アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

シロシベ-1

2022-11-22 20:38:47 | ソーマ・ヨーガ(冥想法5)neo
◎呪術師マリア・サビナ

幻覚性植物を用いて潜在意識に入っていったからといっても、神に近い意識に近づき得る者は、極めて少ない。当世においてアルコールや〇〇剤を服用する人は多くとも、ほとんどの人は、五感の感覚が鋭敏になったとか、けんか早くなったとか、個人的な潜在意識が表面に昇るに止まる場合が大半である。醒めながら、いつものレベルの夢を見る程度のことなのだ。

この話は、インドでいうところのソーマの本質を探求に出たゴードン・ワッソンが、メキシコで出会った呪術師マリア・サビナの話であるが、部族として習慣的に幻覚きのこを服用している場合でも、神的な意識レベルに接近し得る者は稀であることがわかる。それが故に薬物や幻覚植物の服用を手段として、永遠なるものに近づくのは、相応する感受性と師匠なくしては、やはり困難な道ではあるということになる。そしてその感受性のノーマルな発達は、冥想の習慣の中で培われるものだと思う。

幻覚植物の摂取は、現世という認識形式は絶対でなく、別の認識形態があるというきっかけを得る体験であるのだが、『絶対』というものに到達できるかどうかは別の問題なのだ。

1955年人類学者のゴードン・ワッソンは、メキシコのマサテコ族の治療師マリア・サビナと出会った。
マリア・サビナは、シロシベというきのこを食することにより超意識状態に入っていく。マリア・サビナは語る。
『このキノコは、おまえの魂に似ている。 これは、おまえの魂が望むところにおまえを連れて行く。
全ての魂が同じとは限らない。マルキアル[彼女の二番目の夫。酒飲みですぐに暴力を揮う男]は聖なるキノコ(テオ・ナナカトル)を食べ、幻視を得たが、それは何の役にも立たない幻視だった。この山の多くの人々がこれまでも今もそれを食べているが、全ての知識を得られる世界に行くのはその一部だ。

我が妹のアナ・マリアは、私といっしょにキノコを食べ始め、 同じ幻視を得、キノコに話しかけたが、キノコは 全ての秘密を明かすことはなかった。キノコが私に示した秘密は、一冊の巨大な本に封じ込められていたものであり、その本は彼らの世界から遙か彼方の場所にある。それは巨大な本だ。アナ・マ リアが病気になり······ほとんど死にそうになったとき、キノコはそれを私にくれた。私はそのとき、もう一度テオ・ナナカトルの所へ行こうと決意していた。そこで私はたくさんのこれまで食べたことのないほどのキノコを食べた。三十、そして三十も食べた。私は妹を愛しており、彼女のためなら何でもすることができた。彼女を救うために長い旅でもすることができた。
私の身体は彼女の前に座っていたが、魂はテオ・ナナカトルの世界に入り、これまでに何度も見た同じ光景を見ていた。 それから、風景は全く見たことのないものになった。 非常に数多くのキノコが、私をその世界の底の底へと連れて行ったからである。一心に進んでいくとひとりの精霊が近づいてきた。精霊は、おかしなことを 尋ねた。「だが、汝マリア・サビナよ、汝は何になりたいのか?」。
私は訳も分からないままに答えた、私は聖者になりたい。すると精霊は微笑み、突然その手の中に何かが現われた。それはいろいろなことが書かれた巨大な本だった。
「さあ」と彼は言った。「おまえにこの本をやろう。おまえはもっと仕事をうまくやることができるようになるだろう。助けを求める人を助け、全ての知識を得られる世界の秘密を知ることができるようになるだろう。」

私はその本のページをめくった。いろいろなことが書かれていた。だが悲しいことに、私は字が読めなかった。私は字を習ったことがないので、その本は私には何の役にも立たなかった。だが突然気がつくと私にその本を読んでいて、そこに書かれたことを全て理解していた。私は豊かになり、賢くなり、そしてその瞬間、私は何百万もの事柄を学んだ。私は学びに学んだ······私は本に書いてあった薬草を探した。そして本に書いてあったとおりのことをした。こうして、アナ・マリアは元気になった。

