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伊号33潜を引き上げた人々

2012-03-03 | 海軍

二回にわたって、昭和19年6月、伊予灘に事故のため沈没し、
9年たった終戦後の昭和28年、
引き揚げられた帝国海軍の
伊号33潜水艦について書きました。


今年も3月3日がやってきましたので、伊33潜について書くことにします。


行方不明の急報を受けて、呉工廠から事故後5日たってから救援隊が派遣されました。
捜索方法は網を張って底引きのようにくまなく海底を探り、
伊予灘由利島南方3500メートル地点、
鎮座している伊33が発見されました。

沈んだ艦の外からハンマーで叩いて生存者を確認するも、中からは応答がなく、

そのときには艦内の全員が死亡していると判断されました。
その時点で艦内の空気は残っているようでしたが、
全員死亡と判断された時点で救出作業は行われないことになりました。


潜水艦は非常に事故の起こりやすいもので、第二次大戦中戦没した潜水艦のおよそ半分は、
敵の攻撃ではなく事故によって沈没したのではないかと言われています。

しかし機密性の高い潜水艦は、たとえ事故で海底に沈んでも、
伊号、呂号レベルであれば50時間くらいまでは救出が可能です。
たとえば呂64潜が大竹沖で事故を起こしたときは40時間、
呉港外で特殊潜航艇「蛟竜」が沈んだときには24時間目に艦が引き上げられ、
いずれも全員が生還しています。

しかし、今と違ってそのほとんどを潜水士に頼らざるを得ない当時の引き上げ作業は、
それ自体が困難なものでした。
例えば伊33潜は海深60メートルの海底に沈んでいたわけですが、そのくらいの深度だと
海底での作業は潜水士でもわずか5分から7分に限られます。
さらに、潜水病を避けるために、浮上するのに1時間半をかけておこないます。

ある減圧事故の例ですが、その潜水士は、30メートルの海底に潜ってから
道具を忘れたのに気が付き、急激に浮上しました。
忘れ物を携えて再び潜るときには一見何ともないように見えましたが、
二度目に浮き上がってきたとき、死亡しました。
血管中に窒素が残った状態のまま浮かび上がることによって急死に至ったのです。

その頃の潜水士は呉式という階段式の浮上方法を守っていました。
例えば60メートル潜ると、浮上するときにはまず30メートル上がって水中で30分休む。
この方法が普及してからは死亡事故もかなり減ったのですが、
何度も深海に潜っているベテランの潜水士でも、海深60メートル以上深い海には
「地獄が真っ暗い口を開けて待っている」と怖れたものだそうです。

この伊33潜引き揚げは、戦後の記録で世界一の深さからのサルベージ作戦となりました。
引き揚げを請け負ったのは北星船舶工業という会社。
この会社は、ある豊後水道での引き揚げ作業のときに酸素ボンベが爆発し、
たくさんの作業員が無くなる事故があったのですが、その生き残りの人々が、
力を合わせて作り上げた会社でした。

当初9年前に伊潜が沈没した地点はすでに分からなくなっていて、
当時の事故を知る漁師に案内を頼み、彼が示す位置付近の海上を、
三本の糸におもりをつけたものをたらしたまま往復して捜索しました。
三回目に、錘が艦体にあたった「コツン」という音がし、艦の位置が確認できたのです。

引き揚げ作業は「ちょうちん釣り」という方法で行われました。
棒で沈んでいる艦の底の砂に穴をあけ、そこにワイヤーを通し、
それに100トンの大きさのタンクを沈めて縛り付け、
20個ほどのそのタンクの浮力で艦を浮かせていくという方法
です。

世界のサルベージ作業の歴史を見ても二番目の深度でのもので、
先ほども書きましたが、この深さゆえ潜水士の作業時間はわずか5分。
材料不足などもありましたが、指揮官先頭を体現する北星工業の又場社長が、
みずからワイヤーを握って陣頭指揮を行い、心身ともに過酷な状況の潜水士をまるで
慈父のように労わるなど、社員が一丸となって作業にあたった結果、
四次に分けた作業は天候の不順な日を除き、順調に進みました。

