◎セックスは時間と空間を越えた神秘体験
冥想非体験(性愛冥想)の続き
『死と虚無 とを 超越した神秘的一体感は、人間関係の中で発現する美しい神秘的高揚体験であり
男性原理と女性原理からなる神秘体験も結局、これと同様のものであると言える。
私は、情死・心中を賛美しているのではない。
性愛の神秘体験に虚無を滅尽させる世界があることを主張しているのである。
性愛においては肉体的結合を除外することはできぬが、人々が一律に肉体と考えているような個定的肉体性というようなものは、実は、人々の通念が仮作した一つの幻影にすぎない。
イエス・キリストにとって意味する肉体性と、現代西洋文明人の大多数が考えている肉体性とには、月とスッポンほどの違いがある。 性愛神秘主義における肉体的結合とは、陰と陽との霊的結合・一体感の象徴的表現の道具にすぎない。
人体の生理作用の大部分はその潜在意識に従属している。 心理作用も同様である。
しかし、潜在意識は、中立的な機能をはたすだけであって、それは健康をも病気をも、善をも悪をも、肯定的影響をも否定的影響をも、顕在的人間の状態に作用させることができる。
心霊主義的な意味でない神霊意識は、常に光明的作用を顕在人間に与えようとしている。
それゆえ潜在意識のあらゆる抑圧が浄化された自己解放者には、霊的光明がストレートにその人間の生理心理状態を順調ならしめることになる。
霊意識の大調和を自覚した潜在機能は、
その顕在人間をその本質的個性に最良な形で生かしめる。
ここに神聖性愛が実現する。
私達が性愛関係において十全なる一体化を顕現させるためには、私達はその性愛・恋愛、天的結婚に際して、全人格的な投入と、自己の全生涯的なちぎりとを献げなければならない。
ギリシャの哲学者プラトンが引用した、男女は本来一体であったという神話は、霊的観点から見れば正しいものである。
男性原理と女性原理との本来的一体性は、すでに霊意識の中で原型的に約束されたものになっている。
自己の全身全霊と全生涯とをかける性愛とは、霊界の中ですでに一体となっている陰と陽とが、この現象世界の中で霊的一体性を再確認する営みであり、
それが人と人との深き因縁ということ にあたるのである。
この現象界を生きる各人には、すでに縁生の夫婦、縁生の親子、縁生の師弟、縁生の友人達が与えられている。 職業などについても、この本質的因縁としての職業が与えられていて、古来、東洋人はこの縁生の職業を天命・天職と
呼んでいる。
そのように、人それぞれの人生境遇を、
すでに霊的理念の中に調和して与えられているにもかかわらず、人々が人生に迷ったり、離縁とか、三角関係とか乱交とかが行われるのは、大多数の人々がいまだ、本当の自己自身を、
その霊的本性の使命を自覚するに至っていないがためである。
人はあらゆる苦闘と背反を通じて、あるいは、冥想行を通じて、本当の自己自身を、発見しようとする以外にない。
人は代用品や逃避やつまさき立ちの生き方で、いつまでも生きられるようにはできていない。
結局は、あなたはあなたの卑屈な自我意識が編み出したつっぱりや偏見や自己直視からの回避などを投げ捨てねばいられないようにできている。
そして、あなたは神に創られしままの充実したあなた自身に帰るのだ。
性愛神秘主義・ 性愛冥想のスタートラインは、あなたの偏見に満ちた自己限定の観念を放ち去るところにある。
そして、その次に人間の人生の中でもっとも美しいものの一つである出会い、 解逅が訪れる。
自己限定と抑圧から自由になったあなたは、 周囲のどのような偏見的影響も受けることなく、あなたにもっともふさわしい愛人を見分ける。
自己解放をとげたあなたの霊的フィーリングは、誤ることがない。 歌謡曲の中で歌われる男女の瞞し合いの恋愛悲喜劇は、それが好きな人にやらせておけばよいのだ。
様々なセックスの遍歴の果てに、不感症か不能性がなおったということなどは、不眠症の人が眠れるようになったとか、対人恐怖症の人がどうにかあたりまえの人間関係を持てるようになったとかいうことと、本質的に変わりはない。
