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三菱航空資料館~秋水

2012-03-01 | 海軍



この資料館に足を踏み入れて真っ先に目につくのが零式艦上戦闘機五二型。
その横に、鮮やかなグリーンがある意味零戦より目立っている、この「秋水」があります。

秋水と言えば、幸徳?それとも梨の種類?
この程度の知識で、(つまり全く存在を知らぬまま)初めて実物にお目にかかったわけですが、
これが・・・これが・・・

かわいすぎる。

なんすかこれー。
ころんとしてるというか、まるっとしてるというか。
ぽてっとした愛嬌のあるボディ、安定のあるようなないような、なんといっても、
シャープな零戦の横にあると何かのおまけ?とでも言いたくなります。

これは、ひとえに空気抵抗を極限まで抑えた、当時の近未来型フェイス(というかボディ)
だったんですねー。
この翼、なんと木製だそうです。


昭和19年6月、「空の要塞」と言われるB29が、初めて本土空襲を行いました。
このB29にあっては、零戦も隼も、「過去の飛行機」にすぎず、全く歯が立たない状態。
日本の新鋭機、飛燕、紫電なども健闘しましたが、迎撃に上がるのに時間がかかりすぎ、
さらに高高度でもレシプロエンジンの従来機では、排気タービン(現在のターボと同じ原理)
のB29に速さで勝てません。

いよいよ本土に襲来するB29を迎え撃つために、高空性能と、上昇力の優れた、
ロケットエンジン搭載の局地戦闘機の開発が計画されました。

目標は「一万メートルの高度まで3分で上昇できること」。
ちなみに、そのころの新鋭機でも、一万メートル上がるのに数十分かかりました。
三分で到達し、敵機を一撃だけして、あとは滑空して帰ってくる、というのですが・・・。




考えても見てください。
秋水は一人乗り、全長6メートル。
かたやB29は11人乗りの全長30メートルの超巨体。
鷲にスズメが挑むようなものです。

こんな、もしかしたら「焼け石に水」かもしれない武器の開発に、
切羽詰まった日本軍は期待をせざるをえないような状態であったともいえます。



同盟国ドイツとの技術交換協定により(といっても日本から供与した技術はなく、ドイツからの
一方通行でしたが)、メッサ―シュミットMe262の資料が伊潜によって運ばれ・・・・

・・・・る予定だったのですが、その伊潜が資料の一部を積んだまま撃沈されてしまい、
別便で行ったため何とか運よく難を逃れた残りの資料をもとに、
海軍、陸軍、そして三菱重工業の民間による、三者協力体制での開発が始まります。




メッサ―シュミット。
名前はやたらかっこいいですね。
秋水ほどころんとしていず、この日本の作成した秋水の設計図を見ても、
全く似ていません。
どちらかというと、車の方のメッサ―シュミットが、秋水にそっくり。

さて、せっかくの資料も伊潜とともに海に沈められたため、
不完全な資料と、たった一枚の写真をもとに、日本は設計を開始しました。

BGM:地上の星)

そして、二カ月後。
わずかの間にチームは設計を終了してしまいます。
早っ。

ペリーの黒船来航のわずか二カ月後、中を詳しく見聞した情報だけで図面を造り、
一年後に独自に日本製「黒船」を作ってしまった、日本の技術魂は、ここにも。

しかし、その日本の技術も、今回という今回は拙速に過ぎると言わざるを得ない
手痛い敗北を喫する結果となってしまったのです。

資料を手に入れてから一年後の昭和20年7月7日、横須賀海軍飛行隊追浜飛行場で
試験飛行が行われました。



試験パイロットは犬塚豊彦海軍大尉。
しかし、高度350メートルでエンジンの停止により、滑空状態から鉄塔に接触した秋水は、
不時着大破。犬塚大尉は頭蓋底骨折のため、翌日殉職します。

犬塚豊彦大尉。

離陸から不時着までの時間はおよそ2~3分であったとされます。



秋水のために考案された戦法は、一瞬で一万メートルの高高度まで上がり、
B29の唯一の弱点に思われた、直上方500メートルから背面ダイブで一撃を加え、
燃料があっという間になくなってからは、グライダー滑走で護衛のアメリカ機からひたすら逃げる、
というものでした。

このテスト飛行の失敗後、その問題点を克服すべく、エンジンの改良に取り組んでいるうちに
終戦になってしまい、ついに秋水は実戦投入されることはなかったのですが、
現実に運用されていたら、どんなことになっていたでしょうか。

よほどの腕のパイロットでも、たった一度のチャンスであのバカでかいB29に致命傷を与え、
なおかつ反撃の手も持たないままグラマンから逃れて生還することなど、
まず不可能だったのではないかと、素人でも思うのですが・・・。

日本軍は秋水の新技術にに多大な期待を寄せたらしく、恐るべきことに、
「まず155機、1945年9月に1300機、1946年には3600機」
という生産計画を立てていたと言われています。

無茶です。というか、無理です。

秋水をこれだけ作れる余力が仮に日本に残っているようなら、
本土にまで敵戦闘機が押し寄せてくる前に、なんとかなっていたのではないのでしょうか。
秋水の機体は全部で5機ほど作られましたが、そのうちの一機はアメリカに、もう一機が、
ここ三菱工場の資料室に展示されています。

もしこのとき研究が間にあって、実戦に秋水が投入されていたとしましょう。

計画はおそらく、B29の高高度から背面ダイブして、そのまま体当たりする、
「秋水特攻」になったはず、とわたしはこの資料室で話を聞いた瞬間思ったのですが、
その後調べると案の定、海軍は800名の隊員を秋水の特攻部隊として錬成していたようです。


犬塚大尉は無念の死を遂げましたが、もしこの実験が成功していたら、或いは、
終戦までの一カ月の間に、特攻としてさらに失われていた命もあったかもしれないということです。



また日を改めて、秋水についてはお話したいと思います。