今朝は雪が数センチほど積もっていたが、雪掻きをするほどではなかったのでそのまま放置。気温はマイナス9度。
今日の写真は、この前撮った住宅の壁。茶色地に白いラインがくっきりと何かを主張している。ひびが入ったところを修繕してこうなったのだろう。この手のものは本来同じ色でやりたいところなのだが、完全に同じ色というのがなかなかない。結局、同系色でやるか全く違う色でやるかの二つに分かれる。そしてこうなるのだが、これも一つのアートとして見れば、それはそれで趣深い(かな?)。
今朝は雪が数センチほど積もっていたが、雪掻きをするほどではなかったのでそのまま放置。気温はマイナス9度。
今日の写真は、この前撮った住宅の壁。茶色地に白いラインがくっきりと何かを主張している。ひびが入ったところを修繕してこうなったのだろう。この手のものは本来同じ色でやりたいところなのだが、完全に同じ色というのがなかなかない。結局、同系色でやるか全く違う色でやるかの二つに分かれる。そしてこうなるのだが、これも一つのアートとして見れば、それはそれで趣深い(かな?)。
GYAOの無料映画は全般的にかなりしょぼいのだが、時に、えっこんな映画がと思うものが登場する。そんなもののひとつが今回の「フランシス・ベーコン 出来事と偶然のための媒体」というドキュメンタリー映画。タイトルどおりフランシス.ベーコンを追ったドキュメンタリーだ。
フランシス.ベーコンと言えば、ああ、あの歪んだ人物像のと直ぐ浮かぶ画家である。その特徴はかなり印象的だ。だが、個人的にはそれほど興味はなかったので、ベーコンが何処で生まれどういう生活をしてどんな人間だったのかという情報は一切知らなかった。恋多きゲイだったことも今回始めて知った。そんなことを知った所で作品の価値が変るわけではないのだが、いろんな角度から見られるようになるのはいいことかもしれない(新たな偏見を生む可能性もあるが)。それよりは、作品を製作するときの姿勢など興味深いことはいろいろあった。共通するのは、見る側のステレオタイプ的解釈と作る側の意図との齟齬だろうか。
昨日の写真を見て、これが何かと分かる人は多分撮った本人だけだろう。写真の面白さの一つは、部分を切り取ることによる具体性からの自由、抽象性にある、何てことも言えそうだ。で、昨日の写真の正体だが、歩道橋の上から階段を撮った写真である。黄色のラインと青の矩形がすでに幾何学的なデザインで、全体で見れば歩道橋の階段に何故こんな模様が、と気付く人は気付くが、その部分だけを取り出せば、もうソル.ルウィットか?の世界である。そして本日の写真は、マーク.ロスコか?といったところである。正体はジョギングロードの表面。
日本の建築家が、東京五輪の競技場案に異を唱えた。主な趣旨は、大きすぎて、神宮の森の景観を損ねるというもののようだ。はっきりと、デザインが良くないとは言わないが、本心はそういうことだと勝手に想像している。コンペで勝ち抜いたので、採用されなかった建築家が言うと余計な詮索をされるからというのもあるだろうし、確か選考委員には安藤忠雄もいたはずだから、いろいろ支障はあるだろう。それにしても、安藤忠雄はあれが本当に未来的な良い建築だと思ってるのだろうか。そうだとしたら、センスを疑う。前にも書いたが、SF映画での既視感たっぷりの、類型的デザインとしか思えないのだが。ギーガーあたりがエイリアンの為にデザインしたものと言っても何ら違和感はない。が、協会の役員たちのセンスからしたら、物凄く斬新で未来的に映ってるのだろう。歴史的文脈を無視した建物というのは間違いないが、この手の建物は、センスのないドバイや中国でこそ似合う建物である。
夜中に目が覚めると、イタリア対ウルグアイをやっていて、三位決定戦の割には白熱の試合だった(結局PK戦でイタリア)。しかしこんなものを見てると眠気ががなくなると思い、BSプレミアムに変えるとそこはバレエの世界だった(あまりに対照的)。パリオペラ座バレエ団の公演を放映していたのだ。予め言っておくと、過去バレエはテレビで見たこともないし(ローザンヌのドキュメンタリーは除く)興味を持ったこともない。ただ、何気無しに見ていると、演目が「un jour ou deux」というもので、振り付けがマース.カニンガム、音楽がジョン.ケージ、舞台衣装、装置がジャスパー.ジョーンズとある。なんだかコンテンポラリーアートが凝縮していそうで興味が湧き、ついつい鑑賞してしまった。