私は、二度とその本を見る必要はなかった。何故なら、そこに書いてあったことは全て身につけてしまったから。でも私は、その後、もう一度それをくれた精霊に会った。それから他の精霊たちと、他の景色にも。

それから私は太陽と月も間近で見た。 テオ・ナナカトルの世界の奥へ行けば行くほど、もっとたくさんのものが見られる。過去も未来も見られる。過去も未来も、既に達成してしまった、既に起こってしまった、ひとつのものとしてそこにある。だから私は、息子のアウレリオの人生の全てを見た。その死を見た。 息子を殺す男の名前と顔も見た。彼が息子を殺す短剣も見た。全ての事柄は、既に起こっているのだ。殺しは既に起こっている。だから息子に殺されるから注意しろと言うことは出来なかった。そのとき何も言わなかったのだから。

彼らは息子を殺すだろう、それだけのことだった。それから私は他にも多くの死を、多くの殺しを、そして死んだ人々を見た――――その人たちがどこの人なのか、誰にも解らない―――― 私だけが見ることができた。そして私は盗まれた馬を見た。土に埋もれた古い都市を見た。 その存在は誰も知らない。でも知られようとしている。私は何百万という事柄を見て、知った。

私は神に会い、知った。時を刻む巨大な時計、ゆっくり回る天球、星の内側、地球、全宇宙、昼と夜、涙と微笑み、幸福と苦痛。テオ・ナナカトルの秘密を最後まで知る者は、その無限のゼンマイ掛けまでをも見ることが出来る。』
(精神活性物質の事典/リチャード・ラジェリー/青土社P124-125から引用)

マリア・サビナは、『過去も未来も、既に達成してしまった、既に起こってしまった、ひとつのものとしてそこにある。』と述べ、神にまで出会い、全宇宙を知ったことで、アートマン(第六身体)に出たことがわかる。この本はアカシック・レコード。

このようにマリア・サビナにとっては、シロシベは、神に出会える、恐ろしくもすばらしいジャンプ台となったわけだが、冥想の習慣のないそのままの人がそうなる可能性はゼロに近いのもまた現実であることを教えてくれる。そこは、自分勝手な自分がちょっとでも残っていたらたどりつけない所だから。
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無聞思聡の冥想の深まり

2022-11-22 09:03:56 | 丹田禅(冥想法8)neo
◎小悟何回、大悟何回

無聞思聡は、最初に独翁和尚の下で「不是心、不是仏、不是物」という公案で参禅した。その後、六人のグループでお互いに深めていった。

次に淮西の教無能禅師から「無字」の公案をもらった。
その後淮上の敬兄に「あなたは6、7年参禅しているようだが、どんな境地か。」と質問されて、無聞はしどろもどろになり、悟っていないことがバレた。

無聞は、敬兄に「それでは、どうすればよいのでしょうか」と問うた。敬兄は、「端的な意を知ろうと思うなら、北斗を南に向かって看(み)よ」と教えてくれて去って行った。※南を向けば北斗星は見えない。が、北斗を南に向かって看(み)よ。

以後35日間、無字の公案はやらずに、「端的な意を知ろうと思うなら、北斗を南に向かって看(み)よ」の公案に取り組んだ。その間、歩いて歩いていることを忘れ、坐って坐っていることを忘れるという状態だが、どうしてもこの公案が解けなかった。ある時皆と坐禅している際、食事時にふっと心がゆったり清らかになった。この時感情も想念も破裂し、一枚一枚皮を剥いでいく(シュンニャ)ようになった。目の前の人も物も一切見ないこと虚空のようであった。

半時ばかりして我に返って、全身から汗が流れた。そこで「端的な意を知ろうと思うなら、北斗を南に向かって看(み)よ」の公案を悟り得た。敬兄に伺ってその見解が正しいことを確認してもらえた。

