アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

巣ごもり消費とセックス

2022-11-16 12:14:50 | カーマ・ヨーガ(性愛冥想)(冥想法4)neo

◎男と女を一つの神にする

 

巣ごもり消費で、任天堂などのゲーム関連企業とネット通販関連企業は、その他業界が未曽有の不況に襲われている中、例外的に好調な業績となっている。

企業とは関係ないが、きっと恐ろしく希求され、また広汎に頻繁に行われているだろうものは、セックスである。

 

ダンテス・ダイジの詩集「絶対無の戯れ」から、

『性愛

 

1

 

性愛は何も産まない

子供も産まない

子供はおのずから産まれてくる

性愛は何も産まない

空を飛ぶ鳥のように

 

 

2

 

落ちてはいけない

意識を広く広く

つき離したままにして置くのだ

女神の悦びのために

 

そこにタントラの道は開かれ

めくるめく忘我と

深い深い深海の静寂とが

男と女を

一つの神にする』

(上掲書P60-61から引用)

 

性愛タントリズムについては、釈迦もチャレンジしかけたとか、ダライラマも知っているとか、無謀にも挑戦しかけた何某が無残にも失敗して単なる荒淫に終わったとかいろいろのことが言われる。明治維新の頃の剣豪にして明治天皇侍従の山岡鉄舟も、これに一時はまった。

 

この詩に続きの「3」もあるが、性愛タントリズムが男性の側の修行法であることは明示されていない。

 

性愛タントリズム周辺は、カーマ・スートラとかチベット密教の交合図(サンヴァラ)とか、誤解を招くことを恐れぬ文や絵も多い。またOSHOバグワンの性愛タントリズムの記述は多いが、ほとんど真面目に語っているとは思えない。

 

その点ダンテス・ダイジのそれは極めて真摯な姿勢が窺える。

 

『子供はおのずから産まれてくる』とは、人間の魂が死に至り、転生していくプロセスを追跡していくと、死んだ誰かと彼が転生して産まれた誰かについては厳密な連続性がないということ。そして、両親と子という縁、関係はあるが、子という自意識の自由、人間の自由という点からは、『子供はおのずから産まれてくる』としかいえない実態があるのだろうと思う。

 

そこでセックスは何か産むのかと自問したのだ。

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OSHOとダンテス・ダイジの性愛冥想の違い

2022-11-16 12:12:34 | カーマ・ヨーガ(性愛冥想)(冥想法4)neo

◎バグワン流

 

OSHOバグワンもダンテス・ダイジも性愛冥想には、わずかなヒントしか残していない。

 

だが、二人の性愛冥想には決定的な違いがある。ダンテス・ダイジは、不倫というようなわだかまり的なものがある場合は成就しないというようなことを言っているのに対し、OSHOバグワンは弟子の間での性愛パートナー交換は日常的だった。この点はクリティカルな相違点。

 

OSHOバグワンは、タントリズムはじめいろいろな宗派の経典をひいては性愛冥想についてコメントしているが、どうもダンテス・ダイジのそれとは全く別のものを言っているように思えるのだ。

 

OSHOバグワンのプーナに移る以前で、わずか25人程度のグループだった時代に弟子になったヒュー・ミルン。彼の著書『ラジニーシ・堕ちた神(グル) 多国籍新宗教のバビロン ヒュー・ミルン/著 第三書館』は敬して遠ざけるみたいにしていたが、改めて今読んでみると、冷静で緻密な書きぶりの求道者であり、のっけから、自分は20代だけどOSHOバグワンの指図で年齢が倍の面識のない婦人(小教団のリーダーで30人の弟子をインドに連れてきていた!)と、夜、メイク・ラブすることを指示された話が出てくる。

 

幸運にも、これは見事に失敗した。

 

当時から教団周辺のインド人からは、OSHOバグワンは、セックス・グルで、セックス教団と陰口をたたかれていた。OSHOバグワン自身もオルガズムに導く技法について解剖学よろしく細かく講義もしていたという話も出てくる。だが、信者同士のフリーセックスは奨励し、自らもパートナーを次々に変えていたらしい。

