ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

「桜花」と新幹線

2012-03-19 | 海軍



東京―大阪間の所要時間を短縮し、国民の脚となって20年。
のぞみ300系が引退するというニュースが先日報道されました。
開業以来大事故ゼロ、日本の技術力の誇りの象徴ともなった新幹線ですが、
この技術には海軍の航空技術が大きくかかわって生まれたということをご存知でしょうか。

第一次世界大戦以降、旧海軍は航空技術を発展させるべく航空技術廠に優秀な技術者を集め、
さらにその向上を図って世界中からトップクラスの学者や技術者を招聘して教えを受けました。
航空試験用の大風洞の建設に携わったドイツのウィーゼルベルガー博士、そして
飛行艇の開発用の試験水槽を作るために呼ばれたやはりドイツのケンプ博士などです。
航空機の速度が向上するに従い、超音速現象に対処する研究が求められるようになると、
フランスからマルグリス博士を招聘してその指導を受けています。
マルグリス博士は、その他にも大砲の弾道研究で有名になった学者でした。

このように海軍が航空技術開発のために多大の努力を払った結果が、名機と言われた多くの
航空機の誕生につながるわけですが、それも教えを乞う側の水準の高さあってのことでした。
しかし、海軍という組織だけでは到底航空機の研究を全て把握しきれるものではありません。
山本元帥が海軍次官時代に、航空機の各部門にわたって深く基礎研究をするための機関、
中央航空研究所が、山本次官の尽力もあって誕生しました。

しかし、中航研が建設と技術者の教育を経て研究に入り、
その緒につき始めたところで終戦となります。
日本の技術力を恐れるGHQが、当然のようにここにも圧迫を加えてきたうえ、
終戦後の政治的混乱のために研究所はあらゆる困難に遭遇することになるのですが、
初代所長、花島孝一の決死的な努力が政府を動かし、
運輸省の技術研究所として残ることが決まり、空技廠の技術者たちは、
陸軍航空研究所の技術者とともに、新たに設立された鉄道技術研究所に迎え入れられます。

当時の鉄技研の所長の
「優秀な技術者は10年、20年たたないと育たない。
軍の無くなった今、この人たちを散逸させてはならない」
という卓見も、これらを後押ししました。

GHQの命により、中央研の技術者にも航空に関する研究は禁止されました。
研究員はもっぱら運輸技術の向上のために黙々と地味な研究を続けざるを得なかったのです。

米軍から当初戦闘機と誤認され「Francis」という男性名のコードネームを付けられて
その後、爆撃機と判明した後に女性名である「Frances」になった、
長距離爆撃機「銀河」の設計に携わった三木忠直という海軍技術少佐がいます。

銀河設計を終えた後、ロケット機、ジェット機の研究に進んだところで終戦を迎えました。
海技廠にいた三木も鉄技研に迎えられ、そこで電車の研究に方向を転換します。
飛行機設計技術者として、ここでまず何をなすべきか?

三木はまず車両の軽量化に取り組みました。
その頃、日本の鉄道網は荒廃し、それを復興することで精いっぱいといった状況でしたが、
昭和25年ごろ、復興も進み、そういったことにも目が向くようになってくると、
飛行機の設計、研究、試験の手法を用いた具体的な研究がより後押しされました。
三木は、昭和30年に、世界でも最も軽い部類に入る軽量客車を完成させます。

飛行機に使われていた応力外皮張殻構造の様式を導入した、その丈夫な構造は、
一般電車にも広く用いられるようになり、私鉄電車、国鉄(当時)の特急「こだま」、そして、
この後開発の始まる新幹線は全てこの構造様式が採用されることになりました。

飛行機屋の三木が、軽量化に並行して探求したのが鉄道車両の速度の限界でした。
この頃には日本も独立を認められ、経済力も回復に向かい始めていました。

当時、国鉄の特急「つばめ」は東京―大阪間を8時間、最高速度95キロでした。
欧米の輸送交通体系は飛行機、そして車となり、日本もこのあたりから鉄道斜陽論、
そして開発に対する消極論が国鉄内部からさえ出てきます。

現在アメリカが長距離移動を飛行機に依存しているように、このとき三木がいなければ、
新幹線は生まれず、日本も国内の移動は全て飛行機、という国になっていた可能性もあります。

昭和28年9月。
三木は、狭軌でも車両を軽量化し、重心を重くした流線型にすれば、
東京―大阪間を4時間半で走ることは十分可能であるという研究結果を発表しました。
空港を使わねばならない飛行機に、都心から都心まで直結すれば十分に時間でも対抗できる、
ということであり、これは国鉄の朗報として大きく報道されます。
一方この発表はある意味当時の常識を破るものでもあることから、種々の非難も出ました。

鉄道ファンである作家の阿川弘之は、
「こんな時期に超特急など、第二の戦艦大和となって世界の物笑いの種になる」
とまで言ってしまい、後に自分の不明を悔やむ発言をしています。

