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嗚呼陸軍潜水艦~戦艦大和の登舷礼

2012-03-25 | 海軍


喩えは悪いですが、まるゆ、陸軍輸送潜水艦は、まるで女性(陸軍)が男性(海軍)に
内緒で産んでしまった私生児のようなものでした。

「海軍に言うと反対されるから、海軍には極秘で作れ」
「海軍の助けは借りずに、陸軍だけで作れ」(BY東条陸将)

これをこのような場合の女性のセリフに当てはめると

「言うとやめろと言われるから、黙って産んだの」
「あなたの助けは借りない。一人で立派に育てていくわ」

ね?

ある日男は、見たことのない、何だか妙な女の子が近所をうろうろしているのに気付きます。
「なんじゃあれは」
女の子は、似ていると言えば自分に似ているのですが、全てが変わっています。
女性が自分に内緒で産んだ子供だと知りましたが、男の娘たちは、まさかこの
「醜いあひるの子」が、自分の妹だとは思わず、
「みっともないコねえ」「ちょっとあんた、このへんうろうろしないでよ」
と喧嘩を吹っ掛けることもありました。

・・・・・なーんちゃって。

極秘で計画され、あっという間に製造された輸送潜水艦が、
その秘匿性ゆえに
「海軍家の庭」で馬鹿にされたり攻撃されたり、
大変な辛酸を嘗めたことはお話しました。


そこまで行かずとも、一般の漁船にとっても

「いきなり出没した見たことない奇妙な潜水艦」

です。


「現在地点がわからなくなったのでついていけば戻れるだろうと漁船を追いかけたら、

漁船の方は気持ち悪がって全速力で逃げてしまった」

という漫画のネタみたいな話は枚挙にいとまがありません。


そもそも外敵を相手に戦争しているのに、内輪でいがみ合って、
それゆえまるゆのような
歪な私生児が生まれてしまったとも言えます。
効率的な方法を全軍で模索できず、確保できたはずの物的資源や貴重な人命が
このような
無駄な作戦により潰えてしまったのは、第二次大戦における
「反省点」の最たるものではないかと
思うわけですが、
今度同じようなことがあったら、過ちは繰り返しませぬから



ともかくここで同情すべきは、この私生児的断末魔的な乗り物に
ひとつしかない命をかけなければいけなかった、陸軍まるゆ部隊の将兵の皆さんです。
「潜水輸送教育隊」という名称の部隊に赴任してきたその数、約3千名。

まるゆ部隊の基幹将校に抜擢され、船舶司令部への転属を命じられたある陸軍中佐は、

「貴官は潜るんだぞ」

といわれ、ははあ、軍服を脱いで地下に潜る、つまり特務機関のスパイだな
と思っていたそうです。

よもや陸軍士官の自分が文字通り海に潜ることになるとは夢にも思わなかったのでしょう。

彼らの過酷な訓練についてはまた別の日に語ります。

全て不慣れな海の生活、海軍艦や漁船との「軋轢」、
急造されたがゆえに不具合だらけで、
故障や水漏れ、安定しないまるゆを、
ろくに航法も知らないまま操舵する苦労・・。


潮気も何も、海の上にいるとお尻がスースーして落ち着かない、
といったレベルの「陸の人」です。


しかしながら、そんな彼らが、海で戦う者としての誇りに身を震わせた瞬間がありました。


東京芸術大学
を経て陸軍予備士官学校を卒業、

「極秘部隊で潜水艦に乗るらしい」


と聞き「もう命はねえな」と覚悟を決めた、岡田守巨(もりお)陸軍少尉の回想―。


岡田少尉が訓練艇で教育終了後、三島基地に帰投する途中のことです。

この訓練中、岡田少尉の艇はグラマンの機銃掃射を受け、
「やったことのない急速潜航命令を初めて発し」ています。
潜航の勢いが強すぎて惰性で海底に衝突、「全員が覚悟を決め」たものの、
ともかくも艦体に異常はなく、
辛くも助かったという冷や汗体験でした。

衝撃で全員が茫然自失であったに違いないその帰途、
彼らの「まるゆ」は来島海峡にさしかかりました。

そのとき前方から「山のような」ものがやってくるのにまさに仰天します。

戦艦「大和」でした。

陸軍軍人であってもこの巨大艦のことは聞き知っていたため、
岡田少尉は総員に
「登舷礼用意」の号令をかけました。

「海の男同志の美しい儀式」である登舷礼に、
言わば末席にあたる「まるゆ」乗員といえども、その一員として憧れないはずがありません。
一度はやってみたかった登舷礼、その記念すべき最初の相手は他ならぬ戦艦大和です。
これが昂揚せずにいられるでしょうか。

甲板整列し、公排水量6万9千100トンの大和に、総排水量430トンの陸軍潜水艦乗員は
一世一代の礼を送りました。
と、そのとき。

「あっ」

岡田少尉は心の中で叫びました。

黒々とした、まるで山のような大和。

その甲板に、すでに真っ白な千人単位の乗員整列ができているではありませんか。
さすが海軍、豆粒のようなこの陸軍潜水艦を認めるや、
間髪いれず相手に向かって登舷礼を送ってきたのです。


「軍艦が相遇う時、将旗あるいは代将旗を掲げた軍艦または短艇に遇う時」(wiki)


とされる喇叭演奏も、風に乗って聞こえてきました。


大和がどのような使命を担い、この航行の果てにどのような運命が待っていたか
彼らには勿論知るべくもありません。


岡田少尉は、後からそれが戦艦大和の見せた最後の勇姿であることを知ります。



おそらく、これが大和が陸軍に送った最初で最後の登舷礼であったことでしょう。
その陸軍代表は、まるでおもちゃのような練習潜水艦でありましたが、それでも大和は

「礼を尽くして、去って行った」(岡田少尉回想)

のでした。


「そのときほど潜水艦って良いものだな、と誇らしい気持ちになったことはない」


この岡田少尉ですが、大和との遭遇以降、すっかり「海軍びいき」になってしまいました。

本日画像に描いたのは「陸軍式敬礼」ですが、岡田少尉は敬礼も海軍式を真似して、
それを後日陸軍の高官の前でやったからさあ大変、

「その敬礼のざまは何だ、貴官、それでも帝国陸軍将校か」


と散々罵倒叱責され、左遷の憂き目にあったということですが、これはまた別の話。



大和の乗組員は、前方にちょこんと浮かんだ小さな小さな潜水艦に礼を送りながら、
どのような感慨を持ったのでしょうか。

他の艦船が不審がったり、馬鹿にしたり、攻撃さえ加えた無名の陸軍艇をも、
即座に認識するほど、大和には情報に精通した見張員がいたということなのでしょう。

しかしたとえどんな相手であっても、同じ日本を守ろうとする海の防人同志、

「後を頼む」

という決意をを伝えたいというのは、大和乗組員の総意であったでしょう。


そして、自分たちがが往くその姿をしっかり見届けてほしいという、最後の願い。


最後まで仲の悪かった陸軍と海軍の摩擦から生まれた潜水艦まるゆの隊員は、

このときの戦艦大和の姿を、戦後もずっと心に留め続けました。
戦後画家になった岡田氏はそのときの感動をこう語っています。

「あまりの感動に思わず目頭が熱くなってきましてねえ・・・・・・」

直後、大和の航跡が起こす大波で、感激に涙ぐむ彼等はずぶ濡れになってしまったそうですが。







参考:決戦兵器まるゆ陸軍潜水艦 土井全二郎 光人社
    陸軍潜水艦隊 中島篤巳 新人物往来社
    潜水艦隊 井浦祥二郎 朝日ソノラマ
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