◎呪術師マリア・サビナ
幻覚性植物を用いて潜在意識に入っていったからといっても、神に近い意識に近づき得る者は、極めて少ない。当世においてアルコールや〇〇剤を服用する人は多くとも、ほとんどの人は、五感の感覚が鋭敏になったとか、けんか早くなったとか、個人的な潜在意識が表面に昇るに止まる場合が大半である。醒めながら、いつものレベルの夢を見る程度のことなのだ。
この話は、インドでいうところのソーマの本質を探求に出たゴードン・ワッソンが、メキシコで出会った呪術師マリア・サビナの話であるが、部族として習慣的に幻覚きのこを服用している場合でも、神的な意識レベルに接近し得る者は稀であることがわかる。それが故に薬物や幻覚植物の服用を手段として、永遠なるものに近づくのは、相応する感受性と師匠なくしては、やはり困難な道ではあるということになる。そしてその感受性のノーマルな発達は、冥想の習慣の中で培われるものだと思う。
幻覚植物の摂取は、現世という認識形式は絶対でなく、別の認識形態があるというきっかけを得る体験であるのだが、『絶対』というものに到達できるかどうかは別の問題なのだ。
1955年人類学者のゴードン・ワッソンは、メキシコのマサテコ族の治療師マリア・サビナと出会った。
マリア・サビナは、シロシベというきのこを食することにより超意識状態に入っていく。マリア・サビナは語る。
『このキノコは、おまえの魂に似ている。 これは、おまえの魂が望むところにおまえを連れて行く。
全ての魂が同じとは限らない。マルキアル[彼女の二番目の夫。酒飲みですぐに暴力を揮う男]は聖なるキノコ(テオ・ナナカトル)を食べ、幻視を得たが、それは何の役にも立たない幻視だった。この山の多くの人々がこれまでも今もそれを食べているが、全ての知識を得られる世界に行くのはその一部だ。
我が妹のアナ・マリアは、私といっしょにキノコを食べ始め、 同じ幻視を得、キノコに話しかけたが、キノコは 全ての秘密を明かすことはなかった。キノコが私に示した秘密は、一冊の巨大な本に封じ込められていたものであり、その本は彼らの世界から遙か彼方の場所にある。それは巨大な本だ。アナ・マ リアが病気になり······ほとんど死にそうになったとき、キノコはそれを私にくれた。私はそのとき、もう一度テオ・ナナカトルの所へ行こうと決意していた。そこで私はたくさんのこれまで食べたことのないほどのキノコを食べた。三十、そして三十も食べた。私は妹を愛しており、彼女のためなら何でもすることができた。彼女を救うために長い旅でもすることができた。
私の身体は彼女の前に座っていたが、魂はテオ・ナナカトルの世界に入り、これまでに何度も見た同じ光景を見ていた。 それから、風景は全く見たことのないものになった。 非常に数多くのキノコが、私をその世界の底の底へと連れて行ったからである。一心に進んでいくとひとりの精霊が近づいてきた。精霊は、おかしなことを 尋ねた。「だが、汝マリア・サビナよ、汝は何になりたいのか?」。
私は訳も分からないままに答えた、私は聖者になりたい。すると精霊は微笑み、突然その手の中に何かが現われた。それはいろいろなことが書かれた巨大な本だった。
「さあ」と彼は言った。「おまえにこの本をやろう。おまえはもっと仕事をうまくやることができるようになるだろう。助けを求める人を助け、全ての知識を得られる世界の秘密を知ることができるようになるだろう。」
私はその本のページをめくった。いろいろなことが書かれていた。だが悲しいことに、私は字が読めなかった。私は字を習ったことがないので、その本は私には何の役にも立たなかった。だが突然気がつくと私にその本を読んでいて、そこに書かれたことを全て理解していた。私は豊かになり、賢くなり、そしてその瞬間、私は何百万もの事柄を学んだ。私は学びに学んだ······私は本に書いてあった薬草を探した。そして本に書いてあったとおりのことをした。こうして、アナ・マリアは元気になった。
