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イスラーム勉強会ブログ

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悔い戻る者たちの道しるべ【8】-(1)

2015年10月15日 | 悔い戻る者たちの道しるべ
司会:先生、前回は些細な罪についてのお話でした。「大したことはないだろう」と思うため、罪を犯す人はまったくそれを気にしません。このようにして小さな罪は積み重なり、やがて大罪になります。そして今、私たちはもう一つの現象、「罪を公に行うことへの警告」に移ります。公にすると何が起きるのでしょうか?

先生:崇拝行為の階級や位は、行為自体、行う人、時間、隠れてしたか、公にしたかで変わってきます。罪も同じように、アッラーの許での位はそれを犯した者、時間、場所、隠れてしたか、公にしたかで変わってきます。

はじめに、(アッラーの命令に)反抗する者と呼ばれる人と、破廉恥者と呼ばれる人について。両者の違いは何でしょうか?反抗する人は、ラマダーン中に自分とアッラーの間において断食を解いてしまいます。自我に負けたか、断食に絶えられなかったためでしょう。破廉恥者である罪を公にする者は、公衆の面前で断食を解きます。道端などで。罪を犯して公衆の面前でそれを露わにする者は二つの罪を犯すことになります。罪自体を犯すこと、そしてもう一つの罪は、それを露わにすることです。至高偉大なるアッラーに大胆にも反抗し、罪を露わにすることで、信仰の弱い人たちに同じ罪を犯す勇気を与えることになります。その最も分かりやすい例を出しましょう。50年前はほとんど誰もラマダーンの日中に何かを食べようとする人はいませんでしたが、反抗する人や断食を解く人が増えたのでラマダーンの日中に食事することはとても容易になりました。罪を露わにする者は、信仰の弱い人たちに同じ罪を犯す勇気を与えてしまうのです。彼らは己の罪を真似た人の罪の責を負います。また、「そういう人には陰口はない」とも言います。つまり人々がそういった人に気を付けるように罪を露わにする人については話してもいいということです。2つの罪があるとは、一つはイスラーム法上における基本的な罪と、もう一つはその暴露です。なぜなら公にすることでその犯罪を起こす勇気を周りの人たちに与えてしまうことが理由になるからです。アブーフライラ(アッラーの御満悦あれ)はアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)が次のようにおっしゃっているのを聞いたと言いました:
《私のすべての共同体は、(悪行などを)露わにする者以外は、健やかである。露わにすることの一つに、ある男が夜のうちにある行いをなし、アッラーがそれを隠してくださる、というのがある。そして:私は昨夜、何々をやってしまったのだが(と他人に打ち明ける)、と言う。彼はアッラーが隠してくださっている状態で一夜を過ごしたというのに、朝になってアッラーの覆いを取り去ってしまう。》(アル=ブハーリー)

私たちの宗教には、罪を自白しなければならない、ということはありません。(もし罪を犯してしまったら、)罪をあなたとアッラーの間に留めておいて、あなたのためのアッラーの覆いを受け入れましょう。至高偉大なるアッラーがあなたを覆ってくださったのですから。そしてあなた自身を人々の舌にさらされる場から遠ざけましょう。

司会:では、宗教学者などに、「私は何々といった罪を犯してしまいました」と法規定を尋ねるのはどうでしょうか?

先生:友人が犯した罪、ということで尋ねるので構いません。このやり方で自分を隠せることになります。

司会:嘘をつくことにはなりませんか?いくら小さいとはいえ。

先生:いいえ。法で禁じられた嘘にはなりません。「何々をしてしまった友人がいます」と友人の名を伏せて自分を隠します。説明に嘘は不可欠になります。かつて預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)がアブーバクル様(アッラーの御満悦あれ)とヒジュラのための移動をなさっていた際、ある男が「この男は誰だ?」と尋ねました。当時、預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)は命を狙われており、彼の生死に関わらず彼を捕らえた者には100頭のラクダが報奨が約束されていました。男にアブーバクル様は答えました:「彼は私を道に導いてくれるお方だ」と。(例えば)私がある罪に陥ってしまい、この罪が広まることを恐れると仮定します。私は法学者にその裁定を尋ねますが、友人にこの罪の裁定を尋ねられたと装います。法学者は、この質問者が本当は彼自身であることを知ることなく、裁定がどうかを答えるだけです。このやり方はアッラーに認められているものです。

司会:罪の暴露はそれだけで罪です。破廉恥さはアッラーに対する大胆な行動です。先生は罪はそれが行われた場所と時間にもよると、つまり犯罪が禁じられる場所と時間があるとおっしゃいましたね。

先生:マスジドで犯される罪に対する罰は何倍にもなります!またラマダーンに犯される罪に対する罰も同じですし、あなたから逃げようとする女性を襲うことに対する罰も同じです。また近所の奥さんとの姦淫、夫が不在の女性との姦淫もです。また崇拝行為も捧げる犠牲や忍耐などによってその価値が変わってきます。反抗行為もその罪の程度によって変わってきます。ですから、時間にも場所にも、一緒になってアッラーに反抗した人物にも禁じられたそれぞれのものがあるということです。

アッラーがクルアーンの中で大きな罪の例として示し給うた孤児を荒々しく追い払う者。孤児には優しく接するべきですが、もしそうしないと、あなたは反抗者となってしまうのです。では孤児を叩いてしまった場合はどうでしょうか?罪それぞれに位があるのです。

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悔い戻る者たちの道しるべ【7】-(3)

2015年09月17日 | 悔い戻る者たちの道しるべ
あなたがアッラーに帰ることで、アッラーがあなたの悔悟のために喜んでくださることを確実に知っておくべきです。

あなたは”お母さんの心”を知っていますか。「かわいいぼうや、大丈夫?」と言うお母さん。いつか、アッラーの偉大さを示している諸しるしの一つである”お母さん”という被造物の心がどのようなものなのかを説明するお話をしようと思います。

預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)はある日、窯でパンを焼いている女のそばを通りました。窯の隣には彼女の幼い男の子がいました。女はパンを窯に入れるたびに、男の子を抱きしめ、口づけし、香りを嗅ぎました。次のお話が本に載っています:ある時、ムーサー様(アッラーの平安あれ)が、「主よ、なんという慈悲でしょうか?」アッラーは仰せになりました:「ムーサーよ、これはわれが母親の心に置いたわれの慈悲である。われはそれを彼女から引き抜こう。」アッラーが御慈悲を母親の心から引き抜くと、母親は泣く我が子を窯の中に放り込んでしまいました!

