アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

霊能、霊感と菩薩の位置

2022-11-03 10:11:14 | 夢と真実neo

◎見性・見神の希薄化

 

見性、見神とは、本来の自己たるアートマンを目撃すること。

死の世界に入って、どこでそれを目撃しているかを確認するために、手近な霊界探訪譚をひもといてみよう。すると地獄の真っ暗闇な場所を除けば、あの世では、ほとんどどこにいても霊界太陽(中心太陽)が目撃できることを知ることになる。

 

すなわち死の世界に入りさえすれば、まず本来の自己を目撃できるということになるということ。こういうことが起きる原因は、微細なボディにおいては感覚が鋭敏になるせいだと簡単に片づけることもできるが、事態はやや複雑である。

 

というのは、このことは、死の世界に入った瞬間に、見性・見神・見仏が発生するということを意味するからである。つまり死の世界に入ったことのある者、たとえば臨死体験者やアストラル・トリップする人は、ほぼ一律に菩薩と位置づけられるのではないかということなのである。

 

換言すれば、クンダリーニ・ヨーガの修行プロセスにおいて、一旦死の世界に入ったことのある者は、その後は菩薩としての修行を歩むことになるとも言える。

 

さて一口で死の世界、あの世といっても、エーテル体宇宙、アストラル体宇宙、メンタル体宇宙などいろいろな次元がある。最も一般的なアストラル体宇宙の死の世界に入る場合であってすら、この世からあの世に至る中途の道程をきちんと知覚できる人は稀で、大方ははしょって三途の川と認識することが多い。

 

このように、その世界に入ることと、そのことをきちんと評価できるというのはまた別物なのだろうと思う。そしてまたその違いは想像以上に大きなものであるように思う。つまり一括りに菩薩になったといっても、そのにわか菩薩のレベルは実はピンからキリまであり、程度のばらつきがすこぶる大きなものではないかと思われるのである。

 

要するにアストラル世界を水平に動き回ることは容易かも知れないが、その本質を見極めて、その上位たるメンタル体世界からコーザル体世界、アートマンと垂直上昇することこそが、この「きちんと評価する」ということだろうと思う。それほどに「きちんと評価する」ということは、簡単ではなく重いこと。

 

その意味からすれば、巷間にはびこるアストラル霊界のみ知る霊能力者の霊言などとるに足らないものと位置づけられるように思う。

 

仏教では、菩薩は52の位階に分類される。最上位が妙覚で、第2位が等覚、空海は長安にいた頃第10位の発光だったことが知られている。菩薩のようにとりあえず悟ったことのある者に対して、一体誰が何のために52ものランクを付けたのか、かねてより疑問に思っていたが、上に述べたような消息であれば、その理由が推し量れるように思った。

 

つまりクンダリーニ・ヨーガ修行の途上で、死の世界にあっては、見神、見性の意味合いは相対的に希薄化するためではないかとうこと。

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雪巌祖欽のアートマン

2022-11-03 10:08:21 | 【アートマン】【ザ・ジャンプ・アウト-10】neo

◎坐禅のバリエーション

 

坐り方をいろいろと験してみると言っても、実際にどのようにしたのか、実例を挙げてもらわないとイメージは湧かないものだ。まして投げた小石が竹に当たってカーンという音を聞いて悟ったとか、婆さんにしたたかにほうきで殴られて悟ったなどと言っても、それまでにどのようにしてそうなったのか知らないと、「真理は日常生活に潜む」などという誤解をしがちなものである。

 

「真理は日常生活に潜む」などと聞けば、何も冥想訓練のない只の人が、道を歩いて犬にぶつかったら悟りが開けた、というようなことを想像することもあるのではないだろうか。

 

中国の雪巌祖欽禅師は、禅関策進という書物の中で、自分の修行の流れを次のように語っている。

 

1.16歳の時に僧となり、18歳の時に双林寺で、朝から晩まで禅堂の前庭から外に出ることはなかった。トイレや洗面にたつときも三尺以上先は見ないで、脇見をしなかった。

この時は無字の公案に取り組み、たちまちいろいろな雑念が起こったが、その起こるところを反省してみると、冷たい水のように直ちに心がさっぱり澄みきって静かになり、ちっとも動揺せず、一日が指をはじくほどの短い時間に感じられ、この間鐘や太鼓の音も一切聞こえなかった。

 