バレエに興味はないがマース.カニンガムの名前は知っていた。そして、今さっき知ったのだが(ネットで)、ジョン.ケージは彼女のパートナーだったということだ。そのケージの音楽は、生活音のような工場か何かの単調な音を連想させるパーカッションがずっと繰り返され、そこに他の単調な音が重ねあわされるというもの。個人的にはブライアン.イーノの「Thursday afternoon」を思い出した。そんな単調に思われるような音楽(そこが良いのだが)をバックに、コンテンポラリーダンスが延々と続く。現場にいたら、眠ってしまいそうだ、それもかなり気持ちよく。で、そのダンスだが、一つのストーリーを表すようなものではなく(多分)、色んな動きの集合によって、ある一日或いは二日の出来事を表現している(のか?)。部分部分の動きそのものは、ユニクロのUNIQLOCKに能のような動きを加味したようなもので、ユーモラスな動きにも見える(適当)。衣装、装置のジャスパー.ジョーンズに関しては、彼らしいものというのは発見できなかった。装置は、暗くてよく分からなかったというのが正直な所である。
見終わって、良かったかと問われれば、はいっ!とはっきりは言えないが、何はともあれ、これだけ見続けたのは今までなかったので、これはこれで初めての体験として貴重なものではなかったかと思った。
仙台市博物館で開催されている、ジョープライスコレクション「若冲が来てくれました」の紹介をBSでやっているのを見たのだが、若冲に関してはもう言わずもがな。それより、若冲以外でびっくりしたものがあった。それは葛蛇玉(かつじゃぎょく)の「雪中松に兎.梅に鴉図屏風」という絵だ。この作者の名前も初めてで(見たかもしれないが覚えていなかった、というのも京都でやった若冲展では展示されていたらしいのだ、多分若冲のものと思って見ていたのかと思う)。テレビを通してもその迫力は伝わってくるし、画力もあり、ポロックより200年近く前(1700年代)にアクションペインティングだ。今更ながら当時の日本の絵師の先鋭性と芸術性の高さに感服した。葛蛇玉、記憶すべき絵師である。
きょうは、無理やり路上美術館。まずはジャクソン.ポロック。
マーク.ロスコ
そしてルーチョ.フォンタナ。同じ路面にいろいろありまんねん。
暫く行くと今度はジャスパー.ジョーンズ(ちょっと無理があるか)。
脇にはデュシャンが(かなり無理がある)。
そしてソル.ルウィットも(徐々に無理やり度は増す)。
探せば結構あるものだ。小さなクリスト発見。
菅木志雄。
そしてジョージ.シーガル以前。ここまで来るとコンセプチュアルアートだ。
ニキ・ド・サンファル。これはかなり近いのでは。
中には本物もある。細川宗英(地元関連)。
ということで、路上はアートの宝庫であった。色々作品を楽しんだ後には、目先を変えて自然物を。オオカナダガン。珍しい鳥ではあるのだが、繁殖させたのが野生化したものらしい。言うなればカミツキガメと同じようなものだ。立派な外来生物。
ところでピンチョンの「競売ナンバー49の叫び」だが、未だに読了していない。買ったのが去年の暮れだからもう二ヶ月は経っている。元々読み易い小説ではないので、さらっとはいかないが、ちょっとかかりすぎである。普通これだけかかると読む気もないと見なされるところだが、決してこの小説が詰まらないと思ってるわけではないのだ。ページが進まない主な理由としては、読み始めると眠くなるというのがある。字が小さいので追ってると直ぐに眠気が襲う。だからねがけにはとても読めない。寝るためだけだったらいいが、この小説は集中力を要求するので、それなりの気持ちがないと世界に入り込めないのだ。今のところ一番適しているのが電車の中。ところが肝心の電車の中という状況が少ない。結果、こんなことになっているのである。
五分の三ほど読んだピンチョンの世界で思い出したのはジョイスのユリシーズ。似た構造を感じたのでちょっと調べてみると(ネットで)、ピンチョンがジョイスと常に比較されているという事実が判った。ユリシーズは二巻途中で脱落したが、その共通性を感じるくらいにはジョイスも読んでいたのだ。どこがと言われると上手くく説明は出来ない。ネットで調べた所、ミニマリズムに対してジョイス、ピンチョンはマキシマリズムと言われてるらしい。
