アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

白隠-5

2022-11-01 06:22:43 | エクスタシス 夢の夢なるneo

◎覚醒して世界が変わる-5

○白隠-5

 

白隠年譜によれば、白隠の最後の悟りは、42歳のそれである。その夜白隠は、一晩中法華経を読んでいた。

 

『師、四十二歳。秋七月・・・・・。一夜読んで譬喩品に到り、乍ち蛬の古砌に鳴いて声声相い連なるを聞き、豁然として法華の深理に契当す。初心に起す所の疑惑釈然として消融し、従前多少の悟解了知の大いに錯って会することを覚得す。経王の王たる所以、目前に璨乎たり。覚えず声を放って号泣す。初めて正受老人平生の受用を徹見し、及び大覚世尊の舌根両茎の筋を欠くことを了知す。此れより大自在を得たり』

 

白隠はこの夜、法華経をきっかけにして、これまでの認識が根本的に誤っていたことを悟り、大自在を得たという。法華経は釈迦の死後何百年も経って作られた経典だなどということは関係ない。とにかく法華経が経典の王様である所以を了知し、声を放って号泣した。

 

これが発生した雰囲気はそれまでの彼の悟りの雰囲気とは違うものがある。黙照枯坐というか只管打坐が起きたのではないかと感じられるのである。ただ身心脱落したのではなく、大自在を得たという表現を白隠がしたので、彼の高弟がこれを聞き記したのだろう。

 

禅修行もモデル・ケースというものを考えると、行住坐臥と様々な禅的冥想の試行錯誤の最後に万事休して只管打坐がおこる。そして身心脱落して、生の窮めた頂から死をも眺めるということなのだろう。

 

しかし、白隠は、純粋な只管打坐ルートでは想定されていない超能力(軟酥による観想法ヒーリング)を用いたりして、このモデルを踏み外している。超能力ということでいえば、本来は身心脱落して後、六神通が備わるという順序なのだろうが、こうしたことは、その人によって違うということなのだろう。

 

厳しく見れば、白隠は自分で身心脱落したなどとは言っていない。それは道元も同じ。身心脱落したかどうかを感じ取ることのできるのは、覚醒した者だけである。

しかし、大自在も余人には理解しがたいポイントだが、大自在を語る以前から白隠の世界が変わったことは、心ある人にはわかるのではないか。

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白隠-4

2022-11-01 06:19:01 | エクスタシス 夢の夢なるneo

◎覚醒して世界が変わる-4

○白隠-4

 

生死はすなわち涅槃である。これこそが世界が変わったということである。

 

白隠が、32歳の時、夢に母が現れ、直径5、6寸の古鏡を左右の手にそれぞれ1枚ずつくれた。最初は右手の古鏡は光り輝き、その光が心の奥底はおろか山河大地をも底のないほどに照らし抜くほどだったが、左手の古鏡は輝かなかった。そして突然左の古鏡が右の古鏡よりも百千億倍にも輝くように感じた。

これ以後、万物を見ること自分の顔を見るようになった。初めて如来は目に仏性を見るということがわかった。

 

右の古鏡は生のシンボル、左の古鏡は死のシンボル。左の方が右より尊いからである。これは超能力の発現のようにも読めるかもしれないが、夢の中ではあるが、一つの大悟なのではないか。これぞ生死はすなわち涅槃である確証なのではないかと思う。

 

如来は目に仏性を見るとは、あらゆる人間・山川草木に神性を見るということか。

 

白隠はこの夢の後、ある夜法華経を読み、円頓真正の奥義を徹見して、思わず声を挙げて泣いた。

 

白隠は、まず「自性本有の有様」(アートマン=十牛図の牛)を確認することを隻手の公案で求めたが、これは修行の中間ステージに過ぎない。だから「我があると執着するから生死と涅槃があり、煩悩と菩提がある」として、我つまり「自性本有の有様」すら捨て去った無我こそ涅槃=ニルヴァーナという修行の終着点であるとする。

 