だが、自分では、境地が自由自在(洒落)ではないことを自覚していたので、その後香巌山に入って一夏を修行した。そこは坐禅中に蚊がひどく、痛さに両手を組んでいれなかったが、痛みの肉体感覚から離れ、歯を食いしばってこぶしを握りしめ、ただひたすら無字の公案に取り組んで、忍びに忍んでいた。

すると、思わず身心が寂静となり一軒家の四方の壁が崩れたようになり、身体は虚空のようになり一つとして心にかかるものはなくなった。午前8時に坐り始め午後二時に定から出た。自分でわかった、仏法が人を裏切るものではなく、ただ自分の努力や工夫が足らないだけであることを。

だがこれでも小さな隠れて見えない妄想が滅し尽くされていなかったので、さらに光州の山中に坐ること六年、陸安山中でも六年、また光州の山中に三年にしてようやく大悟(頴脱)した。
(以上禅関策進/汝州香山無聞聡禅師から)

よく禅では小悟何回、大悟何回などと言う。だが、いわゆる大悟ですら不完全だったり戻ったりする。あるいは、真正の大悟ですら彼にとって一片の素敵な思い出になってしまう(ダンテス・ダイジ)。

この話のように大悟した後、悟後の修行(聖胎長養)をするケースや、もう一度大悟にチャレンジするケースもあるだろう。また大悟の後に生存しないケースもある。大悟の後に酒徳利を抱えて街をうろうろするのもよい。どれが善い悪いなどは言えない。

それでも今日も冥想を。
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万法と侶(とも)たらざる者

2022-11-22 08:52:41 | 丹田禅(冥想法8)neo
◎独存

襄州の龐(ほう)居士が、最初に石頭に参禅して問うた。「万法(あらゆる存在)と侶たらざる者、これはどんな人でしょうか」?
石頭、手をもって居士の口をおおった。龐居士、ここで豁然として悟った。

また龐居士が、師匠の馬祖に参禅して問うた。すると馬祖曰く「あなたが一口に西江の水を吸い尽くしてしまったら、即ちあなたに向かって回答を言いましょう。」
龐居士、言下に大悟した。

※龐蘊(ホウウン)居士(馬祖の嗣法の弟子)

口をおおったのは、龐居士自身が『万法と侶たらざる者(あらゆる存在と関係なく存在している、独立の人)』ではないかと示したもの。

ウパニシャッドでも独存が最後の方のテーマとなり、禅でも独存が最後の方のテーマとなっている。

一休和尚法語では、
『万法と侶たらざる者』とは、私の一心は、万法の外側にあり、体も色もない。だから物である万法に与しない。そうでありながら天をおおい、地に満ちている。

だから脚下漫々(無辺際に茫々)として『有』であるがゆえに、あらゆるものも一心(法界一心)と観じて、龐居士は名を残した。これは目に見えないものを見出して、このように表現しているのである。地獄はこの時初めてなくなってしまう。

一休は、第六身体アートマンに至って、あらゆる存在と心が一となり、そこで死の世界である目に見えないものを発見して、あらゆるものも一心(法界一心)となる。ここで、地獄も悪魔もなくなるのであると解説してみせている。

エクソシストは、このレベルでもって存在できるのだろう。
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長沙和尚七日で悟る

2022-11-22 08:50:27 | 丹田禅(冥想法8)neo
◎どういうルートをたどれば大悟に至るか

マインドフルネスとかフルフィルメントとかおしゃれなネーミングで勧誘してくる冥想法。それは、単にリラックスとか心理の安定とか願望実現を狙うだけのものなのか、大悟覚醒を狙うものなのかよく見極める必要がある。

