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イスラーム勉強会ブログ

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悔い戻る者たちの道しるべ【4】-(1)罪の種類/悔悟の手段/赦しの段階

2015年03月20日 | 悔い戻る者たちの道しるべ

あなたはどの種に属する罪人でしょうか。
信仰ある罪人の罪はどのように分けられるのでしょうか。
そしてそれらからの悔悟の方法、
主の御赦しと受け入れの程度とは?

【他人の罪の否認】
『罪はそれを犯していない者にとって災いである。それを非難すればそれによって試みられ(その罪を犯してしまうような状況に遭ってしまう)、それを中傷すれば罪を犯したことになり、それに同意すればそれを共有したことになるからだ。』
※信ぴょう性が低いとされるハディースですが内容重視のため引用します。

あなたではなく他人が罪を犯したとします。そこであなたが「誰々が何々をしたぞ。あんなことするべきではない!」と言いふらし、罪を犯した兄弟(が本来持っているであろう)の誠実さに傷を付け、人々の噂の種にしまったなら、このやり方であなたは彼を中傷したことになります。この形で他人の罪があなたにとっての災いになるわけです。代わってあなたが「おやまあ、あいつはすべきことでないことをやってしまった」と言ったら、あなたは彼が罪業を成したことに同意したことになります。学者たちは次のように言いました:罪を中傷することはそれに対する同意であり、おまえはそれを見つつも否認しなかった者と同等である」。罪から隠れていたのにそれに同意する者はそれを見ていた者と同じであるということです。罪を見てそれを非難する者は、罪から隠れているのと同じです。あなたが罪に同意することは、罪の持ち主と罪を共有することを意味します。アッラーがあなたをこの罪から救ってくださったことに感謝しましょう。

【他人の罪を包み隠しましょう】
誰かが罪を犯すのを見たら暴露せずにその人を覆い隠してあげましょう。アッラーは覆う御方ですからアッラーの完全さを見習いましょう。たくさん人が居る前ではなく直接彼に助言しましょう。兄弟が罪を犯すとき、あなたはそれに同意すべきではありません。同意すれば罪を共有したことになります。もし彼が不法にお金を得た場合、あなたは「すごいなあ」などと言うべきではありません。このような言葉は真実を失わせるものです。その行為を嫌い、その行為に同意してはいけません。
では罪を犯していない人に何倍も影響を与える罪を犯している張本人はどうでしょうか。不正は審判の日の暗闇です。ですから私たちは兄弟の誰かが罪を犯してしまったら、彼の許へ赴いて優しく親切に助言してあげるべきです。
ウマルのもとに、ある彼の友の一人が飲酒してシャーム方面へ旅したとの知らせが入りました。ウマルは彼に宛てた手紙に、「さて。まことに私はあなたのためにアッラー、罪を赦し、悔悟を受け入れ、その懲罰は厳しい御方を称賛する」としたためました。手紙を読んだ友は泣き始めました。つまり手紙は彼を悔悟へと誘ったのです。ウマルは言いました:おまえたちの兄弟が迷ってしまったら、このように振舞いなさい。決して彼に対する悪魔の援助者になってはならない。おまえたちは悪魔に対する彼の援助者にならなくてはならない。」

【暴露ではなく助言を】
第一にすべきことは、罪を犯してしまった兄弟に助言することです。助言と暴露は同一ではありません。罪について話せば中傷になります。罪を認めず、それは大きな間違いであると認識しましょう。
彼の罪を認めず、彼に助言することがふさわしいということです。
例えばあなたがある家に入ったとします。この家は非合法な金で出来ています。酒場や麻薬で得ているとしましょう。さてあなたは豪華な家や美しい家具を理由に彼に敬意を払いますか?いいえ。なぜなら稼ぎが非合法だからです。それらは他人の不幸で成り立っているからです。そのため私は罪を犯す高い地位にある人を見るとき、私は彼の地位のために彼に敬意を払うべきではありません。なぜならアッラーのもとで罪が彼を落とされる者たちの一人とするからです。

【非難すれば自分も試みられる】
罪を非難するとその罪で試みられることになるため、罪を非難すべきではありません。すべきことは、この罪から自分を護ってくださるようアッラーに祈ることです。私よりも頭の良い人が最大の罪を犯すこともあれば、宗教的知識を持つ者が罪を犯すこともあります。そのため私は罪を犯す人を見たら、至高なるアッラーにこの罪から私を護ってくださるように祈ります。そして罪を犯した人に助言します。私はその罪を認めず、現世における彼の外面のために彼に敬意を払うこともありません。そして最後に必要なのは、罪を非難しないことです。そうではなくアッラーに私がこの罪を犯してしまうことがないよう祈ることです。

【罪がその行為の主に与える影響】
まず己自身がどの種類の罪人であるのかを知りましょう。アッラーに背いて後悔する人、アッラーに背いて泣く人、アッラーに背きながらアッラーに背きたくないと思っている人がいますが、この類の人たちのことを心の学者たちは”打ちのめされた者”と呼びます。つまり自我に打ちのめされたということです。他には、執拗にアッラーに背き続ける人、誇りながらアッラーに背く人、罪を犯してそれを周りに知らせる人、喜びの頂点の中アッラーに背く人、毎日罪を犯したいと思いながらアッラーに背く人もいます。あなたはどの種に属するか知る必要があります。私たちの祖先であるアーダムもアッラーに背きましたが、
「またかつて、われらは以前にアーダムに約定を課していた。だが、彼は忘れ、われらは彼に決意を見出さなかった。」(ターハー章115節)アーダムは意識していたわけではなかったのでアッラーは彼を赦し給いました。代わって悪魔は背いて、
「私は変質した黒土のからからの粘土からあなたが創り給うた人間には跪拝したりはしません。」(アル=ヒジュル章33節)と言いました。
悪魔の罪は高慢と優越感から、アーダムの罪は弱さゆえに圧倒されて犯されました。そのためアッラーは仰せです:
「だが、彼は忘れ、われらは彼に決意を見出さなかった」(ターハー章115節)

