『くもり。天気予報に従ったらハズレ。
本切れで「論争 格差社会」を古本屋で買って読む。
「格差」という言葉の「定義」もないままに。
ほぼ何も言いたくなくなるような内容。
「原理的な思考」がここにはない。
ただ「過去」と「現在」の追認があるのみ。
「同じ資料」を元に「まともな議論」はできないものか。
どうにも「噛み合わない」事実が残る。
今宵も老舗バー。
スイス出身の23歳の若者が途中から来店。
下手な英語でしばしコミュニケーション。
「徴兵」の代わりに「ボランティア」を選んだ模様。
ドストエフスキーが好きだという彼はチェーホフを知らず。
農業を学びに北海道へ。
日本の各地に友だちがいるようでもうすぐ帰国する予定。
繁華街の喧騒を嫌って地下のバーへ。
大いにうなずきつつ。
彼は本国では「少数派」だったのこと。
「いじめ」に遭ったと思われる発言もあり。
「『主流』にいない人々」が「外国」に興味を持つという「定理」。
こちらも「少数派」なのでしばし楽しく話す。
「毎日飲むのか」と聞いたら農作業がハードで寝てしまうなどと。
詩人ランボーを知らないままペルノーを飲んだり。
互いに「母国語」を使わないコミュニケーションには「微妙な間」が生じる。
ただしそこには「気遣い」があることはありありと感じられて。
「どう話したら自分の言いたいことが伝わるのか」
実はその「間」こそ好ましいことを覚えておきたいもの。
なまじ「同じ言語を共有してる」という前提があれば
むしろ「些細な違和感」が採り上げられるだけで。
帰宅後飲み直す。
「That's the way, aha aha I like it♪」』と書いて昨日は爆睡。
晴れのちくもり。途中で雨も降るが暑い暑い。
李鳳宇・四方田犬彦「民族でも国家でもなく」を読む。
しばらく読んで再読だとわかった次第。
「アジア方面」に関する見方として知っておくべき内容だと再確認。
「交流」そのものがなければ「ステレオタイプな判断」が幅を利かせる。
「知らないこと」によって生まれる「弊害」を忘れずに。
とりわけ「北朝鮮」に対する判断に注意。
実は「かの国」が「小国」として「なかなかの振る舞い」をしていることなど。
もちろん「現体制」は好ましくないのだとして
かつても今も「独裁政権の国々」と付き合っている「事実」を覚えておこう。
西牟田靖「わが子に会えない」を引き続き読む。
副題に「離婚後に漂流する父親たち」。
詳細の違いはあるものの「子どもに会えなくなった父親たち」の具体例をあれこれと。
ありもしないDVを言い立てられたり相手方の弁護士たちが暗躍したり。
なるほど「夫婦の関係」はここまで「断絶」するらしい。
その前にもう少し「妻」になった相手への判断と
自分のそれまでの「生活ぶり」を考えたらどうかなどと思いつつ。
おそらくは「不幸な出会いの結果」と言うよりなく。
ただ本書は「片方の意見」しか聞いていないのが問題か。
もっとも「親権」を片方にしか与えないという「法律の意味不明さ」も。
「会えない」という「現実」を作り出しているのはそのせいだから。
「DVの事実判定」について曖昧なのも同様。
「自分の思い通り」にしたい人々がたくさんいることはわかる。
マル激を観る。
「5金=5週目の金曜日」に久方ぶりの「映画話」。
「覚悟を持つこと=引き受けること」を描いた作品を紹介。
君のためなら死んでもいいと思う「仲間」が今どきいるのだろうかと思いつつ。
あるいはそうした「感受性」がごく普通に存在するのだろうか。
言いたいことはわかるつもりだしそれが「望ましいこと」だとも。
がしかし。
その種の人間が「多数派」になるとは到底思えず。
「細々と続く水脈のため」なのだろう。
「君の名は」を「ロマンチック」だという「批判」がそのまま返ってきそうな。
いずれ「ロマンチック」ならどちらを選ぶのも「自由」。
結局「自分のいいと思うもの」を勧めることに変わりはなさそうで。
ならば自分も「同じ穴のムジナ」かと納得する。