2.19歳になって処州の来書記に、「あなたの坐禅工夫は死んでいる。坐禅する時は必ず疑いを起こすべきだ」とアドバイスされ、こんどは「乾屎けつ」の公案に取り組んだ。その公案は次のようなもの。

 

「雲門和尚はある僧から「仏とはどういうものですか」と尋ねられ、「乾いたクソのかたまり」と答えた。」

 

東に疑い、西に疑い、縦横に公案を研究してみたが、昏沈と散乱に交互に攻められて、しばしも胸中の浄らかさを得ることができなかった。

 

3.こんどは浄慈寺に移り、7人の仲間の雲水と組んで修行した。そこでは寝具をしまい込んで、脇を床につけて横臥しないで、ひたすら座布団の上で鉄の棒くいのように坐っていた。

 

2年間も身体を横にして寝なかったので、のびてしまって目がくらみ、気力もなくなった。そこでこの苦行を一気にやめてしまった。

 

4.2か月たって身体が回復して、生気を帯びてきたので、必ず夜中にぐっすり眠ることによって生気が回復することを知った。

 

5.仲間の修上座から、「座布団を高くして、背骨を真っ直ぐに立てて、全身をそのまま公案と一丸にしていけば、昏沈と散乱は問題にならない」と示唆され、これを支えに坐禅したところ、覚えず心身ともに忘れるまでになり、清々として爽快なること3昼夜、両眼のまぶたが合わないでさめていた。

 

三日目の午後、寺の門の下を心は坐ったままの境地で歩いていた。すると修上座に「ここで何をしているのですか。」と問われ、「道を弁じています。」と答えたものの、「一体何を道と言うのか」と問われ、答えることができず、ますます昏迷した。

 

そこで坐禅しようと思って堂に帰ると、首座に逢って「お前はただ大きく眼を開けて、これは何の道理かと、しっかり見極めていくことだ」といわれ、座布団に坐ったとたん、眼の前がからりと開いて大地が落ち込むかのように感じた。この時はその心境を人に言って聞かせられるものではなかった。それはこの世のあらゆる相貌でたとえられるものではなかった。

 

※“眼の前がからりと開いて大地が落ち込むかのように”は、落下ですね。

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原田雪渓の身心脱落の説明

2022-11-03 10:03:40 | 只管打坐neo

◎自分とものとがひとつになっている状態を自分で知る

 

道元の正法眼蔵でも身心脱落についてすっきり説明しているところはない。そこで曹洞宗の原田雪渓禅師の身心脱落の説明。

 

『ですから、眼耳鼻舌身意の六つの働きを、本当に働きのままにまかせておくことのできる状態というのが、いちばん人として安心であり、平和の状態であります。

 

坐禅のひとつの方法に「ひたすらに坐る」、すなわち「只管打坐」という方法があります。只管打坐という坐禅は、いまご説明いたしましたように、六根―――眼耳鼻舌身意の働きを、自分の考えをまじえずに、まったくその働きのままにまかしている。見るもの、聞くもの、考えること、それを一切相手にせず、邪魔にせずして、凛として坐る。

 

それを只管打坐の坐禅といいます。

 

そういう六根のままにまかして、それを続けることによって、自分とものとがひとつになっている状態を自分で知ることができます。それを「身心脱落」と呼んでおります。』

(THE・禅/原田雪渓/柏樹社P69-70から引用)

 

普勧坐禅儀で、只管打坐の坐法はわかるが、身心脱落のイメージは初心者、門外漢には形成しにくいものだ。只管打坐はイメージ実現の観想法ではないが、ある程度はわかるように教えてもらわないとね。

 

ネットで道元の映画がyoutubeで置いてあったが、それに身心脱落シーンがあって、空中に昇っていくのだが、それで只管打坐をイメージするのでは大いに誤ろうというものだ。

こういう文章はありがたい。

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悟っていないことを自覚した現代人

2022-11-03 06:27:54 | 究極というものの可能性neo

◎時間について意識する

 

人間は、時間について意識的になった。誰もがスマホや腕時計を持ち、テレビの時刻表示やPCの時刻に目をやり時刻を気にする。

 

古代人はここまで時間を気にすることがなかった。要するに物質文明が発達すればするほど、時間を意識するようになる。

 

時間を意識し、効率的に時間を使うことで、古代なら何日もかかったようなことを、場合によっては、数分あるいは一瞬のうちに完了することができる。

 