それは、潜在意識の局部的なシコリがほどけたということにすぎず、オルガズムをふとした拍子に得られた女も、それ以後の人生において
彼女の自意識ゆえの数限りない孤独や不安不満や倦怠と戦い続けねばならない。
人間の全生涯を実りあるものにするのに肝要なことは、
潜在意識内の抑圧の部分的解消ではなく、霊的自覚による潜在意識の全体的浄化なのである。
セックスは一定時間内の感覚的悦楽などという小っぽけなものではなく、時間と空間を越えた神秘体験であり、全人生をつらぬいて持続する魂の交流なのである。
現代文明の常識は、自我の防衛維持ということを前提として成り立っている。
そこには対立、闘争、弱肉強食という不安、 恐怖等の観念がある。 しかし、人間は、より深く深く心の底では安心を自由を求めてやまない。
愛なければ人間は一瞬も生きることはできない。
これが、あるがままにむき出しにされた人間的現実である。
自我という観念、他者と分断された孤立した自我という観念は、自我の内部に無数のヨロイという抑圧を仮構する。
どうして人間が、その卑小な孤立した自我の力で、髪の毛一本を白くしたり黒くしたりできるなどと考えるのだろうか。 太陽やあらゆる無限宇宙の
天体達や海や山河やあらゆる生物達とは別個に、人間自我というものがあるなどと考えるのだろうか。
ジョルジュ・バタイユがエロティシズムという概念で、あらゆる個生命の連帯感への欲求を表現したり、
サルトルが人間を存在への欲求として分析したりしたのは、
彼らが、この西洋物質文明の終末期の西洋人だったからであろう。 宇宙意識という人間内在のもっとも素直な眼で世界を見れば、世界の一切生命はすでに連帯の中にあり、確固不滅の全体存在の中で充足している。
そして、花という一生命相に ヒマワリあり、タンポポあり、アザミあり、野の百合あり、バラあり、椿があるように、人間の連帯感・一体感・触れ合いの中にも、様々な花が咲いている。
ヒマラヤや崑崙山の隠者達には、ニルヴァーナとの ふれ合いがあり、芸術家達には創作活動と作品とのふれ合いという花が咲き、商人には商品と客達とのふれ合いがあり、そして又、人間達には特別に親しい友との交遊があり、最愛の妻との家庭的安息と性愛の陶酔的なふれ合いという花が与えられている。
高村光太郎にとって智恵子が神であったように、あらゆる夫にとってその霊的因縁の妻は女神であり、あらゆる妻たちにとってその夫達は、それぞれに
絶対なる神である。 親鸞上人にとって、その妻は観世音菩薩の化身以外の何ものでもなかった。
このような中に性愛の神秘主義的可能性は現実のものとなり、神聖性愛が自己解放の夫婦を歓喜とやすらぎとの内に安住させる。
本当に深く豊かな官能の悦びも、現代人の多くが考えているような官能刺激への不安な追求の中にあるのではなく、物的官能性から自由になった人間の
あるがままの姿の中に与えられる。
その時、私は私の自我と時間性とを忘れ果てた陶酔にあり、あらゆる個生命の陰陽結合の姿を一望のもとに見渡すことができる。
時に私達のセックスは、無限の光に文字通り包まれ、また深海の底のような静寂と安心を享受する時もある。
時には私の抱いている女体は無限に広がり、あらゆる星々の光や海の波の動きや小鳥や蝶の飛びかう森や草原のそよ風の流れや、その他、あらゆる霊的現象世界の戯れを眺めることもある。』
(冥想非体験(性愛冥想)/ダンテス・ダイジから引用)
『死と虚無 とを 超越した神秘的一体感は、人間関係の中で発現する美しい神秘的高揚体験であり
男性原理と女性原理からなる神秘体験も結局、これと同様のものであると言える。』
どちらの体験も天国も地獄も越える体験。それが、性愛の神秘体験にあるとする。
『性愛神秘主義における肉体的結合とは、陰と陽との霊的結合・一体感の象徴的表現の道具にすぎない。』
サンヴァラなどの交合図で示されるのが、この霊的結合であって、肉体的結合は、このレベルまで上がってこないといけない。
『心霊主義的な意味でない神霊意識』とは、神から直接流出する影響という意味か?
