アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

ドラッグに侵された欧米-2

2022-11-02 19:22:13 | ソーマ・ヨーガ(冥想法5)neo

◎滅亡か存続か

 

ダンテス・ダイジは、この時代、人類が存続するようなら禅が流行し、人類が滅亡するようならクンダリーニ・ヨーガが流行すると予言しているわけだが、禅では、霊的なもの、霊界的なものは相手にしない。

 

ところが、欧米では、ドラッグによって霊界を見てしまった人間が3割~5割程度いる。これは、既にクンダリーニ・ヨーガに片足を入れてしまった人が3割~5割程度いることを意味する。

 

禅では、中間的なものを徹底的に振り払い、排除していくのだが、天使だの霊だの妖精だのゾンビだのを相手にしていては、大悟はない。

 

禅語録の中では、あまりそういうものは多くないのだが、洞山はわりとあの世だの転生だのを平気で語る。

 

洞山録に、涅槃堂にいたノイローゼの僧の話がある。ノイローゼの僧は『四つの山に同時に迫られているように、生きることが苦しいがどうすればよいでしょうか』と洞山に問うた。

洞山は『生は生に任せ、死は死に任せる』と答えたが、僧はわからなかったので、『わたしをどこに行かせようとするのですか』と改めて質問した。

洞山は、『食料の豊かなところに行け』、と。

 

すると僧はため息ひとつついて、『さようなら』と言って、たちまち坐脱した。洞山は、僧の頭を杖で三回叩いて、『お前は、そんな風に去ることはわかっているが、そんな風に来ることはわかっていない。』と言った。

 

この僧は、未悟なので、禅における中間的なものそのものだが、これは、冷たい応対だと思う。洞山は、死後に成仏したかどうかを見届けてやったのだろうか。

 

さて、あの異常行動多発のタミフル(https://www.npojip.org/sokuho/no59-1.html)は、2018年に厚労省が10代への投与再開済。

タミフルは、霊界、異界を見た日本人を増やすことで、日本社会全体を不安定化、つまりクンダリーニ・ヨーガ側に振らせるトライアルであったと見ることもできる。そういうことの出来る勢力が世界にはあるということなのだろう。

 

ここに人類が滅亡するか存続するかのやじろべえがあるとする。世界のヘゲモニーを握る欧米が、今中国と事を構えようとしているわけだが、その流れはドラッグ動向からすれば結構欧米は滅亡寄りに振れていると見るのだろう。そういう流れに日本もいろいろな形で巻き込まれている。

 

最終的にどちらに転ぶかを決めるのは政治家でも扇動者でもなく、自分個人なのだ。

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ドラッグに侵された欧米-1

2022-11-02 19:20:22 | ソーマ・ヨーガ(冥想法5)neo

◎準備ができていない者のドラッグ使用は危険

 

日本の社会にいると、日本人は、若者はスマホ中毒、老人はTV耽溺みたいに見がちだが、実は欧米はそれにドラッグが加わる。

 

フォーブズ(https://forbesjapan.com/articles/detail/29724)の記事によれば、

1.2018年、アメリカで薬物の過剰摂取により死亡した人の数は6万8000人以上で、このうち、死因に何らかの種類のオピオイド(麻薬性鎮痛薬)が絡んでいるのは4万7000人。

  1. ランド研究所によれば、ドラッグの推定小売購入額は、2006年から2016年で、1210億ドルから1460億ドルを上下している。2016年は総額1460億ドルで、内訳は、大麻520億ドル、ヘロイン430億ドル、メタンフェタミン270億ドル、コカイン240億ドル。

(記事からの抜粋は以上)

 

仮にアメリカの成年人口を264百万人と見れば、一人当たり年間553ドルをドラッグ購入に充てている計算になる。これを蔓延と言わずして何というべきか。

 

そこで、日本の状況。

日本の厚労省HP(https://www.mhlw.go.jp/bunya/iyakuhin/yakubuturanyou/torikumi/dl/index-05.pdf)の情報で、主要国の薬物別生涯経験率の表によれば、米欧がほぼ3、4割の人が大麻、コカインなどの使用歴があるのに対し、日本では大麻1.4%、覚醒剤0.5%などと圧倒的に低い。

 

だから日本は、外国との比較でベターであることは間違いないが、そこがポイントではない。

 