【アッラーは誰の悔悟を受け給うか】
弱さのために罪を犯してしまったなら、悔悟はとても近いです。条件は罪が弱さから圧倒されて犯されたもので、アッラーへの服従に高慢に背くことでないことです。高慢にアッラーに背く人は自分の罪を後悔するどころかその罪を誇りに思います。アッラーに背くとき喜びの頂点にいて、この罪を再び犯そうと思っています。こういった類の人は悔悟しませんし、罪が赦されることもありません。この講義集ではこの類は扱いません。

http://nabulsi.com/blue/ar/art.php?art=7187&id=205&sid=801&ssid=882&sssid=895

悔い戻る者たちの道しるべ【3】-(2) 赦される罪について

2015年03月06日 | 悔い戻る者たちの道しるべ
しもべの主に対する罪をその大小で分ける
小さな罪に固執しまう場合どうなるのか
それに対する罰はどのようなものなのか

について見ていきます。

教友ビラール(アッラーの御満悦あれ)の素晴らしい言葉を紹介しましょう:
「罪の小ささを見るのではなく、誰に対して横柄な態度を取ったのかを考えなさい。」

罪はその大きさで軽量されるようなものではなく、その行為によって誰に、つまり世界の主アッラーに対して横柄な態度を取ったかで軽量されます。主に対する信仰が上昇するにつれて、己の信仰はアッラーと共にあるのだという感覚に傾倒していきます。アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は次のように言われました:
≪至誠とは、アッラーが目の前にいらっしゃるかのように彼を崇めることである。おまえが彼を見ていなくとも、まことに彼はおまえを御覧である。≫(ムスリム伝承)

「そして彼はおまえたちがどこにいようとおまえたちの共にあらせられる。」(57:4)

あなたが”アッラーは自分と一緒にあらせられるのだ”と感じる度にあなたはアッラーに恥じるでしょう。また”アッラーは偉大である”と感じる度に彼に対して小さな罪も甚大であるのだと見なすことでしょう。学者たちが述べた基本的な法則にこのようなものがあります:罪が大きいと感じる度にそれはアッラーの許で小さくなり、罪が小さいと感じる度にアッラーの下でそれは大きくなる。信仰者にとっての罪はまるで彼の胸にのしかかる山のようですが、偽信者にとっての罪は追い払った蠅のようです。私は偽信者のうちの信仰者が誰であるのかをその人の罪の捉え方で知ります。言った言葉のために眠れなくなる信仰者人がいれば、罪を犯しても寝られる不信仰者もいます。そのためアブーフライラによるとアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は次のように言われたのです:
≪まことにある男は悪くないと思って発した言葉のために火獄の中で70年間吹き飛ばされ続ける。≫(アッ=ティルミズィー伝承)

貞淑な女性を(姦通等で)中傷することは100年の行為を壊す、とも言われます。証拠もなく清廉で貞操を大切にしている女性の尊厳について暇つぶしに話すことは、100年間の行いを壊してしまうということです。また己が言った言葉を数える者は審判の日に救われるとも。言葉も行為ですから、あなたがあなたの行為の一つである言葉を数えれば助かるということです。しかし言葉は行為と無関係であると考えた瞬間に誠実さは失われます。ですから、罪の小ささを見るのではなく、誰に対して横柄な態度を取ったのかを考えなさい、ということなのです。あなたの中で罪が小さくなるたびにアッラーの許でそれは大きくなり、あなたの中で罪が大きくなるたびにアッラーの許でそれは小さくなります。これは良い兆候です。信仰者は己の罪を胸を押し付ける山のように感じ、それが落ちてくるのを恐れますが、偽信者は己の罪を蠅のように見ます。

多くの若者が”自分の罪は他人の罪と比べてどうなんだろう?他人たちは普通にしているが?”と心の中で思っています。または悪魔がこのように囁きます。そして若者は言います:”自分の罪は他人の罪に比べたら大したことはない”と。

この質問には詳細な答えがあります。自分を医者にたとえてみてください。あなたのところに胃に炎症を起こした患者が来ます。あなたは患者が摂るべき食べ物の載った厳しいリストを渡します。胃の炎症は治るものなのにもし患者が禁じられたものを食べたらあなたは怒るでしょう。代わって悪性腫瘍を患った患者が来たらあなたは彼に好きなものを食べてくださいと言うでしょう。彼らこそがアッラーからさ迷った罪を問われない人たちです。交通違反した人間を絞首台に連れて行くと仮定します。さてあなたは彼に違反の審問をしますか?彼は審問されません。その意味でアッラーは次のように仰せです:
「そして罪人は彼らの罪について問われることはないのである。」(28/78)
※アッラーは彼らの罪を御存じであり、審問による申し開きや悔い改めの機会を与えず、獄火に入れ給う。
アッラーがさ迷った無知な者に:おまえは現世を取りなさい。おまえはわれの慈悲から追放された者だ、と仰せになったようです。
「それゆえそれによって訓戒されたこと(厄災)を彼らが忘れたと時、われらは彼らの上にすべての(恵みの)扉を開き、与えられたものに彼らが歓喜していた時、われらは彼らを不意に捕え、」(6:44)

カリキュラムの難しさや教科書の難しさや難しい教師や膨大な質問や毎月提出しなければならない論文について悩む学生が学校に行っていない若者に愚痴を言います。若者は、「俺はズフルのアザーンまで寝ている。気楽さ。」と答えました。一人は博士になって指導する立場になろうとしている。もう一人は最低の人間になろうとしている。後のことを気にせず罪を犯す人間とアッラーが御満足しない言葉を言ってしまうことを恐れる人間は釣り合わないのです。集中治療室にいる人とその外にいる人は同じではありません。

背き、さ迷い、大罪を犯し、笑い、遊んでいる若者。不正な悪魔の道を行く者に悪魔は満足します。悪魔は言いました:
「必ずや私はあなたのまっすぐな道で彼らを待ち伏せしましょう。」(7:16)

