アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

人はいつ正師に出会えるか

2022-11-23 07:18:26 | 現代冥想の到達点neo
◎ユクテスワの説明

厳密に言えば、悟ってない人は、誰が悟っていて誰が悟っていない人か見分けることはできないし、誰が正師かどうかもわからない。

パラマンサ・ヨガナンダの師匠の師匠がユクテスワ。彼が説く、人はいつ正師に出会えるかについては、真剣な求道者が一定の進境に達すると出会えるとしか書いていない。(聖なる科学/ユクテスワ/森北出版P23)

例のイエスの到来を日々願っている篤信者のところに、ある日ついにイエスがやってきたが、彼は眠っていて気がつかなかったという話を思い起す。
正師に出会ったかもしれないが、それをわからずに過ごすということはある。

そこでは、自分の真剣さ本気度が問われる。笠地蔵の老夫婦も実は結構真剣で本気だったのだろうと思う。
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魏伯陽の死-2

2022-11-23 07:16:12 | 道教neo
◎我が身を死んでみせる

魏伯陽の故事の続きです。

『弟子たちは互いに顔を見合わせて、「丹薬をつくって長生を願ったというのに、服んで即死するとは、これはどうしたらよいだろう」と言いあった。

ところがその中の弟子一人だけは、「先生は非凡のお方であった。服薬して死なれたのも何かお考えがあってのことかもしれない」といって、丹薬を取って服むと、これまた死んでしまった。

残った弟子二人は、「丹薬を手に入れるのも長生を願えばこそだ。今これを服んで死んだ以上、何もこれを使用することはない。こんな薬を服まなくても、どうせ今後数十年間はこの世に生きておられるはずだから」と話し合って、ついに服まずに一緒に山を出て伯陽および死んだ弟子のために棺材を探そうとした。

さて二人の弟子が去ったのち、伯陽はすぐ起き上がり、服用した丹薬をば、死んだ弟子と白犬の口に入れてやると、みな生き返った。その弟子の名は虞といってついには二人とも仙人となった。

途中で山の木こりに出会ったので、郷里の人に礼を述べる手紙を書いて届けてもらった。二人の弟子はそれで初めて後悔したものである。 』
(出典:神仙伝)

魏伯陽は、呼吸停止、脈拍停止の仮死の状態にあったのだと思われる。ある冥想状態では、このような状態があることがいろいろな記録に残されているのでこれは、不思議とするには当たらないだろう。

残った弟子二人が死の丹薬を服まなかったのは、現代人としては妥当な判断であるが、内丹(クンダリーニ・ヨーガ)の道に進もうとする人間としては決定的な覚悟が欠けている。その覚悟とは、この世のあらゆるものに別れを告げる覚悟である。財産、家族、地位、名誉、世間の評判、親友、恋人、将来の夢こうしたものすべてを捨ててみせる覚悟のことである。

ここをわきまえている師匠であれば、入門時に徹底的に、弟子のこの部分をテストしてかかり、入門させないものだと思う。だからといって、魏伯陽が不徹底であると断ずることはできない。

むしろ弟子のカルマを見て、彼らのためになると見て、殊更(ことさら)に入門を許し、更に弟子のために我と我が身を死んで見せるのは、彼らへの大きな思いやりが見て取れる。弟子のために身を捨ててみせたのであってこれ以上の愛情はあるまい。
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魏伯陽の死-1

2022-11-23 07:13:18 | 道教neo
◎この世への未練をすべて捨てる

魏伯陽は、内丹(クンダリーニ・ヨーガ)の中国最初の専門書である周易参同契を著した人物。周易参同契の特徴は五行(木火土金水)、八卦の易の体系でもって内丹の手法を説明したところ。               

クンダリーニ・ヨーガといえば、この世の次元を超えて何かぶっ飛んだ素晴らしい体験が待っているかのようなイメージが先行するかもしれないが、その修行に入るためには、この世に対するあらゆる未練とか、世俗の欲望をすべて捨ててかからなければまず成功することはないだろうということが、以下の逸話の中に見て取れる。

魏伯陽は呉の人。ある日弟子三人とともに山に入り神丹を作った。
『丹薬は完成したが、弟子たちの心構えが、まだ十分に本気でないのを知って、これを験そうと思い、

「丹薬はできたが、まず犬にやって試してみるべきじゃ。もし犬が飛ぶようならば、その後で人間が服(の)んでよろしい。もし犬が死ぬようなら服むわけにはゆかぬ」といった。

そこで犬にやって服ませてみると、犬は即死した。

伯陽は、弟子たちにいった、「丹薬を作るのにひたすら完成を念じてきた。ところが今や完成はしたものの、犬がそれを食って死んだというのは、おそらくまだ神明の意にかなわないものと思う。服めば、たぶん犬と同様になるだろう。どうしたらよいだろうか。」

弟子たちが「先生は服用なさるおつもりでございますか。」と訊くと、伯陽は答えた、「私は世に背き家を捨てて山に籠もった。道が会得できずとも、再び戻ってゆくのは恥じゃ。死ぬも生きるも、とにかく私は服んでみる」

さて丹薬を服むと、口に入れるなり即死した。』(続く)
(出典:神仙伝)

師匠が自らの術の精華である丹薬を服用し、あっと言う間にこの世を去った。師匠亡き今、弟子たちが効果的な修行を続けて行ける保証はなくなった。
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自分が悟っていなければ、正師の見分けがつかない

2022-11-23 07:07:06 | Overview of the meditation 冥想の全体像
【第六章】正師の見分け方
1.自分が悟っていなければ、正師の見分けがつかない。

冥想のメカニズムを知的に納得することで冥想修行のモチベーションが起こってきたとすると、次のテーマは、自分が悟っていないことの自覚と、正師との出会いである。

(1)自分が悟っていないことの自覚
人が神仏を悟るやり方には次の三区分があり、いずれの体験もなければ、自分は悟っていないということである。

(a)神仏に憑依される
これは、憑依中について自分では何が起きたかわからないので、審神者の介在が必要になる。
(b)神仏を見る
これは、神仏を見ている自分が残っている状態なので、自分の体験である。
(c)神(仏)人合一
これは、神仏を見ている自分がもはやない状態なので、自分の体験とはいえない。体験とはいえない体験となる。

(2)正師との出会い
 正師とは悟りを得たマスターのことである。
例えば、気分が落ち着く、元気になる、健康になる、血行がよくなる、あるいは金運上昇や恋愛成就とか、合格祈願などの現世利益を狙った「効果を求める冥想」においては、必ずしも正師は必要ではない。正師を必要とするのは、ほとんど人生の卒業に手がかかった冥想修行者であって、人生上の世俗のことの方が重要と思う人にとっては、正師はまだ必要とは思われないのだろう。

中国道教の魏伯陽には3人の弟子がいたが、死に至る毒を飲めと命じることで、毒を飲んだ一名だけに修行の継続を認め、飲まなかった二名は自分の意志で修行をやめて故郷に帰ってしまったという故事がある。正師が必要な段階にあったのは一名だけだったのだ。帰郷した二名は正師と出会っていたにもかかわらず、正師の見分けはつかなかったのだ。

以上まとめると、自分が悟っていなければ、既に正師に出会っていようがいまいが、誰が悟っていて誰が悟っていない人か見分けることはできないから、誰が正師かどうかもわからない。このような状況では、正師に出会うことは、まったく自分の希望や意志とは別個のところで起きるように思われる。

これを踏まえてユクテスワは、「真剣な求道者が一定の進境に達すると出会える」と突き放した説明をしているが、もっともなことだと思う。
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