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岡部さんの戦争

2012-03-27 | 陸軍

          


小さいときこの本を読んだことのある方はおられますか?
ヘレン・バーナマン作「ちびくろサンボ」の第一巻です。
大阪の偏執的な差別運動団体(というか一家族)の訴えにより、絶版された、あのシリーズ。

わたしも小さい頃これを読んで育ちました。
トラがぐるぐる回って溶けてバターに、という発想を、子供心に実に楽しく受け止め、
そのバターで作ったホットケーキを食べてみたい・・、と、心から思ったものですが、
それにしても、今考えてもこの話がなぜ「黒人差別」なのか、わかりません。

黒人を黒人のように描いてあるから?
黒人を白人のように描くことの方が問題ではないですか。
肌を黒く描くのが「差別」?
それなら黒人を主人公にした本の挿絵は一切描けなくなります。
つまり「黒人を主人公にするな」ってことなんでしょうか。
それこそが差別なんでは?

差別の意図を持って製作された諸々のものでなく、どう考えても「それは目的ではない」
という表現のものに、この団体(というか一家族)は次々と噛みつき、
悉く出版止め処分を勝ち取り、得意になっていたようです。

手塚治虫全集を、何コマかあったこの表現のために全巻差し止めにした、
という話を聞いた時には、わたくし怒り狂ったものですが・・・。
そういえばサイボーグ009にもこういう肌合いのメンバー、いませんでしたっけ。
俎上に乗せなかったんでしょうかね。アフリカ出身。
「風と共に去りぬ」は?黒人奴隷が出てきますよ。
ドストエフスキーの「白痴」、ゴダールの「気狂いピエロ」、
そうそう、ロビンソンクルーソーの挿絵もまずいぞ!
谷川俊太郎の「人喰い土人のサムサム」っていう唄、わたしはシュールで好きなんですが、
これなんか一発アウトですね。

超余談ですが、こういう歌です。ご存知ですか?

人喰い土人のサムサム おなかが空いてお家へ帰る 甕の中の亀の子を食べる
七口食べたらもうおしまい 人喰い土人のサムサム とてもさむい

人喰い土人のサムサム おなかがすいて隣に行く 友だちのカムカムを食べる
二口食べたらもうおしまい 人喰い土人のサムサム 一人ぼっち

人喰い土人のサムサム おなかがすいて死にそうだ やせっぽちの自分を食べる
一口食べたらもうおしまい 人喰い土人のサムサム いなくなった

(コメントなし)

さて、この「ちびくろサンボ」が今は復刻版で買えるようになっているそうですね。
このたびわかりました。
よかったよかった&ざま―見やがれ。

ここまでが前置きです。


で、この挿絵なのですが、本日画像にしたのは原作のフランク・ドビアスのもの。(模写よ)
このシリーズの第二巻、ドビアスのサンボ(この名前も侮辱的なんですと)くんを真似して?
そのままのイメージで描いたのが、漫画家、岡部冬彦です。
そのほかにも岡部氏は「きかんしゃ やえもん」などと言う作品で有名です。
今日はこの漫画家岡部冬彦の戦争についてお話します。


この岡部さん、東京芸術大学の美術学部図案科を卒業してすぐ学徒出陣で召集され、
陸軍の見習士官として昭和18年12月、フィリピンのセブ島に駐留しました。
図案科、というのは今のデザイン科と言うことでしょうか。

所属は暁6142部隊。暁部隊は通称で、陸軍船舶兵です。
陸軍もフネを持っていて、ダイハツと言われる上陸用舟艇はじめ、揚陸艦、駆逐艇、
一隻だけでしたが護衛空母もありました。

船舶兵器を効率的に運用するために存在した兵種で、
先日お話した「まるゆ」はこの部門の潜水艦です。
ちょうどまるゆの運用の頃に誕生しており、
海軍的仕事を海軍の手を借りずにやったる!という意図で作られた、
ある意味陸海軍間の祖語の賜物でした。

まるゆのように、連絡艇の「れ」から名付けられた「まるれ」というフネもあり、
これは正式名称が「四式肉薄攻撃艇」といいます。
文字通り後期には特攻艇として基地まで持っていたものですが、
それにしても、陸軍のフネは、ネーミングがいまいちな気が・・・。

船舶兵は非常に目立つ「ネイビーブルーの台に錨と鎖」のマークのついた
「船舶胸章」を胸につけていました。

岡部氏の所属したこの暁部隊は、任務はレイテ島への補給が中心。
戦闘には一切加わらない任務でした。
部隊の隊員はほとんどが学徒動員、しかもほとんどが東京出身の大学生。

こういう娑婆っ気の(おっと、陸軍では『地方ッ気』でしたか)ただでさえ抜けない学生連中が、
戦闘もないのんびりした島ですることと言えば。

「ほんと南の島に学童疎開したみたいな感じしかありませんでしたね。
なにしろ朝から晩までキャーキャーはしゃぎまわっていただけでしたからね」
(本人談)