ウマル・イブン・アル=ハッターブ様(アッラーの御満悦あれ)は言いました:
《預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)のもとに捕虜がやってきました。捕虜の中にいるある女は、捕虜の中に男児を見つけると、捕まえて、その腹に男児を密着させ、授乳しました。預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)は私たちにおっしゃいました:この女がその子を火に放り投げると思うか?私たちは、いいえ、彼女は子どもを放り投げることなどできません、と答えました。彼はおっしゃいました:まことにアッラーは、この女の息子に対する慈悲深さよりも、さらにしもべに慈悲深き御方である。》(アル=ブハーリー)

私が至高偉大なるアッラーの御慈悲を知る時、私が彼に悔悟すると彼が私を愛してくださり、喜んでくださると知る時、急いで悔悟しなければ、と思うのです。些細な罪はその主を滅ぼします。これはイスラーム世界におけるムスリムたちの問題です。大罪に陥ることは稀なのですが、些細な罪はとても多いのです。小さな罪の結果は大罪と同じで、アッラーとの隔たりを作ります。

ジャービル・イブン・アブディッラー様(アッラーの御満悦あれ)によると預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)はおっしゃいました:
《悪魔は、ムスリムが彼に仕えることに失望した。しかし、彼らが挑発しあうことは別である。》(アハマド)

イスラーム世界に偶像崇拝はありません。しかし悪魔はそれ以外の、皆さんが些細に思う行為に目をつけました。悪魔はあなたが小さな罪に陥ることに満足するのです。なぜならそれ(些細な罪)は、あなたとアッラーの間に隔たりを作るからです。アッラーへの道において、これは揺るぎない真実です。罪は隔たりをつくります。あなたが信仰の道を歩む時、あなたにとって一番嬉しいことは、アッラーとつながり、お近づきになれることでしょう。しかし隔たりが生まれると、あなたが罪を犯したということを意味するのです。

司会:至高偉大なるアッラーに彼の御慈悲、そして彼のお赦しを祈願します。この度は些細な罪を警告してくださいました。次回は、罪を公にすることについてお話を聞けたらと思います。

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悔い戻る者たちの道しるべ【7】-(2)

2015年09月03日 | 悔い戻る者たちの道しるべ
司会:
それ(罪)は、イスティグファール(罪の赦し乞い)で無くなるのでしょうか?この状態を治す方法は何ですか?


先生:
”イスティグファール”と、”(罪からの)脱却”、そして”この罪へ二度と戻らない”という決心が欠かせません。しかし、このように言う人がいるかもしれません:「私は、集まりがあってその中で罪を犯す度に罪の赦し乞いをするのだけど、まるでアッラーを冒涜しているようじゃないか!」。


司会:
それを決心するとなると。


先生:
罪を再び犯すと決心して、その次に罪の赦しを求める人は、至高偉大なるアッラーを冒涜する人です。しかし、不意に罪に陥ってしまった場合は、アッラーは赦してくださります。しかし、”ある罪の赦し乞いをその度に行う”という決心を持つことは、アッラーを冒涜することになります。


司会:
祝福多き至高なるアッラーは仰せです:
「その顧み戻り給うのはアッラー(の恩寵)に依拠し、無知ゆえに悪事をなし、その後、間近で悔い戻る者に対してのみ。」(女性章17節)


先生:「間近で」という表現は非常に繊細です。学者たち曰く:罪からの悔悟は必須。悔悟を先延ばしにした場合、他のことから悔悟しなければならない。


司会:
信仰者が「私は偉大なるアッラーに赦しを乞い、彼に悔い戻ります」と言うだけで、罪から完全に悔悟できたことになるのでしょうか?


先生:
心が感じていればです。悔悟する人は、望む(罪の赦し乞い) 言葉を言えば良いでしょう。しかしアッラーは、畏れている心からの言葉しか受け付け給いません。


司会:
ウスマーン・イブン・アッファーン様(アッラーの御満悦あれ)によると、預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)は次のようにおっしゃいました:
《至高偉大なるアッラーが命じ給うた通りにウドゥーを完遂させた者は、5度の礼拝がそれらの間(に犯された罪)の罪の償いになる。》(アル=イマーム・アハマド)


先生:
その通りです。預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)は、ご自身が望むことをただおっしゃっているのではありません。彼に啓示された啓示に他なりません。


司会:
それら(各礼拝)の間の罪の償い、とありますが、行われる罪が赦される、という意味でしょうか?


先生:
その通りです。2礼拝の間、2金曜日の間、2断食斎戒の間もです。


司会:
しかし人は、2度の礼拝の間に悔悟をしようと意志しません。


先生:
悔悟をしていなくても、先述の礼拝を行って、礼拝の前になされてしまった罪の赦しをアッラーに乞えば、大罪でない限り、そしてその罪をいつもしようと思い、その後に罪の赦し乞いを繰り返していない限り、次の礼拝が2礼拝の間になされたことの償いになります。イスティグファールをしながら、「またこの罪を犯そう」と思っている者のイスティグファールをアッラーは受け付け給いません。なぜならアッラーに対する冒涜だからです。


司会:アブドゥッラー・イブン・マスウード様(アッラーの御満悦あれ)によると、アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)はおっしゃいました:
《罪から悔悟する者は、罪がない者のようだ。》(イブン・マージャ)
つまり、”小さな罪”のことです。


先生:
しもべが真剣なタウバをすると、アッラーは彼の守護係と天使たちと地のあるゆるところから彼の諸々の罪を忘れさせ給います。悔悟する者は、アッラーが愛で給う者です。悔悟する者は、人間が創造された目的を実現したことになります。アッラーは人間を慈しみ給うために創造し給いました。人間がアッラーの御慈悲を享受すると、人間の創造の目的を果たせたことになるのです。アッラーは、私たちが幸せになるため、私たちを慈しみ給うために、私たちにお与えになるために、私たちに恵み給うために私たちを創造し給いました。ですから、アッラーの恩恵と慈悲と慈善を受けた者は、確実にアッラーが彼を創造し給うた目的を叶えたことになるのです。そのため、
アブーフライラ様(アッラーの御満悦あれ)によると、アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は次のようのおっしゃいました:
《まことにアッラーは、おまえたちの誰かで迷子となった家畜を見つけた者よりも、おまえたちの誰かの悔悟を喜び給う。》(アッ=ティルミズィー)

http://nabulsi.com/blue/ar/art.php?art=7190&id=205&sid=801&ssid=882&sssid=895&w=%D9%85%D9%86%D9%87%D8%AC%20%D8%A7%D9%84%D8%AA%D8%A7%D8%A6%D8%A8%D9%8A%D9%86&aw=

