アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

みじめで情けない自分と向き合う

2022-11-26 07:05:29 | 現代冥想の到達点neo
◎恐怖パワーと期待しないで坐ること

自分が人間である限り、自分はみじめで情けないものだ。それは悟った人を除くすべての人に共通している。

落ち着いて自分に向き合ってみれば、ここは冥想するという意味だが、そのまま、あるがままの自分が次第に見えてくる。

自分が、実は元気がなく、愚かで、空虚なことを追い求め、お愛想と外面とは裏腹に、醜い存在であることを感じる。

さらに日々、自分の生活、生存のため、あるいは、自分のメリットのため、自分がちょっと便利になるためにやってきた大小様々な行動や他人への仕打ちを振り返ると、自分が罪深い一方で、不安におののく、ちっぽけでつまらないものであることを感じている。

こういうアプローチは、開運招福、恭喜発財、ラッキー引き寄せなどとは、対角にあるのだが、これが人間の真実である。ネガティブな故にマスコミでは、「本当はネガティブな自分」という題材は、視聴率もとれないし、アクセス数も稼げないので稀にしか取り扱わない。

だが、それを正面から見据え、逃げないことがまともなアプローチである。

その時、自分は何ものにも頼れない、寄る辺のない孤独感を味わう。資産数兆円の大金持ちでも、金メダルのスポーツのヒーローでも、人気絶頂の芸能アイドルでも、アクセス数トップのユーチューバーでも、権力の頂点にある大統領でも国家主席でも首相でも、官僚の事務方トップでも、孤独でみじめで情けないことには変わりない。

この時代は、自分にあった職業で自己実現するという教育、宣伝が行き渡りすぎた悪影響で、人生のポジティブさを尊重しすぎる弊風がある。そのおかげで、「孤独でみじめで情けない」自分に向き合うことはますます恐ろしく、暗いものに感じられるものとなった。

当たり前の人間として生きるとは、「孤独でみじめで情けない」自分を認めつつ生きるということ。それは恐ろしいことである。それはとてもいやなことである。でもそこから逃げずに向き合ってみるのが冥想。

冥想する。ただ坐る。背骨を垂直に伸ばして腰を入れて、脚を組んで坐る。あるいは姿勢は自由で、目を閉じ、目を開け、あるいは半眼で、聞き守りつつ坐る。

時に、私は、こんなにまじめに坐っているのに、頭が混乱して翻弄されるだけで、気分も落ち着きやしないなどと思うかもしれない。

それでも坐るのが健全な自分自身への向き合い方。

誰もが簡単に悟れはしないのだが、覚者は「悟った人は、悟ってない人との差はない」と言い、「悟りは簡単なこと」だとも言う。

さはさりながら、禅でも密教でも古神道でも念仏でも、覚者の修行ぶりで伝えられるものは、冥想フリークのように冥想に打ち込む者が多いというのも事実なのである。

大災害にあって停電でスマホ携帯も繋がらないと自ずと自分に向き合う。孤独と不安と恐怖。でも自分に向き合う訓練は平常時から行わなくてはならないのだと思う。

世の終わりというマスで発生する大量死の時期も、自分が孤独に死んでいく死の時期も死としては自分にとって同じなのだ。

悟っていない身にとっては、どちらもとてつもない恐怖であることに変わりない。自分が自分に向き合うためには、いかに本気で向き合うかがためされる。

その本気には、「本気1.0」「本気2.0」「本気3.0」・・・・・「本気max」がある。

本気に向き合うエネルギーは恐怖から供給されることもあるのを見て「恐怖の恵み」などとも言われる。

「本気1.0」から「本気max」への深化は、只管打坐でもそうだしクンダリーニ・ヨーガでもそうだし、その皮の向け具合を玉ねぎの皮に例えてシュンニャとも言う。

ある程度進んだところで、真正な師匠に出会うことがある(自分が偽りならば、偽りの師を選ぶという法則もある)。

何の期待もせずに坐る。
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孤独な生活と身だしなみ

2022-11-26 07:01:19 | 冥想アヴァンギャルドneo
◎心の社会性と正気

現代社会では、衣食住さえ安く手に入れば、ほとんどリアルな人と接触せずに日々を過ごすことができるほどに文明の利器はそろった。

そんな中で、通勤も通学も結構な量の家事もないとなれば、人は自分を飾ることを放棄するようになる場合がある。

すると、奇妙なことではあるが、その人間の本性とも言うべき潜在意識が表面に出てくる。

具体的には、深い意識に根付いた欲望が驚くほどストレートに現れた状態で、露出する。性欲、支配欲、金銭欲等々。

これを社会規範や法律や道徳やしつけなどで、厳しく自己規制しようとするモチベーションが働くと、更に大きなストレスが高じて、逆に先に挙げたような欲望がより強く呼び起こされて自分をコントロールしづらい状態にまでなることがある。