・・・・なにやってんですか。

しかも、補給が任務なので、食べ物はふんだんにあり、『メシは食い放題』。
補給船がセブの浅瀬に乗り上げてしまったときは(これは・・・・事故ですよね?)
積んであったビール(サン・ミゲールビール)を皆で飲んで、朝っぱらから酔っ払っていたそうで。

学生って、今も昔も平和であればこんなものなんですよね。
いや、わたしは、お行儀の良い学校におりましたので、あくまでも近隣で付き合いのあった
某国立大学の学生のことを言っているのですが。

軍律厳しい中なれど、これが見捨てておかりょうか。
しっかりせよと抱き起こしたら、戦友は朝っぱらから二日酔いで酒臭かった、などと、
他の英霊に少しは申し訳ないとは思わなんだのか。
しかし、自戒と自省を平和時の学生に求める方が、無理。

しかもその学生が隊長だったりするので、彼らの学生気分は留まるところを知らず。
夜になるとムード満点椰子の木陰、みんなこぞってハワイアン・ソング大合唱。
ギターを奏でるのは灰田勝彦も在籍した、名門立教大学ハワイアン・クラブ出身の学生。
歌ったり、敵国アメリカの映画について熱く語りあったり、いやまったく、

「じっさい、国費で修学旅行に行かせてもらったようなものでした」

このような戦争の現場もあった、ということなのですが、驚くのはまだ早い。
岡部氏、このあと、内地帰還。
こたびは特幹隊の区隊長要員という立場で、小豆島に赴任します。

この特幹隊についても少し説明すると、正式には
「船舶特別幹部候補生隊」と言います。
さきほどの「まるレ」の要員、しかも一四歳の少年ばかり2千名が、この「肉薄艇」で、
文字通り特攻兵器となって戦うために訓練されていたというのですが、
どうも岡部氏の話を聞くと、様子が変です。

「フネがないからあそんでばかりいた」(本人談)

またですかい。
ここでも小豆島の自然の中で、魚を釣ったり、水泳をしたり。
ここには空襲も来なかったそうです。
実に不思議なのですが、こういう戦場を渡り、戦争の戦争らしさを全く知らず、
戦争に行きながら楽しい思いばかりして帰って来た人、というのもどうやらいるようなのです。

小林よしのり氏の親せきで、中国大陸に行って美味しいものを食べ、戦闘もせず、
まるまる太って帰ってきた人がいる、という話を読んだことがありますが、
岡部氏もそういう幸運な戦争従事者の一人だったということでしょう。

昭和二十年八月。
遊んでばかりの日々が続いていた岡部さんの部隊が、何故か各中隊ごとに野営に行かされます。
「奇妙なことをするな」
と思ったのですが、それが8月11日ごろのこと。
つまり、終戦の勅が渙発される直前で、上層部はすでにそれを受けた動きをしていたのです。

中隊が部隊を留守にしている間に何かあったということなのかもしれませんが、
それについては岡部氏は詳しく語ってはいません。
この時点で日本が負けていたなどとは予備士官候補生ごときに知る術もありませんでした。

俳優の池部良氏は終戦をニューギニアのそばのハルマヘラという島で迎えています。
放送の前日には噂は入ってきていて、厭戦気分に閉ざされていた兵たちが
「バンザイ」「よく負けてくれた」
などと言うのを池部氏は複雑な気持ちで聞きつつも、解放された喜びを感じたと言います。

ところがラバウルにいた将兵たちは士気旺盛で、降伏など考えもしなかったということです。
糧食武器、弾丸も手榴弾も皆手作り。
現地で何でも調達できる状態で、工場すらあり、陸海合わせて十万の将兵が
何十年でも生活できるだけのものは自分で作っていたのだそうです。
ですから、ハルマヘラのような「負けてくれてありがとう」と言ったようなことを言う者はおらず、
敗戦のショックもその分、彼らにとって大きかったということかもしれません。


さて、岡部氏のいた小豆島はどうだったでしょうか。
岡部氏、ラジオを聞いたのだけど、感度が悪く、何を言っているのかさっぱりわからない。
上層部はともかく、岡部氏クラスは敗戦の噂など夢にも知りませんから、

「はあ、これはソ連と戦え、というのだな」

などと解釈していたら、土地の人が

「負けたんだよ」

どうして軍関係者より「地方の人」の情報が確かだったのでしょうか。
とにかく、そうなると、以前にもましてすることが無くなってしまいました。
それで、少年たちと一緒に魚を釣ったり、水泳をしたり、小豆を持ってきて汁粉を作ったり・・・
小豆島だから?)

・・・・つまり、前と全く同じ生活をしていたそうです。