私は、二度とその本を見る必要はなかった。何故なら、そこに書いてあったことは全て身につけてしまったから。でも私は、その後、もう一度それをくれた精霊に会った。それから他の精霊たちと、他の景色にも。
それから私は太陽と月も間近で見た。 テオ・ナナカトルの世界の奥へ行けば行くほど、もっとたくさんのものが見られる。過去も未来も見られる。過去も未来も、既に達成してしまった、既に起こってしまった、ひとつのものとしてそこにある。だから私は、息子のアウレリオの人生の全てを見た。その死を見た。 息子を殺す男の名前と顔も見た。彼が息子を殺す短剣も見た。全ての事柄は、既に起こっているのだ。殺しは既に起こっている。だから息子に殺されるから注意しろと言うことは出来なかった。そのとき何も言わなかったのだから。
彼らは息子を殺すだろう、それだけのことだった。それから私は他にも多くの死を、多くの殺しを、そして死んだ人々を見た――――その人たちがどこの人なのか、誰にも解らない―――― 私だけが見ることができた。そして私は盗まれた馬を見た。土に埋もれた古い都市を見た。 その存在は誰も知らない。でも知られようとしている。私は何百万という事柄を見て、知った。
私は神に会い、知った。時を刻む巨大な時計、ゆっくり回る天球、星の内側、地球、全宇宙、昼と夜、涙と微笑み、幸福と苦痛。テオ・ナナカトルの秘密を最後まで知る者は、その無限のゼンマイ掛けまでをも見ることが出来る。』
(精神活性物質の事典/リチャード・ラジェリー/青土社P124-125から引用)
マリア・サビナは、『過去も未来も、既に達成してしまった、既に起こってしまった、ひとつのものとしてそこにある。』と述べ、神にまで出会い、全宇宙を知ったことで、アートマン(第六身体)に出たことがわかる。この本はアカシック・レコード。
このようにマリア・サビナにとっては、シロシベは、神に出会える、恐ろしくもすばらしいジャンプ台となったわけだが、冥想の習慣のないそのままの人がそうなる可能性はゼロに近いのもまた現実であることを教えてくれる。そこは、自分勝手な自分がちょっとでも残っていたらたどりつけない所だから。
幻覚性植物を用いて潜在意識に入っていったからといっても、神に近い意識に近づき得る者は、極めて少ない。当世においてアルコールや〇〇剤を服用する人は多くとも、ほとんどの人は、五感の感覚が鋭敏になったとか、けんか早くなったとか、個人的な潜在意識が表面に昇るに止まる場合が大半である。醒めながら、いつものレベルの夢を見る程度のことなのだ。
この話は、インドでいうところのソーマの本質を探求に出たゴードン・ワッソンが、メキシコで出会った呪術師マリア・サビナの話であるが、部族として習慣的に幻覚きのこを服用している場合でも、神的な意識レベルに接近し得る者は稀であることがわかる。それが故に薬物や幻覚植物の服用を手段として、永遠なるものに近づくのは、相応する感受性と師匠なくしては、やはり困難な道ではあるということになる。そしてその感受性のノーマルな発達は、冥想の習慣の中で培われるものだと思う。
幻覚植物の摂取は、現世という認識形式は絶対でなく、別の認識形態があるというきっかけを得る体験であるのだが、『絶対』というものに到達できるかどうかは別の問題なのだ。
1955年人類学者のゴードン・ワッソンは、メキシコのマサテコ族の治療師マリア・サビナと出会った。
マリア・サビナは、シロシベというきのこを食することにより超意識状態に入っていく。マリア・サビナは語る。
『このキノコは、おまえの魂に似ている。 これは、おまえの魂が望むところにおまえを連れて行く。
全ての魂が同じとは限らない。マルキアル[彼女の二番目の夫。酒飲みですぐに暴力を揮う男]は聖なるキノコ(テオ・ナナカトル)を食べ、幻視を得たが、それは何の役にも立たない幻視だった。この山の多くの人々がこれまでも今もそれを食べているが、全ての知識を得られる世界に行くのはその一部だ。