世界観という点では、ドラッグにより、この世以外の世界のあることを知ってしまった人間が3~5割いる社会が欧米主要国なのだということ。

 

日本では、霊能はきわもの扱いだが、ドラッグ使用による別世界観の開顕は、霊能の開顕と云って差し支えないだろう。要するに霊能の開けちゃった人々が、人口の3、4割いる社会が欧米主要国なのである。

 

日本では、タミフル投与時の異常行動の中に霊界、異界を見るものがあり、問題となった時期があるが、何とか沈静化した。

 

このブログでは一貫して、準備ができていない者の霊能を開くことを戒めているが、準備ができていない者のドラッグ使用も同様に戒める。

 

欧米で、ホラーもの、ゾンビもののTVドラマや映画が盛んなのは、実はそういう世界観の人間が多かったせいかと思い当たる。

またスポーツでもドラッグ使用時の効果を知るゆえに、ドーピング規制が厳しいのだとも思う。

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覚鑁(かくばん)の虚空蔵菩薩求聞持法

2022-11-02 19:00:26 | 密教neo

◎メソッドとその結果の不定性

 

真言宗中興の覚鑁(かくばん)。彼ほど、メソッドとその結果の不定性を身をもって体現している者も少ない。

 

まず彼は虚空蔵菩薩求聞持法を8度修したこと。虚空蔵菩薩求聞持法とは

ノウボーアーカーシャギャラバヤ オンアリカマリボリソハカ

という虚空蔵菩薩の真言を日に一万遍、百日間唱え続け、同時に印契を結び、虚空蔵菩薩を観想し、牛酥を加持するもので、成就すれば牛酥が霊気を発したり、光を放ったり、煙が立つなどの奇瑞があり、その牛酥を食すると超人的な記憶力を得て、一度聞いたことはその言葉も意味も決して忘れないというもの。

 

一節によれば、それまでの八回とは異なり、導師を賢覚法眼に変えて、虚空蔵求聞持法の9回目のチャレンジを行ったところ、漸く成就した。

要するに虚空蔵菩薩求聞持法といえども一回やっておけば大丈夫などということはなく、ダメな場合のほうがむしろ多いらしいということ。メソッドの効果に絶対はない。

 

おもしろいことに、覚鑁は、22歳から27歳までの間に伝法潅頂だけでも8度受けている。伝法潅頂は修行ではないが、重要な微細身の操作なのだろうから、これまた評判の高いとされるメソッドであっても、メソッドの効果の確実でないことを、彼が感じて、何度も請うて伝法潅頂をやったということになるだろう。

 

※現代女性の虚空蔵菩薩求聞持法の行例

虚空蔵菩薩求聞持法について - 真言寺 生活改善の会 (sldn.net)

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空海以前の虚空蔵菩薩求聞持法

2022-11-02 18:59:49 | 密教neo

◎法相宗の神叡

 

空海は、唐の仏教弾圧前夜に唐に入り、真言密教のエッセンスは受けるは、経典図画は大量に持ち帰るはで、そのタイミングと質と規模は驚天動地なものであった。

 

空海(774-835)は、虚空蔵菩薩求聞持法を奈良大安寺の高僧・勤操(ごんぞう754-827)に伝えられ成就できたとされる。

 

更に遡って、法相宗の神叡(しんえい。737年没。)という唐僧がいて、病を理由に日本に来朝。大和国吉野山の比蘇山寺(現在の世尊寺)に20年籠り、虚空蔵求聞持法を成就したという話がある。

 

そもそも生死を超えよう、輪廻を解脱しましょうという志で修業している中で、記憶力を増進しましょうなどという世俗がかったモチベーションが成立するはずもなく、虚空蔵求聞持法を記憶力増進のためにやるというのは、一つのキャッチコピーではないかと思う。

 

純粋に一切経を頭の中に収めようとすれば、西洋古来の記憶術でも十分いけるのではないかと思う。大雑把に言えば思春期以前から記憶術を訓練すれば、そういう類のことは可能なのではないかと想像する。

 

無文字の文明では必ず記憶術が発達する。かな漢字以前は日本は無文字だったという説が主流だが、本当にそうであれば、記憶技法がメジャーなものとして伝承されていてしかるべきだが、そうなってはいない。

 

むしろ古い神社に神代文字を見ることが珍しくなく、かな漢字以前は古神道で神代文字を用いていた可能性があるのではないかと思う。

 

