goo blog サービス終了のお知らせ 

アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

臨済が師匠黄檗を押し倒す

2022-11-24 19:18:32 | 丹田禅(冥想法8)neo
◎師匠も生き埋め

禅では、その時すべきことをしているか、言うべきことをいうかが問題とされる、
一瞬も油断できない世界である。

師匠である黄檗が歩いていくと、弟子の臨済が鍬で畑を鋤(す)いてるところに出くわした。

黄檗を見ると臨済は鍬を杖にして立っていた。

黄檗は、彼に「疲れたのか」とジャブを打った。

臨済、「鍬も上げないでいるのにどうして疲れましょうか。」

黄檗は、持っていた棒を振り上げて打ち下ろした。臨済は、すかさず棒をひったくって体当たりをかまし、黄檗を地面に押し倒してしまった。

黄檗は維那(寺の庶務係)を呼び、「俺を起こしてくれ」と命じた。維那は、助け起こして「和尚はどうしてこんな気ちがいの無礼を許されるのですか」と言う。

黄檗は起き上がると物も言わずに維那を棒で叩いた。

一方の臨済はそんな騒ぎをよそにぐんぐん畑を耕している。
そこで臨済は「世間では火葬するが、俺のところでは一気に皆生き埋めにしてやる」と嘯(うそぶ)いた

黄檗も見事生き埋めにされたわけである。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

悟っていないマスターは危ない

2022-11-24 19:15:59 | 道教neo
◎中心疑う者は、その辞(じ)枝(わか)る

易経の全体の構想を論じた繋辞下伝に、悟っていないマスターは危ないという記述がある。
それは、『中心疑う者は、その辞(じ)枝(わか)る』という部分。つまり宇宙の中心、本質が本当にはわかっていない人物は、言っていることが枝分かれして辻褄が合わないということ。

(大意:信義に叛いたり叛乱を起そうとする者は、その言葉には、何かを恥じているようなところがある。道について自分でも納得していない者は、言っていることが枝分かれして辻褄が合わない。
悟っている人の言は少なく、悟っていない人は多言なものである。善人、善行をくさす人の言葉は空回りしがちであり、節操を失っている人の言葉は、鬱屈、卑屈なものである。)

(書き下し:
叛(そむ)かんとする者は、その辞慙(は)じ、中心疑う者は、その辞枝(わか)る。吉人の辞は寡(すくな)く、躁人の辞は多し。善を誣(し)うるの人は、その辞游(ゆう)し、その守を失う者は、その辞屈す。)

これは、冥想シーンでは、資格を持っている人が教えていることは正しいみたいに思われている昨今、そもそも見仏見神、神人合一に資格などあり得ないことを改めて銘記させる。
また自分が正しくなければ、正しくない師を選ぶということはある。

易経は64卦をきっかけとし、自分の深層を覗き込むテクニックだが、そんなメソッドも寿命がきた。各人が悟れる時代というのは、64卦や亀の甲羅(亀卜)やホロスコープ、タロットなどを媒介とせずに、居ながらにして、その身そのままで世界の現状を感得し未来を予知できるほどに知性も肉体も進化した時代ということ。

易経繋辞下伝には、「善は積み重さなければ名声を得るには足らず、逆に悪事も積み重さなければ身を滅ぼすには至らない。だから小人は、小さな善行をしてもしょうがないとしてやらないし、小さな悪行をしても差支えがないとしてどんどんやる。
その結果、世界全体の悪事は積もり積もって隠せないほどになり、罪過が大きくなり過ぎて解決できなくなっている。この様子を、首枷をつけられて耳を怪我して正しい声が聞こえなくなる、凶とする。」というパートもある。

こういうのは、日常茶飯にあまりにも目にすること。
このような他者のこともさることながら、まずは自分が冥想を。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マス布教とテーラーメイド冥想指導