信仰者が真実の道を歩こうとすると囁きが聞こえてきます。己の小さな罪がアッラーを怒らせてしまうことを恐れるような篤信な信仰者と無知な者は釣り合いません。

ある学生が私に言いました:「僕はアッラーをおそれません。」私は、「君の言うとおりだね。」と言いました。彼は「どういうことですか?」と言って私の言葉を不思議がりました。
「農夫が二歳になる息子を収穫地に連れて行く最中、蛇がそのそばに来た。大の男でもこのような蛇を見たら驚くに違いない。それなのに二歳の子どもは蛇に触れようとした。なぜ恐れないのだろうか?なぜなら理解していないから。理解しない者は恐れない。」
恐れる者は理解している者です。
ある技術者が建物にひびが入っているのを見たら、「もうすぐ崩壊する」と言うでしょうが、他の人間が見たらひびの上から詰め物をするだけでしょう。知る者と知らない者の間には大きな隔たりがあります。
医者は果物を洗います。なぜでしょう?微生物や感染の恐れを知っているからです。無知な人はビスミッラーと言って食べなさい、と言うでしょう。これこそが私たちが必要とするものです。私たちは知と畏敬を共に必要とします。
赦される罪はあなたがアッラーに対して成した罪。そして罪の小ささを見るのではなく、誰に対して横柄な態度を取ったのかを考えてください。

http://nabulsi.com/blue/ar/art.php?art=7186&id=205&sid=801&ssid=882&sssid=895&w=%D9%85%D9%86%D9%87%D8%AC%20%D8%A7%D9%84%D8%AA%D8%A7%D8%A6%D8%A8%D9%8A%D9%86&aw=

悔い戻る者たちの道しるべ【3】-(1) 赦される罪について

2015年02月20日 | 悔い戻る者たちの道しるべ
賞賛がアッラーにありますように。そして最上の祈願と最上の平安の挨拶が私たちの指導者ムハンマド、彼の家族、教友たちすべての上にありますように。

人間のアッラーに対する罪とは?:
アッラーは私たちに礼拝、断食、巡礼、喜捨のような崇拝行為を義務とし給うたとともに、(見ることを禁じられたものから)視線を低め、舌をコントロールすることも義務とし給いました。罪(ザンブ)は、イスムとウドゥワーンという言葉でクルアーンに登場します。ウドゥワーンとは、兄弟の命、尊厳、財産に危害を加える形での罪、イスムは飲酒のように人間と主の間で犯される罪です。許されていない女性をじっと見たり、アッラーが満足し給わない言葉を話したりすることもイスムです。つまり人間の諸権利に関係しない、アッラーの諸権利に関係する罪のことをいいます。
 
では、ザンブとイスムに違いはあるのでしょうか。
アナス(アッラーの御満悦あれ)によると預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)は言われました:《全てのアーダムの子孫は間違いを犯すが、その中の善い間違いを犯す者は悔悟する者である。》(アハマド、アッ=ティミズィー、イブン・マージャによる伝承)

よって、ザンブは間違いを犯すこと。
ではイスムとウドゥワーンの違い何でしょうか。

 ウドゥワーン:アッラーが定め給うた一線を超えてしまうことで兄弟である人間に危害を加えることです。被害者がムスリムであってもそうでなくても同じです。アブーフライラ(アッラーの御満悦あれ)によると預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)は:≪騙す者は我々の仲間ではない》(ムスリム伝承)、《己に望むことを兄弟に望むようになるまでは、誰も真の信仰を得たとはいえない》(アル=ブハーリーとムスリム伝承)後者のハディースは、「己に望むことを、人類上の兄弟に望むまでは」にも解釈できます。

 ウドゥワーンとは、被害者がムスリムであろうと無かろうと、全ての人間に危害を加えることであると説明しました。実際には非ムスリムに危害を加える方がムスリムに危害を加えるよりもさらに罪深いのです。ムスリムがムスリムから害を受けた場合、「誰々に~~された」と言うだけですが、非ムスリムがムスリムから害を受けた場合、その罪がイスラーム全体を批判するきっかけになってしまうことが根拠です。あなたは数多くあるイスラームの裂け目の中にいるのです。ムスリム一人一人はイスラームの大使です。振る舞い、動き、静けさ、立場、売買の仕方などのすべてが顕微鏡にかけられ、大きく映し出されてその人のイスラーム度が示されます。
そのため、アッラーは次のように仰せです:
「民に対する憎しみがおまえたちを公平でなくなるように仕向けさせることがあってはならない。」(食卓章8節)
さて、信仰者にとっての第一の敵とは誰でしょうか?不信仰者です。しかし敵であっても不正に接してはいけないのです。
「公平にせよ。それが畏敬により近い。」(同上)

至高なるアッラーは不信仰者であっても虐げられた者、被害者の祈りに応じ給います。祈る者がどんな人物であるかではなく、アッラーの公正さによって、応じ給うのです。ドゥアーするのに相応しくない人物であっても彼が必要としているなら、アッラーは彼に応じ給います。被害者には公正の名のもとに応じ、必要としている者には慈悲の名のもとに応じ給うのです。そのため被造物がどのようなものであっても、それらに対する敵対行為は赦されない罪なのです。

代わってイスムとは、例えば人が部屋の中でアッラーに背く時、彼はアッラーに罪の赦しを乞う必要が生まれます。アッラーの権利に関係している罪の場合です。礼拝、断食斎戒、喜捨、巡礼などがそうです。この類の罪が犯され、アッラーがしもべの真面目な悔悟、悔悟における誠実さ、悔悟への執着を御覧になる時、アッラーは罪がどんなに多くても赦してくださります。

教友アナス・イブン・マーリクはアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)が次のように言われるのを聞いたと言いました:祝福多き至高なるアッラーは仰せになった:≪アーダムの子よ、おまえがわれに祈り、願ったなら、おまえ(の罪すべて)を躊躇なく赦す。アーダムの子よ、おまえの罪が点の頂点に達して、そしておまえがわれに罪の赦しを求めればわれは躊躇なくおまえを赦す。アーダムの子よ、おまえが地球を埋める罪でわれのもとにやって来て、われに何者も配さずにいたなら、われはおまえにそれを埋める赦しを与える。≫(アッ=ティルミズィー伝承)

このハディースの意味は次のアッラーの御言葉が由来しています:
「言え、「己自身に仇して度を越したわがしもべたちよ、アッラーの御慈悲に絶望してはならない。まことに、アッラーは罪をそっくり赦し給う。まことに、彼こそはよく赦し給う慈悲深いお方。」(集団章53節)