ところが、実はその一瞬で、人は何千年、何万年を旅行することすらできる(パノラマ現象)。

 

この偉大な旅ができるのだけれどもやっていない。何回もの人生を飛び越して一気に終着点まで行けるのだが、行けていない、行っていないという悔恨。

 

このことを言葉にすれば、人は「自分は悟っている可能性を有するが悟っていないことに気づいている」ということになる。

 

本当にその可能性に気づいていれば、悟る方法や悟らせてくれる学校や師匠をググッたりする。坐禅やマインドフルネス瞑想で悟れると聞けば、やってみたりするが悟れない。

 

何をしても何も起こらずそのゴールにはたどり着けない。この葛藤と絶望で、自殺や精神病が起こる。一休も自殺未遂2回。

 

そこでさらにオープンマインドにし、起きていることに気づいているようにすると、アレが起こることがある。

 

酔わずに醒めているとは、意識的であるということ。無力感と無意味感と絶望と葛藤にあっても、ある行法・技法に沿って坐る。

 

ついこの間まで、人は悟っていないことを自覚していなかった。ところが、文明の発展でライフスタイルが変わり、時間への意識向上という意識拡大により、悟っていないことを自覚した現代人は、いまや覚醒に向かうしかないのだ。

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ハルワ-精神的隠棲

2022-11-03 06:25:00 | 究極というものの可能性neo

◎息を吐き切って世界を止める

 

シャイフ・アルアラウィーは、アルジェリアのスーフィの聖人。

 

『神を「想起する」ために、隔離された小部屋へ引きこもることは、多くの教団によって、スーフィー修行の中で最も主要なことだと見なされている。それは恒久的な内なる隠棲の状態に到達するための助けである。

 

山中の洞窟にこもった予言者ムハンマドの伝統にしたがい、教団によってはなお自然の中で孤独に引きこもることを奨励しているし、ハルワを行なうための特別な小部屋をもっている教団もある。シャイフ・アルアラウィーは、ハルワについて次のように述べている。

 

私は入門者を四〇日間、小部屋へ入れて、決してそこを離れないと誓わせる。この小部屋の中で、彼は昼も夜も、神名(アッラー)を一語一語、息が切れるまで「アー」という言葉をのばして唱える。

その前に入門者は、シャハーダ(ラー・イラーハ・イッラッ・ラーフ)を七五〇〇〇回唱えなければならない。

ハルワのあいだ、入門者は昼間は厳しい断食を行なわなければならない。断食を破るのは日没から夜明けまでだけである。スーフィーのうちある者は数分後に突然の照明を受けるし、ある者は数日後に、ある者は数週間後に照明を受ける。』

(スーフィー イスラムの神秘階梯/ラレ・バフティヤル/平凡社P112から引用)

 

まず75千回のマントラを唱えた後に、呼気を伴う発声を、照明(神の一瞥のことでしょう。神を見る)するまで繰り返す。

照明の到来のタイミングはその人による。同じメソッドを用いたから同じ結果が同じタイミングで出ないどころか、照明しない人もいる。これぞ冥想が科学になりえない原則である。息を吐き切って世界を止められるか。

 

これはたんなるマントラ・ヨーガでなく、呼気に比重をかけたところに特徴がある。これは苛酷な修行であるが、北アフリカ・中東の人々に最適と考えた指導者がいたのだろう。かといって、ヴィパッサナーのように呼吸を見つめるようなことはしない。

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窮極という名の第二の世界観

2022-11-03 06:21:10 | 現代冥想の到達点neo

◎二つの世界観

 

宗教教育は重要だが、日本の戦後教育のように窮極にほとんどアプローチしないものであると、青少年が漂流することになった。

 

そこに様々なカルトが付け入ることになり、実際に人生を棒に振ることになった青少年が無数に発生したし、今も増え続けているのだろう。

 

父なる神を知らない神父、牧師、仏を知らない僧、住職、神をしらない禰宜。こうした人は当たり前のように存在している。あるいは「私は悟った」という言葉を宣伝文句に、金儲けする人もいる。

 

だが、そうしたあらゆるバイアスを取り去って、なぜ自分が昔の聖人の言行録や、最近の覚者の記録を読んでもすっと頭に入って来ないかを考えると一つの事実にぶち当たる。

 