2022-11-24 19:12:08 | 究極というものの可能性neo
◎真摯な冥想者の数に応じてマスターが出る

修行と行法の結果は必ずしも一致しない。たとえば、只管打坐をやり続けていた人が、必ずしも身心脱落するわけでもなく、別のタイプの見仏や涅槃に進む場合がある。またさる妙好人のようにマントラ・ヨーガを繰り返し実習していた人がマントラ・シッディに終わらず宇宙意識(ニルヴァーナ)にまで飛び出していく人もいる。

さらにキュブラーロスの出会った黒人掃除婦のように冥想修行らしい冥想修行はなくとも、きちんと見神した人もいる。

さて現代の特徴はマスコミによる一律な情報の洪水的伝播である。そのやり口は、冥想に関しても、新興宗教の布教手段としても顕著だが、主に本や雑誌などの印刷物とネットでもって冥想と思想をコントロールしている。

しかし、もとより与えた情報や冥想手法が一律であっても、個々人によって出て来る結果は千差万別である。

さる教団に加入して冥想修行しても、大半は見仏見神しないし、運よく小悟みたいなのをしたとしても、それが見牛なのか、一瞥なのか、あるいはどのメンタル体チャクラの開顕であるかは、人によって異なるという、行法・冥想手法と結果のミスマッチというのは起き続ける。

つまり冥想のサプライヤーは、大量一律・ワンパターンだが、その結果はてんでんばらばらであるということ。宗教業界では、宗派を問わず、そうした長年の効果の薄かった布教実績が積み重ねられてきているということになる。宗教商売が回転していけば教団としては存続していくという面はあるが、それは個々の人間の救済とは何の関係もない。

仏典では、釈迦が対機説法だと言われるが、そのように、特にクリア・ヨーガ、クンダリーニ・ヨーガでは、相手によって全く異なる指導、つまりテーラーメイド指導をしないと、相手のためにならないのではないか。

つまり現代のように個々人の価値観や生き方が全く異なる世界では、個々人にとってテーラーメイドな冥想指導しか有効とは思えないのだ。

翻って、今の新興宗教のような冥想手法や思想の一律大量の流し込みは、大半の人にとって有害無益なのだと思う。マス布教は百害あって0.0001利くらいか。

個々人にとってテーラーメイドな冥想指導に必要なもの、それは、多数の冥想教師、マスター、グルである。冥想教師、冥想マスターへのデマンドは極めて高いが、サプライサイドは全く応えられておらず、ここに大きな需給ギャップが生じている。

されば、どのように多数の冥想教師、マスター、グルを育成していくか。地味だが、いわばコンビニのおじさん、おばさん、お兄ちゃん、おねえちゃんが日々冥想をするようになることだろうと思う。

本気で冥想に取り組む人がその位多数出てくれば(デマンドサイドの本格的拡大は、未(いま)だし)、マスターも自ずと大量発生していくもの。そんな感じでないと百万人単位で覚者なんか誕生しないわな。

そうなったら宗派とか教団の区別とか言っていない(超宗派的)で、自分に最もマッチしている手法を選ぶのが最優先されることになる。それがテーラーメイド。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金人、肉体なきマスター

2022-11-24 19:06:09 | 究極というものの可能性neo
◎紫磨黄金のボディ

夢に金人が現れて、指導を行ってくれることはある。

まず空也。
『播磨の国は揖穂郡に、峰合寺があり、そこには一切経が収蔵されていた。空也上人はこの寺に止住して、何年もの間、一切経をひもとき、学習に専念する生活を送った。経典の文句で意味がよく分からないところがあると、いつも夢に金人が現われて教えを授けてくれた。 夢から醒めて、改めて同輩の智者にその不明の個所の意味を尋ねてみると、果たして金人の教えとまったく同じであった。(『空也誄』(くうやるい)、『日本往生極楽記』一七)

