『晴れ。今日もおだやか。
老舗バーは店自体がお休みのよう。
いちおう電話をかけてみたものの留守電にもなっていず。
いささか心配ではあるけれどまあ大丈夫だろう。
エティエンヌ・ド・ボエシ「自発的隷従論」を読む。
王が王であり続けるのはそれを認める人々がいるから。
その単純な「事実」をあらためて。
「慣習による怠惰」はむしろ「自由を失っても平気な心性」を再生産すると。
権力にすり寄る人々の群れは「小圧政者」として新たに「すり寄る人々」を生み出すとも。
思考する上で「何もない場所」に戻れることが重要。
あるいは「権力関係」とは無縁な「対等な存在」を友にすることも同様に。』でまた寝る。
晴れ。夜になって降り深夜に止む。
相倉久人・松村洋「相倉久人にきく昭和歌謡史」を読む。
「ジャズ評論家」だと思っていた人が「陸軍幼年学校」の出身だったことを初めて知る。
同級生には推理小説作家の西村京太郎も。
音楽で大事なのは「リズムと音色」。
普段の話し言葉がその基本となる模様。
「人の複雑さ」をあらためて。
「自分の表現」を理解しない相手が悪いのではなく「伝え方が下手なだけ」という視点よ。
いかにも今にふさわしい言葉にうなずくのみ。
詳細は敢えて述べないので本書まで。
エノケン、服部良一、美空ひばり、坂本九、クレージー・キャッツ、
あるいは山口百恵、松田聖子、中森明菜、河合奈保子(!)、ニュー・ミュージックについて。
マル激を観る。
わが国には例えば「教育と住居」が「誰にでも手に入れられるもの」という「思想」がない。
だからこそ個人がそれらを負担せざるを得ずいたずらに「生活」が貧しくなる仕組み。
北欧の人々が高い税率に文句を言わないのは「老後や社会保障」を心配する必要がないから。
そこに「不安」があるからこそ人は貯蓄に励むことになり。
その一方で「教育の基本」が「情けは人のためならず」であることを忘れて。
「子どもは未来」であり「みんなで子育てのコストを負担する」という視点もないまま。
「産業構造の変換」あるいは「年齢に関わらない再教育」を意識しない政府の政策たるや。
「共感あるいは同情」に基づく「統合」がなされるはずもなく。
和田誠「麻雀放浪記」(’84)を久方ぶりに再見。
そうかもう33年前の作品なのかとしばし感慨にふけった次第。
原作を読んだのは学生時代。
「東京の花売り娘」と「センチメンタル・ジャーニー」が流れる中
真田広之の「坊や哲」が「大人」になっていく。
冒頭の賭場のメンバーが素敵。
内藤陳、篠原勝之、天本英世、逗子とんぼらの醸し出す「戦後」。
もちろん一番いいのは「出目徳」の高品格。
笹野高史や鹿内孝が出ていたのは申し訳ないが忘れていた次第。
名古屋章、鹿賀丈史、加藤健一の「ヤクザ加減」も素敵。
加賀まりこと大竹しのぶも若いこと。
この種の「リアルさ」は今こそ思い出されるべきかも。
ちなみに原作の著者阿佐田哲也は空襲で何もなくなった街の姿を「もとっこ」と。
この種の「歴史」と「事実」を知れば人はもっと「やさしく」なれるはず。
「最低限」をどのように判断するかがネック。
老舗バーは店自体がお休みのよう。
いちおう電話をかけてみたものの留守電にもなっていず。
いささか心配ではあるけれどまあ大丈夫だろう。
エティエンヌ・ド・ボエシ「自発的隷従論」を読む。
王が王であり続けるのはそれを認める人々がいるから。
その単純な「事実」をあらためて。
「慣習による怠惰」はむしろ「自由を失っても平気な心性」を再生産すると。
権力にすり寄る人々の群れは「小圧政者」として新たに「すり寄る人々」を生み出すとも。
思考する上で「何もない場所」に戻れることが重要。
あるいは「権力関係」とは無縁な「対等な存在」を友にすることも同様に。』でまた寝る。
晴れ。夜になって降り深夜に止む。
相倉久人・松村洋「相倉久人にきく昭和歌謡史」を読む。
「ジャズ評論家」だと思っていた人が「陸軍幼年学校」の出身だったことを初めて知る。
同級生には推理小説作家の西村京太郎も。
音楽で大事なのは「リズムと音色」。
普段の話し言葉がその基本となる模様。
「人の複雑さ」をあらためて。
「自分の表現」を理解しない相手が悪いのではなく「伝え方が下手なだけ」という視点よ。
いかにも今にふさわしい言葉にうなずくのみ。
詳細は敢えて述べないので本書まで。
エノケン、服部良一、美空ひばり、坂本九、クレージー・キャッツ、
あるいは山口百恵、松田聖子、中森明菜、河合奈保子(!)、ニュー・ミュージックについて。
マル激を観る。
わが国には例えば「教育と住居」が「誰にでも手に入れられるもの」という「思想」がない。
だからこそ個人がそれらを負担せざるを得ずいたずらに「生活」が貧しくなる仕組み。
北欧の人々が高い税率に文句を言わないのは「老後や社会保障」を心配する必要がないから。
そこに「不安」があるからこそ人は貯蓄に励むことになり。
その一方で「教育の基本」が「情けは人のためならず」であることを忘れて。
「子どもは未来」であり「みんなで子育てのコストを負担する」という視点もないまま。
「産業構造の変換」あるいは「年齢に関わらない再教育」を意識しない政府の政策たるや。
「共感あるいは同情」に基づく「統合」がなされるはずもなく。
和田誠「麻雀放浪記」(’84)を久方ぶりに再見。
そうかもう33年前の作品なのかとしばし感慨にふけった次第。
原作を読んだのは学生時代。
「東京の花売り娘」と「センチメンタル・ジャーニー」が流れる中
真田広之の「坊や哲」が「大人」になっていく。
冒頭の賭場のメンバーが素敵。
内藤陳、篠原勝之、天本英世、逗子とんぼらの醸し出す「戦後」。
もちろん一番いいのは「出目徳」の高品格。
笹野高史や鹿内孝が出ていたのは申し訳ないが忘れていた次第。
名古屋章、鹿賀丈史、加藤健一の「ヤクザ加減」も素敵。
加賀まりこと大竹しのぶも若いこと。
この種の「リアルさ」は今こそ思い出されるべきかも。
ちなみに原作の著者阿佐田哲也は空襲で何もなくなった街の姿を「もとっこ」と。
この種の「歴史」と「事実」を知れば人はもっと「やさしく」なれるはず。
「最低限」をどのように判断するかがネック。
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