このような状態は、ひきこもりや出家生活など孤独な生活では出現しがちな状態である。

古来宗教家たちは、この状態のコントロールは心得ていて、オーム、南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経などのマントラを繰り返し念唱させて、すべてがマントラになりきる一念専心やすべてがマントラである世界までもっていくとか、心に浮かんでくるあらゆる想念を相手にしないとか、消えていく姿であると見るとか、激しい身体運動とかで肉体を消耗させて後坐らせるとか、空性の観想とか、様々な手練手管を用意していたものだ。

身だしなみとは社会性のことであって、着るものとか持ち物などファッションだけが社会性ではない。

このおひとり様が三分の一にも達しようとする時代、心の社会性こそ身だしなみである。心の社会性とは、真に厳密な意味で正気であることだが、ちょっとノイローゼ、ちょっと偏執的なのがまともとされるこの時代に、誰が真の正気を見分けられるのだろうか。
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省みる、恥じる、悔いるがない者たち

2022-11-26 06:58:56 | 冥想アヴァンギャルドneo
◎正気に立ち返る

漠然と『終わりの世には、分別を失った人間の皮をかぶった動物のような人間が増える』というような過去の予言を見ることがある。

それはどういう人間かといえば、出口王仁三郎は、破廉恥なことを平気でする人間のことであり、人間に元から備わった覚る、畏る、省みる、恥じる、悔いるの五情のうち、省みる、恥じる、悔いるがない者をいう。

破廉恥なことを平気でする人間とは、一般に世間では反社と言い、通俗表現では恥知らずという。

昔と違って、電車に乗ればぐいぐい背中をスマホ・携帯を持ったひじや手で押されるのが普通となり、誰かとみれば女性だったりするので、そら恐ろしい時代になったと思う。こういうのも破廉恥と言わずや。

だが電車に乗っているくらいの人だから、ある程度の社会性はあるのだろう。

もっとひどいのが、思考がまとまらない、思考が混乱している人で、最近は電車のなかでもぶつぶつ独り言を言うそれと思しき人を見かけるので、そういう人だろうと想像される。

こういう人は、事実上の感覚遮断環境となり、思考が混乱するだけではなく、ある特定の思考を維持することさえできなくなり、白昼夢がたえまなくひき続きおこるということを繰り返しているのだろうと思う。

こういう人たちも『分別を失った人間の皮をかぶった動物のような人間』に、残念ながら分類されるのだろう。

マスコミは日々能天気な明るい雰囲気を伝播しようとしているが、受け手の方では、そのマスコミのおかげか、各個人の自己責任のなれの果てか、相当数の『分別を失った人間の皮をかぶった動物のような人間』が拡大再生産されている。

正気に立ち返るということ、何が正気なのかを悟るということが社会全体の大きなテーマになっている時代となった。
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あがきすぎる、何も手を打たない、完全にあるがままにある

2022-11-26 06:50:18 | 密教neo
◎自分自身を成長させる意志

ソギャム・リンポチェの問答から。
『Q
非常な混乱を感じ、その混乱から脱け出そうとすることはあがきすぎのように思われます。しかし、何も手を打とうとしないことは自分を騙しているだけだといつかは気づくのではないでしょうか?

A
そうだ。しかしあがきすぎるか何も手を打たないかの、両極端の生き方しかないわけではない。

完全に〈あるがままにある〉という〈中道〉的な生き方を見いだすべきだ。これを説明する言葉にはこと欠かないが、実際に自分でやるほかはない。本当に中道を生きはじめたとき、あなたはそれを理解し見いだすだろう。

自分自身を信頼し、自分の知性を信頼することを自分に許さなければならない。私たちは本来豊かな人間であり、豊かなものを内にもっている。ただ自分がありのままの自分であることを許すべきだ。

外的な救いは役に立たない。自分自身を成長させる意志がなければ、混乱して自己破壊のプロセスに陥るだけだ。それは外部からの破壊ではなく自己破壊であり、だからこそ効力があるのだ。』
(タントラへの道/チョギャム・トゥルンパ・リンポチェ/メルクマール社P35から引用)

さすがにリンポチェだけあって、本当にわかっている人物であることがわかる。混乱を感じることは誰にでもできるが、その混乱から抜け出すことは誰にでもできるというわけにはいかない。「自分自身を成長させる意志」というある種の生きる熱源、パワーを必要とする。それなくしてあがくだけであれば、スピードや程度の違いはあれ、自己破壊が進行していくだけである。

ところが「自分自身を成長させる意志」とは、実は生得的、先天的なものであって、いわば自分ではどうにもならないところのものであるように思う。

この質問者が、その意志をどの程度有していたのかはわからないが、そのことに言及すべき質問者だったのだろう。
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臨死体験と感受性