悔い戻る者たちの道しるべ【7】-(1)

2015年08月13日 | 悔い戻る者たちの道しるべ
司会:先生、この講義集では、若者たちや悔悟を成した人たちなどから寄せられた質問に答えていかれるとのことでした。今まさに、道標の上にいる人たちでもやはり、欲や罪に負けてしまいがちです。ある人は、己の罪を小さく、大したことはない、と認識しているようです。”これは、消えゆく小さな罪だ、アッラーに赦しを乞えば赦してくださる。それか、礼拝すると同時に、またはていねいにウドゥーをすることで赦される…”などと言っているような感じです。では、私たちはどのようにして、罪を軽視してしまうことから気を付ければ良いのでしょうか?

先生:”悪魔は賢い”と言われます。悪魔は、人間が不信仰になるようささやきます。人間が信仰しているのを見ると、同位者を配置するようささやきます。スンナに倣っているのを見ると、大きな罪を犯すようささやきます。服従しているのを見ると、小さな罪を犯すようささやきます。敬虔であるのを見ると、合法な諸事に入り浸るようささやきます。慎ましくあるのを見ると、最後の一枚、それは、信徒たちに喧嘩を売るようささやきます。不信仰、同位者配置、大きな罪、小さな罪、合法諸事に入り浸る、そして信仰者に喧嘩を売る。確定している事実とは、例えばあなたが広い道を走っているとします。右側に、深い涸れ谷があります。小さな罪とはなんでしょうか?つまり、ハンドルを、1センチ分、右に動かすことです。1センチ動かせば、確実に涸れ谷に行き先が決まります。どんなにハンドルの動きが小さかったとしてもです。しかし、この些細な動かしでも、それは確実に私を涸れ谷に導くのです。では、大きな罪とはなんでしょうか?急にハンドルを、涸れ谷の方向へ90度動かすことです。ここでハディースを紹介しましょう:
《固執する場合、小さな罪とは言わない。》

小さな罪に固執すると、罪は大きくなります。大罪は瞬時にその主を破滅に陥れますが、小さな罪の場合、しばらく後に破滅が訪れます。そのため、信仰者の特徴の一つは、”罪に固執しない”です。根拠は、アッラーの御言葉です:
「醜行をなしたり、わが身に不正をなしたりした時にアッラーを思い出し、己の罪の赦しを乞う者ーーアッラーのほかに罪を赦す御方があろうかーー、知った上でなしたことに留まりはしない者。」(イムラーン家章135節)

大罪を犯さず、飲酒せず、姦淫せず、盗みをしなかったけれど、数え切れない小さな罪があると、それらは集積されて、その持ち主を滅ぼしてしまいます。そのため、教友サハル・イブン・サアド様(アッラーの御満悦あれ)によると、アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)はおっしゃいました:《些細な罪に気をつけなさい。》(アル=イマーム・アハマド)

イスラーム世界の問題に目を向けてみると、それぞれの地域で、人殺しをするような人は非常に少ないことが分かります。姦淫、飲酒、窃盗といったものもです。しかし、小さな、些細な罪は多く犯されています。先ほどと同じハディースを引用します:
《些細な罪に気をつけなさい。涸れ谷に集まって、一人が 棒を持ってきて、他の一人も棒を持ってきて、(それらを集めて火をつけて)食べ物を料理したある民のように。まことに、些細な罪は、その主が責任を問われる際に、彼を滅ぼす。》(アル=イマーム・アハマド)

棒一本だけでは、料理できません。しかし、棒が何本か集まると、大きな火を作れます。これこそが、ムスリムたちの問題です。アッラーへの恐れから、大罪は放置したのですが、小さな罪は犯してしまうどころか、固執してしまっています。その結果が、己とアッラーとの間にできた”壁”です。

例えば、電線が切れたとします。この電線一本には多くの家電が繋がっています。冷蔵庫、クーラー、湯沸かし器など…。1mでも1mmでも切れたら、結果は同じです。人間も、己の犯した罪でアッラーとの間に壁が出来て、アッラーから隔離されてしまう場合、盗みでも姦淫でも、陰口でも、アッラーとの間に隔たりが出来てしまったことに変わりはありません。

そのため、些細な罪がもたらす影響は、最終的に大罪がもたらす影響と同じなのです。つまり、アッラーから隔てられる、ということです。ここで一つ言っておきましょう:人間は、数える程度の小さな罪だけで、アッラーから隔離されてしまうものなのでしょうか?もし、隔離されているのなら、小さな罪ではなく、大罪のせいで隔離されているのでは?矯正できる小さな罪のせいで隔離が生まれることなどあるのでしょうか?(と思う方がいるかもしれません。)女性の手に触れて握手をする人もいれば、非合法なものをたくさん見る人もいれば、夜更かしして他人の噂話をする人もいます。そういう人が次のように言うのです:私は姦淫していないし、盗んでもいないし、卑猥なこともしていない。そう言う人に私は言います:あなたがあの夜に行ったことで集積した罪はとても大きいのです、と。

アブーフライラ様(アッラーの御満悦あれ)によると、預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)は次のようにおっしゃいました:
《まことにアッラーは、アッラーが満足し給う一言を何気なく言うしもべを、数段も上げてくださる。そして、まことにアッラーは、アッラーの御怒りを買う一言を何気なく言うしもべを、それを理由に、火獄に落とし給う。》(アル=ブハーリー)



悔い戻る者たちの道しるべ【6】-(3)

2015年07月30日 | 悔い戻る者たちの道しるべ
心の学者たちは、預言者(アッラーの祝福と平安あれ)の罪とは、”彼が段階を追ってアッラーのことを知る度に、そのレベルに到達する前の自分のことを恥じること”、と示しています。預言者(アッラーの祝福と平安あれ)は、アッラーのことを、回数を重ねる毎に知っていくのです。例えば、あなたがある人のことを、とある程度の人であると思い込んでいたけれど、実際にはそれ以上であることを知って、彼に相応しくない思い込みをしてしまったことを罪に思う、というような感じです。ですから、預言者(アッラーの祝福と平安あれ)の罪とは、”彼の魂がアッラーを知りたいと渇望する度に、そして実際にアッラーの完璧さを目の当たりにして、さらに上のレベルに上り詰めたときに、広範囲で包括的な目線で過去を見て、己がかつてあったレベルのことをアッラーに対して恥ずかしく思うこと”、ということでしょう。これが、預言者(アッラーの祝福と平安あれ)が己の罪から70回~100回の赦しを請うておられたことの解説なのでしょう。