さらに、聖徳太子が『維摩経』や『法華経』の疏を作成中、夢に金人が現れて教えを授けたと言う。

その金人のボディの色は、紫磨金色であっただろう。黄金中の最高とされる紫を帯びた黄金色、すなわち紫磨黄金。

密教系、道教系、クンダリーニ・ヨーガ系の相承は、どういうわけか肉体を持たぬ師からの相承が多い。恵果から空海のような肉体がある者同士の相承はむしろ例外と思う。崑崙の500歳の神仙から笹目秀和もそうしたもの。

一方鍾離権から呂洞賓、ババジからダンテス・ダイジのように肉体を持たぬ広義の金人から嗣法した方が多数派なのではないか。

ババジなどは、数百年タームで、出現したり、消えたり。写真が残っているのは不思議な気さえする。彼はいつ現れるかと問われて、人類が危険な時期に差し掛かる時などと答えている。

今まさに危険な時期だが、ババジなどの、知らない他人の第三者である聖者の到来を待つ時代ではなく、自分がなんとかする時代なのだと思い定めないと何も起こらないのだろう。

政治も戦争も人類の未来も、人のさかしらで何とかできる話でなく、神、仏が何とかする話なのだから。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ツンモ=人間発熱機の威力

2022-11-24 19:03:44 | 超能力・霊能力neo
◎肉体でできること

河口慧海が、ヒマラヤの峠で大雪に降り込められた時に、坐禅と呼吸法で肉体を暖め、一晩を明かしたことには驚かされたものだ。

昔のチベットでは、そんなことはツンモと呼ぶ行法によって普通に行われていた。

ツンモは火炎の観想と、ある呼吸法による。
『他の多くの場合と同様、ここでも、土着のボン教の呪師から借用したやり方が使われている。ボン教の呪師の一人は、トランス中に熱を起こすのは呼吸ではなく、太陽の観想によるものだと語ったことがある。

わたしが信じないでいると、彼はこう付け加えた。
「暗示によって人を殺すこともできれば、自己暗示によって自分を殺すこともできる。こんなやり方で死を呼び起こせるのなら、熱を起こすなど簡単ではないか」

吸気と止息、吐気は、定められた通り、機械的に行うことになっている。ツンモの行者は火焔の観想を決して中断せず、また観想に付随させる真言の唱えも絶やさない。行者たちは、いとも容易に火焔の勢いを観想できる。このプロセスが自然に進み、徐々に熱感が全身に広がってくる。

ツンモ行の生徒たちは、行の終りにテストされることがある。

凍えるような真冬の夜、修行を終えた生徒たちは、川か湖の岸に連れて行かれる。川が凍っていれば、氷に穴が空けられる。月夜の晩、それも強風の吹きすさぶ晩が選ばれる。このような晩は、冬場のチベットでは珍しいものではない。

生徒たちは裸のまま氷の上で座禅を組み、その上から氷水に濡らした敷布を掛けられて、これを乾かさなければならない。乾けばすぐさま敷布は氷水に浸されて、また行者の身体に巻きつける。こんなことが朝まで繰り返される。こうして一番沢山敷布を乾かした者が勝者となる。

一晩で40枚も敷布を乾かした者もいるという。このような話の中には誇張もあるかもしれない。また場合によっては敷布と言っても名ばかりで、かなり小さな布切れが使われることもあるだろう。しかし、わたし自身は、大きめのショールくらいの布を何枚も乾かしてしまう行者を見た。

(中略)

ツンモ行によってどの程度の成果が得られるのかを完全に把握することは難しいが、いずれにせよ、この中には真実の現象もある。前にも述べた通り、隠者たちは真冬の最中でも裸もしくは裸同然の姿で平然と生きている。彼らを見たのはわたしばかりではない。エベレスト探検隊も彼らを目撃したと記録しているのである』
(チベット魔法の書/A.デビッドニール/徳間書店P238-241から引用)

