日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

〈70年代の100枚〉№57~スティーリー・ダンの“補欠”がもたらした大成功

2008-12-28 | 洋楽
70年代前半にイーグルスとともにウエスト・コースト・サウンドを確立し一時代を築いたドゥービー・ブラザーズは、70年代半ばにボーカル、ギター、曲作りで中心的役割を果たしていたトム・ジョンストンを健康問題で欠き、存続のピンチに陥ります。

この危機に新たにバンドに加入し、全く違う形でバンドを再生させ前期以上の成功をもたらして一時代を築いたのがキーボード&ボーカルのマイケル・マクドナルドでした。マイケルは、それまでのギター中心のバンド・アンサンブルをキーボドメインへ180度の方向転換させ、独自のキーボド・リフとソウルフルなボーカルで、押しも押されもさぬAORバンドの代表格へとバンドを押し上げることに成功したのでした。

№57    「ミニット・バイ・ミニット/ドゥービー・ブラザーズ」

もともとマイケルはスティーリー・ダンのセッション・メンバーではあったものの、主にコーラスとしてのみ役割が与えられ、決して満足のいく形で音楽活動をしていた訳ではありませんでした。そんな折、一足先にスティーリー・ダンを抜けドゥービーに移っていたギターのジェフ・バクスターが、マイケルの不完全燃焼状態を見越しまた彼の隠れた才能を高く買って、ドゥービーへ引き寄せたのでした。

彼は76年の「ドゥービー・ストリート」で早くも素晴らしい才能を披露し、それまでのフォーク・カントリーにルーツを置くウエスト・コースト・サウンドに、東海岸育ちのソウル・フルで都会的な新たなセンスを加え、彼が書いたシングル2曲とアルバムは大ヒットします。そして77年の次作「運命の掟」では前作以上にマイケル色を強め、さらに続く78年の「ミニット・バイ・ミニット」でこの新路線はピークを迎えることになるのです。

アルバムはこれまで以上にシャープで引き締まった演奏とジャズ・フュージョン的な都会的アレンジメント・センスにあふれるマイケル作のA1「ヒア・トゥ・ラブ・ユー」で幕を開けます。その余韻も冷めやらぬ中、続くA2「ホワット・ア・フール・ビリーブス」A3「ミニット・バイ・ミニット」A4「デペンディング・オン・ユー」とたたみかけるAORの極致的楽曲は、今まさに第2期ドゥービー・ブラザーズの頂点を極めたと感じさせる、本当に完成度の高い素晴らしいメロディと演奏の連続です。

特にA2「ホワット・ア・フール・ビリーブス」は、ケニー・ロギンスとの共作でケニー自身も録音していますが、マイケルは魅力的な独特のキーボード・リフでアレンジし全米№1の大ヒットを記録するとともに、このリフはAOR界に多くのマイケル・フォロワーを生んだのです。恐らくは、70年代後半において最高にエポック・メイキングな曲であったと言っても過言ではないでしょう。ちなみに、翌79年のグラミー賞でこの曲は、「最優秀レコード」「最優秀ソング」「最優秀アレンジメント」の3部門を受賞しています。

アルバムとしても、彼ら初の全米№1を記録。彼らをサンフランシスコ出身の“フォーク・カントリー”系ロック・バンドのイメージから完全に脱却させ、70年代後半のアメリカを代表するバンドへと導いた“決定盤”となったのです。ただこの成功の功績はマイケルひとりのものでなく、前期ドゥービーをトム・ジョンストンと共に支えたギター&ボーカルのパトリック・シモンズの存在を忘れてはならないと思っています。

パットは形を変え続け加速度的に都会派へと変貌するバンドを、スピリットの部分で支え続けました。デビュー以来の西海岸に根ざした彼とトムが築いたバンドスピットがあってはじめて、AORバンドとして行き過ぎない絶妙なバランスの上に成立しえた成功だったのだと思うのです。その意味では、マイケル以上にバンドを成功に導いたのはパットの存在であったのかもしれません。マイケルのその後のソロとしてのイマイチな活動を知るにつけ、この点は動かしようのない事実なのではないかと思うのです。

バンドは、メンバーチェンジを経てリリースされた次作「ワン・ステップ・クローサー」発表後に解散。数年後、マイケル抜きのトム&パットを中心とした初期ドゥービー路線での再結成を果たし今も活動を続けますが、やはりこちらもイマイチな結果に陥っています。トム&パットのドゥービー・スピリットとマイケルの都会的音楽性が、ギリギリの緊張感をもって結びついてはじめて、“AORドゥービー”の大成功はあったのだと双方の現状から妙に納得させられ、このアルバムの偉大さを改めて実感するのです。

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