ち込むんじゃなくて、「物語」とは反対の、テンションをあげる場面をもってこよう。
こうやって支離滅裂さをアピールしておけば、「脱構築だ」とか「物語を放棄した」と絶賛されるだろう。
一般の観客にはとりあえずエロ場面で萌えさせておけ。
意味ありげで意味がない適当な場面をつなぎ合わせておけば、批評家どもは勝手に「脱構築ですばらしい」って解釈するんだ。
こいつらは、俺の掌の上で踊っていやがるぜ。
なんて考えて、カメラ回したんじゃないでしょうか?
いろいろ刺激的なご意見ありがとうございます(皮肉ではなく)。
しかしリスケさんがバカだったら、わたしは大バカの極地でしょうね。 (^_^;)
まあ、大バカでもなんとか生きてます。 f(^_^;)v
フランス人が一枚岩的に日本人全体より知的水準が高いなんてそんな話はあるわけないです。ただ知識人とそうでない人の意識の隔たりが大きい気はします。
日本人は知的には相当高いレベルで均一化していると思いますが、これまでは教養主義を志向するかそれに反発するかという差が大きかったのだと思います。これからどうなっていくかわたしにも分かりません。
さてサッカー場のシーンですが、ナイマはこういう場面でハイになる(なってみせる)方が自然な子だと思いますよ。その意味では全く紋切り型の物語です。
それから、リスケさんとわたしの差が作品/作者にあるとのお話ですが、さあどうでしょうか。わたしも作品が最重要なのは明白と思いますから・・・
すみませんが、続きはまたしばらく経ってからにさせてください。土日もずっと仕事している人間ですので。 m(_ _)m
ご不快になられたと思います。すいません。
raidaisukiさんには、物語=悪、脱構築=善、という図式があるのと同様に、商業=悪という図式があるような気がしますが、気のせいでしょうか。
僕はそれこそ物語や商売のお先棒を担いでいる一人なんです。そんな僕も今仕事中です。
お先棒を担いでいる真っ最中です。(笑)
土日も仕事という点では同じですね。
リストラにいつあうのか、毎日怯えています。(^^;)
とりあえず、お互いに体に気をつけて頑張りましょう。
脱構築は、人から見るとわたしのやってることはそれだと言われることもありますが、それにこだわっている気は毛頭ありません。
商業も、悪じゃありませんが、日本はほっとくと商業オンリーに突っ走ってしまう恐れがあると思います。そうなると日本で売れない外国文化は根絶やしになってしまって、世界から孤立するばかり。そうなると結局商業自体が全体的にだめになるような気が。そういう警告のスタンスが反商業的にみられるのかもしれません。
『愛より強い旅』のタイトルはたしかにへたれですが、映画会社としては少しでも若い女性という一番来そうな客層に受けるタイトルと思ってつけたんでしょう。万一興行的に惨敗となり、もうこれ以後同種の映画は扱わないてなことになったら、タイトルもへっちゃくれもなくなります・・・ (^_^;)
あ、別にだからこの映画を弁護しているわけではありません。念のため。 f(^_^;)
この映画が本当に面白かったのか、とのご質問ですが、本質的な問題なのでゆっくり考えてみました。
・・・しかし、そうですねえ、「音楽が大きく入ったこの映画」が面白かったのだ、としか言いようがないように思います・・・
サウンドトラックというのは、映画に依存しているからサウンドトラックなのではないでしょうか。それにサウンドトラックCDだけ聞くときだって映画の記憶を重ねながら聞くわけで、CDだけで自立しているということになるわけがないです。そういう話ではないように思います。
それから「映画にこだわらない、音楽にこだわる」というのは、たとえば無人島に連れて行かれるとき、もっていくものは音楽CDか映画DVDか・・・その他のジャンルからひとつを選べと言われたら、わたしは音楽CDを選びます、そしてわたしが非常に好む音楽とそうなりうると現時点で考えるものをとりあえず持っていきます、というくらいの意味です。
それがこの映画に失礼、ということになるのでしたら、どうもすみません、と平謝りするしかないです・・・ m(_ _)m m(_ _)m m(_ _)m
それだったらわたしにはこの映画についてお話しする資格がはじめからなかったわけで、どうも申し訳ありませんでした。m(_ _)m m(_ _)m m(_ _)m
だけど・・・なんかそれも話がおかしいように思われませんか? (^_^;)v
リスケさんの、予備知識がなかったから自分は見る資格がなかったんですか、という立論も、おかしな話のように思います。
さて、引用する形の論争はすぐ売り言葉に買い言葉になりそうであんまり好きではないのですが、あえて引用させていただくと監督は責めるべきではない、作品を責めるべきというのは、どうお答えしていいのやら、わたしには分からないということを白状しておきます。作品というのは人ではないのですから、できが悪いとはいえますが、責めは負わせようがないと思います。
このあとはかなり一般的な話になると思いますので、新たなエントリーにします。