超能力比べみたいなのは論外ではあるが、これは、体感マイナス30度、40度のところで、修行したり生きていくために必要な技だった。ミラレパもツンモを使って生き延びたエピソードがある。

人が、こんな技が必要なシチュエイションに追い込まれることのないことを祈りたい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

この世との折り合い

2022-11-24 19:00:12 | 只管打坐neo
◎悟りのビフォー・アフター

どんな高僧、善知識であっても、この世で生きていくからには、飯を食うために托鉢したり、御布施をもらったり、働いたり、炊事したり、衣服を洗濯したりしなければならない。つまり、世俗とどこかで折り合いをつけなければならない一点があるものだ。

それは自分が何のために生きるかという意味を求める現代人のほとんどが、内心ではなぜ食うために働く必要があるのかと日々疑問に思っているのと同根である。

イエスが明日のことを思いわずらうなと言ったのは、明日の食べ物の心配をするなと言ったのであるが、今日神に出会ってその感動に震えた者でも、明日になれば食べ物を探すことになるのだ。

禅では、世俗との折り合いにおいて、最も世俗を否定した側に位置する考え方の人物が二人いる。要するに、たとえたちまち飢え死にしても仏そのものを生きるべきだと考えた人たちである。

一人は臨済の友人である普化であり、もう一人は、唐代の疎山である。

普化は、いわば帝国ホテルのレストランのディナーに招かれて、話題が道のことに及ぶやいなや料理の並ぶテーブルを蹴り倒して出て行ったような猛者である。

疎山は、諸々の聖者のあとを慕わない、自己の神聖性も重んじないと言い放った。そう言ったからにはいつでものたれ死にする覚悟で日々を生きている。

悟った後にどう生きるかとは、世俗の折り合いをどこでつけるかという問題でもある。悟った人の生き方は、実際にビフォー悟りとアフター悟りでどう違うのか。そこをもある程度具体的に出していかないと、具体性と論理性とデータ重視の現代人を説得することは難しいのだと思う。

悟った人たち同士でも大きく見解が分かれるが、それは個性の違いに由来するので、それはそれでよいのだと思うが。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

普化なる自由

2022-11-24 17:15:29 | 丹田禅(冥想法8)neo
◎社会性とのバランス

普化は、唐代の人で、臨済禅を興こした臨済義玄より一枚上手の禅者。

普化の師である盤山宝積(720-814)が、その逝去に臨んで、「私の像を描くことのできる者がいれば、今すぐ描くよい」というと、多くの弟子がその肖像を描いて持ってきた。

そこに普化が手ぶらでやってきて、盤山の前に出るといきなり宙返りして出て行った。盤山は「普化はこの風狂さで今後世人を導くに違いない」と評したという。

ある日、臨済と普化が法要後の会食に招かれた。席上臨済が「一本の髪の毛で大海を呑み込み、芥子粒一つに巨大な須弥山を納めるというがこれは、超能力の奇跡か、それとも見性者に自然に備わる働きか」と質問をしかけた。

すると普化は、いきなり食卓を蹴り倒した。

臨済が乱暴じゃないかと言うと、普化は「ここで乱暴とか穏やかという場合ではあるまい」と応じた。

次の日二人は、別の法要後の会食に招かれた。臨済は、「今日のメニューは昨日のと比べてどうだ」と問うと、普化はまたまた食卓を蹴り倒した。

臨済が「それはそれで良いが、あまりに乱暴すぎる」というと、普化は「馬鹿野郎。仏法に穏やかだの乱暴だのということがあるか」と返したので、流石の臨済も驚いた。

一無位の真人とか、本来の自己と言えば、なんとなく知的なイメージを膨らませて理解することができるが、普化が何のためにこんなことをして見せるのか理解に苦しむ人が多いのではないだろうか。