しかし、「そしておまえたちの主の御許に悔いて帰り、」(同章54節)と続いている内容に注意してください。
まことに多くのムスリムが聖句の前半だけを理解する傾向があります。例えば:
「わがしもべたちに告げ知らせよ、われこそはよく赦す慈悲深い者であることを。」(アル=ヒジュル章49節
「そして、わが懲罰、それは痛苦の懲罰であると。」(同章50節)と続きます。

「言え、「己自身に仇して度を越したわがしもべたちよ、アッラーの御慈悲に絶望してはならない。」とアッラーは仰せの後、

「まことに、アッラーは罪をそっくり赦し給う。まことに、彼こそはよく赦し給う慈悲深いお方。(53)そしておまえたちの主の御許に悔いて帰り、彼に帰依せよ、おまえたちに懲罰が訪れる前に。そうなれば、おまえたちは援けられない。(54)」(集団章53~54節)

悔悟にまつわる意味、アッラーによる赦しと慈悲の約束はしもべがアッラーに帰ることと結びついているため、悔悟がない場合は慈悲に与れないことになります。アッラーの慈悲にはあなたがアッラーに帰ることが条件付けられているのです。

こんなたとえ話があります。師匠のいる青年がいました。師匠が青年に言います。「息子よ、凡ての悪行にそれぞれの罰があるのだよ。」この青年は、アッラーに対する罪の中に足を踏み入れたことで、ヒジャーブ(遮り)に陥ってしまいました。特に、普段からアッラーと関係が親密な者にとって最も大きな罰こそがアッラーが御自身を彼から遮ってしまうことです。それは、丁寧に育てられた男の子にとっての大きな罰が父親に批判されることであるのと丁度同じです。ですから、洗練された者の罰は繊細なのです。

さてこの青年はアッラーに対して罪を犯したためにアッラーから遮られてしまいました。そのために忍耐しきれないほどの苦しみに襲われてアッラーに嘆きました。「主よ、私はあなたに背いたのにあなた私を罰し給うていません。」この青年に対する罰は物質的なものではありませんでした。アッラーは仰せになります。「しもべよ、われはおまえを罰したがおまえは気づいていない。」アッラーに対して犯した罪には信仰者たちが知るいくつかの罰がありますが、その一つはアッラーがあなたを遮ってしまうことです。

アッラーは英知なる御方ですから、しもべを辱めるような罰は与えず、遮ることでしもべを罰し給います。アル=ハサン・アル=バスリーがこう言っています。「礼拝に立っても何も感じない者、クルアーンを読んでも何も感じない者、アッラーを念じても何も感じない者、これらの者は、アッラーに遮られた者である。」ヒジャーブ(隔たり)は信仰者にとって最大の罰であるどころか、最後の審判の日における最大の罰です。
「断じて、彼らは彼らの主(に見(まみ)えること)から、その日、遮られた者である。」(量をごまかす者たち章15節)
逆はこうです。
「その日、(信仰者たちの)顔は輝き、(顔は)その主の方を仰ぎ見る。」(復活章22~23節)

信仰者が現世でアッラーの道を志すとき、アッラーが彼を罰するなかでも最大のものは彼をアッラーから遮ってしまうことなのです。人の前では健康で元気ですが、礼拝に立っても道は閉ざされてしまっているのです。この罰は洗練された信仰者の罰、遮りの罰です。アッラーはその英知であなたのための教育的懲罰を選んで与え給います。ヒジャーブ(遮り)がその中のひとつです。不安、恐怖、心配もそうです。これらすべてはあなたがアッラーに対して犯した罪に対する罰です。

信仰者は何か痛みを感じるたび、自分が何を成したためにこうなったのだろうと自問するべきです。そうすれば正しい道を行くことが出来るでしょう。常に自分を責めるということです。これは最も進歩し上昇した魂の一つで、自責する魂です。その上にあるのは、安らいだ魂です。
「安らいだ(信仰者の)魂よ。」(暁章27節)
アッラーは自責する魂にも誓い給いました:
「復活(審判)の日に誓おうではないか。(1)そして自責する魂に誓おうではないか。(2)」(復活章1~2節)

ですから私はいつもフトバ後に、あなたたちが清算される前に自分自身を清算しなさい、あなたたちの行いが量りにかけられる前に自分自身の行いを量っておきなさい、と言っています。誰でも自分自身を現世で厳しく清算した者の来世の清算は楽なものになるでしょう、そして誰でも自分自身を現世で簡単に清算した者の来世の清算は厳いでしょう。

赦されるのはあなたがアッラーに対して犯した罪です。その中でも目立つのはイバーダート(崇拝行為)における怠慢です。しかしアッラーの慈悲、赦し、許容、恩恵のようなアッラーの御許からのものは信者が赦しを求めてアッラーに帰らない限り得ることは出来ないのです。

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悔い戻る者たちの道しるべ【2】-(2) 放置されない罪について

