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三菱航空資料室~いろいろ

2012-03-02 | 海軍

        

昨日の記事に、コメント入りました~!
そのリュウTさんのコメントから読んでいただくと話が早いのですが、何とわたしは
メッサ―シュミットはメッサ―シュミットでも、メッサ―シュミット違いで、違う機種、
Me262の資料から秋水ができたと勘違いしてたってことですね。
ドイツはMe262とMe163の資料を、どちらがメインかは知りませんが、同時に送ってくれたと、
こういう理解でよろしいでしょうか。

秋水のモデル、Me163コメート
写真、見ました。
・・・・・・・そっくりです。

よく設計図なしでこれだけそっくりにできたなあ。
・・・と、またもや脳内に地上の星が鳴りだしたところでふと気付くと
リュウTさんのコメントの中のこの一文、
「先端にプロペラが付いてかわいさ倍増」
・・・・・って・・・・ってことは・・・。

これ、(上↑)コメートの設計図ではないですか。

ちゃんとプロペラついてるし。
「伊潜と一緒に沈んだ」と言うから、てっきり残った資料をもとにしたら、あんなおもろい形に
なってしまったんだと勝手に思っていたんですが・・・。
こちらの設計図はご無事でしたか。
でも、何だか設計図にしてはおおざっぱすぎる気がするのはわたしだけでしょうか。

そこでナチスドイツのコメートの画像を調べたのですが、
もう・・・・かわいすぎて生きるのが辛い・・・。

とまでは言いませんが、発電用と知らなければ、飾りとしか思えないかわいいプロペラ。
「着地が下手でよくころんだ」とか、「自力では移動できないので対地攻撃の的になった」とか、
おまけにボディに描かれた「怒!」みたいな井桁マークがさらに一層愛おしさをそそります。

そう言えば、説明係の方が
(コメートは)「燃料が切れてグライダー滑空している間は、ダイブのときと違って遅いので、
この間にやられちゃったんですよ」とおっしゃってたなあ。
しかもウィキペディアによると、スピードが違いすぎていざ接敵となっても弾が当たらないとか。

しかし、不思議じゃありませんか?

そんな不安定で事故の多い、欠陥品とも言えるコメートを、
なぜドイツは日本に技術供与したのか。

日本なら・・・それでも日本なら何とかしてくれると・・・
・・・・思ったわけでもないだろうになあ。

そしてMe262=橘花ですね。
ジェット&ロケット推進は花の名前、ということで「橘花」そして「櫻花」とつけられたんでしたっけ。

ちなみに「秋水」は「秋水(利剣)三尺露を払う」という短歌から取られました。



さて、そのような具合に、ここで見学した零戦と秋水についてお話してきたわけですが。
ここに展示されている実機は全部で三機。
零戦、秋水、そして、三菱製の自家用ジェット機です。
外観を写真に撮るのを忘れた・・・・・orz

 

中に入って、操縦席に座り、操縦棹も動かし放題。
いわゆるジェットセッターのための豪華仕様ですから、居住性はまずまずです。
いすに腰掛ければ、決して圧迫感も感じません。
ただ、いすにはリクライニング機能など付いていませんので、寝るのはかなり辛そうです。



旅客機が全面禁煙になったのも2001年のことで、それ以前は航空機内での喫煙は、
普通に可でしたから、パイロット席の肘かけにも灰皿があります。
空気供給だけでなく、換気もここで行われたそうです。

機体の後部にはトランクなどを収納する棚、ドアを閉めると引き出せるミニキッチン、そして
トイレがあります。
手が押さえているところに取っ手があり、ここを持って引き出しのように出して使用。
聴きそびれましたが、まさか射出式ってことはないと思います。



翼が窓より上につけられているため、窓から下の景色が遮られない、というのがウリ。



ジェット機の窓から零戦を臨む。
時空的に決してありえないセッションが、今ここに。



この機体をお買い上げになったお客様のひとり。指揮者、ヘルベルト・フォン・カラヤン
なんだかまわりを三菱の偉い人がびっしりと取り囲んでますね。
プロレベルのスキー技術を持っていたと言われるように、運動神経抜群であったカラヤンは、
勿論のこと操縦免許も持っており、自家用機を自ら操縦して演奏旅行に行ったそうですが、
その自家用機が三菱製だったとは知りませんでした。




右、CCV研究機。左は・・・・ヘリコプター。・・・・見たら分かるって。



次期支援戦闘機FX-S




三菱マークの入った時計、そしてクローゼット。
なんだって重工業会社がこんなものを作っていたのか?