本当に素直になった人は、自分がどのようであっても何の問題もないことを知っている。何の問題もなければ、そこから流れだす自由というものがある。臨済禅では、大安心というものを求めるのと同時に、特にこの自由というものに力点を置く。禅家は、当意即妙とか、活殺自在などのむずかしい言葉を使うが要するに自由を言っている。

普化はロバになりきって、生の野菜をぼりぼり食べたり、勤行をしないで飯だけ喰らう泥棒になりきって、奇矯な行動をし続けた。

地獄的な環境にあっても本当に素直であれば、本当の自由を生きることができることを普化に見る。しかしそこに社会性とのバランスはない。「社会性とのバランスなんていうたわけたものは仏法にはない」という普化の言葉が聞こえてきそうだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一路居士

2022-11-24 17:08:55 | 丹田禅(冥想法8)neo
◎万事休すべし、如何なるか是れ一休

一路居士は、一休和尚の数少ないわけのわかった友人の一人。一路居士は、もと仁和寺の門主をされた方だが、和泉の国境に草庵を結んでいた。

その頃一休は、摂津の住吉におられ、一路居士を時々訪問していた。
一休が問うに、『万法路(みち)あり、如何なるか是れ一路』

一路『万事休すべし、如何なるか是れ一休』

一路居士の草庵にはいつももっこが吊るしてあって、その中に道行く人の志を受け、手取り鍋一つで粥を炊いたり湯を沸かしたりして、暮らしていた。

ところがある日、村の悪餓鬼がいたずらをして、もっこの中に馬の古沓(ふるくつ)を入れておいた。

すると居士は、『我が糧(かて)、すでに尽きたり』と言って、遂に食を断って死んでしまった。

この草庵跡が一路山禅海寺となっている。

もっこに古沓が入ったのを天意と見て、食を断つとは、自殺じゃないかと世間の人は言うかもしれないが、それが真正の道者の行き方である。

戦後のマスコミ報道や法曹教育のせいか、形式からみれば自殺ということが一律にダメ、という見方が、世間には徹底している。だが、そういう輩には、まともな禅僧の生きざまの機微など理解の外にある。

悟った者は、このように天意・神意を生きているから、その生きている姿は、諸悪莫作、衆善奉行なのである。

密教ではないが、禅であっても悟りは死の技術ではある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人間性という渇望

2022-11-24 17:00:32 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎なにもかもなしであるはずの禅

世界中のトップエリートが集う禅の教室(川上全龍/角川書店)では、相変わらずの禅をやるメリット強調の信者集めと『なにもかもなし』であるはずの純禅の相剋を改めて感じさせられたものだ。

唐末の禅僧趙州は、120歳の人生を極貧に生きた。いつも脚を補修した椅子に坐って人に応対したが、信者等から新品や中古のちゃんとした椅子を上げると言われてもすべて断り、別の部材で脚を補修し、その壊れ椅子をなおも使い続けたという。
それでも何の問題もないことを知っていた。

そういう家族も持たない、財産も持たない純禅の師家本来のありかたの方を強調せず、スティーブ・ジョブズなど有名人が参加しているなどと関係ないことで客引きをするなど、その姿勢が問われる。

普化は、臨済と一緒の食事招待の席で、テーブルを蹴り倒したが、そういうあり方では、テーブルを蹴り倒されようというものだ。普化は、死んで棺桶に入ったのではなく、棺桶に入ってから死んだ。

ダンテス・ダイジの詩に

『楽しさをあこがれ続けるらしい

運命はあるらしい
冬が終わって春が始まるように
運命を改善するテクニックもある
天命に流されるというのもある
地獄のどうどう巡りもあるだろう

これも過ぎ去る
変易しないものが何一つないのであれば
一体、人間性という渇望に
何が言えるというのだ

それでも人間性は
楽しさをあこがれ続けるらしい』
というのがある。(ダンテス・ダイジ/老子狂言から引用)


現代人は禅だけではつまらないところまで来たのかもしれない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