2015年01月30日 | 悔い戻る者たちの道しるべ
第二の罪は、放置されることのない、しもべの権利にかかわる罪です。あなたは次のアッラーの御言葉を聞いて驚きませんか?
「彼はおまえたちの罪の一部を赦し給う。」(ヌーフ章4節)
「ミン」は、部分的なことを意味します。彼はおまえたちの罪の一部を赦し給う、という意味です。代わって残りの罪は、ないがしろにされた権利が元の持ち主に返還されるか、不当な目にあった者が容赦するまでアッラーは赦し給いません。そのためムスリムたちは危険な思い込みに陥ってしまっています。ある者は思うままに罪を犯し、ハッジに行き、ハッジでアッラーがすべての罪をゆるしてくださると思い込みますが、誰がそんなことを言ったのでしょうか?ハッジやウムラ、断食斎戒や任意の礼拝、タウバやヒジュラは人間のアッラーに対する罪から母親から生まれたばかりの無垢な状態に戻るために設けられた機会で、罪をゆるしてもらえるための機会なのです。しかしあなたが他人に対して犯した罪は、(それが盗みであるなら)盗まれたものを持ち主に返したり、(暴力や中傷であれば)被害者の容赦が必要になってきます。そのためアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は亡くなった尊い教友のために祈りを捧げる前に、「彼に負債はあったのか」と確認されていました。
サラマ・イブン・アル=アウカア(アッラーの御満悦あれ)は言いました:
「われわれが御使い(アッラーの祝福と平安あれ)のもとに座っていたところに葬儀の集まりが現れました。彼らは彼に「葬儀の礼拝をなさっては」と言ったところ、彼は「彼(死んだ人)には負債はあるか?」と言われました。彼らが「いいえ」と答えると、「何か残したか?」と言われました。彼らが「いいえ}と答えてやっと彼は葬儀の礼拝をされました。次に違う葬儀の集まりが現れると、「アッラーの使徒様、(死んだ人に)礼拝してください」と言いました。彼は「彼に負債はあるのか?」と尋ねられて、彼らは「はい」と答えました。「では何か残していったか?」と尋ねられると、「3ディーナールです。」と答えました。彼が礼拝を捧げると、第三の集団が現れました。「礼拝を捧げてください」と言われて、「彼は何かを残していったか?」と尋ねると人々は「いいえ」と答え、「負債はあるか?」と尋ねると「3ディーナールです」と答えました。彼は「おまえたちの友のために礼拝を行いなさい』と言われました。アブークターダは「アッラーの使徒様、あなたが彼に礼拝を捧げてください。私が彼の負債を返済しますから」と言うと、彼は礼拝を捧げました。」(アル=ブハーリー)
殉教者であっても、借金は赦されなかったことを指していますね。つまり、他人の権利が絡んでいるもの、ということです。
ムスリムの多くが陥ってしまっているこの思い込み、つまりハッジに行けば生まれたての子のように無垢になれると思っていること。これは非常に危険です。しもべが持つ権利は、減らされることなく完璧に全うされなければいけないのです。これこそが放置されない罪、です。
物質的権利だけでなく、精神的権利も含まれます。
信仰者は、信仰者の悪口を言うと、言われた者が言った者から善行を奪うことを確信します。そのためもあって、人々が最も必要としていることをお話します:
アブーフライラによるとアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は次のように言われました:
「破産者とはどういう人のことを言うかおまえたちは知っているか?」彼らが「われわれのうちの破産者とは、ディルハムも物品も持たない者のことをいいます、アッラーの使徒様。」アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は言われた:「私の共同体の破産者とは、審判の日に自らの礼拝と斎戒と喜捨を持参してやって来るが、誰々を罵倒した、誰々を中傷した、誰々の金を取った、誰々の血を流させた、誰々を打ったと言う人がいる。ある者は座り込んで、彼の善行から報復をなし、またある者も彼の善行から成す。報復が済む前に善行が無くなってしまうと、(被害者の)罪を代わりに取ることになる。そして火に投げ込まれる。」(アッ=ティルミズィー出典)

アブーフライラによるとある男が言いました
「アッラーの使徒様、ある女性が礼拝と斎戒とサダカをたくさん行うけれども、その舌で近所の人を傷つけているそうです。」彼は言われた:「彼女は火の中にいる。」男は言った:「アッラーの使徒様、ある女性が斎戒とサダカと礼拝をあまりせず、サダカしてもわずかですが、その舌で近所の人を傷つけません。」彼は言われた:「彼女は楽園に居る。」(アハマド出典)

イブン・ウマルによると、アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は言われた:
「ある女は猫のために火獄に入った。彼女は猫を縛り、餌を与えず、虫が食べられるように放すこともなかった。」(アル=ブハーリーとムスリム出典)

しもべの権利とは重大なものであることを強調します。それは必ず遂行されなければならないものです。
アッラーは仰せです:
「それでおまえの主にかけて、必ずわれらは彼らをそっくり尋問する。(92)彼らがなしていたことについて。(93)」(アル=ヒジュル章92~93節)

イムラーン・イブン・ヒッターンは言った:「私はアーイシャのことろに入り、彼女から知識を得ていたのですが、裁判官の話になって彼女は言いました:「私はアッラーの使徒様(アッラーの祝福と平安あれ)が次のように言われるのを聞きました:
「一粒のナツメヤシの実について二者の裁定などしなければ良かったのにと望む時間が最後の審判の日に公正な裁判官に来ることは確実だ。」(アハマド出典)
ですから、私たちは自分のたちのものではないものを取ることに注意しなければなりません。

これこそが、完遂され、そして悔悟が伴われるか被害者が赦すまで放置されない罪です。

これらの罪は完遂されるか容赦されることでしか消えないということで、二者が関係を元通りにした場合、アッラーは介入し給わないということです。私はあなたにある金額のお金を借りているがあなたは帳消しにしてくれた。これで話は終わりになります。しかしアッラーの館に巡礼に行って戻ってきたことで私の罪がすべて赦されたと思い込むことは非常に愚かです。あなたとその他のしもべの間で起きた罪は権利が返却されるか容赦されることでしか赦されません。これが放置されない罪です。
崇拝行為には儀式的なものと社交的なものがあります。私は礼拝、斎戒、ハッジなどの儀式的崇拝行為はそのための社交的崇拝行為が正しく行われないと(アッラーに)受け入れられないと強く信じています。

社交的崇拝行為が正しくないと、儀式的崇拝行為は受け入れられません。例えてみると、社交的崇拝行為は学年でその中には出席や教師に集中すること、宿題の提出、試験です。あなたがもしカリキュラムに出席してこなかったら、儀式的崇拝行為である3時間の試験時間に一体どのような価値があると思いますか?儀式的崇拝行為は、社交的崇拝行為の実を得る機会なのです。そのため社交的崇拝行為をなさなかった者の崇拝行為は受け入れられません。

宗教とは、まるで道徳的価値観の集合体のようです。道徳的に向上するとは信仰心が向上するということです。
私は社交的崇拝行為を促します。これこそは諸問題の問題であり、ムスリムが突っかかってしまった最大の隆起物なのです。
礼拝:
「まことに、礼拝は醜行と忌み事を禁じる。」(蜘蛛章45節)
斎戒:
アブーフライラによるとアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は言われた:
「虚言や嘘の行いを止めない者。アッラーに彼の食事と飲み物を放置は不要である。」(アル=ブハーリー)
これらの儀式的崇拝行為は社交的崇拝行為が正しくならないとアッラーの許で受け入れられません。預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)は道徳を次の3点で表してくださったことが分かります。ジャアファル曰く:「われわれは彼(ムハンマド様(アッラーの祝福と平安あれ))の家系と正直さ、誠実さ、貞節さを知っています。彼があなたに語れば彼は正直で、社交すれば彼は信頼おける人。性欲がかき立てられても彼は貞操を守る人です。」