 

ところが教団内は、上水道などの問題で、もともとあまり清潔ではなく赤痢が蔓延した上に性病も蔓延。こうしたやり方もやがて下火になったという。エイズが出てくる前の時代のこと。

 

男性がパートナーを変えるのと女性がパートナーを変えるのは、意味が異なると思う。

 

平たく言えば、OSHOバグワンは、相手の心理を読む神通力は持っていたが、女心を理解することにはあまり関心がなかった。それに対して、ダンテス・ダイジは、女心のことは十分に理解していた。その辺がダンテス・ダイジの不倫はダメみたいな話につながってくる。

 

よって、そこから出てくる性愛冥想へのアドバイスは、二者間で自ずと異なる。

 

これは私の想像だが、前世で、生真面目なチベット密教修行者だったり、孤独なクンダリーニ・ヨーガ行者だったOSHOバグワンは、性愛方面では経験不足であり、大いにカルマを残していたのではないか。

 

これに対して、モテ男クリシュナの後身であるダンテス・ダイジは、女性のことは何でも掌を指すように理解していた。

 

OSHOバグワンは、集団の裸体冥想もやっていた。ヒュー・ミルンは、その写真を目にした。

 

そういう風景は天国(出口王仁三郎の霊界物語に指摘あり)にはある。また実家の宗教がジャイナ教だったバグワンらしく、ジャイナ教風でもある。だが、インド人ならずとも、どの国でもそれをやれば皆顰蹙する。

 

覚者の合理的判断は尊重すべきではある。だが、それが社会の迷惑を全然顧みないで出ることも時にある。その一例がこれ。

 

ダンテス・ダイジは、OSHOバグワンが、コミューンでチャレンジしていることは評価していたが、弟子たちに対して真摯であったかどうかは疑問であるみたいなことを言っている。そういうのがバグワン流なのだろうと思う。

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エクスタシーで意識的でいる

2022-11-16 12:08:49 | カーマ・ヨーガ(性愛冥想)(冥想法4)neo

◎男性の側の修行法

 

OSHOバグワンは、様々な箇所で、カーマ・ヨーガに言及しているが、私の見たところ、男性の側の修行法に限定したやり方を語っているとは思えない。

 

そんな中で数少ない「男性の側の修行法」としてのエクスタシー。彼によると、ポイントの一つは、射精せず、エクスタシーの瞬間、意識的であること。これは死のプロセスを意識清明にして感じ取って行くのに似る。無意識に堕ちれば射精して失敗に終わる。

 

第二のポイントは、その絶頂状態にあって、オルガズムの縁にあって、意識的であること。そうしていると、突然に内なる中心に気づくという。何秒意識的であれば、あるいは何分何時間意識的であれば「気づく」のか、などということは言ってはいない。

 

その時、男性修行者は、パートナーを女神として礼拝するという。ここはダンテス・ダイジ説と一致。

(以上参考:究極の錬金術Ⅱ/OSHO/市民出版社 P84-86)

 

そのパートナーは、ソウルメイト魂の伴侶でないとだめなのかと想像をめぐらすが、OSHOバグワンはその辺は、教団内でフリーセックスを容認していたらしいので無頓着で、言及はないようだ。一方ダンテス・ダイジは、不倫ではうまくいかないことを示唆する。

 

オルガズム直前にあって意識的であるための、ある種の繊細さは、事前の冥想訓練がなければ成功しにくいのではないだろうか。それが神仏の恵み、来たるが如きものである以上、敬虔で率直な姿勢は基本である。そしてパートナーとの信頼。成功条件として真のパートナーと出会う縁まで挙げれば、バーは一挙に上がるのかも知れない。

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性的ヨーガのアーキテクチャ

2022-11-16 12:07:02 | カーマ・ヨーガ(性愛冥想)(冥想法4)neo

◎タントラとは自由である

 

OSHOバグワンが、『タントラの変容』において、まともな“性的ヨーガのアーキテクチャ”について多分初めて概説している。

 

