◎恐怖パワーと期待しないで坐ること
自分が人間である限り、自分はみじめで情けないものだ。それは悟った人を除くすべての人に共通している。
落ち着いて自分に向き合ってみれば、ここは冥想するという意味だが、そのまま、あるがままの自分が次第に見えてくる。
自分が、実は元気がなく、愚かで、空虚なことを追い求め、お愛想と外面とは裏腹に、醜い存在であることを感じる。
さらに日々、自分の生活、生存のため、あるいは、自分のメリットのため、自分がちょっと便利になるためにやってきた大小様々な行動や他人への仕打ちを振り返ると、自分が罪深い一方で、不安におののく、ちっぽけでつまらないものであることを感じている。
こういうアプローチは、開運招福、恭喜発財、ラッキー引き寄せなどとは、対角にあるのだが、これが人間の真実である。ネガティブな故にマスコミでは、「本当はネガティブな自分」という題材は、視聴率もとれないし、アクセス数も稼げないので稀にしか取り扱わない。
だが、それを正面から見据え、逃げないことがまともなアプローチである。
その時、自分は何ものにも頼れない、寄る辺のない孤独感を味わう。資産数兆円の大金持ちでも、金メダルのスポーツのヒーローでも、人気絶頂の芸能アイドルでも、アクセス数トップのユーチューバーでも、権力の頂点にある大統領でも国家主席でも首相でも、官僚の事務方トップでも、孤独でみじめで情けないことには変わりない。
この時代は、自分にあった職業で自己実現するという教育、宣伝が行き渡りすぎた悪影響で、人生のポジティブさを尊重しすぎる弊風がある。そのおかげで、「孤独でみじめで情けない」自分に向き合うことはますます恐ろしく、暗いものに感じられるものとなった。
当たり前の人間として生きるとは、「孤独でみじめで情けない」自分を認めつつ生きるということ。それは恐ろしいことである。それはとてもいやなことである。でもそこから逃げずに向き合ってみるのが冥想。
冥想する。ただ坐る。背骨を垂直に伸ばして腰を入れて、脚を組んで坐る。あるいは姿勢は自由で、目を閉じ、目を開け、あるいは半眼で、聞き守りつつ坐る。
時に、私は、こんなにまじめに坐っているのに、頭が混乱して翻弄されるだけで、気分も落ち着きやしないなどと思うかもしれない。
それでも坐るのが健全な自分自身への向き合い方。
誰もが簡単に悟れはしないのだが、覚者は「悟った人は、悟ってない人との差はない」と言い、「悟りは簡単なこと」だとも言う。
さはさりながら、禅でも密教でも古神道でも念仏でも、覚者の修行ぶりで伝えられるものは、冥想フリークのように冥想に打ち込む者が多いというのも事実なのである。
大災害にあって停電でスマホ携帯も繋がらないと自ずと自分に向き合う。孤独と不安と恐怖。でも自分に向き合う訓練は平常時から行わなくてはならないのだと思う。
世の終わりというマスで発生する大量死の時期も、自分が孤独に死んでいく死の時期も死としては自分にとって同じなのだ。
悟っていない身にとっては、どちらもとてつもない恐怖であることに変わりない。自分が自分に向き合うためには、いかに本気で向き合うかがためされる。
その本気には、「本気1.0」「本気2.0」「本気3.0」・・・・・「本気max」がある。
本気に向き合うエネルギーは恐怖から供給されることもあるのを見て「恐怖の恵み」などとも言われる。
「本気1.0」から「本気max」への深化は、只管打坐でもそうだしクンダリーニ・ヨーガでもそうだし、その皮の向け具合を玉ねぎの皮に例えてシュンニャとも言う。
ある程度進んだところで、真正な師匠に出会うことがある(自分が偽りならば、偽りの師を選ぶという法則もある)。
何の期待もせずに坐る。
自分が人間である限り、自分はみじめで情けないものだ。それは悟った人を除くすべての人に共通している。
落ち着いて自分に向き合ってみれば、ここは冥想するという意味だが、そのまま、あるがままの自分が次第に見えてくる。
自分が、実は元気がなく、愚かで、空虚なことを追い求め、お愛想と外面とは裏腹に、醜い存在であることを感じる。
さらに日々、自分の生活、生存のため、あるいは、自分のメリットのため、自分がちょっと便利になるためにやってきた大小様々な行動や他人への仕打ちを振り返ると、自分が罪深い一方で、不安におののく、ちっぽけでつまらないものであることを感じている。
こういうアプローチは、開運招福、恭喜発財、ラッキー引き寄せなどとは、対角にあるのだが、これが人間の真実である。ネガティブな故にマスコミでは、「本当はネガティブな自分」という題材は、視聴率もとれないし、アクセス数も稼げないので稀にしか取り扱わない。
だが、それを正面から見据え、逃げないことがまともなアプローチである。
その時、自分は何ものにも頼れない、寄る辺のない孤独感を味わう。資産数兆円の大金持ちでも、金メダルのスポーツのヒーローでも、人気絶頂の芸能アイドルでも、アクセス数トップのユーチューバーでも、権力の頂点にある大統領でも国家主席でも首相でも、官僚の事務方トップでも、孤独でみじめで情けないことには変わりない。
この時代は、自分にあった職業で自己実現するという教育、宣伝が行き渡りすぎた悪影響で、人生のポジティブさを尊重しすぎる弊風がある。そのおかげで、「孤独でみじめで情けない」自分に向き合うことはますます恐ろしく、暗いものに感じられるものとなった。
当たり前の人間として生きるとは、「孤独でみじめで情けない」自分を認めつつ生きるということ。それは恐ろしいことである。それはとてもいやなことである。でもそこから逃げずに向き合ってみるのが冥想。
冥想する。ただ坐る。背骨を垂直に伸ばして腰を入れて、脚を組んで坐る。あるいは姿勢は自由で、目を閉じ、目を開け、あるいは半眼で、聞き守りつつ坐る。
時に、私は、こんなにまじめに坐っているのに、頭が混乱して翻弄されるだけで、気分も落ち着きやしないなどと思うかもしれない。
それでも坐るのが健全な自分自身への向き合い方。
誰もが簡単に悟れはしないのだが、覚者は「悟った人は、悟ってない人との差はない」と言い、「悟りは簡単なこと」だとも言う。
さはさりながら、禅でも密教でも古神道でも念仏でも、覚者の修行ぶりで伝えられるものは、冥想フリークのように冥想に打ち込む者が多いというのも事実なのである。
大災害にあって停電でスマホ携帯も繋がらないと自ずと自分に向き合う。孤独と不安と恐怖。でも自分に向き合う訓練は平常時から行わなくてはならないのだと思う。
世の終わりというマスで発生する大量死の時期も、自分が孤独に死んでいく死の時期も死としては自分にとって同じなのだ。
悟っていない身にとっては、どちらもとてつもない恐怖であることに変わりない。自分が自分に向き合うためには、いかに本気で向き合うかがためされる。
その本気には、「本気1.0」「本気2.0」「本気3.0」・・・・・「本気max」がある。
本気に向き合うエネルギーは恐怖から供給されることもあるのを見て「恐怖の恵み」などとも言われる。
「本気1.0」から「本気max」への深化は、只管打坐でもそうだしクンダリーニ・ヨーガでもそうだし、その皮の向け具合を玉ねぎの皮に例えてシュンニャとも言う。
ある程度進んだところで、真正な師匠に出会うことがある(自分が偽りならば、偽りの師を選ぶという法則もある)。
何の期待もせずに坐る。