極貧のクリーニング屋の女性が燈明の油を釈迦に献じる

2022-11-24 16:39:54 | 冥想アヴァンギャルドneo
◎善行のリターンを期待しない

コーサラ国王プラセーナジットが、釈迦と付き従う弟子たち全員に対しグルメな食事を一週間にわたり提供した。

ところが、釈迦はその莫大な食事提供の善行の見返り(果報)をコーサラ国王に与えるのではなく、さる乞食に与えた。

当惑したコーサラ国王が悩んでいると、釈迦は、彼が何度も国王として転生し栄華を極めているのは、彼が前世で中流家庭のもらい子であった時に、母が自分のために作ってくれた塩気のない麦団子を孤独に修行する覚者(独覚)に布施したお蔭であると説明した。

麦団子の話を聞いた、時々公的支援ももらい、善意のボランティアの支援も受けている極貧のクリーニング屋の女性が、一念発起して、燈明の油を買って釈迦に寄進しようと思い立った。やがて彼女は少量の油を買い求め、壊れた器に入れ、釈迦が散歩される道に献じ、自分がニルヴァーナに入ることを祈願した。

釈迦が言うに、彼女の受ける善行のリターン(果報)は、釈迦の高弟の布施の果報より大きく、コーサラ国王のそれより大きい、と。(出典:『ブッダが謎解く三世の物語 上 『ディヴィヤ・アヴァダーナ』全訳/大蔵出版』の第七章)

布施、寄進、寄付には、作法があるとは、このこと。東日本大震災で、インドの貧しい少女は数ルピーの金を日本に寄付してくれた。それは、何し負う巨富のウォーレン・バフェットやビル・ゲイツの数兆円の寄付よりも多額であるとは、そういうこと。

こういう類の話は、見向きもされぬ、戦争プロパガンダ合戦、圧倒的なコロナ・プロパガンダ、私利私欲最優先の時代。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

藍采和

2022-11-24 16:35:21 | 道教neo
◎古人は混混、今人は紛紛

藍采和は唐末から五代にかけての人物。

いつも藍色の長衣を着て、幅三寸の帯を巻き、片足にしか靴をはかず、夏は破れた綿入れを着て、冬は雪の上で眠っても全身から湯気が立っていた。

『いつも城内に物乞いに出かけ長さ三尺の板(拍子木)を鳴らして、
「歌いながら踊る、藍采和、世界にどれだけの価値がある。紅顔は一春の樹、流光は一擲の梭(さ)、古人は混混として去りて返らず、今人は紛紛として来たりて更に多し・・・・」と歌いながら物乞いしていた。歌には仙意がたっぷりと盛り込まれているが、口から出まかせに歌っているだけであった。

それでも老若男女を問わず惹き付けられ、ずっと藍采和について歩くとともに、多額のお布施をした。藍采和は集まった銅貨を縄に通して背中にぶら下げていたが、縄が切れて銅貨が散らばってもまったく意に介さなかった。
もらった銅貨を貧しい人やいつも通っている店に贈ったりしながらあちこち放浪したが、どんなに年月がたっても少しも老いることがなかった。』
(道教故事物語/褚亜丁・楊麗編/青土社から引用)

この後、藍采和は、酒屋で酒を飲んでいるときに、空からやってきた仙鶴に乗って白日昇天する。

雪の上で眠っても身体から湯気が出るのはツンモだろうが、冥想により内分泌腺を活発化させることでできるものであって、坐り慣れた人の業である。

歌を歌いながら無常を説き、貧窮も気にせず、金銭に恬淡としているのは一休宗純を思わせる。昔はこんな人を単に狂人と思っただけで済ませられたが、いまは一個の成道者としてリスペクトすると同時に、そんな人に出会うことを、この世のドラマを見切って藍采和と同じ世界から生きるきっかけとしなければならないと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