それは、次のようなものだ。

セックスは、7段あるはしごの最初のとかかり。

セックスのオルガズムは冥想に入るとっかかりにすぎない。この時内なる扉が開く。

 

七段とは、七チャクラ。ムラダーラ、スワジスターナ、マニピュラ、アナハタ、ヴィシュダ、アジナーと進み、サハスラーラに至る。

 

ムラダーラから、アジナーまでは、男女いずれかの二元性を持つ。サハスラーラは非二元のブラフマランドラ。

 

男性では、ムラダーラは男性で、スワジスターナは女性。一方女性にあっては逆の、ムラダーラは女性で、スワジスターナは男性。

 

ここで男も女もムラダーラとスワジスターナが結婚、内側での性交をしなくてはならない。

 

以下同様にマニピュラ、アナハタが結婚せねばならないし、ヴィシュダ、アジナーも結婚せねばならない。

 

この書には明記はないが、おそらく『男性では、マニピュラは男性で、アナハタは女性。一方女性にあっては逆のマニピュラは女性で、アナハタは男性。

 

また、男性では、ヴィシュダは男性で、アジナーは女性。一方女性にあっては逆のヴィシュダは女性で、アジナーは男性。』

 

ムラダーラとスワジスターナの第一の結婚は次のマニピュラとアナハタの第二の結婚の可能性となる。第二の結婚は、ヴィシュダとアジナーの第三の結婚となり、それは第四の状態である二元を超え一なるものニルヴァーナに到達する可能性となる。

 

この四段の結婚は、その特徴から、下からそれぞれ、眠り、夢見、覚醒、トゥリヤとも呼ばれる。

 

なお、チャクラは、エーテル体、アストラル体、メンタル体においてそれぞれ存在しているが、それが、どのボディのチャクラかは明らかにしていない。

 

OSHOバグワンはいろんな本でセックス・メディテーションに言及しているが、まともに体系的に述べているのはここだけではないかと思う。

 

全体としてみると、シンボルとしてアスクレピオスの杖が近く、また変性男子、変性女子という古神道の呼称も意味深である。

 

常に誤解されがちだが、セックスそのものに何かあるわけではない。

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ダライラマのカーマ・ヨーガ-3

2022-11-16 12:04:31 | カーマ・ヨーガ(性愛冥想)(冥想法4)neo

◎マーヤ(幻影)を空性の悟りの智慧に変容させる

 

チベット密教では、サンヴァラ(交合)は、空性大楽に誘う。空と楽を結合させる必要性については、マーヤ(無明、幻影)を空に転換するのだから、楽という原始仏教の初禅から三禅までの始めの段階でみられるエレメントをことさらに用いるのは、当然と言えば当然なのかもしれない。

 

※空性大楽とは、空性の悟りの智慧と楽の深い経験が、分かちがたく結びついていること。空性大楽とは不変の楽のこと。

 

『無上ヨーガタントラのクラスの密教においては、体内の生命元素のことを菩提心と呼びます。実際にこの菩提心を溶かしだすためには、性的魅力のある異性に対して感じるような欲望の感情をまず持つ必要があります。そうすれば、その欲望の力によって、体内のエレメントが溶けだし、概念のない心の状態が生まれてきます。菩提心が溶けはじめたら、さらに、それに意識を集中させる必要があります。

 

体内で菩提心が溶けだすと、至福にみちた概念のない状態(空性大楽)の経験が生じます。もしこの至福を味わいながら、その本性は空であると認識している心の状態を生み出すことができれば、幻影を空性の悟りの智慧に変容させるという一大事を達成したことになります。なぜなら、この智慧は、もともとは貪欲という煩悩だったのですから。

 

概念のない状態―――つまり、至福に満ちた心―――の体験をつうじて空性を悟ることができれば、そうやって生み出された智慧は、苦しみの原因となる煩悩やあやまった認識の力をすべて弱める、きわめて強力な解毒剤としての役割を果たすようになります。幻影から生じた智恵が、幻影を破壊するのですから、幻影そのものが幻影を破壊するのだ、といってもいいかもしれません。

 