2022-11-26 06:42:38 | 究極というものの可能性neo
◎6%の人は何が起こったかを感じ取る

現代科学では、脳の機能が停止すれば、記憶も失われるとする。以下の文では、人が臨死に至るまでについては記憶がないが、脳機能が停止し臨死になってからの記憶があるのは奇妙だとする。

これぞ、『起こるには起こったが、「何が起きたかを知る」のと単に「起こった」のは別である』ということである。

敬虔なキリスト教の信者が日夜イエスの再臨を願っている。ある日その信者が眠り込んでいる時に、イエスがそのベッドのわきに再臨したが、彼は気がつかなかった。そういうことはあるだろう。キリストの再臨は起きたが、何が起こったかを知られることはなかった。でもって世界中でこんな絶好のチャンスを見逃すのは毎晩起きているに違いない。

こんなチャンスをふいにするのは、感受性の差が原因である。

人間はそのままほうっておけば、見えるものしか見ることができない。また見えるものしか見ようとしない。形に現れたものしか見ようとしない。形にあらわれたものだけが見える。自然、環境、風土、財産、名誉、地位、権力、それらは形だが、その形は万人に見える。しかしその形の背後に神を感得するかどうかが感受性の差である。


感受性の開発とは、霊感を開発しようということでなく、弱いもの弱い立場のものに対する思いやりをもっと持つこと。一般に世間の目は厳しいものだが、「世間の目」そのものを慈愛に満ちたものに変えて、やさしいものに変えていかねばならない。よりやさしい「世間の目」となることが、新時代のきっかけにあると思う。

そうした感受性の開発に役に立つのが冥想である。


『通常、重症患者は急性の錯乱状態に陥っていて、思考は混乱しており、その間の記憶は失われる。
これは、なんら不思議なことではない。脳の機能を支える栄養やホルモンなどの重要な物質のデリケートな均衡が破綻しているときに、脳が正しく機能できるわけがないからだ。

われわれの研究でも、心停止状態に陥った患者の大部分が当時の記憶を完全に喪失していた。しかし、六パーセントから一〇パーセントの患者は意識があり、秩序立った思考が可能であったと主張している。つまり、臨死体験である。

彼らは、心停止状態に陥る前後の記憶は失っていたが、臨死体験については非常によく覚えていた。信頼できる筋からも、心停止状態で蘇生術を受けていたときの出来事を詳細に記憶している患者がいたという証言が得られた。

心停止時に思考ができるなら、脳の電気的活動が外部から測定できないレベルにまで落ち込んでいるときにも意識があることになる。こんなことがあるのだろうか?

心停止時に思考ができるなら、脳の電気的活動が外部から測定できないレベルにまで落ち込んでいるときにも意識があることになる。こんなことがあるのだろうか?

また、心停止時の記憶があるというのも不思議である。頭部外傷や酸素濃度の極端な低下などにより脳が重大な損傷を受けたときには、その前後の記憶が失われるのが普通である。実際、記憶が失われる期間の長さが、脳損傷の程度の指標になるほどなのである。

事故後の臨死体験について私に手紙をくれた男性も、「・・・・私自身は、病院にいたときの自分の容態や周囲の出来事について、まったく記憶がないのです・・・・・私が覚えているのは、ある経験だけです。私はそれを鮮明に記憶していますが、言葉にするのはとても難しいのです・・・・・・」と書いていた。彼らが死に瀕していたときの記憶がほとんどなく、臨死体験のことだけ鮮明に覚えているというのは奇妙である。』
(科学は臨死体験をどこまで説明できるか/サム・バーニア/三交社P128-129から引用)
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混乱している状態でも坐る

2022-11-26 06:35:27 | Overview of the meditation 冥想の全体像
◎【第七章】冥想に取り組む姿
2.混乱している状態でも坐る

これは、例えば仕事から帰宅した直後の状態であって、頭の中は公私いろいろ考えて混乱しているが、肉体的には坐れる状態にある時のこと。あるいは、朝眠りから醒めて、頭の中は夢か現(うつ)つかと混乱しているが、肉体的には坐れる状態にある時のこと。

初心のうちは、冥想する気分にならないと、あるいは気分が乗らないと快い冥想にならないからなどと思い、冥想するタイミングを遅らせたり求めたりするのだが、現代人は意外に余暇の時間が少ないから、いわば気分的には無理やりに坐らねば冥想時間捻出ができないのも現実。換言すれば、睡眠時間を削ってでも坐らねば冥想はしにくいという面もある。

冥想習慣のある人なら、夜冥想した後は、自分の波長・雰囲気が変わっていることを知っているだろう。
また、起き抜けの冥想は半ばトランスから始まるので深いことも知っているだろう。

混乱していて、冥想する気分にならなくても冥想するというのは、大切である。
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