記憶には、2種あり、アートマンレベルのひとつながりのものに直接アクセスする方法と個人のカルマ記憶から遡上するやり方。前者が虚空蔵求聞持法であって、それによって発生するトランスから入るのだろうと思う。

 

記憶力強化とは、即身成仏の副産物なのだと思う。

 

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比叡山で仏を見る-2

2022-11-02 18:20:52 | 密教neo

◎好相行とは

 

高川慈照師の好相行の続き。

 

好相行を行うために、浄土院の拝殿脇に広さ十二畳で白幕を四方に張って、正面に釈迦文殊弥勒の三尊掛け軸を懸けた。戸は締め切られ、明かりは蝋燭2本と経本を読むための手燭のみ。幕の内は行者だけしか入れない。

                     

ここで午前零時より、五体投地で、一日に三千仏への礼拝を繰り返す。一仏に一五体投地であるから、あの尺取り虫スタイルを一日に三千繰り返すのであるが、相当な重労働であり、五体投地を三千回するには、相当な筋力と気力が必要となる。10分間繰り返すのですら結構な運動であり、三千回など若くなくてはとてもできるものではない。

 

高川師は、元気な時に一分間に三、四仏の礼拝ができたそうで、これでいくと三千回クリアするには15時間弱かかる。そして三千の礼拝が終了すると、縄床に坐っての仮眠だけが許され、本格的に眠ることはできない。

 

最初は、ふらふらしながら寝込んでしまったり、錯乱状態で白幕内をうろうろしたりして、経本の文字を縦でなく横に読むようなこともあった。

 

こうして声も出ず、気合も入らず、集中力も失せてきた10日目くらいから、背後からフワーっと姿の見えない大男が攻撃してきた。これは10~15日くらい出てきたが、独鈷杵を投げることで退散させた。

 

次は姿の見えない犬が周囲を走り回り、懐の中に飛び込んでずっしりと重くなる。この時は、衣を脱いで衣をバタバタと払うことで、退散させた。

 

犬がいなくなってからは、姿の見えない猫が周囲を走り回り、懐の中に飛び込んでずっしりと重くなる。この時も、衣を脱いで衣をバタバタと払うことで、退散させた。

 

こうして一ヶ月が過ぎた。

 

二ヶ月目からは、身体が軽くなり、集中力も戻り、声も出るようになった。出て来るビジョンも轟音を轟かす瀧が眼前に現れたり、漆黒の天空から様々な原色の花びらが降ってきたり、良いビジョンになってきた。

 

二ヶ月目の終るには、身体の贅肉はとれ、声が透き通るようになった。このころ、良いビジョン(きれいな魔)も出てこなくなった。

 

そしてある日眠気がなくなり、頭もすかっとして雑念もわいて来ず、集中力があり、仏をクリアにイメージできるようになった。この調子なら仏(好相)を見てやろうではないかと毎日毎日期待に胸を膨らませて行にいそしんだが、毎日その期待は裏切られ続けた。

 

こうして三ヶ月目も終りに近づいた時、高川師は、仏は見ようと思って見れるものではないと、仏に出会うことをあきらめ、一年でも行を続ける覚悟をした。

 

そうしたある朝、仏を見ることができたのである。

(出典:行とは何か/藤田庄市/新潮選書)

 

人は若くなくとも死ぬが、これは、若くないとできない行である。マントラ・ヨーガも似たところがあるのではないか。

 

肉体を運動と発声で2カ月かけて調整していって、その過程の中で想念も整理されていって、クリアなビジョンが出るようになって、仏を見たいという雑念さえ捨てたところで初めて向こう側からの観世音菩薩が出現した。

このビジョンは、プラトンでいえばイデア界所属の時間のない世界のもの、本物なのだと思う。

 

これは、比叡山流の好相行がどのように本物のビジョンに到達するかが明快に察せられる事例であった。

 

それにしてもこうした修行環境は恵まれたものであり、万人が日常生活の中でできる修行ではないと思う。あの生活がシンプルなチベットにおいてすら、観想法修行者は何ヶ月も人里離れた山の洞窟に食料を持ち込んで修行しないと、こうまでビジョンが研ぎ澄まされはしない。いわんやこの情報操作天国・洗脳ラッシュの近代国家日本においてをや。

 

この後、高川師は先代侍真の堀沢師に出た時のことをこまごまと聞かれ、堀沢師が好相と認めたので好相行は打切りとなった。

 