以上で、赦されない罪と放置されない罪の解説が終わります。残るのは赦される罪です。つまりあなたがアッラーに対して犯した罪です。これについては次回、詳しく解説します。
http://www.nabulsi.com/blue/ar/art.php?art=7185&id=205&sid=801&ssid=882&sssid=895

悔い戻る者たちの道しるべ【2】-(1) 赦されない罪について

2015年01月16日 | 悔い戻る者たちの道しるべ
賞賛がアッラーにありますように。そして、最上の祈願と最上の平安が私たちの指導者ムハンマド、彼の家族、教友たちすべての上にありますように。

『罪とは』:罪の本質と、罪の出どころが何であるのかを考えてみましょう。罪とは強制されるものか、それとも任意でなされるものか。そして人間はどうすれば罪を断ち切ることが出来るのか。

アナスによると、アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は次のように言われました:
≪すべてのアーダムの子孫は罪を犯すが、そのなかの善い罪人たちは、悔悟する人たちである。≫ (アハマド、アッ=ティルミズィー、イブン・マージャ)

私は、”人間は罪を犯すべきである”とは言いません。しかしアッラーは、人間の天性のひとつとして“欲望”を植え付け給うたことで、人間は油断してアッラーを忘れている間に己の欲望に負けてしまうことがあります。
ここで皆さんに、赦されることのない罪について説明します。それは、“アッラーに共同者を並べること”です(シルク ビッラー)。次に、“赦されるあなたとアッラーの間で犯された罪”、“放置されたままにならないあなたとしもべの間で犯された罪”があります。

クルアーン解釈の学者たちは、【まことにアッラーは彼に共同者を並べ立てられることは赦し給わない】(女性章48節)という節に続く説明として、「しもべが悔悟した場合以外は。」という言葉を付け足すことで合意しています。もししもべがシルクを犯したとしても、悔悟すればアッラーはそれを受け入れてくださるということです。多神教徒として死なないことが大切なのです。

”アッラーがしもべを赦し給わない”とはどういうことなのでしょうか。シルクを犯したしもべの罪の上にアッラーの慈悲がかからなくなることでしょうか。違います。アッラーの慈悲は、ありとあらゆるものに及んでいます。
シルクを犯すことは、アッラー以外のものへ向かって進むようなものです。病人は治療のために病院へ行かなければならないのに、病院ではなく工場へ行くようなことです。アッラー以外のもとには何もありません。恩恵も、成功も何もありません。何も持ちえない存在に進むようなものなのです。病人は工場へ行っても癒しを得ることは出来ません。
【まことにアッラーは彼に共同者を並べ立てられることは赦し給わない】(女性章48節)とアッラーは仰せですが、“おまえはアッラー以外のものに顔を向けて、一体どのようにしてアッラーから恩恵を得ようというのか。まことにおまえはアッラー以外の存在に顔を向け、彼以外の存在の満足を得ようとし、彼以外の存在を怖れ、アッラー以外の存在に願う。まことにこのような道はふさがっている。“ アッラー以外のものに顔を向けてもあなたは何も見つけることはできないし、あなたが顔を向けている存在は、あなたのために罪を赦す能力も持ち得ないのです。

かつて、あるカリフがマッカ聖域を訪れ、ある威厳ある学者に出会った時のことです。カリフは彼に言いました:「おまえの望みを言うが良い。」学者は、「アッラーにかけて、アッラーの館の中でアッラー以外の者に頼みごとをすることを恥ずかしく思います。」と言いました。館の外でカリフがこの学者に再びあった際、もう一度望みを言えと尋ねたところ、学者は「アッラーにかけて、私はそれ(現世の諸事)を持ち給う御方に頼まないのに、いかにそれを持ち得ない者に頼むというのでしょう」と言いました。カリフがしつこく言え、と言うので、学者は「では楽園に私をいれてください」と言ったのですが、カリフは「それは私にはできない」と言いました。学者はカリフに「では、私の望みはあなたのところにはないですね。私の望みは楽園への到達なのですから」と言いました。

つまり:人はアッラー以外の存在に顔を向ける時、実際は何もないところに顔を向けているということです。これはシルクを犯す者の問題でもあります。彼はたくさんの願い事をそれにし、その慈悲を願い、その懲罰を恐れ、その恩恵を待つ。しかし実際、それに到達してみると何もなかった、ということになります。心理学においてこの状況は非常に危険とみます。その名も失望です。シルクを犯す人たち(多神教徒)は常に失望状態にあり、アッラー以外のものに顔を向けるたびに失望するのです。

【たとえおまえたちが彼らに祈って呼んでも、彼らはおまえたちの祈りを聞かず、またかりに聞いたとしても、おまえたちに答えることはない。】(創始者章14節)

アッラーに祈る者は、強くその存在を信じ強く、彼が聞いてくださっていると信じ、強く己の願いに答えてくださると信じ、また強く己の願いに好んで答えてくださると信じています。

【言え、「わが主はおまえたちを気にかけ給わない、もしおまえたちの祈りがなければ。」】(識別章77節)
おまえたちがアッラーに祈るからこそアッラーはおまえたちを気にかけ給い、おまえたちを赦し、おまえたちを彼に近づけ給う。代わって彼以外に祈る者は、無に向かっているにすぎない、ということです。ここに問題があります。これは赦されない罪についてですが、この罪から悔悟出来る術はない、ということではありません。それからの悔悟は人がシルクから悔悟し、アッラーが彼を赦し給うときに成立します。しかしシルクに固執し続ける場合、悔悟はありません。

悔い戻る者たちの道しるべ【1】-悔悟とその意味について-

2014年12月26日 | 悔い戻る者たちの道しるべ
-悔悟とその意味について-

賞賛はすべての主、アッラーにありますように。そして、最上の祈願と最上の平安が私たちの指導者ムハンマド、彼の家族、教友たちすべてにありますように。主よ、あなたに私たちは縋り、あなたに私たちは悔悟し、あなたの許に帰りどころはあります。
アッラーよ、私たちを導かれつつ導く者とし、迷った、もしくは迷わせる者としないでください。