司会:これは、一般の人たちが思っていることに近いかもしれません。無謬の聖なるアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)でさえも罪の赦し乞いをしているのに、私たちはどうでしょうか。私たちは、罪の赦し乞いと悔悟を多くし、一時間毎に悔悟しなくてはいけません。


先生:もう少しわかりやすくしましょう。篩の目に穴が空いているとします。穴の直径が1センチだとすると、スイカはこの穴を通りませんし、ヤシの実も通りません。しかしレンズ豆なら通ります。つまり、人間ひとりひとりに、正しさのレベルがあるということです。絶対に犯さない罪があれば、軽視する罪もあります。預言者たちは完全に罪を犯すことから守られていて、彼らの篩は平らな屋根のよう(に穴がない)です。しかし私たちは、ひとりひとり、それぞれの信仰心に合った正しさのレベルがあるのです。つまり人の持つ正しさのレベルは、ある特定の罪を通過させませんが、それよりも小さな罪は通過させます。そこで私たちは信仰する者として、すでに犯してしまった、または、通過させてしまった罪の赦し乞いをしなければなりません。この篩の目が小さくなるごとに、信仰者は向上します。信仰心は、まるでとても大きな輪のようです。その中に入る人は誰でも信仰者です。しかしこの大きな輪の中には違う輪があって、それに入る人はまっすぐな人です。この二つ目の輪にある中心は、預言者たちです。その中に入れば、無謬です。預言者たちは無謬で、アッラーに近い者たちは保護されている者たちです。無謬と保護の違いは何でしょうか?預言者はアッラーによって無謬とされており、また彼に代わって伝達するので間違えません。わた、私たちは預言者から教えを得ることをアッラーに命じられてもいるからです。ではアッラーに近しい者たちが守護されているとはどういうことでしょうか?”己の罪の害を被らない”ということです。つまり、すぐに罪から悔悟し、アッラーに赦しを乞うているということです。一般的には、大きな罪ではなく、意図や計画なしに犯してしまった小さな罪において言われます。そのため、”預言者は無謬であり、アッラーに近しい者たちは保護されている”と言われるのです。また、罪だと分かっていながら罪を犯す者は、アッラーの許では放り投げられた者です。


司会:では、もう一度質問させてください。過去に犯してしまった罪はどのように改めれば良いのでしょうか。後悔、罪の赦し乞い、二度と繰り返さないという決意を含んだ悔悟、ですね。


先生:罪が、人間やその他の被造物の権利に関係している場合、修正しなければなりません。返さなければならない借金、不正かつ敵意を持ってある言葉を言ってしまったなら、その言葉から悔悟しなければなりません。そのため、過去の罪は修正されなければなりません。8節を超えると思われる、クルアーンの中にあるアッラーのお言葉は、私たちたちの関心を引き寄せます:
「それから、まことにお前の主は、無知ゆえに悪をなし、それから後で悔いて戻り、(行状を)改めた者たちに対し、まことにおまえの主はその後には、よく赦し給う慈悲深い御方。」(蜜蜂章119節)


彼は、いつ赦し給うのでしょうか?あなたが信仰し、悔悟し、改める時です。「私はアッラーに悔悟した」だからアッラーはあなたを赦し給う、というのは違います。まず初めに信仰し、第二に悔悟し、第三に罪を修正しなければいけません。


私が罪から抜け出した時、兄弟から不当に奪った権利を返す時、兄弟の不在時に彼の悪口を言ってしまったことの赦しを彼から得る時、私が信仰し、罪から抜け出し、改める時、私は、信仰と悔悟と改めの後、アッラーが私の罪を赦してくださることを望みます。これは苦い現実です。居心地の良い幻想よりも苦い現実の方が良いと思うので、私はいつも真実を話すのです。


司会:では、過去の罪の修正は、おっしゃった条件と姿の上に成り立つということですね。己が陥っている罪からの脱却、それに二度と戻らないという決心、これが前述なさった悔悟の真の姿ですね。知と状態と行為。

http://blog.goo.ne.jp/qurtaf/c/5eb92c3cac400d0acef39a4ddc08b378

悔い戻る者たちの道しるべ【6】-(2)

2015年06月25日 | 悔い戻る者たちの道しるべ
しかし、罪を小さく見るのではなく、大きめに見るべきです。私たちが罪を小さく捉えると、それはアッラーの御許で大きくなり、私たちが罪を大きく捉えると、それはアッラーの御許で小さくなるのです。

真正アル=ブハーリーの中で、教友アナス(アッラーの御満悦あれ)は、次のように言いました:

《まことにおまえたちは、われわれが預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)の時代には重罪とみなしていた、おまえたちの目にとって髪の毛よりも細い行動(些細な行為)をしている。アブーアブドゥッラー曰く:つまり(身の)破滅を指している。》(アル=ブハーリー)

そのため、イーマーン(信仰)の各ステージには、「罪の格付け」があるかのようです。尊い教友たちが犯す罪は、私たちが善行だと思うものであるかもしれないのに、彼らにとっては、罪なのです。

教友ハンザラ・アル=アサディーが次のように言いました:

《私を見かけたアブーバクルが言いました:ハンザラよ、君の調子はどうだ?私は、:ハンザラは偽信仰に陥ってしまった、と言いました。アブーバクル:スブハーナッラー!なんということを君は言うのだ?私は。:われわれは、アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)が火獄や楽園について想起させてくださるあまり、まるでそれらを目の前に見ているかのように思うのに、アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)の許を出て、妻や子供達や金儲けに急ぐと、たくさん忘れてしまうのです、と言いました。アブーバクルは言いました:アッラーにかけて、私も同じことが起きる。そこで、私とアブーバクルは、アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)を訪れました。私は:アッラーの使徒様、ハンザラは偽信仰者になってしまいました、と言いました。アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は:どういうことか?と言われ、私は:アッラーの使徒様、あなた様が火獄や楽園について想起させてくださるあまり、まるでそれらを目の前に見ているかのように思うのに、あなた様の許を出て、妻や子供達や金儲けに急ぐと、たくさん忘れてしまうのです、と言いました。するとアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は次のように言われました:私の魂をその御手の内にされる御方にかけて。おまえたちが、私のそばにいるときのような状態を保って、思い起こし続けているようなことがあれば、必ずや天使が、おまえたちの寝床でも道すがらでも握手してきたことであろう。しかし、ハンザラ。一時、一時なのだ。と、三度、言われました。》(ムスリム)

司会:

己が偽信仰に染まっているのではと恐れていたのですね。

先生:

その通りです。

司会:

アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)の回答はどのようなものだったのでしょうか?

