「文学概論」におけるカフカの人気について


 ここでは、何かこの世ならざる至高のものを求めるひとのイメージだったグールドに、彼の生きた時代の特殊性を負わせる時代が来ていることを面白がっているわけですが・・・

 たとえばカフカが何か至高のものを志向していたとして、学生さんには、カフカが「わたしの原稿は全て焼き捨ててほしい」という遺言を残したこととか、それをマックス・ブロートが無視して彼の作品を次々と公刊したこととか、カフカが『変身』の表紙を描くひとに「虫を描いてはいけない」と指示を出したこととか、そういうことがなぜか文学史上の情報というよりバルトのいう「伝記素」のようなものになって、ひととひととの結びつきとして惹きつけられることに繋がっているように感じられます。

 「マックス・ブロート、サイテー」のようなことを書く学生さんが毎年150人のうちにひとりふたりはいる。そのことは、ある意味、尊い。
ここにカフカ、ブロート、学生さんで作るBildungsromanの領域があるのが見える。このジャンルのもつイメージは「学ぶひと」に特権的なものだ。

 ――― それで、カフカの作品自体はどうなるの?

 そこにある、だけでとりあえずはいい。学生さんたちは「そこになにかがある」ことを了解しているから。カフカがなにかに向かって突進していた。それは成功したのか、失敗したのかさえ知らなくていい。

 レヴィナスの哲学を万人が「理解」しなくても、あるいはひとりも理解することがなくても、「ハイデガーのナチス加担は許しがたい」として難解な「顔の哲学」に突進していった哲学者の後姿だけ鮮明に見えているならば、いい。それと同じこと―――のようにみえる。

 東洋哲学のひともウィトゲンシュタインもスタンダールも、つきつめて考えたひとが達するのは結局同じような境地である、というのは楽観的すぎるだろうか。
 それが信じられるならば、全体性、網羅性にこだわる心が消えることになるだろうが・・・

 沼野先生がスターを招いて世界文学を語ってもらう、というのは結局だれかの個人的趣味に付きあわされることになるというのを、第三階級たる読者は本能的に気づいている。ほんとうは、そういうことは望まれていないのだ。

 やみくもにトンネルを掘らされている感覚に苛立つ読者たち。「世界全図」が必要。しかしその地図の描き方は? またそもそも、それは本当に「地図」なのか?

 すみません、わけのわからない文章で。

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