そんな小説の内容とは関係なく、何故だか名前だけ覚えてしまうことがあるのも不思議だ。ユリシーズだと中心人物の名前スティーヴン.ディーダラス。決して覚え易い名ではないのにこれはもう不思議としか言いようがない。でピンチョンでは、ある会社の名前ヨーヨーダインが深くインプットされそうだ。この名前は覚え易い方かと思うが、何の関係もないときにふっと浮かんだりするところをみると、ヨーヨーダインという語感が好きなのかもしれない。
大自然の芸術作品という言い方をされる写真が今日のような写真、だと思うが、大自然の方からすると何も芸術作品になろうと思ってこうなってるわけではない。人間が勝手にそう思ってるだけのことである。しかもそれは、勝手に思ってる人間がそれをそう捉えて発表し、そう思って見る人の間でのみ成立するという、極小世界の出来事に過ぎない。まず切り取る方の恣意性があり、見るほうは大体タイトルで(今回であれば例えば永遠でもいい)芸術の準備をする。いずれにしろ、両者芸術的というステレオタイプを共有して幸せな関係が成立するわけである。
と、そんなことを考えての今日の写真だが、これは田んぼに積もった雪が風などの影響でこうなったと思われる(大自然的ではないが)、砂丘の風紋などと同じ類のものだ。こういうものを見て面白いと思うのは間違いなく人間だけだ。さらにこれが美しいと感じたならば、それなりの美の基準があるということになる。そもそも美しいとはどういうことか、などというのはこの際置いといて、こんな日日の美の体験を積み重ねて、それを抽象化して表現できるのが芸術家なのかもしれないが、そんなことを考えようが考えまいが、こういう風景はただいつものように存在しているのである。
最近は、歩いていると視線が地面にいくことが多い。決してうつむいてるわけではないが、その目はまるで獲物を探すハンターの目のようになっている、なわけはないが、傍目からすると、十分怪しい人間とは映っているかもしれない(かもではなく多分映ってる)。結果的には獲物を狙っていると言えるのだが、よくしたもので必ず何かしら収穫はある。しかし傑作はそう簡単に見つかるわけではない。が、今回久しぶりにその傑作と出会ったのだ。それは、この寒い今年の天気ならではの傑作だった。足元にこんなものがあるとは気付かずに、唯唯踏みつけられているのだが、その踏みつけられた結果がこの作品を生んだのだ。駅前なので、一体何人がこの作品製作に関わったかは不明。しかしきっちり足跡は残している。2点目のほうがより完成度は高い、と思う。
久しぶりに未知の作家の小説を読もうと思い松本の丸善に行った。大体買おうと思う候補は決まっていて、アメリカ文学のコーナーへ直行。アメリカ文学?とピンと来ない人も多いかと思われるが、これでも過去に、レイモンド.カーヴァーやジョン.アーヴィングなどを読んでいた頃があるのだ。そう言えばサリンジャーも。しかし今回は、それらの作家とは一線を画す作家。それはトマス.ピンチョンである。以前からいつかは読まねば、と殆ど義務感のようなものを持っていた。そして今回遂に購入することとなったのだ。この作家の小説は読む人も多くないので文庫にはない。当然単行本ということになるから、それなりのお値段。初ピンチョン(まるでピンチョスでも食べるような)として選んだのは、「競売ナンバー49の叫び」というやつ。有名どころでは「重力の虹」というのがあるが、本棚の前に立ったら何となくこの本が呼んでいたのだ。こういうのが実際の本屋での幸福な出会いというものだろう(大分脚色)。
ということで、取り敢えず新たな世界が待っている。
追記:と思ったら、いくつか文庫で出ていた。失敗した。
市から無料入場券を配付されたので、早速、それを使い諏訪市美術館に行ってきた。建物は昔に建てられた和風建築で、今見るとちょっと変な魅力がある。収蔵品は少なく広くも無いので、普段観に行くことは滅多にない。丁度今はある写真家の特別展をやっていて、かつ無料券があるので行く気になったのだ。それにしても外は寒かった、が、中も本格的な暖房設備がないのか、石油ストーブをがんがん焚いていても、それがおっつかないくらいに冷え冷え。取り敢えず二階の写真展を観る。地元縁の若手写真家(高木こづえ)の作品で、観るのは初めて(元々写真展というものには滅多にいかない)。しかし、何だかぱっとしないものばかりだった(デジタル処理をしている)。
