日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

昭和問わず語り6~プロ野球「黒い霧事件」と“悲運”の剛速球エース

2011-04-21 | 昭和
この企画も随分と間が空いてしまいました。再開します。
先日の大相撲の話の際に思い出した「プロ野球黒い霧事件」の話です。私の思い入れも含めて。

昭和44年のシーズンオフ。突如発覚したプロ野球界の「八百長事件」がありました。野球賭博にからんで、暴力団からカネを受け取って「わざと負けろ」という依頼を実行したとして、西鉄ライオンズ(現西武)の永易投手がスポーツ新聞に告発され、本人がこれを認めたこともあって即「永久追放」処分となりました。これが、いわゆる「プロ地野球黒い霧事件」の始まりでした。当時私は小学校の4年生の野球少年。知り合いにいただく後楽園球場ボックスシートの余り券である東映フライヤーズ戦に足しげく通い、大杉、張本、白、大下、大橋らが活躍すれど万年Bクラスのフライヤーズを熱狂的に応援していた周囲とは少し毛色の違う野球少年でありました。その意味では、フライヤーズが属するパリーグで起きたこの事件には、周囲の子供たちよりも大きな衝撃を受けたのでした。

ただ、永易投手の一件が巷をにぎわした頃は当人をあまりよく知らなかったこともあり、(実は元東映所属でトレードで西鉄に移籍したという重大な事実をその時点では全く知らず)、事件は自分の応援するチームには無関係の話であると思いこんでいたのです。永易投手の「永久追放」で一件落着かと思われたこの事件は、年が明けて翌シーズンが始まる頃、にわかにさらに大きな事件へと発展したのでした。キッカケは永易投手が八百長関与選手の名を公表したことにありました。まず告発されたのは同じライオンズの同僚たち。しかも大物の名が次々と公表され、前年とは比較にならないほど大きな騒ぎになったのでした。告発されたのは、池永、与田、益田の“西鉄投手三本柱”。三人合計で年間40~50勝を稼いでいた主軸選手たちであり、特に池永投手は西鉄のみならずパリーグを代表する人気投手であったがために、その衝撃はとてつもなく大きなものであったのです。

池永投手らの名前があがったのが3月、3人に永易投手と同じ「永久追放」の処分が下されたのが5月でした。この事件の広がりはとどまることを知らず、遂に永易投手の旧同僚である我が東映フライヤーズの選手にまで黒い影は忍び寄ってきました。池永投手らの処分が下された5月に、名前があがったのがフライヤーズの当時のエース森安敏明投手でした。私は後楽園球場で彼の投球は何度も目にしていました。サイドクオーターから投げおろされる剛速球で打者を次々三振に打ち取る姿が実にかっこよく、ちょいワルな風貌と併せあこがれの選手でもあったのです(同じ速球派の代表格である江夏投手はその後も事あるごとに、「史上最高の剛速球投手は森安だ」と断言しています)。「嘘であって欲しい。あのカッコいいエースの森安投手がそんなことするわけないよ」。本当に祈るような気持ちで、事件の推移を父親に尋ねていたのをよく覚えています。しかし祈りも空しく、森安投手の処分もまた「永久追放」でした。この後も何人かの選手が告発されて、「永久追放」「出場停止」の処分が相次ぎました。1年にわたった事件はとりあえず45年のシーズン終了ごろまでに“膿”を出し切り、一応の平穏を取り戻したのでした。日本中が「大阪万博」に沸き立つ中、野球界は稀にみる暗い1年を送ったのです。これが事件の概要です。

私がよく覚えているのは、「永久追放」となった大半の選手は事件への関与を認めていたものの、池永、森安の両エースは「訳あってカネを握らされたが、八百長はやっていない」という主張を最後まで曲げなかったことです(エースの自覚が八百長をさせなかったと私は思っています)。私は信じて止みませんでした。「森安投手は八百長をやっていないよ!」「本人がやっていないと言っているのに、なぜ永久追放なの?」・・・。フライヤーズを応援する子供心に、“大人の世界”からドス黒く大きな影が落とされたのを感じました。池永氏の場合は九州の人気球団のエース故、その後も“復権”を訴える支援者が多く現れ、その主張も多くのメディアで紹介されました。しかし片や森安投手は、当時東京フランチャイズで万年Bクラスの人気最低球団の選手であったが故、その後もほとんどメディアに取り上げられることもなく、忘れられた存在として闇に葬り去られてしまったかのような扱いであったのです。私は池永投手の件がメディアで取り上げられるたびに、「なぜ森安投手のことを一緒に取り上げてくれないのか」と悲しい気持ちにもなりました。

池永投手はプロ野球OB界の尽力もあって、2005年ようやくプロ野球規約の改定により処分から35年を経て復権を果たしました。しかしその時森安投手は既にこの世になく(98年に死去。享年50歳)、この復権すら間に合わず悲運の剛速球エースは最後の最後までツキに見放され汚名をはらすことができなかったのです。彼は晩年、地元岡山に戻り少年野球指導に傾注したと聞きます(ロッテ・マリーンズのサブロー選手は彼の教え子だそうです)。事件の真相は闇の中ですが、プロ野球機構が検証不十分なまま処分を急ぎ業界の浄化イメージを優先したがための悲劇であったのかもしれないと思うにつけ、稀代の剛速球投手の選手生命を奪った判断が本当に正しいものであったのか疑問が残ります。子供心を曇らせられた暗い思い出に、今だに後味の悪さばかりが感じられてしまうのです。

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2 コメント

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タイトル変更 (OZ)
2011-04-22 13:43:09
「昭和の語り部」としてきたシリーズですが、なんとなくそんなエラそうなモノではなく残しておきたいひとり言のようなモノだと思いタイトルを変えた方が良いと思いました。

「昭和の語り部」改め「昭和問わず語り」
今後これでいきます。過去のモノも変更させていただきました。あしからず。
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東映フライヤーズっ子 (同級生のマコト)
2013-08-24 00:18:57
黒い霧事件が発覚した当時、僕も小学4年生でした。しかも、同じような経緯で東映フライヤーズのチケットをもらっては、後楽園、それからもう一つの本拠地神宮球場へ通ったもんです。だから、偶然あなたのブログを見てとても感激しました。張本、大杉、白いましたねえ、森安、金田弟、高橋直、高橋善ら投手陣も実力派でしたよね、それなのに何故か弱小で、フライヤーズの野球帽をかぶっていた自分は、確かにやっぱりほかの人気チームの野球帽をかぶった他の子供たちとは異質な存在でしたね。当時も子供ながらそんな違和感を抱えていたことまで思い出しました。いい文章をありがとう。
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