そこで白隠は説明する。

一本の公案になりきることで、心が死んで意が消えて、万事休した状態となる。そこで何かが起こる。世界の転換であり、「体験とは言えない体験」が起こる。

なぜそれが起こるかは説明していない。

白隠の比喩では、真正でクリアな無我になるには、必ず崖っぷちに手をかけて、その絶体絶命のピンチで、ふっと両手を離せば身体バラバラになり骨も残るまい。しかしそこから蘇(よみがえ)って、四徳の真我にぶちあたることになると。

 

無我以前の我と以後の我は、同じ我という言葉だが、それぞれ別の世界にある我なのだろうと思う。これぞ世界が変わるということだと考える。

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白隠-3

2022-11-01 06:16:19 | エクスタシス 夢の夢なるneo

◎覚醒して世界が変わる-3

○白隠-3

 

どう世界が変わったか。それだけが問題だ。何を見たか、何を聞いたか、どんな超能力が発現したかなどは、大した問題ではない。

 

白隠の著作の一つ藪柑子をみると、どう変わるかがある。

1.菩薩の威儀さえ了知すれば、生死はすなわち涅槃であると自覚できる。

 

これは、菩薩(最低でも見性した人)の行住坐臥(行動パターン)を理解すればとは、悪事をしない、善事を行うということである(諸悪莫作 衆善奉行)。そのように生きて、生死は涅槃であると自覚できる。

 

つまり悟ったら「悪事をしない、善事を行う」という行動パターンに変わり、生だけがこの世である世界認識から、生も死も涅槃の展開であるという世界認識に変わると言っている。

 

これは他人がどうあろうと、自分だけは善を行い、悪を行わないということである。ここには、ギブ・アンド・テイクとか、自分のメリットだけは取っていくとか、自分のもうけだけは確保するなどという現代ではごく当たり前とされる発想はない。

 

2.隻手の声をわかっても、そのわかった程度には深い浅いがあるものだから、隻手の公案がわかって以後も長い間修行した者を訪ねて、それを定着させねばならない。というのは、菩薩の行動パターンをわかっていない者は、悪道に落ちたり、(隻手の公案の)悟りを忘れたりすることがあるからである。

 

隻手の公案を透過すれば、十牛図の第三図レベルだが、それだけでは、もとに戻ることがあることを白隠は指摘している。

 

それと、悟った人(菩薩の行動パターンを理解した人)の行動の姿が、諸悪莫作 衆善奉行であって、例えば月間行動目標を「諸悪莫作 衆善奉行」と掲げて、それに沿って行動しているのではないということである。

 

この部分が、悟っていない者にとっての悟り理解の核心の一つだと思う。既に世界は変わり、善だけに生きるのだ。

 

蛇足だが、白隠は、浄土・天国に生まれ変わろうと願うことは悟りとは関係ないと繰り返し力説する。彼も霊がかりを戒めている。

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白隠-2

2022-11-01 06:13:48 | エクスタシス 夢の夢なるneo

◎覚醒して世界が変わる-2

○白隠-2

 

白隠の続き。

 

正受にしたたかに殴りつけられ、白隠は、雨後の泥土の上で死んだようになり、動けもしなかったが、正受はこれを見て大声で笑った。

 

7.南泉遷化の公案(南泉和尚は、死んで、どこへ行ったのだろうか)をやっていたある日、城下を托鉢していると、「あっちへ行け」と叫ぶきちがいばばあに箒で何度もしたたかに打たれた。

このまさに打たれんとする瞬間に南泉遷化の公案を透過した。以後正受に穴倉禅坊主と呼ばれることがなくなった。

 

この後に大いに悟ったのが6回あったが、悔しいことにそれを言葉で表現できた場合とできなかった場合があった。

 

8.その後、泉州信田の僧堂で夜坐している時に、雪の降るのを聞いて悟った。

 

9.美濃の東の霊松院で経行(きんひん)中、悟った。

 