《おまえたちが、私のそばにいるときのような状態を保って、思い起こし続けているようなことがあれば、必ずや天使が、おまえたちの寝床でも道すがらでも握手してきたことであろう。しかし、ハンザラ。一時、一時なのだ。と、三度、言われました。》

一時は服従の期間、一時は背く期間であると捉える人がいますが、けっしてそのような理解が求められているのではありません。ある時は煌めき、ある時は無気力になるということです。アッラーの御命令に常にまっすぐな信徒であっても、煌めく期間の到来に喜んだ次に、無気力な期間が来たために萎縮することもあるのです。なぜなら、その時の彼には、高いところにおわすアッラーが不在だったためで、このことが彼を苦しめるのです。

教友アリー(アッラーの御満悦あれ)は次のように言っています:”自我には前進と後進がある”。彼は、自我には服従と罪がある、とは言いませんでした。前進と後進。自我が前進しているときは、自発的行為を成就できるように働きかけ、後進しているときは、義務行為を成せるように働きかけてあげてください。預言者(アッラーの祝福と平安あれ)の教友たちは、自分たちの情熱が緩んだり、前進が弱まったりすると、それを大きな罪と捉えていたのです。一方、後世の信仰者の一部には、はっきりしている確実な罪を犯しながら、「アッラーはたびたび赦し給う、慈悲深き御方」と言っています。これは、信仰が弱い証拠です。

アブーフライラは言いました:私は、アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)が次にように言われるのを聞きました:

《アッラーにかけて、1日に70回以上、私はアッラーに罪の赦しを乞い求め、彼に悔悟する。》(アル=ブハーリー)

他の伝承には、100回以上、とあります。

アッラーの使徒の罪の赦し乞いとは何でしょうか?アッラーの使徒はどういったことの赦しを乞われていたのでしょうか?過去の罪だけでなく、未来にわたる罪もあらかじめ赦されたお方だったのではなかったのでしょうか?

悔い戻る者たちの道しるべ【6】-(1)

2015年05月28日 | 悔い戻る者たちの道しるべ
司会:
悔悟とは、“知”、“状態”、“行為” であり、これらこそが悔悟の本質です。
先日、「行為とは、過ぎたことの修正、現在陥っている状態からの脱出、それがこれから繰り返されることなく、また未来に犯さないとの決心である」とおっしゃいました。今回はさらに深く掘り下げたいと思います。まず、「罪を深刻に捉える」について。私たちはどのようにして罪を深刻であると捉えられるのでしょうか?誰が罪を深刻に捉えるのか、それは信仰者なのか、それともアッラーの道しるべに反した者なのか?

先生:
万物の主、アッラーに称賛あれ。私たちの指導者ムハンマドに祝福と平安がありますように。
前の講話でも出てきたように、罪人が己の罪を小さく捉えるごとに、アッラーの御許でそれは大きくなり、罪人が罪を大きく捉えるごとに、アッラーのもとでそれは小さくなります。悔悟のプロセスは、「アッラーの御許で罪が小さくなるために、罪を深刻に捉えること」です。例えば、アッラーは篤信のしもべたちを描写して次のように仰せです:
「夜のほんのわずかの間眠り、そして暁には、彼らは赦し乞いをしていた。」(51章17~18節)

他の節の中でも:
「「われらが主よ、確かにわれらは信じました。それゆえ、われらの罪を赦し、獄火の懲罰からわれらを守り給え。」と言う者たちで、忍耐強く、誠実で、(神に)従順で、(善に)費やし、暁に赦しを乞う者である。」(3章16~17節)

彼らは篤信を保ち、己を良い状態で保っていながらも、
「赦し乞いをしていた」
のです。

信仰者は、己の罪を「大きい」と認識します。さて皆さん、イスラームの偉人であるウマル・イブン・アル=ハッターブという、アッラーが楽園行きの吉報を与え給うた教友の次のお話はいかがでしょう。アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は偽信者たちの名前を教友の一人であるフザイファ・イブン・アル=ヤマーンにお預けになりました。そこに正統カリフとなるイスラームの偉人がフザイファのもとに現れて、「フザイファ、アッラーに誓って、私の名前は偽信者たちの名前と一緒にあるか?」と尋ねたのです。アッラーへの怖れのあまり、アッラーの御許での自分の位置を深刻視しています。ですから、信仰者が己の罪を深刻に捉えるごとに、アッラーの御許でそれは小さくなるのです。信仰者は、アッラーに対する大きな敬いの気持ちから、知らぬ間に罪を犯すことを恐れます。そのためある追従者たち(タービイー。サハービー時代の次世代)は次のように言いました:「40人の教友に会いましたが、誰もが偽信仰を自分自身に恐れていました。」ある心の学者は、「誠実な信仰者は一日の間に状態が40回変わる。偽信者は40年間同じ状態で居続ける。」と言いました。信仰者は心配や混乱のためにころころと状態が変わるのですが、これは彼がアッラーを畏れている証拠です。ウマルがフザイファに、「私の名前は偽信者たちの名前と一緒にあるのか」と尋ねているのです。罪を犯しながらそれを気にかけない者は死者です。アッラーは仰せです:
「死んだもので、生きてはおらず」(16章21節)

死んでいるサインは、大きな罪を犯しても気にかけていないことです。信仰者が生きているサインは、言うに相応しくなかった言葉のために眠れなくなることです。これこそが、アッラーが誓い給うた「自責する魂」です。

尊い兄弟姉妹の皆さん。罪を非常に恐れる信仰者の信仰心や、信仰者が己の罪を深刻視することを指摘しました。そしてたくさんの罪を犯しているのに、取るに足らないことだとしている人に私は激しい痛みを覚えます。これはその人の信仰心が弱い証拠です。

学者アッ=タバリーは言っています:アッラーやアッラーの罰に対する激しい恐れが信仰者の性質であるのは、彼が「罪が確実」であり、「罪の赦しは不確実」であると捉えているためです。起きたこと(罪)は確実ですが、赦しが自分のために起こるか、アッラーが赦しを恵んでくださるかについては確信を持たないのです。罪に関しては確信がありますが、赦しは確実ではありません。

司会:先生、私たちは過去に犯してしまった罪をどのように修正すればよいでしょうか?