そして一階に戻り、常設の彫刻を観る。地元出身の細川宗英という人の作品で、単体でいくつか観たことがあるが、まとめた作品は今回が初めて。じっくり観たが、これがなかなか良いのだ。というか、日本の彫刻の中で良いと思った数少ない作品の一つであった。一見具象で一部崩れたような抽象。一般受けはしなさそうであるが、質は高いと思った。土偶を思わせるような土俗性が、うまい具合に抽象化されている。ただ問題は展示の仕方。これらの作品は本人から寄贈されたものである。折角貰ったものなのに、あまりに唯置いてあると言った展示の仕方で、倉庫に置いてあるのかというくらいの冷遇的な展示の仕方だった。よく地方に、地元出身の作家の美術館がある。殆んどは観る気の起きない作品なのだが、どれも建物は立派である。それを考えると、これだけの作品なのにあまりに勿体無いと思った。同じく地元の松澤宥氏の作品と合わせて専門の美術館でも作ったら(設計は同じく地元出身の藤森照信か伊藤豊雄)ユニークないいものが出来るのに、と思わず夢想してしまった。個性的な作品なのだが、公共施設にした場合、二人とも知名度がネックになるのである。
結論。地元の美術館としては細川宗英の彫刻と、岡谷の武井武雄の童画は必見である。
丸谷才一が死去した。と言っても、特別思い入れがあるわけでもなく、読んだ本も笹まくらくらいなものなのだが、翻訳本に関してはちょっと引っかかる思い出がある。ジョイスのユリシーズだ(以前も書いた記憶がある)。丸谷才一訳のユリシーズ、確かに第一巻(全四巻)は読んだのだが、二巻の途中ですっかり放棄してしまったのだ。ダブリンでのある一日を四巻で描くという、どう見ても普通の小説ではないのだが(そこがジョイスの魅力でもあるが)、どうにも二巻の途中から進まなくなり、義務感だけで文字を追っていたがとうとう諦めたという経緯があるのだ。登場人物の一人スティーヴン.ディーダラスという名前だけは何故か覚えてしまったが、小説の世界を体験するというレベルには至らなかった。要するに、挫折した小説がユリシーズだったのだ。ジョイス関してはフィネガンズ.ウェイクも同じく挫折した。
結局、丸谷才一ではなくジョイスの話となってしまったが、ユリシーズは20世紀を代表する小説として、今でも失われたときを求めて(これは読破)と同じく燦然と輝いているのである(と読んでもないのにまとめてみました)。
嘗て中学の美術の試験(期末試験などのどれか)で、〇×問題が20問ほど出たとことがあった。何だか×っぽいのが多いと感じたのだが、なかなか確信には至らなかった。が、ふと出題者の性格を考えてみた。つまり美術担任の教師の性格をだ。一般的に言って、美術の教師はやはりひねくれた性格(というか屈した)の持ち主が多い、と思う。その時の教師もご他聞に漏れずだ。ここは相手の如何にもしそうなことを想像しなくては、と思い切って全て×にしたら、結果は見事正解だった。残念ながら、他の問題はできていなかったので、総合点は大したことなかったが、教師の裏をかいた快感は味わった。と、こちらも相当ひねくれた可愛げのない生徒であったわけだが、今でも、美術の試験っていらないんじゃないかと時々思うことはある。
そう言えば大学の時、一般教養で西洋美術史を取ったことがあり、その時は興味があると思ったのだが、内容は古典的なものが中心で、歴史的な背景、表現スタイルなどという地味な内容で(美術史だから当たり前なのだが)すっかり興味を失った覚えがある。メソポタミアの彫刻にはなかなか興味は持てなかったのだ。授業で唯一はっきり覚えているのは、後半で、ブランクーシの(当時は知らなかった)有名な彫刻が題材で、これは何を表現してるのかと質問され、秋刀魚かな(あまりに貧困でトホホ)と答えたことだった。今なら、いくらでも適当に答えられるが、当時はこの程度だったのだ。
と、芸術の秋などという字を目にしたら、昔のこんなことを思い出してしまった。