アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

クリシュナムルティが潔癖性だったこと

2022-11-27 14:54:10 | 只管打坐neo
◎聖者の弁別

ニルヴァーナを生きるクリシュナムルティなどにとっては、自分が殺されようが、傷つけられようがそんなことは、自分の知ったことではないというのが基本姿勢のはずだが、彼は潔癖性だった。

彼の専属の典座(コック)のクローネンがクリシュナムルティが探していてみつからなかった本「ソローのパタゴニアン急行」を町の古書店で見つけた。

クローネンが食事の後、クリシュナムルティを呼び止めて、その本を献じようとしたとき、
『彼の応答は私が期待していたのとは違っていた。私が手渡そうとした本を手に取る代わり、何か危険なものが隠されてでもいるようにそれを不安そうに見た。彼はおずおずと片手を伸ばし、一本の指先で。プラスチックカバーにちょっとさわり、すぐに引っ込めた。
「それを洗いましたか?」と彼は尋ねた。

私は当惑した。「洗いましたかって?」と私は繰り返した。
「それは古本でしょう?いろんな人が手を触れているから汚いんじゃない?」
彼の考え方の流れを辿るのに少し戸惑った。それから吹き出したくなる思いに駆られた。私が流し台に立って本の一頁、一頁を石鹸とスポンジで洗っているイメージが全くおかしく見えたからである。「その通りです。クリシュナジ」と私はまだどうしようかと迷いながら答えた。

「カバーと内側を洗ってから、あとで私に下さい」と彼は台所を出る前に言った。

石鹸と水で本をこすりながら、衛生と清潔に対する彼の態度を考えてみた。現実的なものに対する彼の敏感さは前から気づいてはいた。―――――清潔な容姿、衣服の評価だけでなく、何であろうと汚れ物に触れたり、多くの手で触れられたものに触れることを彼は極端に嫌悪していた。車や、汽車や、飛行機で旅行するときに皮の手袋をはめるのはこうした理由からなのだろう。』
(キッチン日記/マイケル・クローネン/星雲社から引用)

だからといって、聖者を見るのに、その人の人間的なところばかり見てはいけないと思う。こんなふうだから、現代人は、何が正しい行為で何が邪な行為か見分けられないし、聖者と悪人も見分けられないなどと、辛らつな評価を受けるのだ。
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被災地でのオープン・マインド

2022-11-27 14:51:25 | 時代のおわりneo
◎人間の現実と救い

『リフトンはdeath in lifeの中で被爆初期の状態を「被爆直後の経験で心理学的に最も重要なことは普通の生活体験から急激に、しかも完全に驚くべき死と遭遇したことである。死そのものを想像すること以外に生と死が交錯し、転倒し、もはや区別できないという感覚に襲われた被爆者も数多くあった。

生と死の交錯に深い関係のあることは、個人的社会的秩序の崩壊すなわち人間関係の喪失と物理的環境の喪失である。秩序の突然の崩壊は人の心に深い影響を及ぼした。」』
(原爆放射線の人体影響1992/放射線被曝者医療国際協力推進協議会編/文光堂P146から引用)

これは原爆の被爆者についての記載である。だが、この状態は、今般津波の被害で家を失った人も同じである。帰って安らぐ家を失い、家族、隣人が亡くなったからである。

伝統的な心理学では、被災者は「心理的閉め出し」とよばれる、心の扉を閉ざし意図的に無感覚となる状態に入り、やがて徐々に旧知の人との人間関係を復活させながら社会性を回復していくものとされる。

現代アメリカの覚者ケン・ウィルバーは、この初期段階で、あえてオープン・マインドにすることが大切であると説く。

この残酷で、非人間的な光景にさらされた、人間にとって最も先入観が揺らいだ心理状態において、心を開いて見よと、ケン・ウィルバーは勧めるのである。
昨日までの社会性が、突然崩壊した中で、あえて正気でいなさいと言う。

NHKの番組の被災者からのビデオ・レターで、何人もの被災者が「私は、生き残って元気です。」と語った後に、被災者はまず泣くものだ。

不条理に直面せよ、人間の現実を直視せよ、と言うは易いが、残酷なものだ。でもそこを越えていかないと、人間のあらゆる苦悩を超克するなんてのは夢物語なのだろうと思う。
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冥想する気分にならなくても坐る

2022-11-27 07:09:48 | Overview of the meditation 冥想の全体像
◎【第七章】冥想に取り組む姿
◎3.冥想する気分にならなくても坐る

生きていれば、いやなことはあるものだ。だが、いやな気分や沈んだ気持ちを払拭しようとして冥想するのは、本来邪道である。例えばマントラ禅に分類される念仏やお題目を唱えて、南無阿弥陀仏になりきったり、南無妙法蓮華経に成り切ったりすれば、血行はよくなるし、気分はスッキリ爽快となる。だがそうしたポジティブな効果があったとしても、効果だけを求めるのは邪道なのだと思う。
だがそれは、十分に冥想が深まった場合のこと。

実際問題として、平日朝夕30分の冥想時間をとるのは相当に大変なことである。全く冥想しないのはまずいので、そこでやむなく短時間の冥想をすることになる。その場合、冥想する気分になってから坐るというのは、ほとんどあり得ないことになる。実際に時間に追われて暮らしていけばそうなりがち。

われわれの大部分は、死ぬことと同様に生きることをも恐れている。すなわち家族のことを心配し、世間の批判を恐れ、仕事や生活の保証を失うことや、その他多くのことに恐れを抱いて生きている。こうした、不安定、不愉快な気分をかかえて、毎日生きていく中で冥想するとは、
まさに毎日の生活に直面するということ。

つまり平素の面白からざる気分で冥想を始めざるを得ないことの方が多いということ。

冥想熟達者は数分で定に入ることができるという。だが、そういう他人の冥想のことを言っても仕方がない。自分の冥想に上手下手はないのだ。どんな気分でも坐るしかないのだ。

ケン・ウィルバーが、東日本大震災でオープン・マインドを説いたのも、被災後の鬱屈した気分でもオープン・マインドを、ということだが、どんな気分でも坐るということと発想は同じ。
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