  1. 42歳、『法華経』の「譬喩品」を読んでいたとき、コオロギの鳴く声を聞いて、大悟し、あまりの喜びに号泣した。

 

 

白隠は自ら大悟18回、小悟数知れずと言う。回数が問題なのではないが、現代人にとって十牛図の第三図に到達するのが最低ラインと考えられるので、白隠は、それはクリアしたのだろう。

 

どの小悟で見性したのかは、わかりにくい。例えば南泉和尚は死んでどこへ行く。肉体が死ぬ時、自我はほとんど死なない。では自我が死ぬかどうかどうやって確かめるのか、それには、自我が死ぬしかない。それを承知したのを以ってしても第三図見牛とはできよう。

 

白隠は隻手の公案を案出したり、公案を体系づけたり、門下育成での手腕は大いにあった人物である。では本当に徹底していたのだろうか。白隠は晩年夜船閑話という書を著し、観想法によるヒーリングを大いに推奨している。このように晩年になっても健康を主たる問題の一つとして考えなければならなかったあたりに不徹底を突かれる隙があるように思う。十牛図第八図の円相に向かうにはすべてを捨てることが必要である。健康や超能力(白隠は超能力の言及が多い)ですらも。

 

その時、自分が死ぬということを見切れば、「自性本有の有様」(アートマン)をたちどころに見るという体験が起こる(著書の藪柑子による)と、白隠は力説実証したのである。

 

白隠では大悟、小悟の大歓喜において、都度世界は大きく変化した。しかし誰でもこのように繰り返し起こるものでもないだろう。人によっては一発勝負もあるだろう。

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白隠-1

2022-11-01 06:03:26 | エクスタシス 夢の夢なるneo

◎覚醒して世界が変わる-1

○白隠-1

 

覚醒して世界が変わるとはどのようなものだろうか。

悟りには、一瞥(見神、見仏、見性)、神人合一、帰神の3種あるが、禅では、一瞥のことを見性とよび、神人合一のことを身心脱落と呼ぶ。

 

臨済宗中興の偉人として江戸時代に白隠という禅僧がいた。彼が身心脱落したかどうかはひとまず措いて、その覚醒の連続を見る。ただし禅では悟りに段階なぞないというのが基本である。

 

1.15歳で出家したが、16歳で法華経だけが功徳があるという説を読んで大いにやる気をなくした。

 

2.19歳で、巌頭和尚が盗賊に殺害された時にその叫び声が三里の外まで届いたというエピソードに接し、巌頭和尚のような優れた僧でもこんな目に遭うとは、修行に何の意味があるのかと三日間食べずに悩んだ。

 

3.22歳、若州の常高寺の虚堂会に参加し、ちょっと悟った。

 

4.その冬、伊予松山で、仏祖三経を読んで、大いに悟った。この頃寝ても覚めてもムー、ムー、ムー、と無字の公案をやった。

 

5.24歳、越後高田の英巌寺で、昼夜眠らず修行して、大疑団が現れた。性徹和尚による『人天眼目』の提唱を聞いて数日したら、ある夜ゴーンと鐘の音を聞いたとたんに世界が逆転した。

「巌頭はまめ息災(元気であること)であった」と叫んで大笑いして、この2、3百年わしのように悟った奴はいないと、大いに盛り上がった見解を持った。

 

6.この見解を持って信州飯山の正受老人のところを訪ねた。

正受老人は「趙州の無字を何と見るか」と問う。

白隠「趙州の無字にどこに手脚をつけるところがありましょうか」と言葉を返した。

正受老人は、彼の鼻をひねり上げて「なんとこんなに手がつけられるわ」といい放った。

 

以後、反省もしなかったので、白隠のことを穴倉禅坊主というばかりで相手にしなかったが、ある夕方、正受が「妄想分別」と来たので、「妄想分別」と返したところ、白隠をつかんで2、30回殴りつけて、堂の下へ突き落した。

(続)

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神見

2022-11-01 06:00:19 | 究極というものの可能性neo

◎窮極の大悟&ランキング

 