性的欲望から生み出された至福に満ちた空の体験が、その性的衝動の力を融解させてしまうのです。これは、木に生みつけられる虫の生き方に似ています。この虫は、自分が生みおとされたまさにその木を食べるのです。幻影を悟りへの道の推進力として使うことは、密教のユニークな特徴です。』

(宇宙のダルマ/ダライラマ/角川書店P132-133から引用)

 

最近巷間の房中術本を読んでみたが、大半は快感追求に終始し、ダライラマのように人間を超えていく技術の展開として捉えているものはなかった。

 

若い時期の禁欲はきついが、禁欲の準備ができた者だけが、その先に進むことができる。また性的衝動が悟りの推進力なのだが、その原理は、カーマ・ヨーガだけで用いられているわけではない。

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ダライラマのカーマ・ヨーガ-2

2022-11-16 12:02:11 | カーマ・ヨーガ(性愛冥想)(冥想法4)neo

◎エクスタシーの秘密

 

ダライラマは、無分別智から光明に至ることを示し、日常の生活体験には無分別智にコンタクトするチャンスが性的な絶頂時など4種あることを示した。以下では、性的な絶頂時と射精コントロールについて説明する。

 

『これらの自然に生じる四つの状態の中で、光明を体験する最高の機会を与えてくれるのは、性的な絶頂時です。もっとも、「性的」といったからといって、ふつうの意味ではありません。異性と一体になることによって、生命力の元素が頭頂から溶けだしてきます。

 

さらに瞑想の力によって、その流れを逆流させ、上昇させるのです。性的ヨーガのきわめて高度な修行をおこなっていく場合、行者に欠かせない条件のひとつは、射精しないだけの十分なコントロールの力を持っていることです。射精は修行のさまたげになると考えられているのです。

 

特に『カーラチャクラタントラ』は、精液の放出は、修行にダメージをあたえるから、夢のなかでも精をもらさないように、みずからをコントロールしなければならないと、強く戒めています。

 

無上ヨーガの密教経典には、行者が夢精を避けるための、さまざまな技術も説明されているのです。このような無上ヨーガタントラの考え方は、小乗の戒律であるヴィヤナとは対照的です。ヴィヤナのなかで、ブッダは、夢精を例外として認めています。修行者の意識的なコントロールを超えていると考えられるからです。

 

ところが夢の中であっても射精することのないように努力すべきだと、タントラは特に強調しているのです。』

(宇宙のダルマ/ダライラマ/角川書店P131-132から引用)

 

小乗では夢精を認め、密教では夢精をも認めない。その差異の結果については言及していないが、チベット密教では行者が夢精を避けるための、さまざまな技術も説明されているほどにここの部分は厳格に対処されてきたのだろう。

 

改めて言うまでもないが、これは男性側の修行となる。エクスタシーにあっては、生命力の元素が頭頂から溶け出すが、それを上方に逆流させることだとグランド・デザインを示している。

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ダライラマのカーマ・ヨーガ-1

2022-11-16 12:00:09 | カーマ・ヨーガ(性愛冥想)(冥想法4)neo

◎自然に無分別智を経験する

 

ダライラマが、密教でのカーマ・ヨーガに言及している。

『『秘密集会タントラ』の本尊のうち、ジュニャーナパーダ流でおもに用いられるグヒヤサマージャ・マンジュシュリーヴァジュラの究竟次第についての注釈である『マンジュシュリームカーガマ』(マンジュシュリーの聖なる言葉)の中で、インド人の導師プッダシュリージュニャーナは次のように言っています。

 

この惑星に人間として生まれた者は、誰であれ、その身体構造と構成元素のおかげで、光明や概念のない状態(無分別) と呼ばれる繊細な意識のありようを、わずかな間ではあるけれども、自然に経験する場合がある、と。

 

それは、睡眠中、くしゃみをするとき、気絶、そして性的な絶頂時です。自分自身の中にもともと何らかの潜在能力や種子があるからこそ、それを大きく成長させることが可能なのです。』

(宇宙のダルマ/ダライラマ/角川書店P131-132から引用)