誠拙和尚が大金のお布施をもらう

2022-11-24 16:31:07 | 丹田禅(冥想法8)neo
◎寄進の作法

鎌倉の円覚寺の住職をやり、後に相国寺の住職をなさった誠拙和尚。

彼が、円覚寺の住職をしていた時に、江戸の豪商白木屋某という者が訪ねてきて百両を寄進した。

誠拙和尚は「そうか」と答えると、白木屋が、「和尚、一言の謝辞くらいあってもよかろう。」となじる。

誠拙和尚は、いきなり粥を煮ていた鍋のふたを白木屋に打ちつけて、「貴様が功徳を積むのにわしがお礼をいうことがあるか」と一喝した。

イエスも右手が寄進することを左手が知らないように寄進せねばならないと諭す。寄進には作法がある。だからといってふたを打ちつけるのは親切すぎる。黙っていてはわからないと思ったか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金の受け取り方と冥想修行

2022-11-24 16:21:59 | 究極というものの可能性neo
◎正師は厳しく清貧

超能力や霊言(チャネリング)というのは、人を容易に信用させ、社会的に見たら異常とされる信徒の行動を教祖への絶対服従の名の下にとらせやすいものだ。その典型の一つはオウム真理教事件であったが、かの教祖は、当初一定の超能力を有していたが、ある時期から弟子にシャクティパットを施した後に寝込むことがあってその頃から超能力が薄れたようだ。そのことは弟子たちの様々な著作等で推測できる。それ以後は教団組織への絶対服従の名の下に、弟子たちを頤使して大規模テロ活動に邁進させ、その一方で求道的な側面については私の見方からすると疑問を持たざるを得ないところがある。

『中国五千年の虚言史/石平』を読むと、中国人には常に時の政権を弱体化不安定化させようと考える勢力がある。その手口の定番は宗教組織である。有力な宗教組織があれば、それに乗じて政権を得ようと様々な各地の軍閥などが参加してくるものである。

毛沢東の愛読書は資治通鑑。周から後周までの帝位をめぐる謀略を論述した書であり、毛沢東は、これを17回も読んだほどで、そこまでして謀略を日常的にめぐらさないと、中国共産党トップを維持していけなかったのだろう。
要するに、日本のように万世一系の天皇のようなものがなければ、民心は機会あれば、帝位簒奪に動きがちなものなのだろう。

それでも日本の不安定化を狙う勢力は、歴史的にも元寇、戦国時代のイエズス会、ペリー提督以来のアメリカ、そして赤い勢力と、切れ目なく襲ってくるものであり、そうしたことばかり研究している勢力にとっては、天皇を護持する姿勢を見せない有力な新興宗教組織は、常に利用価値が高かったのではないかと思う。

オウム真理教事件は、教祖周辺の13人が死刑執行され、後継団体も監視継続で一応の決着は見たことになっている。だが当時から政治家やマスコミ関係者、他の宗教関係者、反社などの関与が噂されてはいたが、表面化することはなかった。

第二次大本教事件では、大本教はテロ事件もひき起こさず、武器もため込まず、天皇制も否定しなかったが、現人神なる国家神道体制と相いれなかったので発生したと思われるので、オウム真理教事件とは全く性質が異なるものと考えられる。

こうした事件を思うと、宗教家が金を受け取ることは、この時代であってもよくよく注意しないといけないと思う。ちょっとした超能力、霊能力があれば周辺に自ずと人は集まって来るものであり、まして見神、見仏した人間なら自ずと周辺にはわかる。
ところが、見神、見仏した人間であっても、そうした罠にはかかるものであることは、至道無難なども指摘している。

ダンテス・ダイジは、お布施以外の金は受け取らず、金と引き換えに冥想を教えることはなかったという。彼の弟子たちは少数に限られ大教団にはならなかったが、それでも弟子たちに対し政治にはかかわるなと戒めたこともあるという。世に清貧というが、ダンテス・ダイジは、非常に厳しく清貧を守ったという点で稀有だったという印象を持つ。