この作業の第三段階で、艦首が一部分だけ海面に出ていました。
このため、このころから艦の前部に多量の空気の入った(つまり浸水していない)部屋が
あるのではないか、と見られていました。
それが報道されるや「もしかしたらミイラ化した死体が出てくるかもしれない」という予想に、
マスコミや世間は異常な関心を寄せ出したのです。

作業の第四次段階には報道陣がつめかけはじめました。
彼らの目の前で作業員が指を切断するという事故も起こり、危険な作業であることを
目の当たりにしているはずなのに、そこは今も昔もマスコミです。
魚雷に入っている特用空気はカメラのフラッシュにも引火しかねず、それだけでなく
他にも危険はいくらでも転がっている現場で、彼らは平気で煙草を吸い、寝ころび、
艦体を叩いたりして、作業員のひんしゅくを買ったそうです。

「今考えたらぞっとして冷や汗が出る。知らぬが仏とはあのことだぜ」

艦が浮上し、遂にハッチが開けられました。
問題の前部発射管室の扉が開けられる時が来たのです。
そのとたん、白いモヤの充満した艦内から「ぐっと来る悪臭」が作業員の鼻をつきました。
懐中電灯を照らしてみると、その光の中に完全なままの釣り床のマットが見えます。
しかし、ガスをある程度換気するまで、危険なので誰も立ち入ることができませんでした。

この悪ガスの正体は、希硫酸と鉛、非鉄金属などが海水に作用して化学反応を起こし、
有毒に変わり、それに死体の匂いが加わったものです。

そのうち全ての空気が入れ替わるのを待たず、一人の記者が艦内に飛び込み、
中の様子をまず目撃しました。
9年前死んだのと同じ姿で床に臥せ、あるいは首を吊っている死体、その数13。

作業終了直前にようやく区画内の写真を撮ることができましたが、
それが前回お話しした「三葉の写真」です。
日頃大抵のものには驚かないカメラマンが、このときは額からアブラ汗をタラタラ流し、
ほとんど失神寸前であったそうです。
艦内の異様な空気の汚れに身の危険を感じたせいもあるでしょう。

しかし、写真を撮ったら後も見ずに飛び出してくればいい報道記者の体験など、
実際に死体をハッチから引き上げるために、死体をむしろで包み、
あるいは抱きかかえるように担いで降ろした潜水士の凄まじい作業に比べれば、
何もしていないに等しい、というものではなかったでしょうか。

ある遺体はまだ少年のようなあどけない顔に苦しさをにじませたままでした。
どの遺体も、面影は変わらず、ただ眼球が少し陥没しているだけだったそうです。
まだ死体は硬直していなかったため、手足を動かすとパクリと口を開けました。

こんな遺体を収容するたびにデッキに上がっては、彼ら作業員は酒を飲んだそうです。
これは彼らを労わる又場社長の計らいだったのでしょうか。
普通の作業であれば仕事中に酒などありえないことでしょうが、
あえてそれをしたところに、この作業がいかに異常なもので、
作業員の精神が過酷な状態にあったかが覗えます。

かれら潜水員のほとんどは、

戦艦陸奥、日向、伊勢、榛名、巡洋艦青葉、利根、空母天城、
阿蘇

の引き揚げ作業に関わっています。
陸奥のときは沈没直後で、まだ艦内に遺体が残っているころでした。
(海軍はこのとき陸奥を引き揚げて再利用しようとしたが、
再生は不可能と分かり重油の回収だけでこのときは終わった)

破孔(破れ目)から一歩艦内に入ると、天井にピッタリと人体がくっついています。
潜水員が部屋に入り、海水が動くと、まるで後を追うようにそれらがついてくるのです。

しかし、彼らは登山家がさらに高い山を目指すように、
前人未到の沈艦をみずからの手で引き揚げることにかける情熱を、
当時(昭和28年)このように語っています。

「沖縄の戦艦大和を引き揚げたい。
もっとも水深200メートルだから、深海潜水作業機でもなくちゃ。
フィリピンの武蔵に、熊野灘の空母信濃もだめだ。
まあ我々ダイバーは一生の三分の二を海底につかって、
そんな果てしない夢を追うのさね、ハハハ・・・。」