ここでは、悔悟とその意味するところ、その条件、それがアッラーに受け入れられるための条件について扱います。

至高なる祝福多きアッラーは仰せです:
【その顧み給うのはアッラー(の恩顧)に依拠し、無知ゆえに悪事をなし、その後、間近で悔い戻る者に対してのみ。そしてそれらの者、アッラーは彼らに顧み給う。そしてアッラーはよく知り給う英名なる御方であらせられた。】(女性章17節)

【そして(アッラーの)顧み戻りはない、いくつもの悪事をなし、ついに死が彼に臨み、その時になって「私は今こそ悔い戻った。」と言う者たちや、不信仰なまま死ぬ者たちには。それらの者、われらは彼らに痛苦の懲罰を用意した。】(女性章18節)

この2節を参照しながら、悔悟とその条件についてみてゆきます。

まずアッラーは、クルアーンの中で仰せです:
【そしてアッラーは、おまえたちの許に顧み戻ることを望み給う。】(婦人章27節)

つまりアッラーは、おまえたちを待ち給うている、おまえたちの悔悟を喜び給う、ということです。迷った後に道を見つけられた者、不妊後に子を授かった者、喉の渇きの後に水を与えられた者の喜びよりも、アッラーの信仰するしもべの悔悟のための喜びは大きいのです。

伝えられたお話:田舎者がらくだに乗って、砂漠を歩いていました。彼は休憩のため腰を下ろしましたが、起きてみると、らくだが見当たりません。彼は死を覚悟しました。彼は泣きに泣き、居眠りが彼を襲いました。それから起きてみると、らくだがいました。彼は驚きのあまり思考バランスを崩してしまい、アッラーよ、わたしはあなたの主であなたはわたしのしもべです、と間違えて言ってしまいました。アナス・イブン・マーリクによると、アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は言われました: ≪まことにアッラーは、おまえたちのうち、砂漠をラクダに乗って旅して、その背に食物と飲料を乗せたラクダが逃げてしまい、失望のあまり木陰に横になって、失望しているところ、ラクダがそばに戻ってきたのでその手綱を掴んで、喜びのあまり、アッラーよ、あなたはわたしのしもべでわたしはあなたの主です、と間違えて言ってしまった者よりも、しもべの悔悟を激しく喜び給う。≫(ムスリム)

なぜならアッラーは私たちを慈しむために創り給うたからです。
次に仰せのとおりです:
【ただし、おまえの主が慈悲をかけ給うた御方は別である。そのために彼は彼らを創り給うた。】(フード章119節)

父性・母性というものは、アッラーの性質の定義のようです。母親は、子がどんなに彼女の権利を満たさず、彼女から遠ざかり、悪くしたとしても、子が悔悟し申し訳ないと言えば、母親はそれを受け入れるものです。アッラーがこのように仰せになったとき、【この国(マッカの地)にかけて誓おうではないか、-おまえはこの国で許されている-また、父とそれが生んだもの(にかけて誓おうではないか)】(町章1~3節)父性という秩序が、しもべと彼らの主の関係の本性を説明してくれているようでもあります。アッラーはわたしたちを赦すことを望み給うているのです。それでは、逆を想像してみましょう。悔悟の門が閉ざされているとしたら、何が起こるでしょうか。どんなしもべでも、罪を犯しても、何も赦されず、悔悟の余地がないと分かったら、次から次へと罪を犯してしまうでしょう。しかし、アッラーが開き給うた悔悟という門が実在していることで皆、アッラーへと向かいます。 そのため、悔悟はアッラーの慈悲であり、その門は罪を犯したしもべに開かれています。彼らはきっと悔悟し、主に返るでしょう。

もう一つの前置きとして、暗闇の中にある現在のイスラーム世界に、覚醒の夜明けが照りはじめ、アッラーの御許しのもと、無知と罪の闇が散らされようとしていることを述べなければならないでしょう。おそらく、最も輝いているこの覚醒の夜明けの例の一つとして相応しいのは、遊びと罪深い場所を離れ、アッラーとその教えを重視し、マスジドに足を向けはじめた、若く清純な世代でしょう。この世代にウンマは希望と吉報で微笑んでいます。ですから彼らは、アッラーのお許しのもと、ウンマの外見、未来になることでしょう。実際、50年前まで、マスジドには高齢者以外が見かけられることはありませんでした。それに変わって、胸を喜びで満たすのは、現在の若者たちが歓楽の場を捨てたことです。これは、以前は見られなかった集団悔悟の一つと言えます。もう一つは、この祝福された高揚がシャリーア学と純粋な思考の源に向かいあったときに、いろいろな問題が投げかけられていることです。ですから、悔悟の意味を研究する前に注意が必要になってきます。

この、アッラーの御許しのもとに、祝福された講義シリーズは、失敗を悔やみ、アッラーに悔悟した社会の一部分に向けられています。彼らにはきっと多くの質問があるでしょう。逃亡者、もしくはまだ逃げている途中の者には、この講義に意味はありませんが、アッラーを志す者は講義の中に含まれる内容以上のものを得るでしょう。しかし私は、真実の道をゆくことを望み、アッラーに帰った若者たちに話しかけたいのです。ですから、この講義には、悔悟の意味、受け入れられるための条件、罪との関係など、細かい意味が含まれているのです。

では、すでに出てきたアッラーに帰った若者たちには、いくつかの忍耐と、信仰的、崇拝行為的報酬面における強化が必要であることがわかりました。そして、ここで話を彼らの中で巡っている質問の応答に向けようと思います。最初に。どうやって信者の中に、悔悟の必要性が生まれるのでしょうか。

人間は、理性と欲望で構成されています。かわって天使は、理性だけで構成され、動物は、欲望だけで構成されています。そして人間には、大地の土の一掴みと、アッラーの一吹きが入っていますから、理性が欲望に勝てば、天使よりも上位に立ち、欲望が理性に勝てば、動物以下になります。人間はもともと、女性、子宝、財産などに欲を持っているものです。これら人間に植え付けられた欲は、神のカリキュラムなしだと、とても大きく動いてしまいます。ムウミンとは、だれのことを言うのでしょうか?それは、アッラーの定めた方法で欲を操る人のことです。イスラームに、規則はありますが、禁欲はありません。アッラーが人間に植え付けた欲それぞれに、必ず相応の純正な解決法があるのです。