勿論聖人、覚者にも二種類あって、神仏を見たことがあるだけの聖人、覚者と、神人合一した聖人、覚者だが、ここでは、神人合一した聖人、覚者の方のことを言っている。

 

彼らは、二重の世界観を生きているのだ。それは夙に知られてはいたのだが、我々未悟者からみれば、相反する全く異なる世界観を生きているということ。その第一の世界観とは、肉体こそが自分であり肉体こそが科学の基礎であり、利己主義は当然に社会の安定を犯さないことを前提に許容されるというようなもの。

 

第二の世界観とは、人は宇宙全体であり、なにもかもなしである一方で、人は自分であり他人そのものであるという現実。そこでは透徹した孤独がある。世界全体である自分しかいないとなれば“孤独”である。時間はなく、今ここだけが、過去と展開し未来と展開し、天機天意のままに未来を変容させることもでき、過去すらも変えることができる。

 

聖人、覚者たちは、時にこの二重の世界観を時にわかりやすく、時にストレートに説くのだが、ストレートに説かれた部分は、無辜の青少年にはせいぜい三分の一程度しか理解されないままとなるものだ。

 

第一の世界観は学校でも習うし、社会でも学ぶものだから改めてどうこうすることはない。第二の世界観は非科学的であり、ぶっ飛んでいるし、とてもそんな世界観で生活していけるとも思われない。だが、第二の世界観だけが、愛、智慧、美、真理などあらゆる人間の肯定的属性が流れ出る源流である。

 

時代がここまで切羽詰まると、第二の世界観を新たな真人間のあるべき世界観の一つとして、知的に学ぶことを始めるしかないのではないか。

 

本来第二の世界観は、体験すべきものとして登場して来てはいたのだが、知る人すら少ない現状では、まず知ってもらい、次に冥想修行してもらい、最後に体験とは言えない体験をしてもらうという手番に入るしかないのではないか。

 

第一の世界観と第二の世界観の接点、それが人間であり、完成形のポジションを天の浮橋とも呼ぶのだろう。天国と地獄の結婚、天の眞名井での誓約(うけひ)とも呼ぶ。

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ケン・ウィルバーの境界崩壊プロセス

2022-11-03 06:15:03 | 現代冥想の到達点neo

◎「今」以外の時はない

 

彼は、自己と全体(神)との境目が消えて行くプロセスをポロっと書いている。

 

最初自分には行動の自由、選択の自由があると言って、全体(神)の前で立ち去ることを繰り返す。これは悟れてない状態だが、それは本人がその状態を求めているからである。

 

だが、ある日自分のその行動が逃げ回ることであると見抜く。その時自分に残された選択肢は、自分を全体(神)に明け渡すだけになる。

 

しかしながら、あえてそうすることもできないし、あえてそうしないこともできない。なぜならどちらも逃げ回る行為の一種だから。

 

その何もできない状態を自覚した時、その万事休した時、逃げ回るという全体(神)への抵抗が見え自覚されることを突破口に、抵抗が消え去り始める。

 

すると独立した個の感じが段々消えて行く。独立した個の感じも逃げる感じも同一のものであることがわかってくる。

こうして個という感覚が全体(神)への抵抗感に凝縮され、やがて両者が解消する。

 

つぎに個なる自己と世界全体との分離は解消され、原初の境界は完全に崩壊する。

ここに世界全体と個なる自己は二つの体験ではなく、単一の体験となる。

 

ここで、人は体験から立ち去らなくなるので、体験は通り過ぎて行くものとは思えなくなる。この段階で現在しか存在しないと認識され、始めであり、終わりであり、アルファでありオメガであると実感する。

 

以上が、ケン・ウィルバーの説明だが、実際に体験した者であって仔細に観察した者でなければ分からない部分が書かれている。

 

※往々にして、こうした部分は一読して理解できないものだから、読み飛ばされることがある。

 

以下は、原文。

『原初の抵抗が消え去りはじめると、それとともに分離した自己も消え去っていく。自分が立ち去るのを、離れたところで自分が見ているわけではないからだ。

 

つぎのようにもいえよう。分離した自己としての自分は、抵抗を自分の活動の一つと見る。ところが、自分の行っていることがすべて抵抗であることがわかってくると、「内側の」分離した自己の感覚も、一つの抵抗にすぎないことがわかってくる。

 

自分自身を感じるときに感じられるのは、ちょっとした内的緊張、巧みに立ち去る微細な収縮だけである。自己の感覚と立ち去る感覚は一つの同じものである。

 

