退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「ヒト科であること」について

2013-01-31 02:56:11 | Weblog
晴れ。やや風が吹く。

「ヒューマン なぜヒトは人間になれたのか」読了。

人間とチンパンジーの遺伝子の違いはわずか1%。
ところが前者は進んで相手に協力するが後者は基本的に無関心。

ホモ・サピエンスはネアンデルタール人との「戦い」に「飛び道具」で勝った。
「武器」として「罰を与える道具」としてそれは機能した。

生き残ったのは「身内に対して利他的で、対外的に非友好的なグループ」だった。
ヒトが「農耕」や「家畜」を採用したのは決して「経済的理由」だけではなく。

「交換形式」が発達し「貨幣」が人々の欲望を無限にした。
その結果としての「環境破壊」があらためて「価値」を見出させたり。

ヒトが「平等を望む心」を持ちつつその一方で
「圧倒的な攻撃欲の持ち主」でもあることなど。

「人間」という存在のやっかいさと不思議さをそのままに
ここで挙げた以外にもさまざまな「材料」を提供してくれる本書は面白い。

それらをどう結論づけるかは読者次第なので
要は「自分が試される」のだと思っていればいいだろう。

たとえば「孤立」を生むものでもあり「コミュニケーションを広げる手段」でもある「貨幣」。
その「両義性」をどう使いこなすのかとか。

またその一方で「人気投票」としても機能し
「自分の好むもの」に使うことによって「支援」にもなる。

もっとも支援する対象によって印象は大きく異なったりもする。
「3・11の被災者への募金」と「キャバクラやホストあるいはAKB」へのそれを思えば。

あらかじめ「用途」の決まっているものと比べると
その点においても「貨幣」はあらゆるものと交換可能だという「特質」が浮かび上がる。

実はそこに「大いなる飛躍」があることを暴いたのはマルクスだけれど
「貨幣が流通する現実」は変わらず。

できればそういうものとは「無縁」に暮らしたいと思っていた自分も
「老後」のためにわずかな「貯蓄」に励んでいたりして。

この「バカバカしさ」にはせめて「哄笑」で答える用意だけはしておきたい。
そして「下等遊民」は明日も適当に働く予定。

いやはや。

「自分のこと」は「棚に上げる」よりない。
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