高川師のビジョンには観世音菩薩が大勢登場したが、合掌した観世音菩薩一体の場合などいろいろな出方があるらしいとは、偽ビジョンを語る者を排除するには必要なことと思う。何を見たかではなく、本物のビジョンだったかどうかがクリティカルなのである。

 

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比叡山で仏を見る-1

2022-11-02 18:19:59 | 密教neo

◎高川慈照師の好相行

 

よく仏の32相好と言うが、32相あることは、本物の仏に出会わなければチェックできないのである。

 

比叡山には、侍真制度というのがある。最澄の廟が浄土院であるが、ここを守る僧が侍真である。侍真には12年の籠山が義務づけられており、この間浄土院から出ることはない。

侍真になるには、仏を見なければならない。仏を見るまで礼拝を繰り返す修行を好相行という(好相必見)。

 

高川慈照師は好相行をクリアして、ほんまもんの仏を見た。そこで元禄時代に侍真制度ができてから114人目の侍真となった。これら侍真のうち2割強が籠山中に亡くなっている。仏に出会ったから、とりあえず良しとしたのだろうか。

 

 

好相行3カ月目のある朝、堂内は真っ暗である。

 

『床に投地した額に直感がひらめいた。

 

「仏さんが出ている」

 

頭を上げる。

白幕の向こうに、金色に輝き宝冠をつけた観世音菩薩がズラーッと三列に並んでいた。三十三間堂の観音群をイメージすればよいのであろうか。丸顔のやさしい表情の美しい観音様であった。皆、同じ顔つきをしている。白幕に浮き出るようで、距離感があった。目を左方に移す。そちらも観世音菩薩が並んでいた。次いで右方こちらも同様であった。

 

「魂が引き抜かれたようであった」

 

じーっと見ているのみであった。心が騒ぐこともなく、感激する余地もない。「出てる!」ただ引きつけられ、魅せられていた。実際は数十秒であったろうが、高川師の実感では二~三分の間であるという。

 

「なーむ」

再び礼拝をし、頭を起こすと仏の姿は消えていた。礼拝は続行した。』

(行とは何か/藤田庄市/新潮選書から引用)

 

見ただけなら、菩薩である。まだ先がある。これはいわゆる向こうから来たビジョンなのだと思うが、仏と観世音菩薩は違うのではないか。観世音菩薩は高級神霊の一つのように思う。

 

それと、例えばの話ではあるが、時々観世音菩薩が来ていたのに気がつかなかったが、この時は気がついたというようなことはあるのではないか、と思う。

 

  

それでは、仏に出会える好相行とはどんなものだろうか。

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刹那の秘密

2022-11-02 16:27:42 | 現代冥想の到達点neo

◎現実の裂け目

 

パタンジャリのヨーガ・スートラの最後から2番目の4.33から。

 

『4.33 瞬間瞬間に起きる変化のプロセスであるカルマは、三種のグナの変容の最後に把握できるようになる』

 

普通の人は時間は連続していると思い込んでいるが、ここでは、連続しておらず、瞬間瞬間(刹那)で断絶しているとする。

 

瞬間瞬間の隙間についてOSHOバグワン(Yoga: The Alpha and the Omega, Vol 10から)は、『この隙間があるからこそ、現象全体、世界全体は一瞬して無に帰すことができるのだ』ととれるような怪しげな説明をしている。

 

原子と原子の間に隙間があるようにこの隙間があるのだとして、その隙間により世界全体、現実全体は無となる、と。

 

そう言えるのは、パタンジャリが、その無になるシーンを見たからこそだ、とも言う。

 

すべては無から出て無に消える。これは空のことであり、現実の色即是空、諸行無常に加え、アートマンがニルヴァーナに晋(すす)むことをちらつかせている。

 

この現実、この世界全体が無から出て無に帰るのであれば、それは無用で無駄、非効率の極み、メリットなしである。この現実、この世界全体が無用なのだが、それは見る者であるあなたが覚醒するためだけにおいて有用である。

 

これぞ荘子のいうところの無用の用の秘義である。荘子に出てくる無用の事物のたとえは、恐ろしく役立たずな人や物を出してくる。そのことからこんなことを想像できる人は、一生そういう問題意識を抱え続けてきた人だけだと思う。

 

最近映画もデジタルになったが、動画も多数のコマ静止画でできている。この世界も現実も刹那刹那の静止画の連続であり、静止画と静止画の間には隙間がある。

 