禅家では、どういうルートをたどれば大悟に至るかを盛んに研究した。悟りの直前に何をやっていたかを調べてみるのは大いに価値ありと考えたのだろう。

臨済禅の白隠門下の遠江の瑞応寺の長沙和尚は、毎年12月の原の松蔭寺の臘八接心(禅の集中合宿)に参加し続けていたが、悟れなかった。
ある時、白隠は、「お前の禅は、鴨が冬の寒さに水に入ってじっとしているようなものだ。毎年30里の道をここまで来るが、ここにはそんな用なし男はいらない。もう臘八接心に参加禁止」とダメを出した。

これに奮起した長沙和尚は海辺の網小屋に入り、ここで悟れなければ二度と生きては故郷に帰らないと誓い、一週間の期限を決め、坐り始めた。食事もせず、不眠で打ち込んで七日間過ぎたが、どうしても悟れなかったので、海に身を投げて命を断とうと思い、磯に立った。

すると朝日に照らされた海が、紅をひいたように輝いていた。この景色を見た瞬間大悟した。

長沙和尚はその足で白隠の下に走ったが、白隠はその姿を一目見るなり、「そなた悟ったな」と喜んだ。

禅籍といえば、禅僧の行状と公案。その一見無味乾燥な記述は、川原の石ころのようなものだが、そこから愛が流れ出す。
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香厳が竹に瓦礫が当たった音で悟る

2022-11-22 08:48:12 | 丹田禅(冥想法8)neo
◎自分でなんとかするしかない

禅僧香厳は、山東省の出身、巨漢。博識であって、師匠の潙(サンズイに為)山(いさん)のしかける問答にはすらすらと答えた。ある日潙山が、「父母から生まれた直後の自分について、一言言ってみなさい。ちゃんと言えたらお前を印可してやろう。」と公案を与えた。

香厳が、何種類も回答したが、潙山はいずれも合格と認めなかったので、ブチ切れて「そんなに言うんだったら、正解を教えて下さい」と頼んだ。

すると潙山が、「他人から教えてもらったのではダメで、自分で見つけたものでないと。」

そこで潙山は僧堂に戻りあらゆる書物を調べてみたが回答となるようなことは書いていなかった。そこで蔵書を全部まとめて燃やそうとすると、同僚が「燃やすんだったら俺に呉れ」と言ってきた。ところが香厳は、「こんな役に立たないものを見て何になる」として、一気に焚書した。

香厳は、今生では仏法を学ぶまい、今後は一介の乞食坊主になって一生を放浪するのだと心に決めて、涙ながらに師匠の潙山に別れを告げ、門を出た。

途中に慧忠国師の遺跡があり、休息がてら掃除をして憂さ晴らしをしていた。するとそこでたまたま投げた瓦礫が竹に当たり、コーンと高い音を出し、思わず笑って、それにより大悟した。

目的と坐法(ポスチャー)はあるが、どうすれば目的たる大悟に至るかは、自分でなんとかするしかない。先人の前例は貴重である。
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寺を持たない枯禅の花亭と夾山和尚

2022-11-22 08:45:33 | 丹田禅(冥想法8)neo
◎身を隠して跡をとどめず、跡のないところに身を隠し

唐代の破仏(仏教弾圧)の時代、花亭和尚は小舟で往来しながら、これぞと思う嗣法の大器を探していた。ある日少々見込みのある夾山(天門)を見かけ、夾山の方から質問が来た。

※まっすぐな釣針で魚を釣るのは、周の太公望の故事。

『「毎日、まっすぐな釣針で魚をつっていられる、先生のねらいは何なのです」

「わしが千丈の絲を垂れている、そのねらいは千丈の水底だ。水面の絲の動きと安定・有無など、そんな釣り道具のような、舌頭三寸のかけひきなしに、君はどうしてわたしに問わぬ」

そこで、天門が問いかけようとすると、花亭はオールで、かれを正面からつきたおす。しかし、天門は逆に進み出て言う。
「先生の言葉は深い道理を含んでいて、言葉の域を超えています。舌先で言ってみたところで、まったく答えになりません(話帯玄而無路、舌頭談而不談)」