我が妹のアナ・マリアは、私といっしょにキノコを食べ始め、 同じ幻視を得、キノコに話しかけたが、キノコは 全ての秘密を明かすことはなかった。キノコが私に示した秘密は、一冊の巨大な本に封じ込められていたものであり、その本は彼らの世界から遙か彼方の場所にある。それは巨大な本だ。アナ・マ リアが病気になり······ほとんど死にそうになったとき、キノコはそれを私にくれた。私はそのとき、もう一度テオ・ナナカトルの所へ行こうと決意していた。そこで私はたくさんのこれまで食べたことのないほどのキノコを食べた。三十、そして三十も食べた。私は妹を愛しており、彼女のためなら何でもすることができた。彼女を救うために長い旅でもすることができた。
私の身体は彼女の前に座っていたが、魂はテオ・ナナカトルの世界に入り、これまでに何度も見た同じ光景を見ていた。 それから、風景は全く見たことのないものになった。 非常に数多くのキノコが、私をその世界の底の底へと連れて行ったからである。一心に進んでいくとひとりの精霊が近づいてきた。精霊は、おかしなことを 尋ねた。「だが、汝マリア・サビナよ、汝は何になりたいのか?」。
私は訳も分からないままに答えた、私は聖者になりたい。すると精霊は微笑み、突然その手の中に何かが現われた。それはいろいろなことが書かれた巨大な本だった。
「さあ」と彼は言った。「おまえにこの本をやろう。おまえはもっと仕事をうまくやることができるようになるだろう。助けを求める人を助け、全ての知識を得られる世界の秘密を知ることができるようになるだろう。」
私はその本のページをめくった。いろいろなことが書かれていた。だが悲しいことに、私は字が読めなかった。私は字を習ったことがないので、その本は私には何の役にも立たなかった。だが突然気がつくと私にその本を読んでいて、そこに書かれたことを全て理解していた。私は豊かになり、賢くなり、そしてその瞬間、私は何百万もの事柄を学んだ。私は学びに学んだ······私は本に書いてあった薬草を探した。そして本に書いてあったとおりのことをした。こうして、アナ・マリアは元気になった。
私は、二度とその本を見る必要はなかった。何故なら、そこに書いてあったことは全て身につけてしまったから。でも私は、その後、もう一度それをくれた精霊に会った。それから他の精霊たちと、他の景色にも。
それから私は太陽と月も間近で見た。 テオ・ナナカトルの世界の奥へ行けば行くほど、もっとたくさんのものが見られる。過去も未来も見られる。過去も未来も、既に達成してしまった、既に起こってしまった、ひとつのものとしてそこにある。だから私は、息子のアウレリオの人生の全てを見た。その死を見た。 息子を殺す男の名前と顔も見た。彼が息子を殺す短剣も見た。全ての事柄は、既に起こっているのだ。殺しは既に起こっている。だから息子に殺されるから注意しろと言うことは出来なかった。そのとき何も言わなかったのだから。
彼らは息子を殺すだろう、それだけのことだった。それから私は他にも多くの死を、多くの殺しを、そして死んだ人々を見た――――その人たちがどこの人なのか、誰にも解らない―――― 私だけが見ることができた。そして私は盗まれた馬を見た。土に埋もれた古い都市を見た。 その存在は誰も知らない。でも知られようとしている。私は何百万という事柄を見て、知った。
私は神に会い、知った。時を刻む巨大な時計、ゆっくり回る天球、星の内側、地球、全宇宙、昼と夜、涙と微笑み、幸福と苦痛。テオ・ナナカトルの秘密を最後まで知る者は、その無限のゼンマイ掛けまでをも見ることが出来る。』
(精神活性物質の事典/リチャード・ラジェリー/青土社P124-125から引用)
マリア・サビナは、『過去も未来も、既に達成してしまった、既に起こってしまった、ひとつのものとしてそこにある。』と述べ、神にまで出会い、全宇宙を知ったことで、アートマン(第六身体)に出たことがわかる。この本はアカシック・レコード。
このようにマリア・サビナにとっては、シロシベは、神に出会える、恐ろしくもすばらしいジャンプ台となったわけだが、冥想の習慣のないそのままの人がそうなる可能性はゼロに近いのもまた現実であることを教えてくれる。そこは、自分勝手な自分がちょっとでも残っていたらたどりつけない所だから。