この刹那の隙間にこそ驚異の真理が秘められている。

 

OSHOバグワンは、この刹那の隙間に本当のスクリーンを見ることができるという。

 

世界の真実は、超高速に動く静止画の残像である映画・動画・youtubeの方にあるのではなく、静止画と静止画の刹那の隙間に見えるスクリーンの方にあったのだ。

 

手を動かしているように見えたり、足で歩いているように見えたり、何かしゃべっているように思えたりすることは、虚像であり、その連続した意識の隙間にこそ真実がある。

 

なぜ旗が動くのかと問われ、『風が動く』『旗が動く』と回答したのは不正解で、『心が動く』が正解となった禅問答の背景がここにある。

 

ダンテス・ダイジは、この刹那の隙間のことを現実の裂け目と呼んでいる。

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ケン・ウィルバーの身心脱落

2022-11-02 13:17:01 | 只管打坐neo

◎常に故郷にいる幸福

 

ケン・ウィルバーの日記から、

『身心が脱落するとき、そしてどこにも私が見つからないとき、光輝で果てしなく飾られた無限の<空>、根源的な<充満>がある。<私-私>は<コスモス>として開き、ここでは原初の<清浄>を汚すものはなく、ここでは概念を話すことはとてもためらわれ、ここでは二元性がその顔を恥ずかしさで隠し、そして苦悩はその名前を思い出すことさえない。

 

無限の充満であるここでは何も起こらず、自己存在する至福が歌われ、自己解放する振る舞いに満ち、常に故郷にいる幸福がある。

 

この瞬間の開けの中で無限の感謝がまったくの単純さと出会う。

 

永遠に、永遠に、絶望的なほど永遠に、ただそれしかないために。』

(<ワン・テイスト・下/ケン・ウィルバー/コスモスワイブラリー社>P57から引用)

 

こういう身心脱落の実感を描く文章のあることで、ケン・ウィルバーは覚者であることを自証する。

 

最後の文章の、永遠を3度繰り返す部分は、最も日常感覚から遠い部分であるので、永遠が形容詞として重要なものであることこそ、ニルヴァーナの属性ではない属性なのだろう。これぞ幽斎そのものである。

 

そしてもう一つのキーワードである常に故郷に居る感じ。これは太乙金華宗旨にも出てきているところである。

 

ケン・ウィルバーの日本への紹介者である吉福 伸逸は、2013年に亡くなったが、ケン・ウィルバーは、トランス・パーソナルだけど心理学ではなかった。只管打坐の冥想修行者だった。

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公案と只管打坐

2022-11-02 13:15:02 | 只管打坐neo

◎道元の判定

 

正法眼蔵随聞記巻六で、侍者懐弉が、公案禅と只管打坐とどちらを好むべきでしょうかという質問をした。

 

道元は、

『公案を見ていささかわかったようであっても、それは仏祖の道に遠ざかるやり方である。得ることもなく、悟ることもなく、端座して時を移せば、それが仏祖の道の道である。

 

古人も公案と只管打坐両方勧めたけれど、とりわけ只管打坐を専ら勧めた。また公案で悟りを開いた人がいるといってもそれも只管打坐の功で悟りが開いたメカニズムなのだ。本当の功徳は只管打坐(坐)にあるのだ。』

 

これを確証するためには、禅での複数の悟りを、人間の内側が見れる能力のある人物が見なければならないが、その確証を信用するかどうかは、受け取る人の智慧証覚によるという面倒なことになるが、そのようなものだろう。

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夢もニルヴァーナも同じである

2022-11-02 12:59:42 | 究極というものの可能性neo

◎仏も夢や幻のようなもの

 

「夢もニルヴァーナも同じである」は、迷いも悟りも同じであると、ニルヴァーナ至上から一歩突っ込んでいる。

大乗仏教の八千頌般若経にこの一節がある。

 

神々が質問を出してスプーティ尊者がこれに答えているのだが、スプーティ尊者は、「完全な悟りを開いた人(仏)も夢や幻のようなものである」と説明し、神々にショックを与える。

 

さらにスプーティ尊者は、ニルヴァーナも夢、幻のようなもので、まして他のこともそうなのだと説明する。

 

彼は一歩進んで、マーヤーとニルヴァーナは不二であり、別に分けられることはない、とまで言う。

(以上参照:現代語訳*大乗仏典1 般若経典/中村元/東京書籍P121-122)