一日、ダンテス・ダイジがある弟子に向かって言った。

 

『いい?君は見神したんだ。

見神を幾度も幾度も繰り返すうちに、最後に神見になる。逆転する時がくる。

 

絶対なものが自分を使っている。これを窮極の大悟という』

 

見神・見性は、十牛図でいえば第三図見牛。これを繰り返すのが第四図から第七図まで。第八図に至って人牛ともに忘れて究極の大悟、神見ということになる。

 

菩薩とは、見仏した人のことで、菩薩のレベルは、四十二階位に分けられる。四十二階位とは十住、十行、十回向、十地、等覺、妙覺で、五十二階位とは十住の下に更に十信を開いたもの。四十二階位説では、下からランク42位から13位までの十住、十行、十回向の30ランクで修行することを、もともとは聖胎長養といったようだ。究極の大悟までには、さらに11ランクある。

 

つまり十牛図では、第三図から第七図の5段階しかないものを、菩薩四十二階位説では、見仏から究極の大悟までわざわざ41区分しているのだ。細かい区分が好きな人だけがそれを言うのだろう。

 

只管打坐では、このランクを急速に進み、クンダリーニ・ヨーガでは、それぞれのランクをじっくり味わっていく。

 

いずれにせよ、十住、十行、十回向などと漢字を沢山並べられるとそれだけで、引いてしまう人が多いと思う。わかりにくいもの。現代人は知性が優れているというのは、漢字をよく覚えて記憶力が良いということではなくて、本質を見抜く洞察力が優れているということだと思うのだが・・・。それなくしてそれこそ百万人単位で続々大悟なんてのは夢物語。

 

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見神と神人合一は異なる

2022-11-01 03:19:43 | Overview of the meditation 冥想の全体像

【第二章】神仏と冥想の関係

◎4.見神と神人合一は異なる

 

ダンテス・ダイジが、見神・見性・見仏を一言でくくる。

 

『ううん、そうではなくてね、単なる見性ということならね、無数に起こるんだ。それはこっちから見るって世界。だからそれは消えてしまう。

 

その時は素晴らしい。見えたと思う。でも俺が見ているんだ所詮。

 

(中略)

 

そういう経験とか、そんなもの無数にあった。あったけど、それはまだ俺がいる。俺が経験しているんだ。

 

今、俺は何も経験していない。』

(素直になる/ ダンテス・ダイジ講和録4/渡辺郁夫編P99から引用)

 

たちまちに 死に果てて 見る心こそ 仮に佛とは 名は付けにけれ (至道無難)

 

この歌は見仏。

 

オカルトブームや、だいぶ下火になったとはいえ自己啓発セミナーや、霊的体験ショップ・ツアー、パワー・スポット探訪など神秘的体験で人の興味を惹きつけようとする動きはあまりにも多い。

 

その頂点付近に位置する神秘的体験が見神・見性・見仏であって、正統宗教でも比叡山で見仏目的に修行するカリキュラムもあって、見神・見性・見仏そのものが、『体験とはいえない体験』の前段のまともなステップであることは、言うまでもない。

 

禅の十牛図でもメイドインジャパンのうしかひ草にも見牛は出てくる。

 

だからといって、見神・見性・見仏は最終的なものではないと、ダンテス・ダイジは、そこを殊更に強調する。

 

『俺がいない、俺が経験していない世界』は、神人合一であって、禅の十牛図の第八図であり、うしかひ草の神無月である。神人合一では、神人合一を体験している自分はない、なにもかもない。

 

本来もなきいにしへの我ならば 死にゆく方も何もかもなし (一休)

 

ダンテス・ダイジは、見神・見性・見仏を繰り返していくと、いつか神人合一である究極の悟りに届くと唱える。これは、禅で見性後に悟後の修行である聖胎長養を置く理由なのだろうと思う。白隠は自ら大悟18回、小悟数知れずと言っていたが、見神・見性・見仏を繰り返すということはそういうことなのだろうと思う。

 

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