日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

〈70年代の100枚〉№24 ~ 全米が涙した追悼盤

2008-05-31 | 洋楽
70年代の音楽番組ラジオ関東「全米TOP40」とともに、今は亡きそしてとても忘れ難いアーティストがいます。その人の名は、ジム・クロウチ。

№24 「フォトグラフス&メモリーズ/ジム・クロウチ」

私はジムを知ったのは73年の秋、聞き始めたばかりの番組「全米TOP40」で、その年の春「ルロイ・ブラウンは悪い奴」という変わったタイトルのシングルが№1に輝いたという紹介の彼の新曲で、映画のテーマ曲「アイ・ガッタ・ネーム」がチャートを上昇しているときでした。そしてその曲と彼の優しい歌声に“ピン”ときた私は、「コイツは注目だぞ」と思ったのです。

その1~2週間後のこと、同じ番組中でパーソナリティの湯川れい子女史から衝撃の事実が告げられます。それは、9月20日に起きた飛行機事故による突然の彼の死でした。彼の写真すら見たことのない私でしたが、ファンになったばかりのアーティストの死が、突然告げられた衝撃。驚きとショックでラジオの前で固まってしまったことを、今もよく覚えています。

ブルーカラーの生活を続けながら60年代の後半にやっとの思いでデビューにこぎつけたジム。なかなかヒットに恵まれなかった下積み時代を経て、ようやく努力が実を結んで72年の「ジムに手を出すな」のスマッシュ・ヒットが生まれ、「ルロイ・ブラウンは悪い奴」の№1ヒットで、いよいよこれからという矢先のあまりに残酷な運命でした。

「アイ・ガッタ・ネーム」が使用された映画のタイトルは、皮肉なことにも「ラスト・アメリカンヒーロー」。歌詞の一節「♪変化の波が押し寄せるなら、私自身も変わってみせるさ、私にはいつも夢があるのだから…」。すでに彼にはかなわぬこの歌詞の虚しさ…。哀しすぎる彼への葬送曲です。

10月には追悼シングル「タイム・イン・ア・ボトル」がリリースされ、全米№1ヒットに。「もし時間をガラス瓶の中にためることができるなら、僕は君と過ごすための時間を貯めておきたい」という歌詞に、「君」=「ジム」とだぶらせてアメリカ中が涙したのです。その後12月に、生前レコーディングを終えていた遺作アルバム「アイ・ガッタ・ネーム」がリリースされました。そして、デビュー作、セカンド、そして遺作の全3作が同時に、ビルボード・アルバム・チャートのTOP10にランクされるという“異変”まで起きたのです。

こうして巻き起こった73年の秋~冬にかけての「ジム・クロウチ・ブーム」は、続くシングル「歌にたくして」のチャート・アウトとともに静かに幕を下ろしました。そして、翌74年追悼盤としてのベスト盤「フォトグラフス&メモリーズ」がリリースされました。個人的にはセカンドアルバム「ライフ&タイムス」が好きですが、最高傑作をリリースする前に他界してしまったジムを代表する1枚は、ここにあげたすべての曲を収録したこの「フォトグラフス&メモリーズ」をおいて他にはないと思います。

その後、ジム・クロウチの名を聞くことはめっきり少なくなりました。でもきっと、70年代「全米TOP40」世代の方々の中に、今でも彼のことを忘れられないアーティストとして心に刻み込んでいる人も少なくないのではないでしょうか。本当に優しい歌声と心あたたまるメロディ。私は、時々自分の心のボトルキャップをあけて、彼の歌声を聴きながら過去にため込んだ70年代を想う時間を小出しに使っています。