 

これを理屈、理論で言うことはあり得るが、実体験で確認する者がいる。それは、有なるアートマン、第六身体を越え、ニルヴァーナから生還した数少ない人であって、その際何が起きたかをわかっている人である。

 

起きることは起きたが、何が起きたかをわかっている人は稀なものだと思う。

 

人は肉体死を経れば、多く三途の川を渡ったなどと言うが、死の直前からその時点まで何が起こったかをすら承知している人は稀であるように。

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ヴィヴェーカナンダとラーマクリシュナのタッチ

2022-11-02 12:58:05 | 究極というものの可能性neo

◎死と向かい合う

 

ヴィヴェーカナンダが師匠のラーマクリシュナに二度目に出会った時、ラーマクリシュナはエクスタシーの状態で近寄り、何事かをつぶやき、目をヴィヴェーカナンダにじっと向け、右足をヴィヴェーカナンダの体の上に置いた。

 

これによりヴィヴェーカナンダは、壁や部屋や寺院の庭はもとより、全世界、そして彼自身さえも空中の中に消えていくのを見た。彼は死と向かい合っていると確信した。

 

そこでヴィヴェーカナンダは、大声で「何をされるのですか、家には両親も姉妹も兄弟もいるんです。」と叫んで、ラーマクリシュナにこの状態から出してもらった。

(出典:スワミ・ヴィヴェーカーナンダの生涯 スワミ・ニキラーナンダ/著 法律文化社P33-34)

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見神が起きても、何が起きたかわからないということがある

2022-11-02 08:04:43 | Overview of the meditation 冥想の全体像

◎【第二章】神仏と冥想の関係

5.見神が起きても、何が起きたかわからないということがある。何が起きたかわかるには準備が必要。

 

手軽な見神、見仏のチャンスは、くしゃみである。万人は、くしゃみの瞬間に見神、見仏のチャンスを得ているがみすみす取り逃がしている。

 

お手軽ではないが、誰でも肉体の死に際して、原初の光という見神、見仏のチャンスがある。だが、中有到達時まで気がつかないので、三途の川を渡ると言う表現でその機微をまとめて表現することにより、見神、見仏のチャンスがあったなどとは夢にも思わないことがほとんど。

 

OSHOバグワンは、さらに突っ込んで、普通の人は時間は連続していると思い込んでいるが、実は連続しておらず、瞬間瞬間(刹那)で断絶しているとする。『この隙間があるからこそ、現象全体、世界全体は一瞬して無に帰すことができるのだ』ととれるような説明をしている。原子と原子の間に隙間があるようにこの隙間があるのだとして、その隙間により世界全体、現実全体は無となる、と。

つまり平常、意識は連続しているように見えるが、実は隙間があって、そこに見神、見仏のチャンスがあるのだろう。

 

取り逃がすという例では、以上のように偶発的自然発生的な見神、見仏、見性のチャンスを棒に振るケースの他に、もちろん見神、見仏をめざす冥想修行の途中で、不本意ながらそのチャンスに気がつかない例もある。

 

代表的なのは、敬虔なクリスチャンが毎日イエスの来臨を願っていたが、ある朝イエスが来臨したのに当の本人は眠っていて気がつかなかったという話。あるいは、禅で既に見性しているのに、見性したことを自分が認めないというものもある。

 

比叡山高野山で、不眠不休で仏を見ようとする行がいくつかあるが、それはその特殊な行の期間に何とか訪れる仏を見るチャンスをものにしようとするものではある。

 

ところが、実はOSHOバグワンのいうように平生であっても見神、見仏できるのであれば、見神、見仏が発生する特別な時間を捜し求める必要はなく、自分の意識を見神、見仏できるまでに深める方が本筋なのだろうと思う。(この辺に大量に覚者を出す方向性があるかもしれない)

 

そうは言ってもアヴィラのテレサの言うように、奇蹟には時を選ぶタイプのものと時を選ばないタイプのものがある。果たして見神、見仏はどちらのタイプのものなのだろうか。

 

さてヴィヴェーカナンダは、見神、見仏したことを自覚しながら、その先に進むことを拒否した。準備ができていないということには、以上のよういな見神、見仏を自覚する準備ができていないことの他に、その先のニルヴァーナ、究極に進む準備ができていないということもある。

 

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