『霊意識の大調和を自覚した潜在機能は、その顕在人間をその本質的個性に最良な形で生かしめる。
ここに神聖性愛が実現する。 』
これは、神聖性愛の定義だが、男女の別のある存在レベルでも本質的個性に最良な形があり得るというのが貴重。
『私達が性愛関係において十全なる一体化を顕現させるためには、私達はその性愛・恋愛、天的結婚に際して、全人格的な投入と、自己の全生涯的なちぎりとを献げなければならない。 』
これが、不倫では神聖性愛が成らない理由。
『この現象界を生きる各人には、すでに縁生の夫婦、縁生の親子、縁生の師弟、縁生の友人達が与えられている。 職業などについても、この本質的因縁としての職業が与えられていて、古来、東洋人はこの縁生の職業を天命・天職と呼んでいる。』
これは、この離婚時代、大転職時代に本来のあり方というものを示している。
『人はあらゆる苦闘と背反を通じて、あるいは、冥想行を通じて、本当の自己自身を、発見しようとする以外にない。
人は代用品や逃避やつまさき立ちの生き方で、いつまでも生きられるようにはできていない。 』
ここはより具体的に、人のあるべきライフ・スタイルを示した稀有な一節。
『性愛神秘主義・ 性愛冥想のスタートラインは、あなたの偏見に満ちた自己限定の観念を放ち去るところにある。 』
性愛冥想をスタートするには、最低でも見神、見仏、見性が求められる。
『人間の全生涯を実りあるものにするのに肝要なことは、
潜在意識内の抑圧の部分的解消ではなく、霊的自覚による潜在意識の全体的浄化なのである。』
霊的自覚とは、大悟覚醒、神人合一のこと。
『愛なければ人間は一瞬も生きることはできない。
これが、あるがままにむき出しにされた人間的現実である。 』
この愛は、大慈大悲。誰一人傷つけることなどできない命の悲しみ。
『このような中に性愛の神秘主義的可能性は現実のものとなり、神聖性愛が自己解放の夫婦を歓喜とやすらぎとの内に安住させる。 』
神聖性愛とは、現代人の多くが考えているような官能刺激への不安な追求の中にあるのではない。

冥想非体験(性愛冥想)の続き
『死と虚無 とを 超越した神秘的一体感は、人間関係の中で発現する美しい神秘的高揚体験であり
男性原理と女性原理からなる神秘体験も結局、これと同様のものであると言える。
私は、情死・心中を賛美しているのではない。
性愛の神秘体験に虚無を滅尽させる世界があることを主張しているのである。
性愛においては肉体的結合を除外することはできぬが、人々が一律に肉体と考えているような個定的肉体性というようなものは、実は、人々の通念が仮作した一つの幻影にすぎない。
イエス・キリストにとって意味する肉体性と、現代西洋文明人の大多数が考えている肉体性とには、月とスッポンほどの違いがある。 性愛神秘主義における肉体的結合とは、陰と陽との霊的結合・一体感の象徴的表現の道具にすぎない。
人体の生理作用の大部分はその潜在意識に従属している。 心理作用も同様である。
しかし、潜在意識は、中立的な機能をはたすだけであって、それは健康をも病気をも、善をも悪をも、肯定的影響をも否定的影響をも、顕在的人間の状態に作用させることができる。
心霊主義的な意味でない神霊意識は、常に光明的作用を顕在人間に与えようとしている。
それゆえ潜在意識のあらゆる抑圧が浄化された自己解放者には、霊的光明がストレートにその人間の生理心理状態を順調ならしめることになる。
霊意識の大調和を自覚した潜在機能は、
その顕在人間をその本質的個性に最良な形で生かしめる。
ここに神聖性愛が実現する。
私達が性愛関係において十全なる一体化を顕現させるためには、私達はその性愛・恋愛、天的結婚に際して、全人格的な投入と、自己の全生涯的なちぎりとを献げなければならない。
ギリシャの哲学者プラトンが引用した、男女は本来一体であったという神話は、霊的観点から見れば正しいものである。
男性原理と女性原理との本来的一体性は、すでに霊意識の中で原型的に約束されたものになっている。