先生:とても良い質問です。しもべが真剣に悔悟すると、アッラーは天使をはじめ、地球上にいるすべてのものにこのしもべの罪を忘れさせます。しもべがアッラーに回帰すると、呼びかけ人が天と地で「皆、○○を祝いなさい!彼はアッラーと和解した」と呼びかけます。アッラーの御慈悲があること、アッラーの御慈悲があらゆるものに及んでいること、どんなに罪が大きくなってもアッラーの御慈悲より大きくはならないことを私たちは信じます。こういったことが私たちの心にアッラーへの信頼をいっぱいにしてくれるのです。

「まことにアッラーの慈悲心に絶望するのは不信仰の民だけである。」(12章18節)

「言え、「己自身に仇して度を越したわがしもべたちよ、アッラーの御慈悲に絶望してはならない。まことに、アッラーは罪をそっくり赦し給う。」」(39章53節)

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悔い戻る者たちの道しるべ【5】-(2)悔悟の真相

2015年05月14日 | 悔い戻る者たちの道しるべ
【司会】:では、これこそが”罪を知ること”ですね。

【先生】:”罪を知ること”。罪を暴くためにアッラーの道しるべを知っておかなければなりません。知らない者は最も大きな罪を犯して、「私は一体何をしたのだろう?私は何もやっていない」と言うことでしょう。“知”は番人なのです。だからこそアリー様は次のように言われたのです:「息子よ、“知”は金銭に優る。“知”はおまえを見張り、おまえは金銭を見張る。金銭は消費によって減るが、“知”は消費(使うこと)によって増加する。息子よ、金庫番は死ぬが、学者たちは時間がある限り残り続ける。彼らの身体は(死によって)消えても、人々の心の中に彼らの教訓は残り続ける」。

方法を知らず、家畜との接し方を知らない鶏を売る男は、するときに大きな間違いに陥ります。私は実際に、鶏を屠ってすぐに熱湯に入れる人をダマスカスで見たことがあります。羽を取るためとのことですが、彼は大きな間違いを犯してしまっています。なぜなら預言者(アッラーの祝福と平安あれ)がかつてある教友が羊を他の羊がいる前で屠ったのにお怒りになって、「おまえはそれが二度死ぬのを望むのか。仲間から離しなさい。」と言われたからです。

例:羊を屠る時は、頸静脈だけを切るべきです。頭を切断してしまう人はイスラーム法に違反してしまうことになります。心臓は洞結節から鼓動によって命令を受けます。そしてこの命令は秩序立った鼓動である、一分に80回の鼓動を心臓に与えます。しかし例外的命令を、脳を介して受け取ることにもなります。の瞬間に心臓に課される任務は「血液をすべて体外に出すこと」ですが、鼓動が正規のままであると血はすべて出ません。代わって、頭が残り、身体にくっついていると、例外的命令が心臓に発せられ、鼓動は180回に達します。この数は全血液を身体の外に出すのに十分です。つまり、預言者(アッラーの祝福と平安あれ)のご指導は思い付きによるものではなく、紛れもなく啓示された啓示なのです。したがってどのようなメリットにもアッラーの道しるべを知る必要が生まれます。もし私がアッラーに従いたいと望む場合、いつ罪を犯すのか?」その答えは、「己が無知である時」、です。最後の審判の日の不信仰者たちの手綱は「無知」なのです。

「また彼らは言った。「もしわれらが聞き、悟っていたなら、烈火の輩の中にはいなかったものを」。」(王権章10節)

ですから、私は“知”を求める時、「二つの知」を求めます。一つは、「至高偉大なるアッラーに関する知」と、「彼の道しるべ」です。「彼の道しるべ」は私が罪に落ちることから私を守ってくれますし、欲に負けて罪に落ちてしまってもすぐに悔悟できます。「これは罪である」と知ることで悔悟が可能になるということです。代わって、あなたは、「罪だと知らない罪」から悔悟することはできません。だから、悔悟は、“知”なのです。

司会:悔悟が“状態”であるとは?

先生:人間は「己の存在への愛」、「己の安泰への愛」、「己が満たされていることへの愛」などを持つものとして創られました。あなたが、「これは罪である」と断定し、現世と来世でアッラーがそれを罰し給うのだと確信する時、その罪を犯してしまったことを激しく後悔することでしょう。「罪の認識」は、「それを成したことへの後悔」です。それはまるで社会学者が明らかにした、私たちの周囲と私たちの関係の基礎になっている規則のようです:「認識」「感情」「行動」

例:庭に蛇がいます。私は、学習や経験や蛇博物館で得た理解でそれが蛇であると分かる時、また蛇に関するたくさんの話やその害について聞く時、これらの情報をもとに蛇の概念が形成されます。人間は蛇を見ると、己が持つ蛇の概念に基づいてその危険を感じます。つまりそれが致死をもたらす動物であるとか、混乱をもたらす害のある動物であるという知識です。混乱の中には、蛇を殺したり逃げたりという「行動」に人間を動かすものがあります。ここで、肩にサソリが乗っている人に思わず「気を付けて!肩の上にサソリがいますよ!」と注意しているのに、落ち着いて、また微笑んで、あなたの方を向いて、「心配してくれてありがとう。お礼をしなくては。」とその人が言ったと仮定します。さて彼は私が言ったことを理解したのでしょうか?