本切れで「論争 格差社会」を古本屋で買って読む。
「格差」という言葉の「定義」もないままに。
ほぼ何も言いたくなくなるような内容。
「原理的な思考」がここにはない。
ただ「過去」と「現在」の追認があるのみ。
「同じ資料」を元に「まともな議論」はできないものか。
どうにも「噛み合わない」事実が残る。
今宵も老舗バー。
スイス出身の23歳の若者が途中から来店。
下手な英語でしばしコミュニケーション。
「徴兵」の代わりに「ボランティア」を選んだ模様。
ドストエフスキーが好きだという彼はチェーホフを知らず。
農業を学びに北海道へ。
日本の各地に友だちがいるようでもうすぐ帰国する予定。
繁華街の喧騒を嫌って地下のバーへ。
大いにうなずきつつ。
彼は本国では「少数派」だったのこと。
「いじめ」に遭ったと思われる発言もあり。
「『主流』にいない人々」が「外国」に興味を持つという「定理」。
こちらも「少数派」なのでしばし楽しく話す。
「毎日飲むのか」と聞いたら農作業がハードで寝てしまうなどと。
詩人ランボーを知らないままペルノーを飲んだり。
互いに「母国語」を使わないコミュニケーションには「微妙な間」が生じる。
ただしそこには「気遣い」があることはありありと感じられて。
「どう話したら自分の言いたいことが伝わるのか」
実はその「間」こそ好ましいことを覚えておきたいもの。
なまじ「同じ言語を共有してる」という前提があれば
むしろ「些細な違和感」が採り上げられるだけで。
帰宅後飲み直す。
「That's the way, aha aha I like it♪」』と書いて昨日は爆睡。
晴れのちくもり。途中で雨も降るが暑い暑い。
李鳳宇・四方田犬彦「民族でも国家でもなく」を読む。
しばらく読んで再読だとわかった次第。
「アジア方面」に関する見方として知っておくべき内容だと再確認。
「交流」そのものがなければ「ステレオタイプな判断」が幅を利かせる。
「知らないこと」によって生まれる「弊害」を忘れずに。
とりわけ「北朝鮮」に対する判断に注意。
実は「かの国」が「小国」として「なかなかの振る舞い」をしていることなど。
もちろん「現体制」は好ましくないのだとして
かつても今も「独裁政権の国々」と付き合っている「事実」を覚えておこう。
西牟田靖「わが子に会えない」を引き続き読む。
副題に「離婚後に漂流する父親たち」。
詳細の違いはあるものの「子どもに会えなくなった父親たち」の具体例をあれこれと。
ありもしないDVを言い立てられたり相手方の弁護士たちが暗躍したり。
なるほど「夫婦の関係」はここまで「断絶」するらしい。
その前にもう少し「妻」になった相手への判断と
自分のそれまでの「生活ぶり」を考えたらどうかなどと思いつつ。
おそらくは「不幸な出会いの結果」と言うよりなく。
ただ本書は「片方の意見」しか聞いていないのが問題か。
もっとも「親権」を片方にしか与えないという「法律の意味不明さ」も。
「会えない」という「現実」を作り出しているのはそのせいだから。
「DVの事実判定」について曖昧なのも同様。
「自分の思い通り」にしたい人々がたくさんいることはわかる。
マル激を観る。
「5金=5週目の金曜日」に久方ぶりの「映画話」。
「覚悟を持つこと=引き受けること」を描いた作品を紹介。
君のためなら死んでもいいと思う「仲間」が今どきいるのだろうかと思いつつ。
あるいはそうした「感受性」がごく普通に存在するのだろうか。
言いたいことはわかるつもりだしそれが「望ましいこと」だとも。
がしかし。
その種の人間が「多数派」になるとは到底思えず。
「細々と続く水脈のため」なのだろう。
「君の名は」を「ロマンチック」だという「批判」がそのまま返ってきそうな。
いずれ「ロマンチック」ならどちらを選ぶのも「自由」。
結局「自分のいいと思うもの」を勧めることに変わりはなさそうで。
ならば自分も「同じ穴のムジナ」かと納得する。