自己の全身全霊と全生涯とをかける性愛とは、霊界の中ですでに一体となっている陰と陽とが、この現象世界の中で霊的一体性を再確認する営みであり、
それが人と人との深き因縁ということ にあたるのである。
この現象界を生きる各人には、すでに縁生の夫婦、縁生の親子、縁生の師弟、縁生の友人達が与えられている。 職業などについても、この本質的因縁としての職業が与えられていて、古来、東洋人はこの縁生の職業を天命・天職と
呼んでいる。
そのように、人それぞれの人生境遇を、
すでに霊的理念の中に調和して与えられているにもかかわらず、人々が人生に迷ったり、離縁とか、三角関係とか乱交とかが行われるのは、大多数の人々がいまだ、本当の自己自身を、
その霊的本性の使命を自覚するに至っていないがためである。
人はあらゆる苦闘と背反を通じて、あるいは、冥想行を通じて、本当の自己自身を、発見しようとする以外にない。
人は代用品や逃避やつまさき立ちの生き方で、いつまでも生きられるようにはできていない。
結局は、あなたはあなたの卑屈な自我意識が編み出したつっぱりや偏見や自己直視からの回避などを投げ捨てねばいられないようにできている。
そして、あなたは神に創られしままの充実したあなた自身に帰るのだ。
性愛神秘主義・ 性愛冥想のスタートラインは、あなたの偏見に満ちた自己限定の観念を放ち去るところにある。
そして、その次に人間の人生の中でもっとも美しいものの一つである出会い、 解逅が訪れる。
自己限定と抑圧から自由になったあなたは、 周囲のどのような偏見的影響も受けることなく、あなたにもっともふさわしい愛人を見分ける。
自己解放をとげたあなたの霊的フィーリングは、誤ることがない。 歌謡曲の中で歌われる男女の瞞し合いの恋愛悲喜劇は、それが好きな人にやらせておけばよいのだ。
様々なセックスの遍歴の果てに、不感症か不能性がなおったということなどは、不眠症の人が眠れるようになったとか、対人恐怖症の人がどうにかあたりまえの人間関係を持てるようになったとかいうことと、本質的に変わりはない。
それは、潜在意識の局部的なシコリがほどけたということにすぎず、オルガズムをふとした拍子に得られた女も、それ以後の人生において
彼女の自意識ゆえの数限りない孤独や不安不満や倦怠と戦い続けねばならない。
人間の全生涯を実りあるものにするのに肝要なことは、
潜在意識内の抑圧の部分的解消ではなく、霊的自覚による潜在意識の全体的浄化なのである。
セックスは一定時間内の感覚的悦楽などという小っぽけなものではなく、時間と空間を越えた神秘体験であり、全人生をつらぬいて持続する魂の交流なのである。
現代文明の常識は、自我の防衛維持ということを前提として成り立っている。
そこには対立、闘争、弱肉強食という不安、 恐怖等の観念がある。 しかし、人間は、より深く深く心の底では安心を自由を求めてやまない。
愛なければ人間は一瞬も生きることはできない。
これが、あるがままにむき出しにされた人間的現実である。
自我という観念、他者と分断された孤立した自我という観念は、自我の内部に無数のヨロイという抑圧を仮構する。
どうして人間が、その卑小な孤立した自我の力で、髪の毛一本を白くしたり黒くしたりできるなどと考えるのだろうか。 太陽やあらゆる無限宇宙の
天体達や海や山河やあらゆる生物達とは別個に、人間自我というものがあるなどと考えるのだろうか。
ジョルジュ・バタイユがエロティシズムという概念で、あらゆる個生命の連帯感への欲求を表現したり、
サルトルが人間を存在への欲求として分析したりしたのは、
彼らが、この西洋物質文明の終末期の西洋人だったからであろう。 宇宙意識という人間内在のもっとも素直な眼で世界を見れば、世界の一切生命はすでに連帯の中にあり、確固不滅の全体存在の中で充足している。
そして、花という一生命相に ヒマワリあり、タンポポあり、アザミあり、野の百合あり、バラあり、椿があるように、人間の連帯感・一体感・触れ合いの中にも、様々な花が咲いている。