このSNSが発達した時代では、偽物が「私は悟りました」と騙(かた)ったり、「お金を出せば上位の冥想手法を教えてくれる」という怪人怪女も少なくない。だが無垢なる求道者にとっての危険はそれだけでなく、本人が、霊能力が開いたり、見仏、見神した途端に、政治家やマスコミや反社が大金をもって巻き込もうとしようとすることである。

畢竟、見仏見神した極めてナーバスな状態にある場合、それを守ってくれる人は師しかいないということ。またその師が真正な師であれば、彼は間違いなく清貧であろうということである。
お一人様求道であっても、難しい時代である。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

至道無難の衣食住観

2022-11-24 16:17:11 | 丹田禅(冥想法8)neo
◎為すべきをせずに衣食住が楽なのは天罰がある

江戸時代初期の禅僧至道無難の衣食住観。皆、生活は、少しく苦しいが坐り続けるもの。

『一、主人を持つ人は、それを頼りにすることもあるが、道心者にとっては天地の中に頼りにするものがない。
自身の悪業を除きつくし、天地と一体と成るとき、天下の人が尊敬することは自然の道理である。このやうに努力しないうちは、衣食住に苦しむ事、言葉に言えないほどである。


一、道心を守る人は、すべての物事に自分が過ちをしないように恐れるべきだ。自分の為すべき事をせずにいながら衣食住が安楽なのは、必ず天罰を受けるものだから、道心を守るには、すべてが不足不如意なのを吉とする。』
(至道無難の自性記より(日本の禅語録 無難・正受P120より引用))
※文中の「主人」は師匠でなく、ものを布施してくれる人のことで、パトロン、支援者のこと。

まずは、天地と一体となったら衣食住に苦しむものの、衣食住の不足は本当の問題ではないことに気がつくだろうってこと。

そして、為すべきことをせずに生活が安楽なのは危ういとし、すべて不足不如意がよしとするのは、現代では極めて変な考え方とされる。
たとえば為すべきことをせずに生活が安楽なのは、ただラッキーなだけだし、それをとやかく言うのは、そんな生活をねたんでのことだろうと思われがち。またブランド・ファッションも身に着けられないし、たまにはグルメにも行けない生活は、ミジメなだけだし、外聞も悪いだけのことと思われて終わることがほとんど。

東北関東大震災や原発事故は、そうした歪んだ考え方、気持ちの持ち方に一石を投じたはずだが、まだまだ『自分は悟ってないのに、衣食住に不自由がないのは、危険である』とまで思っている人は全然少ない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お布施の与え方

2022-11-24 16:13:06 | 冥想アヴァンギャルドneo
◎果報を保証する

「ブッダ 悪魔との対話」から
『二 傍らに坐したデーヴァヒタというバラモンは、尊師に向かって次の詩を以て語りかけた。-----

「何ものに対して布施物を与えるべきなのでしょうか?
何ものに対して与えられた施与が大いなる果報をもたらすのでしょうか?
どのように布施をしたならば、その布施はどのように栄えるのでしょうか?」

三 〔尊師いわく――――〕
「前世の生涯を知り、また天上と地獄とを見、生存を滅ぼしつくすに至って、直観智を確立した聖者、――――
その人に対して布施物が与えられるべきである。この人に対して与えられた物は、大いなる果報をもたらす。
このように布施をしたならば、その布施はこのように栄える。」』
(ブッダ 悪魔との対話/中村元訳/岩波文庫P161から引用)

これは見返りを期待して布施をするという、そもそもあってはならない質問をしているシーンである。それでも釈迦は、その姿勢に問題があることなど百も承知で、無私そのもので生死をも超えた私に布施をするならば大いに果報が得られると請けがう。

その布施は、バラモンが想像したような果報ではないが、大いなる果報を保証された。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする