ケベックからの視線


このエントリーから続きます)

 ポロックとネイティブ・アメリカンのお話もしましたけど、過去の土着の文化と、その文化を作りだした人々と血は繋がっていない現在の居住者たる芸術家が深い関係を結ぶ、というのが実にラテンアメリカ的、とくにメキシコ的なんだと思います。
 ジェラール・ブシャールのこの本を読んだとき、ずいぶん合点がいったものです。例として原文の一節と、日本で公刊されている邦訳の該当箇所を並べます(原文一行目のces représentationsとは、原住民のインディオたちがカトリックを自分たちの文化の中に取りいれ、混交させてできた諸表象ということだと思います)。邦訳はわたくしにはちょっと不満ですが、訳の問題もまた示唆に富むと思います。
 
 Les Créoles épousèrent ces représentations qui furent à l'origine du premier indigénisme. Au Méxique, comme ailleurs en Amérique latine, il est remarquable que les plus anciennes expressions du sentiment ou de l'idée nationale incluaient l'indianité comme composante essentielle. Il faut voir là les racines des identités nationales qui s'épanouirent aux XIXe et XXe siècles en s'appuyant sur l'Etat. La notion d'appropriation convient tout à fait pour désigner les processus d'emprunt, de métissage et d'acculturation auxquels se livrèrent les Créoles. Dans la vie quotidienne, ils incorporaient de nombreux éléments indiens, et parfois africains. Sur le plan biologique, ils se réclamaient du mélange des races ; peu à peu, le métis devint la figure authentique de l'américanité et prit le pas sur le Créole, qu'il finit par l'englober.
(Gérard Bouchard, Genèse des nations et cultures du Nouveau Monde, chapitre IV : Essor de la conscience nationale au Mexique et en Amérique latine, Boréal, Montréal, 2001, (orig.2000), p.195.)

 クリオージョたちは、こうした最初のインディヘニスモの表象を擁護した。他のラテンアメリカ諸国同様、メキシコにおいても、ナショナルな感情や思想を表す最も古い表現の中に、基本要素としてインディオの文化が含まれていたというのは注目すべきことである。十九世紀・二十世紀に、国家というものを拠り所として花開いたナショナル・アイデンティティの根を、ここに見なければならない。領有という概念は、クリオージョたちが身をゆだねていた借用・混血・異文化受容という過程を示すのに、非常に適している。クリオージョたちは、多くのインディオ的要素、ときには黒人的要素までを日常生活に取り入れた。生物学的側面については、彼らは異種族の雑婚を引き合いに出した。少しずつではあるが、混血の人々がラテンアメリカの正当な人間となり、クリオージョの人々を凌駕し、最後にはこの二つが合体したのである。
(ジェラール・ブシャール『ケベックの生成と「新世界」/「ネイション」と「アイデンティティ」をめぐる比較史』、第四章「メキシコとラテンアメリカ諸国におけるネイション意識の高まり」、彩流社、2007年、p.219)

 épousèrentは「擁護した」より「自らのものとして引き受けた」、appropriationも「領有」より「取り入れ」くらいに訳すべきだと思います。
 こういうのは日本の人には非常に分かりにくい、というか「抵抗のある」発想だと思うのですが、いかがでしょうか。

 この本はカナダ人、ケベック人ならではの視点から書かれた、興味深い本です。ご一読をお勧めします。
 これからの時代、アメリカとか、フランスとか、ドイツとか、イギリスとか、そして日本とか、「何か背負っている」または厳密には「20世紀に」かなり重いものを背負っていたクニからの声だけじゃなくて、カナダみたいなところ――そしてメキシコみたいなところ――の声をよく聞くべき時代だと思います。
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