ヒマラヤや崑崙山の隠者達には、ニルヴァーナとの ふれ合いがあり、芸術家達には創作活動と作品とのふれ合いという花が咲き、商人には商品と客達とのふれ合いがあり、そして又、人間達には特別に親しい友との交遊があり、最愛の妻との家庭的安息と性愛の陶酔的なふれ合いという花が与えられている。
高村光太郎にとって智恵子が神であったように、あらゆる夫にとってその霊的因縁の妻は女神であり、あらゆる妻たちにとってその夫達は、それぞれに
絶対なる神である。 親鸞上人にとって、その妻は観世音菩薩の化身以外の何ものでもなかった。
このような中に性愛の神秘主義的可能性は現実のものとなり、神聖性愛が自己解放の夫婦を歓喜とやすらぎとの内に安住させる。
本当に深く豊かな官能の悦びも、現代人の多くが考えているような官能刺激への不安な追求の中にあるのではなく、物的官能性から自由になった人間の
あるがままの姿の中に与えられる。
その時、私は私の自我と時間性とを忘れ果てた陶酔にあり、あらゆる個生命の陰陽結合の姿を一望のもとに見渡すことができる。
時に私達のセックスは、無限の光に文字通り包まれ、また深海の底のような静寂と安心を享受する時もある。
時には私の抱いている女体は無限に広がり、あらゆる星々の光や海の波の動きや小鳥や蝶の飛びかう森や草原のそよ風の流れや、その他、あらゆる霊的現象世界の戯れを眺めることもある。』
(冥想非体験(性愛冥想)/ダンテス・ダイジから引用)
『死と虚無 とを 超越した神秘的一体感は、人間関係の中で発現する美しい神秘的高揚体験であり
男性原理と女性原理からなる神秘体験も結局、これと同様のものであると言える。』
どちらの体験も天国も地獄も越える体験。それが、性愛の神秘体験にあるとする。
『性愛神秘主義における肉体的結合とは、陰と陽との霊的結合・一体感の象徴的表現の道具にすぎない。』
サンヴァラなどの交合図で示されるのが、この霊的結合であって、肉体的結合は、このレベルまで上がってこないといけない。
『心霊主義的な意味でない神霊意識』とは、神から直接流出する影響という意味か?
『霊意識の大調和を自覚した潜在機能は、その顕在人間をその本質的個性に最良な形で生かしめる。
ここに神聖性愛が実現する。 』
これは、神聖性愛の定義だが、男女の別のある存在レベルでも本質的個性に最良な形があり得るというのが貴重。
『私達が性愛関係において十全なる一体化を顕現させるためには、私達はその性愛・恋愛、天的結婚に際して、全人格的な投入と、自己の全生涯的なちぎりとを献げなければならない。 』
これが、不倫では神聖性愛が成らない理由。
『この現象界を生きる各人には、すでに縁生の夫婦、縁生の親子、縁生の師弟、縁生の友人達が与えられている。 職業などについても、この本質的因縁としての職業が与えられていて、古来、東洋人はこの縁生の職業を天命・天職と呼んでいる。』
これは、この離婚時代、大転職時代に本来のあり方というものを示している。
『人はあらゆる苦闘と背反を通じて、あるいは、冥想行を通じて、本当の自己自身を、発見しようとする以外にない。
人は代用品や逃避やつまさき立ちの生き方で、いつまでも生きられるようにはできていない。 』
ここはより具体的に、人のあるべきライフ・スタイルを示した稀有な一節。
『性愛神秘主義・ 性愛冥想のスタートラインは、あなたの偏見に満ちた自己限定の観念を放ち去るところにある。 』
性愛冥想をスタートするには、最低でも見神、見仏、見性が求められる。
『人間の全生涯を実りあるものにするのに肝要なことは、
潜在意識内の抑圧の部分的解消ではなく、霊的自覚による潜在意識の全体的浄化なのである。』
霊的自覚とは、大悟覚醒、神人合一のこと。
『愛なければ人間は一瞬も生きることはできない。
これが、あるがままにむき出しにされた人間的現実である。 』
この愛は、大慈大悲。誰一人傷つけることなどできない命の悲しみ。
『このような中に性愛の神秘主義的可能性は現実のものとなり、神聖性愛が自己解放の夫婦を歓喜とやすらぎとの内に安住させる。 』
神聖性愛とは、現代人の多くが考えているような官能刺激への不安な追求の中にあるのではない。