 

※直観智とは、般若のことであって、無分別智ともいう。主体客体を離れた智恵のこと。あなたは私であるという境地にあって初めてこれを知る。

 

チベット死者の書では、死の最初のステージで原初の光明という悟りに早くも到達するが、無分別智はそれと同じと思われる。修行によって主体客体を離れるのは簡単なことではないが、ここでは、自然な生活の中で、般若=無分別智へコンタクトすることがあることを指摘している。

 

このわずかなチャンスであっても、人間には無限光明ニルヴァーナに向かう可能性があることの説得材料として、チベット密教者はこれを出してきている。この4種のチャンスの中でくしゃみはもっともありふれているが、その一瞬に般若を感得するには、相当な繊細さが要求される。

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カーマ・ヨーガ(性愛冥想)

2022-11-16 07:28:45 | Overview of the meditation 冥想の全体像

◎【第五章】冥想の種類

◎単体冥想の評価と方法

  1. 単体冥想のいろいろ

(4)カーマ・ヨーガ(性愛冥想)

 

カーマ・ヨーガは、男性の側の修行法であって、女性の側の修行法ではない。またカーマ・ヨーガには、きちんとした相手が必要であって、不倫の相手とか一夜限りの相手であっては成らない。

またカーマ・ヨーガは、気功・導引やハタ・ヨーガのように健康法的位置づけではあって、窮極に至る前段の修行法ではある。気功・導引やハタ・ヨーガを選ばずにことさらにカーマ・ヨーガに進むのは、女性への執着と反作用を恐れないということだろうか。

 

またカーマ・ヨーガについて真剣に述べているのは、ダンテス・ダイジとダライ・ラマ。チベット密教には、カーマ・ヨーガの伝統があり、彼はそれの何たるかを知っている凄味がある。ダライ・ラマは、チベット密教学者としても超一流だなどと言っても仕方がないが、一隻眼を有した現代の神人の一人だと思う。

 

OSHOバグワンは、うそは言っていないのだろうが、真剣なカーマ・ヨーガ探求者にとっては、はぐらかされるところが多い。

 

またカーマ・ヨーガで究極に達した女性求道者の話が時々あるが、カーマ・ヨーガの原則に照らしてどうなのかはよくよく吟味する必要があると思う。

人生をほとんど卒業した相思相愛の男女のみが参加資格があるのであって、それ以外の人は、無間の淫欲地獄に取り込まれるだけのことであると思う。

 

以下にダンテス・ダイジのカーマ・ヨーガ関連の記述を示すが、あくまで、窮極そのものでなくその前段の修行法であることは意識すべきだろう。

 

『ソーマ薬草は、

神経生理機能にカルマを残し、

カーマ・ヨーガ(房中術)は、

女性に対するカルマを残し、

坐禅は、禅味に味着するというカルマを残し、

解脱は、

あらゆる俗界にカルマを残す。』

(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジP159から引用)

 

『3.カーマ・ヨーガ

性愛にもとづく全面的な交合によって、肉体内分泌腺とエーテルエネルギーを、快楽を通じて活性化せしめる。』

(上掲書P27から引用)

 

『カーマ・ヨーガ(房中術)は、

冥想的観点から見ると、

男性側の修行法に属する。

 

一般的に、

女性のエゴは、

失神にまで至る無数の性的オルガズムと、

男性への愛着から愛情への成長か、

最愛の男性の子供を出産し養育することにより、ほとんど完結する。

 

一般的に、

女性の失神にまで至る、

全身心的オルガズムは、

相手である男性に対する、

全面的な愛情と信頼なしには 起こり得ない。

 

カーマ・ヨーガ行法要領。

1、相手となる女神は、処女か、あるいは純真な心の持ち主でなければならない。

2、少しのこだわりもない全面的な愛情関係でなければならない。

3、女神には、失神または熟睡に至るまで何回でもオルガズムを与えねばならない。

4、男神であるカーマ・ヨー ギ は 決して射精しては ならない。

5、性行為終了後、冥想修行に入る。』

(上掲書P160-161から引用)

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