しかし、この発表は運輸省から研究課題として採択され、補助金が出ることになります。
そして上記の記事に注目した人物がいました。
実業家の五島慶太です。
さっそく、小田急電鉄のロマンスカーの設計を三木に依頼し、その試運転では、
狭軌としては世界新記録となる最高時速145キロメートルを記録しました。

この実験は、小田急という私鉄の電車車両を国鉄の線路上で走らせるという
前代未聞の、今なら到底実現不可能と思われる計画でした。
しかし、国鉄の首脳部、特に当時の十川国鉄総裁は、
鉄道技術の発展のためという大局的観点から、これを快諾したと言われています。
この実験の成功は、一気に長距離特急列車の実現性に推進を与えることになりました。

昭和32年、、三木は
「超特急東京―大阪間三時間の可能性」
という演題で鉄研の他の3人の技術者と共に講演を行いました。
これこそが「夢の超特急新幹線」の真の基(もとい)をなすものでした。

当時の国鉄技術首脳部には消極論や反対論すらありましたが、国鉄の、つまり日本の
近代化技術革新に非常な熱意を持つ十川総裁の鶴の一声により、計画は進められます。

昭和32年、8月。
運輸省に日本国有鉄道幹線調査会設置。
昭和33年7月、東海道新幹線を五カ年計画で建設し、その車両性能は
「東京―大阪間三時間」を目標とすることも正式に決定しました。

ところで、終戦直後の日本のGDPをご存知でしょうか。
アメリカのわずか数パーセント、戦前の技術国も尾羽うち枯らせて今や発展途上国並みです。
この状態の日本が新幹線を造るためには、他のインフラ整備に充てる資金と同じく、
世界銀行からその費用が融資されねばなりませんでした。

余談ですが、日本がこの低金利とはいえ巨額の借金を返し終わり、
名実ともに被援助国から卒業したのはなんと1990年。
世間がバブル経済に突入する頃、ようやく日本は「途上国」ではなくなったと言うことです。
「優等生で誠実な」日本が、世銀に着実に返済を続けたにもかかわらず、
これほどの時間がかかったのは、戦後日本が負った負債の大きさを物語っています。


三木は、終戦直前に実戦投入されたロケットエンジン機「桜花」の開発者でもありました。
自分の開発した特攻兵器で多くの若者たちが戦場に散って行ったことに対し、
悔悟の念を持っていた三木は、戦後すぐ洗礼を受け、クリスチャンになっています。

ウィキペディアには、「プロジェクトX」で語った、

「とにかく戦争はもう、こりごりだった。だけど自動車関係に行けば戦車になる。

船舶関係に行けば軍艦になる。
それで色々考えて、平和利用しかできない鉄道の世界に入ることにしたんですよ」

という言葉が挙げられ、戦後の鉄道界への転身を「軍事嫌い」ゆえと判じています。

勿論その真意を否定するものではありませんが、水交会に寄せられた三木自身の随筆に
「翼をもがれた私は」
という文言が見えることや、海技廠の面々が、悉く航空機研究を禁じられた実情から鑑みて、
三木忠直が飛行機に決別をしたのは、己の意志によるものだけではなく、眼に見えない流れが、
彼をして、新幹線を造らせるために、そこに連れていったようにも思えるのです。

科学者たちが真理を探求する情熱は、その成果が軍事利用され得ることが少なくありません。
オッペンハイマー博士の例をひも解くまでもなく、それが、
国や勝利のためというより、「純粋に科学を極めたい」という本能から研究に打ち込む彼らを、
結果として道義上の葛藤に陥れることが歴史上繰り返されてきました。

三木忠直もその一人であったわけですが、不可能だとさえ言われた夢の超特急を
戦後わずか19年後、日本の国土に走らせることに成功し、
それから半世紀、日本の技術力の誇りとまで称された新幹線の生みの親として、
三木は十分に償いをしたものと、わたしは考えます。

そして、新幹線の造設にあたり、中技研、陸技研、海技廠のもと技術官を積極的に集めたことで、
国鉄は旧軍の技術力を究極の平和利用に昇華させる一助を果たしたとは言えないでしょうか。

日本の存続とその発展をせめて願いつつ往った幾多の英霊たちも、
自分たちの乗った飛行機の技術が、戦後平和な時代にこのように形を変えて発展したこと、
そしてその運用技術が「安全神話」とまで言われるほど、恒常的に維持し続けられていることを、
冥界でおそらく眼を細めて見ているのではないかと信じます。







三木は昭和39年の手記で
「(新幹線の速度は)記録としては300キロも超せようが、
実用的には250キロが現在の形態の鉄道としては
おそらく限度であろう」
と述べています。

新幹線、のみならず世界中の高速列車の生みの父とも言える三木忠直は、
2005年、九十六歳の長寿を得て亡くなりました。
新幹線が開業して半世紀。
N700系の導入で300キロまでの最高時速が可能になり、
さらにリニアモーターカーが、2003年には世界最高時速を記録しました。
その実験速度、時速581キロメートル。
東京―大阪間を一時間台で走る速さです。

その「夢のような」スピードは、晩年の三木の目にどのように映っていたのでしょうか。