女性に傾く人には、結婚というドアが開かれ、お金が欲しい人には、仕事というドアが開かれています。精錬された人物になりたいと願う人には、アッラーに近づくための道が開かれています。どんな欲にも、相応のドアが開かれているのです。車を動かす油を見てみましょう。この油は、特定の場所に注がれてこそ、適当な時間、適当な効果を発揮します。しかし、あるべきではないところに注がれると、乗り物と中にあるものを燃やしてしまいます。

欲は、強い動きの源のようです。そしてこれには、動かす道具が必要になりますが、法がそれにあたります。この道具で、欲を高貴で受け入れられる、正しい目的へと操作します。ですから、人間がもしアッラーの定めた方法に則らないと、欲は人間を破壊してしまいます。すると、欲の強みは180度動くことが出来るといえますが、法はこの動きに制限を設けています。罪業とは、自分のものではない物を取ることです。すると、悔悟の源はこうであることが分かります。元来人間には欲望というものがあり、もしそれを間違って操作した場合、正しい流れへと戻さないといけないということです。これにおける例はとてもたくさんあります。

あなたにとって、妻や視線を向けることを許された女性たちを眺めることは、合法ですが、あなたに許されていない女性を見ることは、合法ではありません。もしあなたが許されていない女性と関係してしまったら、それはとても大きな罪になります。なぜなら、アッラーの法を軽率にし、社会に危害を加えたことになるからです。ですから、悔悟というものは、欲望をアッラーの定めた方法の上で操作することと言えます。これらの欲望が、純正な道を流れることです。

ここでみなさんに、イスラームには禁欲というものが全く無いことを強調します。しかし、規則はあります。宗教を意識すること=禁欲がある、と考える人がいますが、そうではないのです。どこかであなたが注意書きを目にしたとしましょう。あなたはそれを見ても嫌悪するどころか、あなたを締め付けるのではなく、あなたの安全のためにそれを作った人に感謝するのではないですか。

アッラーの法を軽視して、とても後悔するのは、自身の間違いの代価を払うときです。逆に、アッラーの法を遵守する人には、現世では善い生活があり、アッラーの許に召されると、天と地ほどの広さを持つ天国があります。

『あなたはしたくても、アッラーは御自分のされたいことをなされる』という言葉にもあるように、人間の意志と、アッラーの意志をめぐった、長く大きな議論があります。あなたがジャブル(起こることすべてをアッラーにさせられていて、しもべにはどうしようもなく、それが運命とする信条)を信じただけで、あなたはイスラームを無効にしてしまっています。報酬、天罰、天国、地獄、使徒たちが遣わされたという事実もないことになってしまいます。そうではなく、あなたには、選ぶ権利があります。

ウマルさま(アッラーの御満悦あれ)のもとに、酒を飲んだ男が連れてこられたときの話です。ウマルさまは、「ハッド刑(ここの場合鞭打ち)を執行しなさい。」と言いました。男が言いました。「アッラーにかけて、カリフさま。アッラーが私にこのこと(飲酒)を運命付けたのです。」ここでウマルさまの言葉に注目してください。「アッラーは、あなたを選ぶ権利から無理強いされることへ引っ張り出していない。この男にハッド刑を二回執行するように。一回は、彼の飲酒のため、もう一回は、彼のアッラーに対するでっちあげのため。」

人間は、アッラーが罪を行わせている、と思い込んだりしますが、それはあり得ないことです。アッラーは、卑劣な行いを命じ給うことはありません。真正のハディース・クドゥスィーでアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)はアッラーから次のように伝えました: ≪わがしもべたちよ。まことにわれは自身に不正を禁じ、おまえたちの間でもそれを禁じた。ゆえ、不正しあってはならない。しもべよ。われが導く者以外、おまえたちはすべて迷う者である。ゆえ、われに導きを求めよ。そうすればわれはおまえたちを導こう。わがしもべたちよ。われが食べされる者以外、おまえたちはすべて空腹者である。ゆえ、われに食物を求めよ。そうすればわれはおまえたちを食べさせよう。わがしもべたちよ。われが着せる者以外、おまえたちはすべて裸である。ゆえ、われに衣服を求めよ。そうすればわれはおまえたちに衣服を着せよう。わがしもべたちよ。まことにおまえたちは夜に昼に罪を犯す。そしてわれはすべての罪を赦す。ゆえ、おまえたちはわれに罪の赦しを求めよ。そうすればわれはおまえたちを赦そう。わがしもべたちよ。おまえたちは決してわれの害に到達してわれを害することも、われの益に到達してわれを益することはない。わがしもべたちよ。もし、おまえたちの始めの者と最後の者、人類とジンの全員が、おまえたちのうちで最も篤信の心の主とともにいても、それはわれの王権を少しも増加させない。わがしもべたちよ。もし、おまえたちの始めの者と最後の者、人類とジンの全員が、おまえたちのうちで最も悪い心の主とともにいても、それは少しもわれの王権を損じることはない。わがしもべたちよ。もし、おまえたちの始めの者と最後の者、人類とジンの全員が、一つの丘の上でねだりごとをしたら、われは人間ひとりひとりの臨むものを与えるが、それはわれが持つものを減らすことはない。ちょうど針が海に入るようなものである。わがしもべたちよ。おまえたちの行為を、われは数えている。そしてわれはおまえたちにそれを返す。そこでおまえたちのうちで善いものを見出した者は、アッラーを賞賛せよ。そうでないものを見出した者は、自分以外を責めてはならない。≫(ハディース クドゥスィー)

イマーム ハサンについて伝えられたところによると、≪もしアッラーがしもべに服従を強いていたなら、報奨は無かっただろう。罪を強いていたなら、罰は無かっただろう。≫ アッラーは、しもべに選択権を与え、警告のために禁じ、難しくではなく、容易なかたちで責任を負わせたのです。 アッラーがしもべに罪を犯させていると思い込んでいる人が居るということは、それはとても大きな間違った信条に陥ってしまったことになります。ですから、この講義シリーズの始まりとして最初に、罪の真実をはっきりさせる必要があります。