司会:もちろん「いいえ」です。彼は危険だと思っていません。

先生:“状態”は「正しいな理解」を経ていなければ成り立ちません。また、“行為”は「正しい“状態”」を経ていなければ成り立ちません。あなたは、「理解」した後に「混乱」し、そして「行動」するのです。私は、「これは後悔すべき罪である」と理解し、そのために混乱する時、私の「正しい悔み」と「正しい混乱」は私がその罪から抜け出す状態にしてくれるのです。これが、”知”の後の”状態”です。

残っているのは“行為”です。私はそれが罪であると知り、混乱します。私の「知識の正しさ」が私を「混乱」と「悔悟」へと導きます。私の「混乱」と「悔みの本質」は私を“行為”へと導きます。つまり“行為”は3つの「時」に関連します。もしこの罪が過去に成されたものであれば私はそれを正さなければならないし、現在のものであれば己をそこから抜き出さないといけないし、未来のことであれば二度と犯さないと決心することが必要になります。「過去における修復」、「今すぐ抜き出すこと」、「未来に犯さないとの決心」。悔悟は“知”と“状態”と“行為”です。もし罪がしもべの権利に関係している場合は、相手の赦しを得たり、権利を返還したりしなければなりません。“行為”は過去に関連し、現在の内に修復し、未来に二度と犯さないとの決心をもって罪から脱することです。

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悔い戻る者たちの道しるべ【5】-(1)悔悟の真相

2015年05月01日 | 悔い戻る者たちの道しるべ
司会:悔悟の話を続けます。きょうは悔悟の真相、つまり悔悟は“知”と“状態”と“行為”であることについて話します。これらの言葉の意味をどのように解釈すればよいでしょうか。

先生:真実については預言者(アッラーの祝福と平安あれ)が簡潔かつ修辞力に満ちた言葉で言われました:
≪後悔は悔悟である。≫(アッ=ティルミズィーとアハマドがイブン・マスウードより伝承)

しかしこのハディースを解説した学者たちは次のように言っています:
“自分を後悔に導いたきっかけは何なのか”という知識が必要であり、またこの後悔に基づいた行為が必要である。“知”が“後悔”に先行し、“行為”と続く、ということである。そのために学者の中のトップたちは悔悟を“知”と“状態”と“行為”とするのです。

悔悟が“知”であることについて。罪であると知らない罪からどのように人は悔悟するのでしょうか。あなたがアラビア語を勉強していると仮定しましょう。あなたは例文が読まれるのを聞きそこに間違いがあることに気付きますがアラビア語を学んでいなければおそらくこの間違いにはあなたは気付かなかったでしょう。そのため人は制限なく罪を犯してしまう可能性があるのです。なぜならシャリーアを学ばず、アッラーの道しるべを知らないからです。自分は何もしていないと思っています。だからこそあなたはアッラーの道しるべを知っている必要があるのです。

司会:人は無知であることを言い訳にできるのでしょうか?

先生:いいえ。なぜならアッラーは無知であることを清算し給うからです。人が信仰をもって従順で顧みるのに少し魔が刺してしまった場合は:
「おまえたちの主は御自身の上に慈悲を書き留め給うた。すなわち、おまえたちのうち無知から悪をなし、その後悔いて戻り、(行いを)正した者に彼はよく赦し給う慈悲深い御方。」(家畜章54節)
と仰せです。

あなたがアッラーの御命令と禁止に従おうと希求しながらアッラーへの道を辿っている時、無知のために油断して軽微な違反をなしてしまった場合、アッラーの御慈悲はこの罪にも達するのです。

「おまえたちの主は御自身の上に慈悲を書き留め給うた。すなわち、おまえたちのうち無知から悪をなし、その後悔いて戻り、(行いを)正した者に彼はよく赦し給う慈悲深い御方。」(家畜章54節)

つまり、信仰者は主の道しるべを知らずに己の罪から悔悟することはない、ということです。聖法の詳細をあなたが知る時、罪も解明されるべきです。アッラーの道しるべはとても詳細です。しかし今日のムスリムたちはそれを儀式的崇拝行為に簡素化してしまいました。宗教は統合された道しるべです。人間の己との関係、己の身体との関係、己の妻や子供との、定住時および移動時の、現世を行き来する際の、己の健康時と病気時、結婚前と結婚後、お金を稼ぐこととそれを消費することにおいての関係を解明するものです。アッラーの道しるべは細かいです。アッラーの道はそこから何も消去されることはありませんし、追加されることもありません。まことにそれはアッラーの御許からのものなのです。

「今日、われはおまえたちにおまえたちの宗教を完成させた。」(食卓章3節)

あなたを罪から救ったり罪からの悔悟させる“知”のことを学者たちは“最低限知っておくべき知識”と呼びました。私はこの真実を裏づけてくれる以下の例をたびたび引用します。

パラシュートを付けた男が飛行機から飛ぼうとしていると仮定しましょう。彼はその形が楕円形なのか丸いのか、正方形なのか長方形なのか知らないかもしれません。またその素材について知らないかもしれませんし、紐がいくつ付いているか、紐の素材が何なのか、紐な何色か、など数百以上の情報を知らないかもしれません。ただ、それを知らなければ落ちて死に至る情報が一つだけあります。それはパラシュートの開き方です。パラシュートの開き方は必ず持っておかなければならない知識です。宗教は広大ですが、数ある情報の中であらゆるムスリムが知っておかなければならないことがいくつかあるのです。それを知らずにいると知らないうちに罪に陥ってしまいます。

結婚した人は結婚にまつわる規則や夫の権利と妻の権利やすべきことやすべきでないことやしても良いことやしてはならないことが何かを知るべきです。子どもが生まれたらどのように育てるか、子どもを育てる者の報奨は一体どのようなものなのか、なども知っておくべきです。結婚に関しては結婚と離婚の規則と子育てについて知っておくべきです。

商売したいと思う人は商売の規則を知るべきです。法学に関する知識なしに市場に入る人は望んでも望まなくても利息を貪ってしまいます。結婚と離婚と子育ての規則を知り、合法な儲けを得る規則や消費の規則を知ることは必須です。旅行には旅行の規則があります。あなたはあなたが必要とする分野の宗教的規則を学ばなければなりません。これを必要最低限知っておくべきことと呼びます。知っておかなければ全く知らないうちに間違いを犯してしまうことになります。そのため信仰者の悔悟は、彼がアッラーの道しるべを知らないことには締結しないのです。アッラーについて知ることと、彼の道しるべを知ることは同じではありません。例をあげましょう。