これが明らかになってくると、もはや二つの別々の感覚はなくなってくる。体験者が体験をするわけではなく、ただ一つあらゆるところにいきわたる抵抗感しか存在しなくなる。

 

自分がこの抵抗を感じるわけではない。自分がその抵抗感なのだ。自己の感覚が抵抗感に凝縮され、両者が解消されるのである。』

(無境界/ケン・ウィルバー/平河出版社P268-269から引用)

 

かくして、ケン・ウィルバーは、『「いま」以外の時は、かつて存在したこともなければ、これから存在することもない。』(無境界/ケン・ウィルバー/平河出版社P270から引用)と言う。

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境界はない

2022-11-03 06:12:41 | 現代冥想の到達点neo

◎原初の境界は幻想だが根絶はできない

 

七つの身体論で、第一身体肉体から第五身体コーザル体までと、第六身体アートマンと第七身体ニルヴァーナの間には境界があり、不連続である。不連続という意味は、第一身体から第五身体までは、個人だが、第六身体・第七身体は全体だから不連続であるということ。

 

だが、まともな覚者は、そのような境界はないと、口を揃える。ケン・ウィルバーの「無境界」という本はその境界そのものを論じた本であり、その意味で稀有である。

 

ケン・ウィルバーは、この境界を「原初の境界」とも呼び、「この境界を破壊しようと動くのが、統一意識(大悟覚醒、全体)への近道だ」と思うかもしれないが、それは誤りだという。

 

なぜなら原初の境界はそもそも存在しないからである。

なぜなら原初の境界を破壊しようという動きは、幻想としての境界を強化することにつながるからである。

なぜなら、そもそも存在しないものを破壊することなどできないからである。

 

更にケン・ウィルバーは、「幻想を根絶することはできない。幻想を理解し、看破することしかできない。」とまで、親切に言ってくれている。その上、ヨーガ、精神集中、祈り、儀式、復唱、断食などは、幻想を本物ととらえ、幻想そのものを強化し永続させるから無意味だと言っている。

(参照:無境界P84-86)

 

この見解は、冥想不要論のクリシュナムルティと同様だが、ケン・ウィルバーは、行法も検討してないわけでもなく、結跏趺坐での只管打坐一本というわけでもない。

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肉体が死んでもほとんどの人は悟らない

2022-11-03 03:32:35 | Overview of the meditation 冥想の全体像

◎【第二章】神仏と冥想の関係

6.肉体が死んでもほとんどの人は悟らない。悟りは起きているが何が起きたのかはわからない人が大半。

 

人間が悟りを開くには、生前冥想修行に打ち込んで臨終以前に大悟覚醒できるタイミングと、臨終時に大悟覚醒の2種類に分かれる。特に生前冥想修行に打ち込んで来た人間であっても、臨終時の覚醒になってしまうケースもある。

 

この点でチベット密教では、在家者の臨終時に、死にゆく者の耳元で、導師が死の進行状態を見ながら、眠り込むなとか、逐一アドバイスを送って、「意識清明なままで」死のプロセスに取り組むことで、最低でも見仏させ、あわよくばニルヴァーナに至らしめ輪廻転生から解脱させようとするもの。

 

この根本テキストであるチベット死者の書の著者はパドマサンバヴァであり、人類の進化に大きなサポートを与えてくれた。

 

チベット死者の書によれば、肉体死の進行プロセスの中で、最初に原初の光を見る。この原初の光は、アートマンにして本来の自己にして仏なのだが、見たことを自覚できない人もいれば、数秒覚知する人や数時間覚知できる人もいるという。だがいずれにしても時間がたつと、原初の光は見えなくなる。

 

これを踏まえれば、成仏とは数秒以上原初の光を認識できた人ということになろう。しかしながらチベット密教では、原初の光を見ただけでは大悟覚醒とせず、生前に原初の光(母の光明)と同等の子の光明を開発せしめ、母の光明と子の光明を合体させて大悟覚醒としている。

 

だが、死にゆく人の大半が原初の光を認識しないことを踏まえれば、肉体死は悟りではなく、自我の死が悟りであるという、おおまかな仮説も許されると思われる。例外的に、肉体死に際して悟る人がいるにしても。

 

また原初の光を悟りと見れば、「悟りは起きているが何が起きたのかはわからない人が大半。」という消息は、以上のとおりとなる。

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