昭和6年ごろ、三菱が不況時に製作し、社員に販売した木製品です。
重工業とはいえ、もとはと言えば飛行機は木製。
木の加工はお手の物で、テニスラケット、ピアノ台などもあったそうです。
飛行機の翼や胴体を作る技術で作られたクローゼットは堅牢で、70年間使ってもこの通り。
これ、中がハンガー式なのだったら、昭和6年にしては超モダンデザインですね。



鍋釜、秤の類の製品も作っていました。
これは終戦時の製品とのことです。

ところで「重工業」という言葉は、三菱創業者4代目の岩崎小弥太が、
Heavy Industriesの訳にあてた、いわば造語だということをご存知でしたか?



海軍大臣嶋田繁太郎の名前で、九六式陸攻の製作に対し出された賞状。



航空本部長だったころの山本五十六が来て、記念写真。
一番後列で立っている、眼鏡の人物を見ていただきたいのですが・・・。
これ、もしかしたら堀越二郎技師ではないですか?



朝日新聞社は1937年、ロンドンで行われるジョージ六世の戴冠式の奉祝の名のもとに、
亜欧連絡飛行を計画しました。
当時、日本とヨーロッパの間を結ぶ定期航空路はなく、逆風である東京、欧州間の飛行は、
非常に困難とされていたのです。
この連絡飛行の機体に採用されたのが「神風号」という名前。
一般公募によるものだったそうですが、いやまったく、今現在築地にある、あのアサヒ新聞と
同じ新聞社のことであるとは、信じられませんね。
この麗々しい記事は、勿論のこと朝日新聞に載せられたものです。

神風号は1937年4月6日日本を出発。
離陸後94時間17分56秒で、ロンドンに到着しました。
イギリスの新聞は朝刊のトップに神風号の接近を報じ、ロンドンの空港や前経由地の
パリの空港は人が詰め掛け、神風号の二人の乗員はフランス政府から
レジオンドヌール勲章を受勲しました。

この歴史的な快挙を成し遂げたその飛行機が、ここで作られていたのです。


十式艦上戦闘機の元図。
繊維の入った丈夫な紙でできており、ゆえに今日まで完ぺきな図面が残存しています。

ここは、時間さえ許せば案内が終わった後何時間でも滞在することができますし、
ガラスケースの中のものも、係の方にお願いすれば出して手に取ることができます。
図面や、資料なども、ページを繰って見ることができる、貴重な史料室なのです。



この写真でもお分かりのように、に零戦のコクピットに(ちゃんと左から乗れるように)
階段がつけられていますし、いつもではないとは思いますが、操縦席に座ることもできます。
復元されたものだからこそこのようなことができるとは言え、零戦の試乗体験ができるのは、
もしかしたらここだけ?


写真を撮り忘れましたが、格納庫の外にも三機、自衛隊で使われていた初期の戦闘機が
展示してあって、先のとんがったところを(はめてあるスポンジを外して)触ることもできます。

航空、零戦ファン、歴史好きの方々にも機会があればぜひ立ち寄ってほしいところです。
あ、それから、結構たくさんいるに違いない秋水とコメートのファンには、特に。



資料室には売店もあり、Tシャツを購入。
これは背中のデザイン。

 

実演を見てその可愛さに、つい買ってしまったねじまきおもちゃ。
ころんとしたボディと色も秋水のようで、つい。
ネジを巻くと、このようにくるくると宙返りします。



ときどき失敗して、この姿勢で停止します。