ある人があなたに家を買うための金を貸してほしいと申し出たとします。あなたは彼に二年後に同じ額を返してもらう保証を求めました。またあなたには家に対してある金額を求める権利もあります。しかし家に対して金額を得ることは100%利息です。代わってこの人と一緒に家を買うとします。あなたは家の1/4を所有します。この人がこの家で得た利益をあなたに渡すとき、あなたが家を買う時に出したお金が家の価格によって増減する条件で合法になります。もしこの家をあなたが売りたいと思うときは、お金を儲けるときの規則がたくさんあります。お金を消費するときの規則もたくさんあります。非合法なものを消費する人は悪魔の兄弟ですし、合法であっても浪費は嫌われます。お金儲け、お金の消費、結婚、子育て、旅行に関する規定を知っていなければ私たちはとても多くの罪に陥ってしまうのです。あなたは聖法を知らない限り自分が罪人であることも知ることができません。ですから悔悟は“知”で始まるのです。何人ものマスジドで学んだムスリムが先生の話すさまざまな規則について聴いて知らないうちに感じることもなくたくさんある違反行為に陥ってしまったなあと思っていることでしょう。つまり私たちは悔悟について話すにはまずアッラーの道しるべについて知ることから始めなければなりません。アッラーの道しるべを知ることは私たちが知らないうちに犯してしまう間違いの覆いをめくってくれます。医学的な例を挙げます:自分の血圧が高いということを知らない限り高血圧を治療することはできません。また高血圧を知るにはあなたの血圧を測る道具も必要になります。これは簡単な例です。

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悔い戻る者たちの道しるべ【4】-(2)罪を知ること/欲望が圧倒すること/罪人の種類/罪人の状態

2015年04月10日 | 悔い戻る者たちの道しるべ
”打ちのめされた者”としてアッラーに背く者についてお話します。つまり自我に負けてしまった人のことです。油断している間に罪を犯してしまったためにこの人は泣き、後悔します。ここで私は吉報を伝えましょう。罪を後悔しているあらゆる人には赦しがあると。預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)は次のように言われました:
≪後悔は改悛である。≫(アッ=ティルミズィー、アハマドがイブン・マスウードから伝承)

かの罪人たちは一体どの種に属する罪人なのでしょうか。高慢に、自信満々にアッラーへの服従に背く者たちの一人なのか、それとも弱さのために背いた人たちの一人なのか。

【罪を知ること】
人間は己を知って、己を清算しなければなりません。さて自分は高慢にアッラーに背いたのか、それとも打ちのめされてしまったゆえに背いたのかを。
彼らについてアッラーは明快かつ素晴らしい聖句の中で述べ給いました:

「醜行をなしたり、わが身に不正をなしたりした時にアッラーを思い出し、己の罪の赦しを乞う者-アッラーのほかに罪を赦す御方がおろうか-、知った上でなしたことに留まりはしない者。」(イムラーン家章135節)

【欲望が圧倒すること】
イブン・アル=カイイムという威厳ある学者がこの意味について素晴らしい言葉を残しています:
”至高なるアッラーは、欲望や自然の力に負けてしまうという形で罪に陥ってしまったしもべを赦し給う。つまりその罪の中にある欲望の強さのために、それを嫌悪し、己の中でそれに固執しているわけでもないのに罪を犯してしまう場合。このような者にはおそらくアッラーの御赦しと御放免と赦免が期待される。なぜなら至高なるアッラーは彼の弱さと彼が欲望に負けてしまったことを御存知だからである。また罪人は罪に忍耐出来ずいる時毎に、罪に陥る時は畏縮し、主に服従した者として恐れ、胸は震える。罪ある自我の欲望を持った信仰心は彼が罪に陥ることを嫌うので、彼は自我の呼びかけに応じたり、信仰の呼びかけに応じたりする。代わって罪を止めず、恐れることもなくアッラーのために欲望を捨てることもなく、喜び、罪を勝ち取った際には大きく笑う者。この者こそが己と悔悟を隔てられて、悔悟できないことが心配される者である。”

この威厳ある学者の言葉続きます:
”至高偉大なるアッラーに背くことに喜びを得ることは、それを激しく欲していること、背いた相手の身分(つまりアッラー)について無知であること、罪がもたらす結果の悪さやその危険の大きさについて無知であることの証拠である。彼が罪に寄せる喜びはそれらすべてを覆ってしまっている。そのため彼が罪に寄せる喜びは彼が罪に陥ることよりも彼にとってはるかに害である。罪によって喜びを感じることは罪を犯すこと自体よりも危険である。信仰者は罪で快楽をけっして得ないし、それによって喜びが増大することもない。むしろ罪をなす時は必ずや悲しみが伴っている。誰でもこの悲しみを心に感じず罪によって幸福感と歓喜が強くなる者は己の信仰を疑い己の心の死を泣かなければならない。もし心が生きているなら罪を成すことに悲しみと怒りを感じ、(その行為を済ますことを)難しいと思うだろうが、心がそのように感じずにいるなら:傷は死人に痛みを与えないということである。”

さて彼は欲望に負けてアッラーに背いたのか、それとも弱かったためなのでしょうか?代わって高慢に喜びの中アッラーに背く者は違います。信仰者の欲望は罪によって達成されません。なぜならアッラーを畏れているからです。私は自我が弱いために油断している間にアッラーに背いてしまった後悔し、泣き、この罪に陥らなければよかったと願う人たちに吉報を伝えます。アッラーの御赦しが近く彼らにあることを。

【罪人の種類】
イブン・サンマークが次のように言ったのをアル=バイハキーが伝えています:“被造物は3集団となった:罪から悔悟する集団で、罪から逃げて落ち着いており、罪の一つにでも戻ることを望まない集団。これこそが無罪とされる者である。そして罪を犯して後悔し、罪を犯して悲しみ、罪を犯して泣く集団。同情され、心配される。そして罪を犯して、後悔せず、悲しまず、罪を犯して泣くこともない集団。楽園の道から火獄に外れた者である。”
一つの罪を犯して、しっかりとした悔悟をする人は安泰です。そして罪を犯し、また罪を犯す人は心配ですが、(悔悟すれば)アッラーに受け入れられます。そして罪を犯し、何も感じず、後悔もせずアッラーに戻ることもない者は、楽園から火獄に移る者です。

【罪人の状態】
司会:先生、”あなたはどれに属する罪人でしょうか?”が今回の質問でした。罪には位があると言えば良いでしょうか。いずれにせよ誰に対して背いているのかという点から訓戒が得られます。つまりあなたは至高偉大なるアッラーに背いていると。罪から悔悟する者は常に後悔の念と悲しみの状態にあります。それ以外の人はアッラーの道しるべから逸脱した人であって、彼がしっかりと悔悟しない限り悔悟も赦しも望まれません。
次回は罪と悔悟の話を続けます。まず始めに悔悟の前置きがどのようなものであるか、条件は何かを知りたいと思います。
最後に一言だけ残しておきます:罪で喜ぶことはそれを犯すよりも酷いものである、と。

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