「わたしは今まで、まっすぐな釣針で魚を釣って来たが、ようやく今日は、一匹かかりおったぞ(毎日直鈎釣魚、今日釣得一个)」

そこで、告げて言う。
「竿の端から垂れている絲は、あなたのあやつり方次第です、静かに澄んだ水面を乱さぬ、あなたの心はまったく見事です」

花亭が、天門にたずねる。
「学生よ、君はいったい、わたしを捨ててゆく気か」
「はい、わたしは参ります」
「行くことは勝手だが、いったいあの事実を、見とどけたか」
「見とどけました」

「どう見とどけたのだ」
「岸の草を、見とどけました」
花亭は再び、言いふくめて言う。
「君はこれから、くれぐれも身を隠して跡をとどめず、跡のないところに身を隠して、それらの何れにも、とどまってはならぬ(蔵身処没跡、没跡処蔵身、不住両処)、これがわしの教えだ」』
(純禅の時代 [正] 祖堂集 柳田聖山 禅文化研究所p39-40から引用)

夾山(天門)は、既にそれを得たが、ひらけらかしてもいけないし、それにこだわってもならないと戒められた。

今でも自宅の自室で坐るのなら。枯禅の時代である。
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ろうそくの光を消す

2022-11-22 08:42:12 | 丹田禅(冥想法8)neo
◎漆黒の闇と光

『蝋燭を持って歩きながら、私はある子供に、
「この光は、何処から来たか?」と訊ねた。
その子は、即座に蝋燭を吹き消した。
「僕に光が何処ヘ行ってしまったか教えよ。
そうしたら、それが何処から来たかあなたに教えてあげるよ」。
(バスラのハサン)』
(スーフィー 西欧と極東にかくされたイスラームの神秘 イドリース・シャー/著 国書刊行会P289から引用)

これは、まったく禅問答である。無門関第二十八則で、似た話がある。

龍潭和尚が徳山に、「夜も更けたので、帰ったほうがいいだろう。」
徳山は別れの挨拶をして簾を上げて出たものの、あまりに暗いのでわざわざ戻って行って、龍潭に「外は真っ暗です。」と云うと、
龍潭はすぐに蝋燭に火をつけて渡した。

徳山が取ろうとした瞬間に龍潭はふっとその火を消したところ、あたりには漆黒の闇が迫ってきた。

この時徳山は、大悟した。

この再びの漆黒の闇こそ人生の裂け目、隙間である。ろうそくの光はどこへ行ってしまったのだろう。宗派の違いはどこへ行ってしまったのだろう。
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丹田禅

2022-11-22 05:44:38 | Overview of the meditation 冥想の全体像
【第五章】冥想の種類
◎単体冥想の評価と方法
3. 単体冥想のいろいろ
(10)丹田禅

丹田禅は、マントラ禅冥想に加え丹田を作ろうとする冥想手法。いわば生きていること自体が公案になっている禅。
(a)坐法など
数息観、随息観、阿字観、無字観。マントラ念唱の併用も可。
丹田であるスワジスターナ・チャクラを中心とした下腹部に気力(エーテルパワー、アストラルパワー)、生命力、意志力の源泉であるエネルギーを充満させる。
(b)丹田禅のルート
気力(エーテルパワー、アストラルパワー)、生命力、意志力が強化され、健康にもよい。極めれば、見性(見仏、見神と同義)する。
ダンテス・ダイジは、丹田禅は見性(見仏、見神)をピークとするものであって、即身成仏(神人合一、ニルヴァーナ)には届かないという書きぶりである。しかしながら、マントラ禅でも妙好人が大悟覚醒した例もあるように、丹田禅でもニルヴァーナに届き大悟覚醒した例は、禅語録を見ると枚挙に暇がない。
 冥想手法とその結果の不確定性という言葉でまとめるのは簡単だが、情けない自分から解放されたいという人間としての苦悩からの脱却の願いが、全身全霊で丹田禅に打ち込んだ果てに奇跡を呼び込むことがあると見るのだろうと思う。
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