日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

「70年代洋楽ロードの歩き方7」~アフター・ザ・ビートルズ7

2010-04-18 | 洋楽
ビートルズの解散後、予想に反して最大の賛辞をもって迎えられたのはジョンでもポールでもありませんでした。第三のビートルとして、常にジョンとポールの陰に隠れていたジョージはいきなり大作を傍らに携えて飛び出し、世の音楽ファンをアッと言わせたのです。

その作品が70年11月リリースのアルバム「オール・シングス・マスト・パス」でした。何と言っても「オール・シングス・マスト・パス」はLP3枚組という圧倒的なボリュームであり、ビートルズ・ファンの誰もが「書きためて出せずにいた曲がこんなにあったのか」と思わされた“ビートルズ蔵出しアルバム”だったのです。実際タイトル・ナンバー「オール・シングス・マスト・パス」「イズント・イット・ア・ピティ」「ワ-・ワ-」など、その中心となる曲は「ホワイト・アルバム」セッション以降のビートルズ存続時代に書かれたもので、まさしくジョージの“ワン・オブ・ザ・ビートルズ”時代の集大成的作品集でありました。このアルバムは、3枚組アルバムとして史上初の全米№1に輝いています。同時期にジョンのあの名作「ジョンの魂」が№1になっていないのですから、これは大変な快挙だったのです。

ジョージのソロ活動の原点は、ビートルズ時代の立ち位置へのフラストレーションとジョンとポールへのコンプレックスにあると私は思っています。4人中最年少で、高校時代はポールの後輩。ポールはずっとジョージを弟的扱いをして、彼の作品はなかなかビートルズに取り上げられることはなかったのです。そんなジョージはマネージャー、ブライアン・エプスタインの死後、プロダクション管理がゆるくなり自由に行動ができるようになったのを機に、音楽的交友関係を積極的に外に広げていきます。それがボブ・ディランやエリック・クラプトンとの交流であり、デラニー&ボニーへのツアー参加でありました。そしてこのビートルズであることのストレスからくる反動行動が、末期のビートルズにおいて彼に中に大きな“化学変化”を生む事になる訳です。こうして「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」や「サムシング」「ヒア・カムズ・ザ・サン」と言った名曲が生まれ、この3枚組大作アルバムの制作へとつながったと言えるのです。

ビートルズ末期の交友関係の広がりは、「スワンプ系のミュージシャン大集結」の形をもってこのアルバムで結実します。曲づくりの部分では、共作を含めディランとの「新しい夜明け」セッションでの共演が刺激となって反映されています(ディランの60年代末期は、“ビックピンク”(※)に代表されるルーツへの回帰であり、ここからもジョージのスワンプへの系譜が見て取れます)。演奏面ではクラプトン、カール・レイドル、ボビー・ホイットロック、ジム・ゴードンの“デレク&ドミノス”メンバーに、デイブ・メイスン、ボビー・キーズ、ジム・プライスといった、まさしくデラニー&ボニーのフレンズ・メンバーが揃って参加。完璧にスワンプ・ロック(南部系ルーツ・ロック的サウンド=別項にて取上予定)を展開しているのです。そして、プロデューサーは「レット・イット・ビー」の“ミスター・ウォール・オブ・サウンド”フィル・スペクター。ジョンのアルバムにもかかわっていたフィルの起用は、スワンプとはアンマッチな取り合わせではありますが、今となってはビートルズ解散間もない時期の混乱であったとも思えます。このジョージを中心とした“大フレンズ大会”は、彼が提唱&プロデュースした翌71年の「バングラディシュ難民救済コンサート」で一応の幕を迎えることになります。

そしてもうひとつの彼の“ビートルズへの反動”は、インド哲学への傾倒による作風への変化と言う形で現れます。ビートルズ時代にシタールの使用による音楽的な部分への影響に始まったそれは、次第に歌詞の世界で大きな存在となって現れます。本アルバムでも№1ヒットの「マイ・スウィート・ロード」や「ビウェア・オブ・ダークネス」「ヒア・ミー・ロード」などは、完全にインド哲学に立脚した“神との対話”を詞にしたためたものでした(私などは中学生時代は「ロード」はてっきり「ROAD=道」だとばかり思っていました)。この傾向は、73年の「リビング・イン・ザ・マテリアル・ワールド」でも引き継がれます。そこからの№1ヒット「ギブ・ミー・ラブ」の「ギブ・ミー」は「神」の対して乞うているのです。こうしてジョージの“反動表現”としての“ワン・オブ・ザ・ビートルズ”的音楽活動は、74年ごろまで続くことになります。
(この項続く)

(※)ビッグピンク:ボブ・ディランは66年のバイク事故以来隠遁生活に入り、ザ・ホークス(後のザ・バンド)とともに、ニューヨーク、ウッドストック郊外の「ビックピンク」と言われる建物の地下で、レコーディング活動をおこないます(ザ・バンドの「ミュージック・フロム・ビッグピンク」は、まさしくこの“地下室セッション”が生んだ名盤です)。この時の音源が「GREAT BIG WONDER」なる世界初の海賊盤として世に流通し、そのルーツロック的内容と相まって音楽界に大変な反響を巻き起こします。そしてこれを契機に、ストーンズ、クラプトンはじめ多くのミュ-ジシャンがルーツロックやスワンプへ傾倒していくのです。ジョージはディランと交友を深め、まさにこの時期共作やセッションをおこなっていました。